BECALMED
By Jane Fairfax

"There is nothing, absolutely nothing, so much worth doing as simply fooling around in boats."
--The Wind In The Willow ; Kenneth Grahame

「――さて、ご感想は?」
 ナポレオン・ソロは、キャンバス地のダッフルバッグをデッキに降ろしながら、幾分自慢げに尋ねてきた。
 イリヤ・N・クリヤキンは、ナップサックを肩からゆっくりと落とし、着いてすぐ馴染んでしまうのは不本意だとでも言うようにあたりを見回した。
「なかなかいい」
 そして足下のデッキの揺れを確かめるように足を踏み動かしてみた。まだドックに係留されているので、船はそれほど揺れはしない。しかしそれは今だけのこと、ぐらいは彼にも分かっている。
 ソロがふんと鼻を鳴らした。
「ドラマミンは飲んできた?」
「ああ」
 クリヤキンはさらっと嘘をついた。酔い止めを飲むと眠くなったことがあるので、緊急に必要な場合以外は薬を飲むつもりはなかった。薬の効果が現われるまで時間がかかるのも知ってはいたが。
 持参した食料やあれこれを積み込んでしまうと、ソロは船の点検をした。相手がしていることのほとんどがクリヤキンにはよく分からないことだった。彼はソロが装備をチェックし、帆を広げで帆装の具合を見、最後に航行可能、と告げるのを見物していた。
「今から帆を張るのか?」
 クリヤキンは考え深げに、これから出て行こうとする、船でひしめきあったドックを見ながら尋ねた。
「マリーナから港を出るまではモーターを使うんだ」
 ソロが説明した。
「モーター無しに船を操って出るのは相当難しいよ。湾に出たところで、帆を広げるの」
「ドックからそのまま帆を張ってるのを見たことがあるけど」
 船に対する居心地の悪さと知らないことへの興味と、矛盾した気分の間でクリヤキンは言い返した。ソロはただ愉快そうな目を向けてきた。
「そりゃ見たことはあるだろうが、それは映画で現実のことじゃないよ、イリヤ。でなければ私有のドックを持っていて、わりあい開けた場所でのことだろう。言い換えれば――お金持ちのね。それにわざわざそんなことするのはバカだよ。このサイズの船だって、帆を張ってドックやマリーナから真っ直ぐ出て行くのは危険が多い。狭いところを通る時は、モーターを使うものさ」
「僕は帆船のことはよく分からない」
 クリヤキンは素直に言い、目にかかった髪を持ち上げるとサングラスを取り出した。海からの照り返しにはこれが必需品なのだ。サングラスを持ってくるように言ったソロは、すでに自分のを装着ずみだった。
「これから覚えるさ」
 ソロはそう請け合い、クリヤキンの眇めた視線に合って笑い声を立てた。
「君も船が好きになるよ、イリヤ。『ないんだよ。まったくないんだよ。ただボートにのって、ぶらーりゆらりとするぐらいすてきなことは!』……ってね」
「どっかの引用だろ」
 イリヤはちくりと言った。それは確かなのだが、どこから引いてきた言葉なのかは判らなかった。ソロがまた笑った。
「さあさあ、時間が惜しい。出発するよ」

 クリヤキンは船酔いがいつ来るか今来るかと神経質になっていた。港の中で船は激しく揺れ、横波にあおられた。とはいえ船酔いそのものより船酔いになる心配の方で彼の頭は一杯で、胃がおかしくならないようにどうにか頑張っていた。
 彼は何故か副操縦席に座らされ、ナポレオンが汽船(シップ)の、もとい、帆船(ボート)のエンジンをかけて【プルサン号】をゆっくりと航行させるのを見物していた。綱を解くのを手伝いはした。ソロに言われるままにもやい綱を解いた。しかし今のところ、彼がしたのはそれがせいぜいである。
 この通り、セーリングに必要な準備は全て済んでいるとソロが言った。メンテナンスから仰山の、あれやこれやと口に出すのもうんざりするような備品の積み込みまで。何も知らされていないクリヤキンは、てっきり自分はそういう力仕事をたっぷりさせられるものだと思っていた。そこでソロはしたり顔で、作業用のクルーを雇っていると話した。
「とんでもなく吹っかけられるけど、」
 ソロは付け加えて言った。
「でも僕だけでボートのメンテナンスをきっちりやる時間はないし。もしクルーがいなければ、作業の半分も済ませないうち、港にへばりついたま週末が終わっちゃっただろうね」
「たまにしかない休暇のためになんでそこまでするんだ?貸しボートにすりゃいいじゃないか」
 この手の趣味には確かにえらく費用がかかりそうだ、とクリヤキンは言い返した。ソロは真顔になって言った。
「僕はセーリングをするのに、古くて汚いバケツみたいなのを借りるのは嫌だよ。僕は自分の船が欲しいんだ。【プルサン号】は抜きん出て大きな帆船でもないし、装備が豪華絢爛なわけでもないけど、綺麗で、格好よくて、手入れも行き届いてる。それに丸ごと僕のものだ」
資本主義者(キャピタリスト)
 クリヤキンは言い捨てた。
「それは確かに」
 ソロが言った。
「羨ましがってるだけだろ?」
 クリヤキンは肩を竦めた。
「ぜんぜん。そんなに海がお望みなら、幾らでもどうぞ」
「そのうち君をいっぱしの船乗りにしてみせるよ、親友」
「それはどうだか」
 クリヤキンは呟いた。ただし聞こえないぐらいの声(ソット・ヴォーチェ)で。

