How The Master Lost His Touch by Di T |
イリヤは戸口の枠に寄りかかっていた。また頭がくらくらしてきて、眩暈をこらえてぎゅっと目をつむり、身体を支えようとした。 「とどのつまり、マンドーは死んじまった」 ナポレオンの抑揚のない、重い声が響く。イリヤは懸命に瞼を開くと、相棒の方を向いた。少し前に、捕えられて拷問を受けていたイリヤの救出に当たっていた時のソロは何かに取り付かれているかのようにせかせか動き回っていたのが、今はイリヤが感じているのと同じぐらいげっそりと疲れ果ててしまったように見える。混乱しきった頭の中から、イリヤはもう一方の名前を引っ張り出した。 「バラン……バランドロスも、死んだ?」 ナポレオンが頷いた。 「で、僕らはThrushのリーダー二人分の名前しか聞き出せなかった。ウェイバリー氏はおかんむりだろうな」 地べたを見下ろし、苦々しく唇を歪める。広い肩が落ちている。 「僕ら、帰っていい?」 身体に力が入らずにイリヤは震えた。数日間、疑心暗鬼で狂ったようになったバランドロスの所で妙な自白剤を打たれ続けていた後では、眠ることしか頭になかった。とにかく終わりにしてほしい。記憶が戻ってくるにつれて捕まっていた時のことがぼんやりと浮かんでくるが、到底気持ちのいいものではなかった。 「僕がこの手で……」 ナポレオンがマンドーの死体を眺めながら途中で言葉を切った。イリヤは手を延ばし、額の上にかかった相棒の前髪を梳き上げた。 「終わったんだよ」 ナポレオンがため息をついた。 「そう、終わった」 次の瞬間、イリヤは固く抱きしめてくる腕の中にいた。彼は目を閉じて抱擁に身を任せ、相手の匂いを吸い込んだ。汗の匂いに混じって、馴染みのあるアフターシェイブの香り。身体の心が少ししっかりしてくるような気がする。 「もう手遅れかと思った――」 感情をやっとのことで押さえつけ、ナポレオンの声はひび割れていた。二人はしばらくそのままお互いの力を呼び覚ますように抱き合っていたが、さっきと同じぐらい突然にナポレオンが腕を解いた。 「帰らなくちゃ。行こう」 車の後部座席にいた女の子……レスリーが、イリヤがもういちど横に座った拍子にほんの少し鼻に皺を寄せた。自分はずいぶんと不快な臭いをさせているのだろうとイリヤは気がついた。一言謝っておこうかと思ったが、そんな元気は出てこず、勝手に瞼が落ちてきた。 次に気がついた時には車のドアが開いて、肩を揺すぶられていた。リスボンの陽射しと熱風がどっと吹きつけてくる。 「みんな降りたよ」 ナポレオンが腕を取って車から出るのに手を貸そうとしている。イリヤはぱちぱちと瞬きをした。 「何ともないから」 周りを見回すと、ウェイバリーもあの女の子もいない。 「ここ、どこ……」 「君があんまりぐっすり眠ってるもんで起こさないことにしたんだ。レスリーはホテルの部屋に行った。ウェイバリーさんは空港で降りて専用機に乗ったよ。僕らは明日の朝の民間機で帰らなきゃいけない。僕はまず、リスボン支部で今回の用件を片付けることにする」 じりじりと照りつける陽を受け、力なく立ち上がりながらイリヤは相棒をちらりと見た。頭痛がするのか、目頭を押さえている。衣服は着崩れて汗ばみ、彼らしくなく髪も乱れている。自分自身の姿はもっと酷いものであるはずで、臭いといい見てくれといい、浮浪者二人組も同然だろう。ウェイバリー氏がU.N.C.L.E.の専用機に同乗されたくなかったのも無理はない、とイリヤはふと考えた。 「僕ら、ここに泊まる?」 まだちゃんとした英語が出てこない。頭の中で誰かが棚をひっくり返し、ごちゃごちゃに散らかしてそのままにされたような感じだった。立っているのは小さな個人営業のホテルの前だ。憶えている限りでは以前にもポルトガルでの任務の時使ったところで、今回は彼が使っていたのに違いない。ここ数日の記憶はまだ混乱しているが、最近ここにいた時のことがぽつぽつと思い出されてきた。 