黎明

by Elle Shukugawa



「……何か見えるか?」
「足元に雪、周りに林、その奥に林、そのまた奥にも林――それだけ」
 分かりきったことを問われ、言わずもがなの答えを返すイリヤに、ナポレオンは口の端をすがめる。

 ここはアラスカの原生林、その上季節は晩秋からちょうど冬にさしかかったところで、身体ごと埋ってしまうほどではないにしろ地面は一面の雪で覆われている。
 彼等二人はこの地につぐみの巣を探しに来て、森林警備隊に偽装した相手に延々散々森の中を追っかけられ、崖っぷちまで追い込まれた挙句雪だまりにつっこみ、スノー・モービルごと崖に向かって振り落とされたところである。乗り物は岩壁に数度叩きつけられて爆発炎上したが、彼らは雪煙に紛れ、どうにか近くの藪の中に飛び込んだ。
 そしていつもいつも最後の詰めの甘いTHRUSH隊員は、崖下に死体を確かめる事もせず勝ち誇ったように哄笑したのち、さっさとハンドルを返して走り去って行ったのだった。
 ようよう二人が雪と木屑まみれになりながら藪から這い出して来ると、追跡劇の間にすっかり陽は大森林の向こうへと沈み、雪明りが僅かに地面をぼうと照らしているばかり。
「で、ここがどこだかちょっとは見当つく?」
 これも聞くだけムダかなと思ったが、多少は期待をこめてナポレオンは言ってみた。何しろ隣にいる新しい相棒は、東のかたベーリング海峡の向こうにある、広大にして荒涼たるシベリアを擁する国家の出身であるのだから。
「ダメだね。地図も磁石もモービルと一緒に燃えちまった。森の中じゃ星も見えない。基地が近くにあるなら逆探知を頼むのも危険だし」
「何か、北国出身のカンみたいなのは、」
「あいにく辺境勤務の経験はなくてね。こっちゃあ都会育ちなんだ」
 確かにアラスカやサイベリアに比べればキエフだって立派な都会かも――と認識を改める必要を感じていた時に、納まりかけていた雪がまた風に乗って吹きつけてきた。頭上遥かに聳え立つ針葉樹の梢が一斉に荷馬車が軋むような音を立て、雪避けバイザーの前が瞬時にして灰暗色に変わる。激しく打ち乱れていた動悸が治まり呼吸も落ち着いてみると、途端に冷気が全身を針のように刺し貫いた。

「とにかく、朝になるのを待つしかないな。来た方向もわからないんじゃ身動き取れない」
 イリヤは分厚い防寒着に包まれた腕を組み、少しだけ開いた唇の間から溜息をついた。ロシア人ならこの程度の寒さは半袖でも平気なのかと(まだ偏見から抜けていない)思えば、フードに覆われた顔の色は蝋のように白く、唇も乾いてひび割れかけている。そういえば林の間を縫って逃げまわっていた時、ナポレオンはひたすらモービルを操っていたが、イリヤは後部座席でバイザーも厚手のミトンも取って、銃で応戦していたのだ。
 雪洞を掘るには積雪量が少なかったので、二人は地面の上にシェルターを作ることにした。まず平らな場所を見つけて雪を取り除き、凍っていない土の層を露出させる。そしてすぐにその上から、切り払った常緑の葉をつけた下枝や乾いた枯葉などを敷き詰め、上にも大小の枝を組んで覆いを作る。
 都会育ちだと言いながら、ロシア人の相棒は流石に手際よく枝を組み合わせ、弱そうな箇所を紐で補強したり足場を固めたりしていった。
 こうして出来た屋根組みに、どうにか這って入れるぐらいの出入り口を残して雪を被せる。その間にも粉雪はサラサラと二人の上に、またシェルターの上に降り積もり、既に遠目にはただの雪の吹き溜まりのように見えつつあった。
「おぉ、ホーム・スィート・ホームだな」
「これが終の棲家ってことにならなきゃ良いけどね……」
 身も蓋もない返事をしつつも、急ごしらえのシェルターを眺め回すイリヤの目の輝きは、上手く出来た工作に悦に入っている子供のようだった。