 とはいえ船酔いや力仕事はさておき、イリヤはとにかく乗り物という範疇でなら、ボートに乗れるのは嬉しかったのだ。この招待は意外なことだった。こんな場合に相棒なら女の子を連れ出すものだ。
だが彼らは、つい最近悲惨な目にあって来たばかりだった。クリヤキンはじめじめしたThrushの牢に放り込まれていて、膝の痛みに悩まされていた。ナポレオンはずっと咳き込みっぱなしだったのが、ようやくマシになったぐらいである。先輩エージェントは、週末にたっぷりお日様を浴びるのは二人のために絶対いい、と請け合った。
 それで彼は、希望というよりも好奇心からやって来たのだ。ソロのセーリングに対する入れ込みようは話に聞いていた。一度か二度それが任務で役に立つこともあったが、ソロの【プルサン号】は写真以外で見たことがなかった。
 その写真はソロの机に飾ってあるのだが、アテにならないもんだとイリヤは考えた。船は彼がこのぐらいだろうと思ったより大きかった。それから僅か数時間の乗船で、小さく思え始めた。そしてその後、丁度の大きさになった。ぴかぴかの帆船は、まるで宝石のように完璧で魅力があるのかもしれない。ソロが夢中になるのも分かる気がする。どちらもそれぞれの意味で生え抜きの――サラブレッドのようなものだ。

 午前中の大部分を費やして、彼は船酔いと戦った。正午あたりでやっと身体が慣れて来たが、まだ不安定な胃の中を刺激しないよう、昼食はほんの僅かしか食べなかった。ソロは賢明にも相手の食欲の無さについては触れなかった。


 午後になって風が止んだ。凪いだ海で、ソロは帆を巻き上げて本格的に日光浴をすると宣言した。クリヤキンはそれに従った。肌にていねいにローションを塗り、彼は本を傍らに寝転がって太陽が肌を焼くのに任せた。じめじめしてうすら寒い牢の記憶や古傷もどこかへ飛んで行きそうで、気持ちいいことこの上ない。しかし濃いサングラスをしていてさえ、長時間の読書には明るすぎた。海面で反射する光の眩しさと、細かい活字のせいで彼は頭痛を起こしそうになった。
 横ではナポレオンがうとうとしていた。サンオイルで光った肌が、陽射しを浴びて急速に焼けはじめている。クリヤキンは脇に本を置き、代わりに昼寝をした。

 彼ら二人はモーターボートの音で反射的に起き上がった。ソロは念のために銃に手を延ばし、クリヤキンは急いで立ち上がると、揺れる甲板に足元を少しふらつかせた。モーターボートの起こす波が船体にぶつかり、クリヤキンはこんな不安定な甲板で、果たして狙いは付けられるだろうかと考えた。
 ソロはさほど気にしていないのか慣れているのか、易々と甲板の揺れに姿勢を合わせ、銃を脇に置いた。クリヤキンは柵が支えと弾除けになるように、その前に膝を突いた。
 近づいてくる二台のモーターボートはそれぞれに一組の水上スキーヤーを引っ張っていた。一組、カップルというのが相応しい言い方だった。スキーヤー達は巧みに互いの行く手を交差したり離れたりしていて、皆若くて健康そうで、スキーやボートの様子からしてとても裕福な連中らしい。女の子達は目の覚めるようなブロンド、そのボーイフレンド達はそこそこ大学生ぐらいの歳か。けたたましく走るモーターボートの運転手は、ゆったり浮いている帆船に気がつくと、距離を取って方向を変えた。
 遠ざかっていく一行を、ソロは警戒を解き、後を見送りながら微笑んだ。ソロの目は水上スキーヤーを追いかけていた。
「可愛いお嬢さん達だったなぁ」
「ええ?ああそう」
 クリヤキンは、膝が痛くなってきて手摺から立ち上がった。ソロはゆっくりと視線を向けてきた。
「気づかなかったの」
「なんでわざわざ」
 クリヤキンは幾分刺々しく言った。
「もうお相手がいるじゃないか」
「見て楽しむぐらい構わないでしょ?」
 ソロが答えた。クリヤキンは無言で肩をそびやかし、手の届くところにワルサーを置いた。ソロは自分の銃を脇にやると、デッキに座り直した。先輩のエージェントは、相棒が片腕を目にかざして寝転んでいるのを、考え深げに観察していた。
 ソロは相手をもう一度上から下まで眺めた後、言った。
「君はゲイなの、イリヤ?」
 あまり急に起き上がったもので、クリヤキンは脚が甲板を擦った拍子に、足の裏を木の棘で刺した。彼は足を掴んで、痛みを抑えるよう力を入れ、急いで棘を抜き出した。
「なんだって?」
「君はゲイなのかって」
 ソロはどこか不思議そうに、相手をねめ回した。
「それに、木の棘なんかどこから見つけて来たんだか」
 彼はクリヤキンの手から木の棘を取り上げると、船室へと降りていった。再び出てきた時には、消毒薬の壜とタオルを持っていた。タオルを差し出したが、クリヤキンは彼をぼーっと見上げているばかりなので、ソロはソビエトから来たエージェントの足の下にタオルを敷き、消毒薬をたっぷりと注いだ。こぼれた薬液はタオルに吸い込ませ、甲板の塗装を傷めないようにした。
「ツ、」
 驚きの余り言葉を失っていたクリヤキンは、傷が染みてようやく声を上げた。
「な――なんでそんなこと聞くんだよ」
 つっかえそうになりながらクリヤキンは言った。
「単に君が、女の子達にあまり興味なさそうだから」
 言いながらソロは消毒薬の蓋を閉めた。
「単に僕は、あんたほど女好きで鳴らしてるわけじゃなく――…」
「イリヤ、君は『見て』さえいなかった。僕らは仕事中でもなく、君は本に没頭してるわけでも、その他に気を取られてもいなかった。どんなグラビアよりもイカした光景を前に、君は眉ひとつ動かさなかった」
「僕が女と一緒のとこは見てるだろう」
「大して興味も無さそうにね。でも別にいいさ、」
 気楽な調子でソロが言った。
「どっちだって構やしないから」
 クリヤキンは無言で相手を見ていた。彼は自分についてヒソヒソ噂されているのを聞いたことがあるし、何度か不躾な質問をされてむかついたことさえあった。彼は常に質問を無視し、そういう相手や場所から出来るだけさっさと立ち去ってしまうことにしていた。
 しかしここでそれは不可能である。彼は突然、陸から何マイルも離れた帆船にぽつんと居ることが気になってきた。これではそんなことを聞く相手から距離を置くことも、立ち去ることも出来ない。ソロを殴り倒し、一人でボートを操って岸に戻る以外には、自分は何か返事をしなくてはならないのだ。何かを。
 その上最初の行動は不可能だと来ている。自分は帆の操り方もモーターの使い方も知らない。そこで急に、ある考えが頭をよぎった。
「このことを尋ねるためにセーリングに誘ったのか?」
「はーぁ?」
 ソロはタオルで手を拭っている。消毒薬のつんとした匂いが、サンローションの匂いよりも強く回りに漂っていた。
「このことを聞き出したくて、僕が逃げ出せない状況を作ったのか?」
 クリヤキンは非難するように言った。ソロはむっとし、心外そうでさえあった。
「頭に銃突きつけて脅したわけでなし。君が答えたくなければ言わなきゃいい。僕には関係ない事だ」
「それで僕が答えなければ、あんたは何か考えるだろう」
 クリヤキンはなおも言った。
「だから、僕にはどうでもいい事なんだって」
 ソロが穏やかに言った。
「でも僕らは友達で、親友だ……と、僕は思ってる。君がゲイかバイだとしても、僕にそれを隠すことはない」
「で、もしそうじゃなければ?」
「そしたら今夜はファイア・アイランドのマリーナに停泊しようかって言うね。あそこにはクラブがあるから、気の合いそうな女の子を誘って、ロマンティックな夕食を楽しむ」
 クリヤキンは視線を逸らした。
「で、もし僕がそうなら?」
「そしたら、やらない」
 クリヤキンは何も答えないまま、視線を逸らしていた。さっきナポレオンが言ったことの真意が掴めなかったし、尋ねるのも気が引ける。しばらくして、先輩エージェントはくるっと向きを変え、キャビンに姿を消した。タオルと消毒薬を置いてまた出てくると、マストを見上げた。
「風向きが少し変わったな」
 ソロは言った。
「帆の調整をするよ」