ナポレオンが車を回って、腕時計を指しながら運転手に何か言い、それからイリヤの方を向いて言った。 「さて――早いところこの服を脱ぐか」 改めてイリヤは、友人がどんなにピリピリしているかを意識した。いつもなら感情豊かな声はまだ一本調子だ。イリヤは肩をすくめ、頭の中のもやもやした言葉を手繰りながらナポレオンについてホテルに入った。ナポレオンがあのけたたましい女の子……レスリーと今夜約束をしていないといいのだが。数日間バランドロスの散々なもてなしを受けたあとで、相棒の確かな、心地よい存在が強烈に欲しかった。 部屋のドアが閉まるが早いか、ナポレオンはイリヤを再び包み込むように抱擁し、必死な様子ですがり付いてきた。ナポレオンの身体が震えているのがはっきり分かる。バランドロスの牢獄で会ったときからずっと、彼は苦悩を抱え込み続けていたに違いない。しばらくの間、二人とも無言でいた。二人とも、初めてのことではないが危うく助からないところだったとわかっていた。身体中が傷むのにも関わらず、イリヤは欲望が全身を駆け上がり、膝はいっそう力が入らなくなり、動悸が早くなるのを感じた。彼は相棒を更に引き寄せると、既に固くなっていた自分自身を押し付けた。小さな呻きが唇から漏れる。 「シィッ……」 手が髪を撫でてくる。しかしもうイリヤは、突然の激しい欲情にどうにかなりそうだった。物言いがはっきりしない分、感情がその埋め合わせのように押し寄せてくる。ナポレオンの首筋に顔を擦りつけると、頭の天辺にキスされた。さんざん痛めつけられた脳味噌が二つに割られてしまったようで、半分はくたびれきって眠ることしか考えられず、あとの半分は自由になった安堵にぼうっとなって、自由にしてくれた男への欲求に疼いている。 「抱いてよ」 「それは後で……」 だが彼は待てなかった。イリヤは首を振ると、友人の茶色の瞳を覗きこんだ。困惑した、思いに沈んだ、そして愛しげな瞳。 「後じゃなくて今、いま、欲しい」 彼は静かに喉を鳴らした。だがナポレオンに背中を撫で上げ、撫で下ろされると身体がこわばった。バランドロスの手下から受けた、背中や腰や足の傷がまだ生々しく痛む。ナポレオンが腕でぐっと彼を押しやると、両肩に手を置いた。 「君は――…」 「キミ……僕は、あんたが欲しい」 苦痛など構わなかったし、汚れて疲れきっていることも構わなかった。相棒が傍にいることを感じ、その愛情を受けたかった。彼は身体をよじってナポレオンの腕の中へ戻ると、サファリジャケットの布をまさぐり、ボタンを外そうとした。 「本気でそんなに……」 「ナポレオン、お願いだ、はやく」 イリヤがズボンの中に手を入れようとすると、手首を掴まれた。 「じゃあおいで」 彼は喘ぎながら引き寄せられ、ナポレオンの胸に寄りかかり、その肩に額を載せた。顔を上げて唇を捉えると、がっしりした顎のざらつきが熱を持って敏感になった自分の肌を刺す。息を吐いて目を閉じ、彼は唇を開いた。舌が上の口蓋をくすぐり、頬の内側を押し、歯列をなぞっていく懐かしい感覚に浸る。自分の舌を合わせて動かし、イリヤは相手の口腔を貪った。口接けが股間の血を熱く滾らせる。手馴れた指先がズボンのジッパーを下ろすのを感じ、イリヤは喘いだ。ナポレオンがようやく唇を離した。 「後ろを向いて」 イリヤがゆっくりと身体を反転させると、ナポレオンが背中から覆いかぶさってきて、両腕を回し、そっと優しく触れながらイリヤの傷ついた身体に囁いた。暖かな息が耳にかかる。 「もっと早く来てやれなくてごめん」 沢山のキスが首や喉元に落ちてゆく。もうイリヤは喋ることも、考えることも、目を開けることすら出来ず、相手の愛情のこもった抱擁に酔い痴れていた。手の動きが下半身を強烈に疼かせる。 「もう間に合わないかと思った。君が奴らに殺られてしまったかと思っていた……」 欲情よりも悲痛を湛えた声で、ナポレオンはお題目のように呟いていた。