 その間にも夜はとっぷりと暮れ、雪明りさえ闇に吸い込まれつつあった。めいめい樹の影でもたもたと用を足してから、四つんばいになってシェルターの中へ潜りこむ。男二人が入るにはかなり窮屈な空間ではあったが、内部の空気はびっくりするほど暖かかった。
 ソロの時計についている寒暖計を確かめると、外部は零下四十度近かったのが今や零下十度前後の目盛りを差している。これはもうNYにも勝る好環境ではないか……ただし真冬の屋外のそれと比べてだが。
「息が詰まらないかな?」
 目の下すぐの相手の頭に向けて尋ねてみる。
「地面に近いところに換気穴を開けたから、多分大丈夫。但しタバコは吸うなよ」
「……もともと吸ってないじゃないか。君も僕も」
 イリヤがごそっと顔を上げた。息のかかるほどの距離でフードのすそからはみ出した金の前髪が揺れる。
「そうだったっけ?道理であんたからはヤな臭いがしないと思った」
 気がついて、はいたようだが意識してなかったのか、とナポレオンはややうら寂しい気分になった。
 彼の方はといえば、この見てくれはそこそこ(いやかなり)上等とはいえ、いかにもとっつきにくく、よりにもよってロシア人と来ている。U.N.C.L.E.に所属しているからには人種や民族、体制的な偏見があってはならないし、その自負はある……つもりだったのだが。
(少なくともこいつは、五分と空けずに起きている間中安タバコを吸いつづけ、ベッドを灰だらけにしたり食い終わった皿に吸殻つっこんだり、あげく僕の下ろしたての背広にまで焼け焦げをこしらえてくれるような人間ではない……)
 二ヶ月で破綻した前のパートナーが正にそのタイプだったので、最初に引き合わされたウェイバリー氏のオフィスでそう考えて自分を慰めていたというのに――?

 背中に当たる枝のこぶを避けて、いつもベッドの中でしているようにどうにか収まりのいい位置を探しあてる。じっと横たわっていると柔らかいままの地面から、かすかに放射熱が伝わってくる。
「なかなかいい具合じゃない?ダブルスプリングのマットレスに羽根布団とはいかなくてもさ」
――そんな、例えをされても見当がつかな……」」
 かすれた声で返されて、ナポレオンははっと相手の様子を伺った。胸元で組み合わされた二の腕から先が、おこりのように小刻みに震えている。
「おい、大丈夫か?」
「ぁあ……」
 本当に大丈夫ならこんな声は出てこない。どうやら彼の方は、冷気に晒されている間に自分では快復出来ないところまで体温を奪われてしまったらしい。自分の注意の甘さを毒づきながら、ナポレオンはサバイバル・スクール時代に読まされたマニュアルの記憶を掘り起こした。

「ミスタ・クリヤキン、ちょっと失礼」
 ソロは自分の手から分厚いミトンと皮手袋を引き抜くと、顔の横で擦り合わせ、はぁっと息を吹きかけた。その暖めた素手で、自分の防寒コートのトグルボタンを3つほど外し、相手のも同じようにすると、ジャケットとシャツのすそから両脇にごそっと腕を突っ込んだ。
「おい、ちょ……」
「じっとしてて。中で暴れると折角のおうちが壊れちゃう」
 押さえつけながら更に引き寄せ、脇を通した手をうなじの辺りに押し当てる。冷えた肌の感触にナポレオンの身体も一度大きく震えたが、首筋に残っている温もりを呼び起こすように摩り上げると、相手の震えが徐々に納まって来た。
 心臓で暖められた血は大動脈を通して首から上に運ばれ、やがて四肢の隅々へと行き渡る。イリヤの指から震えが止まり、温く白い溜息がナポレオンの頬をくすぐった。
「OK?」
「Yeah...」
 まるでユーゴーと本屋のやりとりのように短い会話のあと、二人はかなり長いことじっとしていた。それから思い出したようにイリヤが口を効いた。
「夜明けまであとどれ位だろ?」
 ナポレオンが手首から外して顔の前に置いた、腕時計の夜光文字を確かめる。
「この季節だと明るくなるまで5時間ぐらいかな。ひと眠りするには十分じゃないの」
 こうしていればそうそう寝たまま凍死することはないだろうが、かといって安心して眠り込むわけにも行かない。それは二人とも承知している。
「ああぁ、尋問される前にゆっくり熱い風呂に浸からせてくれるんなら、あのままTHRUSHに捕まっといた方が正解だったかもなぁ」
「――あんたならそう言いかねないから、僕が銃で追っ払ってたんだ」
「じゃあ君ならどう?赤く燃えるペチカの前で、とびっきりのウォッカをご馳走するって言われたら?」
「ん、そいつは難しい質問だな……」
 軽口を叩き合いながら、お互い妙にくだけた物言いをしていることに気がつく。そういえば今までの任務は何のトラブルも起こらなかった事もあって、事務的なこと以外ほとんど話をしていなかった。
(こんなに話して楽しい男だったとは、)
 もっとこのロシア人の事が知りたい、国際情勢から職場のゴシップまで色々なことを語り合い、意見をぶつけあってみたい。そして相手にも自分のことを知って欲しい……かもしれない、とナポレオンは唐突に強く感じた。
 最後の方で急に言葉尻があやふやになったのは、生まれてこのかたそんな気分になったことがなかったからである。