 ソロはその作業にかかりきり、程なく【プルサン号】は速度を増して、さらに沖へと水の上を滑りだした。クリヤキンはソロの質問にどう対処したらいいか分からなかった。こんなことを尋ねるソロに腹を立て、帰ると言い張り、口論を始めるとすると……そうしないとしても……。彼はどうしたらいいかも、何を言ったらいいかも分からなかった。他人から自分のセクシュアリティの事を聞かれた時、彼は常に冷ややかな沈黙で応じていた。ナポレオンは他人ではないのだが、こういう時に黙り込む癖を止められるとは思えない。それにナポレオンは、さっきの事はもう過ぎたことにしているらしい。彼は何も言わないことにした。
 二人は会話もせずに時を過ごした。それは以前もたびたびあったような、安らかで気持ちのいい時間だった。クリヤキンの漠然とした決まりの悪さを除いては。
彼がそう感じるのは理屈に合わないことだった。ナポレオンはさっきのことはもう忘れてしまっているようだった。水しぶきと波は美しく、太陽は暖かく、吹く風は涼しい。陽射しは砕ける波をきらめかせ、金具を輝かせ、白く塗った木材が光に溶ける。つんとした潮の匂い、船体を揺らす波、風をはらんだ帆。全てがこの上なく素晴らしい。
 彼はさっきの出来事は忘れて、バカンスを楽しむことにした。少なくとも昼寝しているフリをすれば会話はしなくていい、ということに安心してデッキに寝そべり、日光を浴びていた。

 彼は本当にぐっすりと眠り込んでいて、ソロに夕食だと言われてようやく目を覚ました。ボートは大規模ではないが、エンジンを動かし、非常灯を点け、またお湯を沸かし食べ物を温めるだけの電力は備えていた。電気を節約するため、二人はランプの明かりだけで食事をした。
 それでも食べ物は暖かくてコーヒーは熱い。イリヤは食べて飲んで、ナポレオンが色々ととりとめのない話をするのを聞いていた。どちらも今日の午後のナポレオンの質問については触れなかった。


 夕食後、イリヤは手すりの前に立って、銀のサンダルのような三日月を見上げていた。
ソロは食事の後片付けをするのに、ここは一人でも狭いぐらいだからとクリヤキンを外に追い立てた。彼はほいほい言われるままに出て行った。料理は不得手だし、片付けとなるとますます駄目で、もしソロに仕事を任されたりしていたら、やり終えるまでにきれいな水を全部使い切ってしまっただろう。船の上での家事を上手にこなすには経験が必要なのだ。
 雲ひとつない夜。ボウルをひっくり返したように天が弧を描き、どちらを見ても水平線が途切れることなく広がっている。ニューヨークに住んでいてはなかなか見られない眺めだった。彼は天文学に興味を持ったことがあり、全ての星座と、夜空での星ぼしの運行を勉強した。彼が学んだのはロシア語での星座で、英語で何というのかは一部しか知らない。彼は一つ一つを見ていっては、両方の名前を挙げていった。しかし彼の視線は、いつしか月へと引き寄せられていた。