だがイリヤはもうのぼせ上がって、解放を求めるあまり気が回らなかった。 「ナポレ……あ、ぁ、そこ……」 震える下腹部をそっと手で撫ぜられ、そこにある下生えをくすぐられ、昂ぶりきった漲りを指が掠めてイリヤは声を上げた。 「触って。はやく。もう待てない……!」 「そうして欲しいんだね?」 遂にナポレオンの指が根元に回り、しっかりと握って緩慢に擦り上げ始めた。もう一方の手がズボンの中に這いこんで、脚の付け根や疼く膨らみを弄ぶ。イリヤは柔らかな叫びを上げて相手の扱いてくる手を掴み、動きを早めるよう促した。 「もっ……と、」 イリヤはもう持ちそうになかった。あまりに夢中になり、あまりに興奮しきっていた。喉を鳴らして身震いすると、彼は相棒の掌の中で弾けとんだ。飛沫を散らすごとに力が抜けて足が立たなくなる。そして抱き上げられ、ベッドまで運ばれるのを感じた。 やっとのことでイリヤが目を開けると、ナポレオンは頭の後ろで手を組み、裸で横に寝そべっていた。石鹸とシェービング・クリームの匂いをさせ、憂いを帯びた表情を浮かべている。自分はまたしても眠り込んでしまったに違いない。いまいましいバランドロスにあの薬!イリヤはもう一度両目を閉じて、心地よい香りを吸い込んだ。唇に唇が触れる。 「おっとダメだよ。君はひどい臭いがしてる。おいで、お風呂に入るんだ」 「腹が減ったんだけど」 実際のところイリヤは動きたくなかった。 「食事は清潔になったあと」 「じゃ、紅茶」 「もう頼んであるよ。君が寝ている間に電話しといた」 イリヤは向き直り、隣にいる全裸の男をちょっと愉快そうに見遣った。 「もし誰かがお茶を持ってきて、あんたがこんな格好してるのを見たらどうする。ここはカソリックの国なんだぜ」 頬杖をついてナポレオンの鎮まっている性器を覗き込む。 「えと、途中で寝ちまってごめん。あんたは……?」 救出劇以来始めてナポレオンが微笑んだ。 「ま、それはどうにかしたさ。君のほうはようやくマトモに喋れるようになったね」 イリヤは大きなあくびをし、もう一度ごろんと寝転がった。 「疲れたよ」 ナポレオンがベッドから出て、スーツケースから清潔な服を取り出しはじめた。 「今すぐお風呂に入って!」 「わかった、わかったよ」 イリヤはぶつぶつ言った。 「でもフロに入ってる間にお茶が届いたら持ってきてくれ」 イリヤがお湯に浸かっている間に紅茶が届けられ、ナポレオンがバスルームに運んできた。服を着てバスタブの横に腰掛け、イリヤが身体を擦っているのを見守る。見つめているうち、ロシア人の身体についたおびただしい傷や、何度も手ひどく蹴飛ばされた腰や腿の辺りに集中している打撲の跡に目を光らせた。彼の表情がまた心配で歪む。 「何をされたの?」 イリヤは自分の骨ばった腰に目をやり、顔をしかめた。 「まぁ、いつもと似たようなことさ」 「それにしても酷いことになってる。ちょっと貸して」 ナポレオンは石鹸とボディタオルを取り上げると、イリヤの背中を擦ってくれた。同じようにブーツで蹴られて赤くなった肩の傷のところはそっと撫でるように洗う。耳元に触れられてイリヤはまた身体をびくりとさせた。首から上も下も同じぐらい、ひどく敏感になってしまっている。 「お茶取ってくれ」 イリヤは命令するように言った。 「まず髪を洗ってからね。後ろに倒れて」 「わかった」 イリヤは密かに有難いと思った。再びじわじわと脱力感が襲ってきて、彼は目を閉じた。相棒が髪を洗い終えた頃にはまたしても半分眠り込んでいた。ズキズキ痛む身体をバスタブから持ち上げるには多大な努力を要した。どのぐらい疲れているか身に沁みたので、ナポレオンが丁寧にタオルを巻きつけてくれたときも大人しくされるままになっていた。 「ふんふん、すっかりおねむのようだね。もう外に食べに行くなんて気にならないだろ?」 「本当に腹が減ってたんじゃなくて、そんな気がしただけだったんだ」 イリヤはひりひりする肌をタオルで叩きながら、バスタブの縁に大儀そうに腰を下ろした。