 会話が途切れたところで数秒だか数時間だか、うっかりまどろんでしまったらしい。時計の文字盤の光に瞼を押されて、ナポレオンははっと目を開けた。
 丸めた背に重くのしかかってくる寒さと、耳がどうかなったかと思えるぐらいの閑けさから、夜明けが近づいていることが感じ取れる。
 顎先だけ動かして相手の様子を伺うと、穏やかな寝息が聞こえてきた。掌に伝わる肌の手触りは柔らかく暖かく、規則正しい脈動を刻んでいる。
(結構のんきで無防備なところもあるらしい……)
 くすりと笑いながら心の中でメモを取る。実はあの後しばらくして、防寒着とジャケットの前を開き、胸と胸を合わせ抱き合うようにしてみたのだが、その心地よさに二人して浸りこんでしまったわけだ。
 抱いて抱かれている身体が、自分ときっかり同じリズムで鼓動を刻んでいる。まるで血の流れさえ温もりと一緒に伝え合っているかのように。
 こんなに誰かと一緒に居て、安らいだ気持で身体を横たえているのも(いかな女性と熱烈に愛し合った後でさえ)これまた初めてと言っていいような経験で、誰一人伺えぬ闇の中、ナポレオンは気恥ずかしいような嬉しいような泣きたいような、なんとも言えない感覚を味わっていた。

 指先の僅かな躊躇いを感じ取ったか、腕の中の男がぴくりと身じろいだ。
「――Доброе・Утро(ドゥブロェウートラ)
 かすかに見える金の睫毛をしばたかせながらイリヤが言う。
「モーニン……」
 そのあとにいつもの癖で『ハニー』とか『スウィートハート』などと口走りそうになるのを、ナポレオンは慌てて飲み込んだ。
「……静かだな」
 吐息のようなロシア人の呟き。
「物音一つしない。眠る前は雪が降ってる音ぐらい聞こえたのに」
 冗談なのか本気で言ってるのか判断がつかず、ナポレオンはただそうだねとだけ答え、それから、
「なんだか……こうしてると……」
「あ?」
「世界中に僕ら二人っきりになったみたいな気が……」
 よりによって仕事仲間の野郎相手になんて事を口走るのか!その上滑稽なまでに陳腐極まりない!!
 ソロは滑りのよすぎる自分の舌を引っこ抜いてやりたくなった。しかし予想していたような冷笑は返って来なかった。
 すこしの沈黙の後、落ち着いた声が耳に届く。詩をそらんじているような。
「――神は三日目に大陸と海を創造した。四日目に太陽と月、五日目に鳥と魚、六日目に動物達を作り、そして最後に人間を土くれから生み出した」
 詩だとその時思ったのは、イリヤがロシア語を使っていたからだと彼はだいぶ後になってから気がついたものだ。
「その話を聞かされた時、僕はきっと長い長い三日の間、人間はじっと地の下で眠っていたんだろうと思った。目覚めの時を待って……」
 そこでやっとくすぐったげな笑いが上がった。ナポレオンもほぼ同時ににんまりと笑った。またふわっと眠気にくるみこまれそうになるのを必死で振り落とす。
(今の僕たちみたいに?)
 数時間前のような愚問を口にするのは止め、ナポレオンはもう一度大きく息を吐くと、遥か頭上の樹の梢で鳥たちが騒ぎだす声をかすかに聞き取った。
 夜明けは、目覚めの時はもうそこまで来ている。そして全く新しい朝が始まる。

 今しばらくは地の下で安らいでいるのも悪くはなかったが、その時のことを考えると彼の、そしてきっともう一人の彼の心は躍った。

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END

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