 アフリカの民話では、こんな月は若い乙女が仰向けに寝そべって、恋人を待つ姿だと言われている。その後に現れる満月は、おなじ乙女が子供を身ごもっている姿だそうだ。月を見上げ、月の乙女の事を思いながら、彼はどれだけ人間が……おそらくはほぼ全ての人間が……如何にセックスというものに人生を支配されているのかと考えた。自分と違って。
 しじゅうソロが冗談半分でからかって来るように、彼はストイックで通してきた。そういうことに対して、彼は混然とした感情を抱いている。相棒のソロのように、目の前のスカートを履いたものなら何でも追いかけ回さずにおれない衝動に襲われるような『病気』に罹りたいなどとは全く思えず、そんな事は考えただけでうんざりする。
 それでも時に虚しさを覚えることもある。そんな時には、ナポレオンが次から次へと回転扉のように相手を変えるのを気にしても仕方ない、と強く自分に言い聞かせていた。そう、U.N.C.L.E.のエージェントとしてひとつのものに執着することは許されないのだ。あるときは自分から拒み、また切り捨てられもして、ようやく自分にとって分相応な所で納まることが出来た。何もなく、何も起こらず。

 明かりのついたギャレーからナポレオンが上がって来た。イリヤは相手が背後で立ち止まった気配を感じた。二人は同じように月を眺めていた。
「素晴らしい夜だ」
 ソロが言った。
「移動しなくていいのか?」
 クリヤキンは尋ねた。食事の間、ソロは帆を巻き上げていた。そしてソロが肩を竦めた。振り向かなくてもクリヤキンには相手の動作を感じられた。
「風においてきぼりを喰らってるからね」
 ソロが答えた。クリヤキンは納得いかずに言った。
「モーターがあるだろう」
「緊急の時でなきゃ使いたくないよ」
 ソロは穏やかに言った。
「僕らがここに居ちゃいけない理由はないだろ。下にある無線で天気予報は聞いた。嵐の兆候も何もなし。海は穏やかだ。陸地からはずいぶん離れたし、僕らはここで安心していられる。夜明けには風が吹き始めるだろうから、それから岸に向かえばいい……」
 ソロの声は、しまいの方で少しだけイリヤの気分を伺うように響いた。彼が帆船のことを全くと言っていいほどに知らず、この船にいても殆ど何もしていないことからすればおかしなことだった。
 クリヤキン自身から言えば、陸地の近くにいる方が有難かった。どこかの岸辺に泳ぎ着くにはあまりに広くて大きな海の真ん中で、船から出られず何も出来ずにいるのはどうも落ち着かない。
 しかし彼には、ソロが逆にこの状態に解放感を感じ、どこを向いても広がる海の眺めを楽しんでいるのも分かっていた。彼が言ったように、海は帆を広げて乗り出す場所なのだ。今はその帆に受ける風がないにしても。
 自分はナポレオンの招待を受けたのであるから、言われなくとも岸にへばりついているべきではない。頼りなく感じていようとも、ナポレオンに自分は陸にいた方がいいと言い張るつもりはない。ことに休暇の目的からしても、それは全くおかしなことである、のであり――。
「それでいいだろ、ねえイリヤ?」
 ソロの穏やかな声に促された。沈黙の時間が長すぎたのだ。
「いいよ」
 相棒がほっと息をついた。相手の柔らかな息遣いを感じ、肩から力が抜けたのがわかる。静けさの中、彼は波が穏やかに船体にぶつかる音、マストの軋む音を聞いていた。そのたびにデッキが反動で少しずつ揺れたが、もう身体は慣れてしまった。もう胃の中がむかつくこともない。ただ静かに揺れに身体を任せているだけ。
 彼は目を瞑った。足元ではボートがゆらりゆらりとし、頬を涼しい風がそっと撫でていく。
(そうか、)
 享楽的な自分の相棒が、なぜ海が好きなのか分かる気がした。そして対極的な自分が、この不確かな誘惑につい逆らってしまうことも。海は人を惑わせる。穏やかな海は、始まったばかりの甘い恋に似ていて、そのどちらにも必ず嵐がやって来るものだ。例え嵐に見合うほどの凪の時、甘い安らぎがあろうとも、自分は嵐はごめんだ。
「イリヤ、」
 ソロが背後に、ほとんど触れ合うぐらいに近づいて来た。外気はぐんと涼しくなり、身体の温もりが伝わって来る。
「天体観測でもしてるの?」
 ソロが尋ねた。クリヤキンは肩を竦めた。
「僕もちょっと、お星様の観測をしようかな」
 ソロが言い、もう少し近づいて来た。彼の声は耳のすぐ近くで聞こえ、吐息が髪の生え際をくすぐる。間近に。近すぎるくらいに。
 突然、全てが稲妻のように閃いた。予想外の休暇、岸から遥かに離れたボートで二人きり、帰ろうにも風がない。
「これはあんたの計画なのか!」
 イリヤはずばっと言った。
「帆船のこと、進路のこと、風のこと――」
 そこで少し言い澱んだ。
「それに、あの質問も……」
 ソロは暫く何も言わなかった。
「計算はしたよ」
 そして穏やかに言った。
「自然の成り行きで行けばいいなと思っていた。そしてこうなった」
「なんでだ?」
 クリヤキンは尋ねた。彼は取り乱すあまり、自分の声に悲嘆の響きが混ざっていることに気づかなかった。
「もし見込み違いだったときに、君に逃げ出されたくなかったから」
 ソロが言った。
「少なくともここでならフォローする時間が取れる。君を失いたくないんだ、イリヤ。何があっても、僕たちはパートナーでいたい」
 クリヤキンはデッキの柵を握り締め、広がる青い海を、恋人の前で寝そべる月の乙女を見つめていた。
 少なからず彼は罠にかかったような気分でいた。彼の視線は機械的に水平線に向けられたが、見渡す先に島はなく、ここから泳いで行くには岸はあまりに遠い。他の手段として、エンジンをかけて岸へ向かうとか、コミュニケーターで迎えを頼むとかしても時間がかかりすぎる。そのあとどれだけ恥をかかねばならないかを抜きに考えても。
 彼は黙り込んでいた。ナポレオンがどんなつもりでいるのかに戸惑いながら、こんなことを自分でどうこうしたくはなかった。ナポレオンは、相手がこういうことを求めているなら、自分を求めるだろうと考えている。しかしそういう時には、ナポレオンはいつでも強引であり、ものごとはいつも彼の思う通りに運ぶのだ。
 今の状態の意味するところについてあれこれと考えているうちに、胃の中でチョウチョが暴れているような気分になってきた。もちろん船酔いのせいではない。
「イリヤ?」
 ソロが言い、最後の一歩を踏み出すと、彼の身体の脇の柵に片手を置いた。半分を囲い込むように、しかし反対側は空けて、逃げ道を残している。ほとんど抱擁のような状態から逃れる空間があるのだ。
 それでもイリヤは、ここから動くな、どこへも行くなと言われているようで、軽いパニック状態になりかけていた。なんだか周りの空気から酸素が失われていくようだ。彼は目を瞑り、深く息をして落ち着こうとあがいた。
 一歩離れさえすれば、相棒に待ったをかけることが出来るのだ。ナポレオンが他人に対して強引に迫ったことなどなかった。彼は無理強いはしないだろう。そう、たった一歩離れるだけで、一切を打ち切りに出来る。
 なのに足を動かせる気がしない。ゴム底のキャンバス・シューズは釘で打ち付けられたかのようにデッキに張り付いている。足が馬鹿になっていくような気がしてきて、彼は靴の中でつま先を丸めた。
「イリヤ……」
 彼が黙っているのを、そっちで決めろと取ったかのように、ソロの空いた方の手がイリヤの離れた方の腕を取り、向きを変えさせ、無言で圧力をかけてくる。今までソロと働いてきていて、彼はこの手をもう何百回と感じてきた。自分を引っ張ったり押さえつけたりして、安全な方へと導き、さもなければ敵から遠ざけて来てくれた手だ。
 手に沿って顔を上げていくと、ソロの顔ともう数インチしか離れていなかった。二人の視線がぶつかる。
 彼は息を吸い込んで、何か言おうとした。相棒を止めて、あんたの考えてることは間違いだと正してやるような事を。しかしその時、ソロの顔が下りて来て、唇はキスに飲み込まれてしまった。