ナポレオンがカップの紅茶を渡してくれて、彼はそれを啜った。頭の中で彼は、相棒と今度はゆっくりと愛し合いたいと思っていた。ナポレオンもそのつもりだろう。あのレスリーとかいう女と出かけて欲しくない。ナポレオンを自分だけのものにしたい。しかし最初の熱に浮かされたような性行為と入浴の相乗効果で、イリヤは再び眩暈を感じ始めていた。顔を上げるとナポレオンが傍に立って、心配そうにこっちを見ている。 「もう一度寝たら元気が出るとおもう」 「少なくとももう臭くはなくなったね。お茶飲んじゃったらベッドにお入り」 イリヤは言われるとおりにした。シーツの間に入って仰向けになる。 「あんたはどうする?」 ナポレオンはネクタイを直すと立ち上がった。 「やることをやっちまわなくちゃ。リスボン支部に行って、言いつけどおりことの顛末を片付けてくる。済んだら何か食べて、君にも何か買ってくるよ」 彼は溜息をつき、イリヤの眉にかかった前髪をかき上げた。 「本当に大丈夫かい?」 イリヤはレスリーのことを一言言いたいと思った。ナポレオンが彼女と出かけたりしないとはっきりさせておきたかった。だが逆に相棒がその気になるかもと思うと言い出すことも出来なかった。彼は敢えて微笑みを作ると、目をつむった。 「大丈夫。僕はいつだって大丈夫だ。いいかげんあんたも憶えておくべきだな」 イリヤが目を覚ましてみると、部屋の中は真っ暗だった。最初彼は牢獄に戻ってしまったのではと思い、腹の底からわき出るパニックに襲われそうになったが、柔らかなベッドと滑らかなシーツの感触ですぐにそうではないと気がついた。もう片方のベッドを見ると、そこには誰もいない。 しつこい頭痛と、相棒がどこかよそで一夜を過ごすことにしたのではという心配とで眉をしかめながら、彼は小型のトラベルクロックを見遣った。11:15p.m.――眠ってから数時間は経っている。再び、腹の底がキリキリしてきた。結局、ナポレオンはレスリーの所へ行ったのに違いない。 さっきの事を思い出してみると、自分はセックスの快楽を求めてやみくもに相棒に身体をぶつけていただけだった。何から何まで自分勝手だった。相手を満足させることなど思いつきもしなかった。ひたすら絶頂を求めて突っ走ったあげくに、達したらすぐ前後不覚になってしまった。ナポレオンにどう思われただろう?彼だって相当にストレスを抱えていたようだった。今まで危ない目にあった時よりももっと。半年以上前になるか、自分たちが初めてこうなったのだって、危うく死にかけた時のことだった。ナポレオンのヨット、プルサン号に乗っていた時のこと、ナポレオンが甲板から海に投げ出され、どうにかこうにか助け上げた。それから二人して濡れた服を脱ぎ捨てて、船室で大騒ぎして、何故だか喰らいつくように口づけあっていて、気がついたときには二人してぎょっとした。 上昇したアドレナリンは自分たちを情熱のままに動かし、自然ななりゆきで愛を交わさせた。 それ以来、二人の関係は半ば公認の秘密になった。怪しむ者は大勢いるが、U.N.C.L.E.のトップエージェント二人への畏敬の念が、敢えて口にすることをはばからせていた。もしウェイバリー氏が二人の仲に気づいたとしても、見てみぬふりをしているはずだ。二人とも体裁上、幾度か女の子とつきあう事もあったが、少なくともイリヤ自身は、他の人間にはほとんど興味を抱かなくなっていた。 だが、ナポレオンに関してイリヤは相当な不信感を抱いている。古い習慣はそう簡単に変えられるものではないし、U.N.C.L.E.のエージェントとしての役割もある。彼の天性の社交性と魅力は、長年の修行の成果と相まって、X染色体をひとつ多く持つものなら誰とでもいちゃいちゃとなれなれしくせずにおれなくなってしまっているのだ。それでもナポレオンはいつも自分の元へ帰ってきてくれた。もうどの女性とも寝てはいない、と言っていた。