 その口接けはとてもナポレオンらしく、懐かしさすら覚えるものだった。行為そのものの奇妙さ、二人の行動のちぐはぐさにも関わらず、彼は安らぎと、そして快さを感じていた。ナポレオンは彼の唇を、そっと巧みに、それは滑らかに、えもいえぬ柔らかさで捕らえていった。
 少しの間、彼はこの口接けが握手をするのと変わりなく、自分たちの間では何でもないことのように思えていた。安心した時に幾度か交わした抱擁のほうがずっと感情が昂ぶっていた気がする。
 が、そこでナポレオンの滑らかで温かな舌先が自分のそれと触れ合わされた。その舌は官能的で、心を揺すぶり、何かを伝えようとしている。彼の世界は突然、目眩のするようなスピードで逆さにひっくり返った。天空はぐるぐると周り、月の乙女は恋人の前にその身を投げ出し、彼は押し付けられてくる唇に激しい息を吐いて、そっと抱き寄せてくるソロの腕に身を竦ませた。
 ナポレオンは後ろに下がりもせず、腕も緩めず、生々しい余韻を残して舌を擦れ合わせながら、唇を離していった。言葉を交わせる距離まで顔を引いたが、二人の呼吸は混ざり合ったままだ。イリヤは肺に酸素を送り込もうと喘いでいた。突如周りの空気全部から酸素が抜けてしまったようだ。
「イリヤ?」
 今は冗談めいたところは微塵もない、ソロの瞳。気遣わしげで、切望をいっぱいに湛えている。
(このぼくに、)
 クリヤキンは考えた。
(こんなことがおこるものなのか?)
「君、怯えてるんじゃないよね」
 ソロが尋ねた。
「君が僕を怖がるなんてありえない、だろ?」
 その問いに当惑しながら、クリヤキンは首を振った。
「君の胸がドキドキいってるもの」
 説明するようにソロが言った。
「僕は、決して君にひどいことはしない」
 そして付け加えた。
「そうだろう?」
「そうだ」
 納得がいってクリヤキンは答えた。そんなふうに思ったことなどカケラもない。しかしソロに指摘されてみると、心臓は胸を突き破るほど激しく動悸しているし、呼吸は喉が苦しくなるほど浅く早い。過呼吸状態というやつだ。彼は強引に自分を落ち着かせるべく、深く息をついた。
 相手を突き飛ばしたいのと、引き寄せたいのと、二つの衝動に囚われて、彼はナポレオンの腕に手を置いて服をぎゅうと掴んでいた。懸命に息を整えようと深呼吸を続ける。
 ソロが顔を傾げて、もう一度口接けてきた。全身が反応し、自分が懸命に保ち続けていた、感情の枷がバラバラに砕ける。きっちりと服を着込んだままなのに、彼はソロにすっかり裸に剥かれて、デッキの上でそのままモノにされてしまったような気分だった。キスだけ、ただのキスなんだ、と彼は内心で繰り返した。
(違う。これは、セックスだ)
 息継ぎにナポレオンが顔を上げた時、彼は考えた。
(誰も彼もがこれに拘り、追い求め、物語に書いて褒め称え、夢に見たりするのも不思議じゃない……
 こんなに激しい感覚を今まで感じたことはなかった。気がつけば彼は身を震わせていた。
「イリヤ……?」
 軽く抱き寄せたまま、ソロが問いたげに見下ろしている。自分が粉々に砕けるか、壊れるか、あるいは逃げ出しはしないかと恐れているように優しく。
(選択するんだ)
 クリヤキンは考えた。目を開けて向き合え。こんなことが続かないのは分っているはずだ。凪の後には必ず嵐がやってくる。人生は(セックスだけでも)こんなに簡単に行くものではない。あるいは、簡単でありつづけるものではない。
 これで自分とナポレオンとの関係が否応無く変わってしまう、という思いがずっと彼の脳裏を漂い続けていた。けれど目の前に広がるのは、相棒の、暗がりの中で光を湛えている瞳や、サンローションとさらさらした汗の匂いと、身体の隙間から漂ってくる、微かなムスクの香り、逞しくそれでいて優しいナポレオンの腕の感触、そして彼の唇の味、自分の舌と絡み合う滑らかな舌の感触、温かく濡れた口接けの記憶。

 ナポレオンが後ろに下がった。彼はその行動で、今度はイリヤが動くのを、自分の元に来るのをはっきりと待ち受けている。
(されるままになるほうがよほど簡単だったのに)
 クリヤキンは物悲しく考え、自分の責任というものを思い、ソロの手管にただ絡め取られていった哀れな犠牲者のことを思った。そういうところを時折目にしたこともある。しかしナポレオンは、自分に対してそんな女たちのようなことをしてくる様子は全くない。後ろに下がったまま、イリヤを待っている。
(選択しろ。イリヤ・ニコヴィッチ)
 彼は自分をしかりつけ、マイナス要素を数え上げた。自分をまんまと騙して誘って、逃れようのないこのボートの上まで連れてきた相棒、ナポレオンのことを。このことが露見した時の、ソ連の上層部の反応を、ウェイバリー氏の機嫌を損ねることを、そしてソロが他の誰かを追いかけるようになった時の、自分自身の心の痛み、疼くような孤独感を。誰かと特別親しくあるということは、長いこと自分に縁がなかった。もし、いやきっといつか、ナポレオンが心変わりをしたときに、再び突き落とされる孤独の深さを。
 彼は身震いした。もし町に戻っていたら、逃げ出す場所があれば、彼はたぶん冒険はせず、ナポレオンを押し退けて逃げ出していたろう。でもここからはどこへも行けない。よしんばソロにそう言い張ってみたとしても、どこか土のある場所に着くには数時間かかる。そんなに長い間、自分を誤魔化し続けることなど出来はしない。
 自分自身より自分をよく知っているナポレオンの、期待と誠意に満ちた視線の前では、数分の間ですら取り繕うのは無理に思える。
(ほんの数分の余裕さえあれば。僕にはそれすら許されない)
 口惜しげにイリヤは考えた。
(あんたは十分に計画を練った上のことなんだろう、ナポレオン!)
 そしてイリヤは相棒の前で顔を上げ、唇を求めた。

 ソロの唇が下りてきて彼のそれと絡み合う。身体は暖かな防壁のように彼を包みこむ。彼は喉元で呻き声を上げ、最後に残った自分の中の拘りが消えていった。残ったのはありのままの、生の感情だけ。彼は相手に身体を押し付け、むき出しの自分を包む何かを求めるように、相手の存在を求めた。
 そしてナポレオンはイリヤに覆い被さる。手が軽やかにボタンを一つ一つ外し、裾を抜き取り、ジッパーを下げ、服を徐々に取り去っていく間も、強い腕が、舌が、きつい抱擁が彼を包んでいた。そして遂に一糸纏わぬ姿になると、身体を覆うものは相手の身体だけになった。抱きしめられ、その下でゆっくりと揺れるデッキと共に、二人の身体も揺れて動く。
 星ぼしは軌道を巡り、月の乙女は恋人に身を委ね、そして彼は、プルサン号の固いデッキの上で、ナポレオンと更なる関係を結んだ。頭上に広がっている夜空の煌きに張り合うように、二人の頭の中にも小さな花火が踊っていた。