どんなにかその言葉を信じたかったことか。 お互いを求める思いは時の経過とともに強くなり、その一方で、U.N.C.L.E.に入ってまもない頃胸の中で燃えていた、自分たちが世界を救うのだという情熱は、悪人はつきることなく出てくるものだという絶対的な諦観に変わりつつあった。くりかえしくりかえし、Thrushその他の犯罪者たちは、U.N.C.L.E.の懸命の努力にも関わらず悪事を引き起こし、何度も何度も、自分とナポレオンはそれを打ち破ってきた。それだってまたすぐにでも次の相手が出てくるだけなのに……。 イリヤは寝返りをうち、もう一度目をつむってみたがもうすっかり眠気は飛んでしまっていて、傷が、特に頭が痛み始めてきた。ため息をついて身体を引き起こし、ベッドサイドのランプを点ける。ランプの脇にはアスピリンが三錠とグラスに入った水が置かれていた。ナポレオンが出て行く前に置いていったのに違いない。これは、今夜は帰らないというしるしだろうか?イリヤの頭の中に嫌な考えが押し寄せてくる。 ナポレオンは戻ってこない。今思い知った。相棒が自分を満足させてくれている間も、それに応えて昂ぶるようなことはなかった。あの時は己の欲望に夢中になっていて気が回らなかったのだ。頭痛は脳の中で風船のように膨れ上がり、イリヤは吐き気を飲み下した。 それならみな理屈が通る。自分が目を覚ましたとき、ナポレオンは既に風呂を済ませていた。だとすると、彼はきっと風呂場で自身を慰めたのだろう。だが頭の片隅でしつこく訴えてくるものがある――ナポレオンは、勃起すらしていなかったのだ。ナポレオンは自分を求めなかった。奴はレスリーと出かけたかったんだ。 イリヤはアスピリンを口に放り込み、少しだけ水を飲んだ。ちょうどグラスを置こうとしたところで、キーが回ってドアが開いた。彼はぎくりとしたが、足音には覚えがあった。 「ナポレオン、」 「寝てたんじゃなかったの」 「寝てたさ。それは何?」 ナポレオンは紙袋を持ち上げた。 「晩ごはんだよ。といってももう夜食に近い感じだけど」 イリヤは袋をひったくった。実際空腹ではなかったが、ふりだけでもする必要があったのだ。ナポレオンが脇のベッドにどさりと腰を下ろした拍子に、イリヤはほのかに漂ってくる女物の香水の匂いをこっそりと嗅ぎ取った。アフターシェーブの香りではない。相棒からは彼が使っている石鹸の匂いと、『ナポレオンだ』と嗅覚で判る独特の香りがするのだが、これは何か、もっと甘ったるくて華やかな匂い。胃が捻れそうになってくる。 「なんでこんなに遅くなったんだ?」 イリヤはつい聞いてしまっていた。 「最大の理由は、報告書を書いてくれる誰かさんがいなかったことだな」 ナポレオンが立ち上がり、服を脱ぎ始めた。疲れているらしいが、それは欲求が満たされたせいなのだろうか?そこまで考えて、また胃がキリキリし始めた。頭痛をこらえてぎゅっと目をつむる。 「食べないの?」 言われてイリヤはしぶしぶと袋の中を見た。ロールパンが一つに匂いのきついソーセージ。胸がむかついてきて、あやうくえずきそうになった。ナポレオンは袋を取り上げ、心配そうな顔、続いて怒りを湛えた表情になった。 「マンドーのやつ!僕がこの手で殺してやりたかったのに」 ナポレオンは毒づいた。 「バランドロスだろ?」 (マンドーでもバランドロスでもどっちだっていい。なんであんたは僕を欲しいと思ってくれないんだ?) ナポレオンは苛立ちに表情をゆがめ、苦々しく言った。 「後ろで操っていたのはマンドーだったんだ。バランドロスはマンドーに見せ付けるために君を捕まえた。あいつら二人とも、この手で殺してやりたかったのに!」 「ワタシは・マンドーに・裏切られました」 頭の中にひょいと出てきた言葉をイリヤは不意に口にした。 「何だって?」 ナポレオンは荒っぽく、皺になるのも構わずにズボンを椅子の上に放り投げると、下着姿で隣のベッドにもぐりこんだ。