 事が済んで、イリヤはきまり悪げにナポレオンの腕の中にいた。彼とナポレオンとが触れ合っていないあちこちの部分を、冷たい風が擽っていった。触れ合っているところでは、ソロの肌の焼けるような熱さに驚かされる。この男はこうやって易々と熱くなれるのだ。焼き尽くされてしまうような、熱さ。
 それはイリヤに危機感を呼び起こし、彼は少し顔を逸らした。ナポレオン自体を恐れているわけではないが、自分自身に対して守りを固めておく必要は大いにある。ナポレオンはこの類のことに慣れていても、彼はあまりに不案内で、どうしていいかわからなくなる。これは危険なことではないか。
 ナポレオンがどんなに邪気のないところがあっても、それは恒星の衝突のように希であるか、星屑のようにはかないものだ。自分はひたすら、己を強く持つ。そしてこれ以上馬鹿な振る舞いをしてなるものか。
 彼は星を見上げ、前見た時との違いに驚いた。これが夜の浅い頃に見たのと同じ空なのだろうか?いくら万物は流転するといっても、天空までもそうなのか?いや、こんな類の考えこそ避けなければいけない。
 ナポレオンの手が、髪をそっと梳いていく。
「イリヤ?」
「今度は何だい」
 知らないうちにそう尋ねていて、自覚のなかった声の掠れ具合に慌ててしまった。ソロが片方の眉を上げた。
「ちょっと身体をきれいにしてから一緒に眠らないか?君と一緒に朝を迎えたいんだ」
「ナポレオン」
 彼は抗弁を始めた。
「いつまでも穏やかな海の真ん中の、どこかのボートの上で二人きりでいられるわけじゃない。僕らは、やっぱり……」
 彼はそこで語尾をぼかしてしまった。ソロは困ったような顔付きをした。
「それは分かってるけども」
 ソロが呟く。
「君は、帰ったらすぐにシッポを巻いて逃げるつもり?」
「逃げるんじゃない」
 イリヤは言い返した。
「それが分別ってもんだ」
 ソロが首を振った。
「分別というのは、自分に何があって、何を求めているかをちゃんと分かってることだよ」
 クリヤキンは羞恥に顔を赤くした。こんな事は随分と久しぶりで、あまりにも久しぶり過ぎた。こんな場所で、しかも相手は男だというのに、彼は自分でも驚くほど昂ぶり相手に応えてしまった。一方ソロの方は、彼のそんな反応をただ喜んでいるようで、半ば予想していたようでさえあった。
 もしかしたらソロがそんなふうにしたのかもしれない。もしかしたら彼の恋人たちは、ひとたび彼の腕の中に入ればみんな我を失ってぶっ飛んでしまうのかもしれない。
「僕に対してそういう手管を使うのは止せ」
 クリヤキンは抗議した。
「君に対して?」
 ソロは片肘をついた。彼の体温で温かかったところに、冷たい風が這い込んでこごえそうに寒い。クリヤキンは温もりを求めて、相手に擦り寄って行きたいのを懸命にこらえた。
「『対して』ってのはどういう意味なの。僕は君を思って、二人のことを思ってるのに」
「――ふたり、」
 口にした言葉はよそよそしく響いた。
「二人のことなんて有り得ない、ナポレオン。U.N.C.L.E.の契約では、エージェント同士が親密な関係になることを禁止している。これがウェイバリー氏の耳に入った時はどんなことになるか予想はつく」
「イリヤ、僕たちは何年も友達だった。パートナーになったのはもっと前からだ。ウェイバリー氏はそれを知ってるし、他の連中だって知ってるよ」
「それとこれとは違うだろ」
「そんなに大した違いがあるかな。僕は、君を愛してる。僕は君を守ってやりたい。君と寝たりもしたい。最初の二つはずっと前から感じていたことで、任務中には最後のひとつより、その二つの方がずっと強く頭の中にある。僕はまだそこまで常軌を逸してはいないし、君だってそうだろう。二人だけの時に何をしていようが何でもないさ」
 クリヤキンは目眩のようなものを感じ、目をぱちくりさせた。ソロの喋ったことの、最初の数センテンスだけが頭の中で渦を巻いている。
「君は――僕を――愛してる?」
 その言葉も耳慣れない響きだった。女に言い寄ってるところは山ほど目撃してきたが、ソロがその言葉をはっきり言うのを聞いたことはない。
 ソロが柔らかく笑い、彼にキスをした。
「気がついてなかったってこと?」
「そりゃ、はっきりとは、ナポレオ……」
 しかしそこでソロが口接けてきて、抱きしめられて、愛の言葉を耳打ちされた。数分の間に、クリヤキンはさっきのことを聞き流してしまうのも、聞かなかったふりをするのも難しいと言うしかなくなってしまった。ソロの情熱に攫われ、掴まえられ、高みへつれていかれて粉々に砕かれる。ハリケーンを無視するほうがよほど簡単だと彼は思った。
 それから彼はそっと引き降ろされ、ぼんやりぐったりとなってソロの腕の中でふるえていた。ソロは裸足で立ち上がり、脱ぎ捨てられた自分たちの服をざっとまとめて掻き集めると、彼の手を引いて立ち上らせた。
「今夜はデッキで眠りたいところだけど、夜風が相当冷たくなってきた。中に入ろうよ、イリヤ」

 二人は船室に下りて行き、限られたお湯を使ってせせこましく身体を洗った。キャビンに寝台は一つしかなく、シングルサイズより広くはあるが、ダブルほど大きくはない。ソロはきっとここで眠るのだろう。彼と、いつもはガールフレンドが。他の寝場所といえば固くて狭いカウチがあって、昼の間は腰掛けるのに使っていた。クリヤキンはここで寝ることになるのだろうと思っていた。
 ソロは寝台のカバーとトップシーツを捲り上げ、中に入りこみ、彼の場所を空けて横になろうとした。クリヤキンはベッドの脇に膝を立てた。
「僕は、あっちで寝た方が……」
「馬鹿いうんじゃないよイリヤ、あのカウチで寝るのは相当辛い。分かってるとは思うけど、そのへんも考えてあるんだ。一応の帆船なら六人分の座席があっても、ゆったり眠れるのは二人だけさ。それと――もし君が貞操を守りたいとか思ってるなら、君はもう二回破ってしまってる。その上に一晩こうして眠るのにどれだけ違いがある?」
 彼はかっとなって言った。
「僕はただ、この寝台で僕ら二人が眠るには狭すぎるんじゃないかと思っただけだ」
 ソロが笑った。
「一緒にくっついて眠るのでなければね。それも計画のうち」
「あんたが計算してないことはないのか?」
 ソロの横に納まりながら、クリヤキンはぶつくさ言った。ベッドは確かに、お互いの腕の中に入るのでなければ狭すぎた。情けないことに彼は、この状態を居心地悪いとは全然思えなかった。
「明日の朝食のこと。メニューは君にお任せするよ」
 クリヤキンは言い返すには疲れすぎていた。午前中は船酔いと戦って、午後は海の照り返しに目を痛め、疑問と緊張感で一杯の夕方を過ごし、その上にメイクラブまでして、一日でくたくたに消耗してしまった。特に最後にしたことはあまり慣れていないところへ二度もイってしまったものだから、疲れて弛緩した身体では、ソロの軽口に応酬してやる気にすらならない。
 彼は目をつぶり、心地よい相棒の肩に顔をうずめ、眠りについた。