不安と落胆がイリヤを襲う。 「なんでもない」 イリヤは急いでベッドサイドのランプを消し、パートナーに表情が読まれないようにした。 人々が怒鳴っている。レスリーがこちらをちらっと見て、不愉快そうに鼻に皺を寄せている。バランドロスとマンドーが、自分を嘲笑している。 ぞっとしてイリヤは半分だけ夢から醒めた。ナポレオンがしきりに寝返りを打っては息を乱している気配がする。近づこうとしたその時、相棒が突然叫び声を上げた。 「やめろ!彼から離れろ!」 夜が明け始めていた。部屋の中は灰色の光に満たされ全てが色あせてしまっている。だが隣のベッドにいるナポレオンはよく見えた。右に左に輾転反側していたかと思うと、急にがばっと起き上がった。 「……この礼はさせてもらうぞマンドー、個人的に!」 ナポレオンがはっきりと言った。イリヤはベッドを抜け出して、友達の枕元へ行った。ナポレオンの目は開いているが、何も見えていないようだった。そうっと仰向けに寝かせてやり、シーツを顎まで引き上げた。 「しー、ナポレオン。ただの夢だよ」 イリヤは相棒の顔にかかった髪の毛を直してやった。散髪に行かなくちゃ、ナポレオン――イリヤはらしくもない笑みを浮かべた。 ナポレオンは何か意味不明のことをブツブツ呟き、もう一度目を閉じた。 朝になって、イリヤは先に目を覚ましバスルームに行った。まだ半分顔にシェービングクリームをつけて洗面台に向かっていると、ナポレオンがトイレを使いに入ってきた。 「ちゃんと眠れた?」 そう尋ね、水を流してイリヤの背中越しに鏡を覗き込んできた。 「ああ。どうもありがと」 イリヤは嘘をついた。ナポレオンにキスをしたいと思ったが、シェービングクリームがついたままだ。 「あんたは?」 本当のことはわかっている。しかし、ナポレオンは答えた。 「ぐっすりさ」 (お互いの信頼はどうなってしまったんだろう。なんでこいつは僕に嘘をつく?) ナポレオンはイリヤのあごを指差した。 「ここ、剃り残してるよ」 そして手を洗うと寝室に戻って行った。イリヤがバスルームから出ると、ナポレオンはワイシャツを残して服を着ていた。ナポレオンが髭を剃りに行っている間に、イリヤはのろのろとぎこちなく、改めて怪我のことを意識しながら服をつけた。 自分たちはよく、前の晩にセックスしていても翌朝もう一度行為に及ぶことがあった。ナポレオンは一度きりでは到底満足しなかったし、死にかけた後なら尚更だ。彼は命拾いしたことでより一層情欲を掻き立てられるらしい。 イリヤは暗い気分で、ほんの少し前には二人ともろくに眠れなくて、少しばかり負傷していたにも関わらず、けだるく満足した気分で過ごした幾度かの朝のことを思い返した。彼は以前にもこれぐらい酷い目にあってきたし、二人揃っての時もあった。それでもやることはやったのだ。彼は力なくもう一度ベッドに腰を下ろした。 ナポレオンが顎の辺りをタオルで叩きながらバスルームから出てきた。顔の横のほくろに近いところがぽつんと赤く滲んでいる。 「顔を切っちまった」 どんな場所であれナポレオンが髭を剃っていて手元を狂わせたことなど今まで見たことがなかった。イリヤは自分の横をぽんぽんと叩いた。 「こっちに来て見せて」 ナポレオンが横に座り、イリヤはタオルを取り上げると小さい割にけっこう出血している傷をタオルで押さえた。 「そんなに深い傷じゃない。押さえてて」 彼は立ち上がり、スーツケースの所へ行って自分の洗面道具入れを漁り、小さなチューブを持って戻った。ナポレオンの傷に止血剤を塗りこめる。 「いたた、沁みるよ!」 「あんたの真っ白なシャツを血だらけにしたいのか?」 イリヤはにっと笑い、ナポレオンの頬を撫でてあごにキスをした。 「よしと――これでいいだろ」 「そうかい。じゃあその痛いやつを片付けて、どこかで朝食にしよう。飛行機は九時半に出るんだから」 今度はそうきたか。時間はたっぷりあるけど朝食の方が大事というわけだ。