 海鳥の啼く声で彼は目を醒ました。寝台は空で、キャビンにもいない。ナポレオンはデッキに出て、まず船首の先にある小さいトイレで顔を洗って、新しい下着とTシャツに着替えたかしたのだろう。
 汚れて皺の寄った昨日の服は、ソロがキャンバスバッグの中に突っ込んでしまった。しかしデッキシューズの方は、昨夜ソロが脱がして落した場所にある。彼は夜を過ごすつもりでいたカウチに座り、靴の紐を結んだ。クッションは確かにえらく固かった。
 彼は今日の夜、こちらで清く正しく眠ることを考えた。そしてナポレオンのベッドで眠ることも考え、揺れるデッキで愛を交わすことを考えた。
 彼はナポレオンに、どこか近くの町へ船を着けろと押し切って、相手の目を盗んで逃げ出すことを考えた。ニューヨークへ。モスクワへ。ナポレオンの居ないどこかへ。

 靴の紐を結び終えると、彼は小さな鏡の所へ行って髪にクシを入れた。キャビンの小さな明かりの下でも、顔が赤くなっているのが分かる。彼は顔を背けると、寝台を整えに戻り、その場に立ち尽くした。何もせずに眠っただけの寝台を見て頬が火照ってしまうなら、ソロの顔を、ソロに抱かれていたデッキを目にしたら一体どうなってしまうのだろう。昼間の光の元では、全てのことが常識はずれで、とても信じられないことに見える。
 しかし午前中いっぱいキャビンに閉じこもっているわけにもいかず、彼は狭い階段を上がってデッキに出た。ナポレオンはそこで帆の調整をしていた。帆布は全て広げられ、風がマストや支索を鳴らしている。ナポレオンが予測していたように、深夜のうちに風が吹いてきたらしい。
 ボートは波を切って進み、陽射しは波の上に降り注いで、磨きたての真鍮のような光を放っている。目が眩むほど輝やかしい眺めで、昨夜の静かで暗い海とは全く別のもののようだ。
 ソロが顔を上げた。
「ファイア・アイランドまですっ飛んで行こうと思ってね。朝ごはんを食べにさ。今朝はとてつもなくお腹がぺこぺこだ」
 そう付け加え、ソロはデッキの上を流れるように歩くと、彼のところにやってきた。クリヤキンはためらい、ナポレオンに口接けされてもじっとしていた。ソロが身体を退いた。
「心変わりしちゃった?」
「変える前にそもそも、決める時間がいつあったんだ」
 クリヤキンはうなるように言った。ソロははぐらかされた様子もなく、顔を寄せて腕を回し、熱烈なキスをした。クリヤキンは束の間、理性と本能を戦わせた。良識と慎重さにあふれた声が、身体のどこからか、これは気狂い沙汰だと告げている。
 そしてソロは唇を開いて口接けを深くし、暖かな舌が彼の口腔を蹂躪した時、彼は降参してしまった。自ら唇を開いて口接けに応え、身体を押し付け、舌を絡め合わせる。
 ソロの方から口接けを終わらせると、仄かに笑った。
「それでこそ我が相棒」
「……いい気になるなよ、」
 クリヤキンは、何に向かって言ってるのかよく分からないまま警告をした。ソロは笑っただけだった。
「ファイア・アイランドでは君を信用してていいのかな?それとも君は、トイレに立った隙に窓をよじのぼって逃げるつもり?」
「朝食が済むまでそれはない」
 クリヤキンは言った。
「僕だって腹ペコなんだ」
「イリヤ〜〜」
 からかい口調でソロが言う。
「そんな心配させないでくれよ、週末を楽しまなきゃ」
 クリヤキンの耳の下の、柔らかな皮膚の部分をなぞりながら続ける。
「今回の休暇は僕らのハネムーンだもの、特別なものにしよう。くよくよ悩んだり、その必要もないのに難しく考えないで。僕らは上手くやっていける。君もそうしたいだろ?」
 違うと言い切る自信をなくして、クリヤキンは大きく息を呑んだ。嘘をつくのは得意だが、ナポレオンが相手ではそう簡単に行かない。
「……だけど、いつまでも――」
 どう言葉で言い表せばいいのかわからなくなり、彼はそこで言い淀んだ。
「なに?」
「穏やかな――凪の時は続かない」
 彼は後ろに下がって、誘ってくるソロの唇から逃れた。
「僕たちはいつまでもこんなに呑気にはしていられない。そのうち何かが必ず起こる。この、風のように。そうしたらどうする?」
「その時は二人で帆を広げよう」
 ソロは言い、彼をもう一度抱き寄せた。
「そして、飛んでいこうよ」


THE END



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