イリヤは立ち上がり、血止めをしまうとスーツケースを閉めた。ナポレオンはシャツを着て、きっちりとネクタイを締め、ショルダーホルスターをつけて上着をばさっと羽織った。そして鏡の前に行って、髪を撫でつけてもう一度傷を検分した。それが自分の完璧な身だしなみを損なってはいないか確かめているようで、彼らしくなく鏡に映った自分の姿に眉を顰めた。 イリヤはもう一度だけ試してみることにした。ナポレオンの背後に立ってウエストに両腕を回し、鏡の中の姿に頷いた。 「いつもどおり決まってるよ。でも散髪した方がいいと思うけど」 そして笑みかけながらナポレオンの肩に額を預けた。ナポレオンは今正気づいたかのようにぎくんとして、イリヤの髪をかき混ぜた。 「おいおい、そりゃ僕のセリフだろ。さて――長旅の前に何か食べなきゃ」 朝食の間も空港に向かう車の中でも、二人はあまり会話をしなかった。機内ではナポレオンは落ちつかなげに通路を行ったりきたりし、ファーストクラスのエリアに消えたかと思うと、相当な時間出てこなかった。イリヤは読書をしようとしたが、まだ頭痛が残っていたし、集中できる気分でもなかった。バランドロスに打たれた薬が何であるにしろ、体調が元に戻るには時間がかかるらしい。 ナポレオンが席に戻ってくると、後に凭れて目を閉じた。イリヤはこの機に手洗いに行くことにした。もしナポレオンが眠ってしまうなら、後になって邪魔をせずに済む。 後ろの方のトイレが使用中だったので、彼はファーストクラスとビジネスクラスの間にある前の方のトイレに向かった。途中、金髪の女性がトイレから出てきてファーストクラスに戻っていくのが目に止まった。レスリーだ。 心臓がドクンと鳴り、昨日の吐き気が一気によみがえった。彼女からは彼が見えていない。メガネはお洒落なアクセサリーとは言えず、彼女は周りがよく見えることより自分の見た目を優先しているらしい。 イリヤは急いで狭いトイレに駆け込むと、小さな洗面台に凭れて深く息をついた。だから、ナポレオンはあんなにせわしく機内を行ったり来たりしていたのだ。ナポレオンとレスリーは昨日の夜、こうして会う約束をしていたに違いない。もしかしたらナポレオンは、もう一度彼女と会うためにわざと民間機を使ったのかもしれない。大体、ウェイバリー氏がリサ・ロジャースと彼しか乗らないU.N.C.L.E.の専用機ががあるのに、わざわざ飛行機のチケット代を余分に出すのだって変だった。 イリヤはバシャバシャ顔に水を浴びせ、腹の中が収まるのを待った。有難いことに胸の動悸は平常に戻り、いつもの現実的な思考力が戻って来た。 (何を驚くことがある?ナポレオンが彼らしくふるまっているだけじゃないか。やつが生まれながらの習性を捨てて、目に止まった女の子なら誰でも追いかけるのを止めるなんてどうしたら想像できる?) だが用を足している間に、また別の考えが浮かんできた。自分とナポレオンが初めてセックス――愛し合った時、自分は最初、この関係を続けるのを拒否した。確かにそれを求めてはいたが、一時の気の迷いだということにしておきたかった。U.N.C.L.E.ニューヨーク本部で唯一のロシア人エージェントとしての自分の立場が気になったし、職を失ってソ連に返されたらどうなるかが常に心にあった。そんなことにはならないと説得し、密かに関係を続けさせたのはナポレオンではないか。自分は相棒のために、ふたりの関係のために自らの身の安全を犠牲にしたのだ。ナポレオンだって同じように犠牲を払えないことはないはずだ。 ナポレオンがよその女とよろしくやっているのではないかとイリヤが疑うことがあっても、こんなに露骨なやり方は絶対にしなかった。自分とセックスしたその後にそそくさと出て行って、女と寝たりしたことなどなかった。 (とはいえ……本当にセックスしたとは言えないか。ナポレオンに手でいかされて、自分はお返しに何もしなかったんだから) イリヤはトイレの水を流し、手を洗った。鏡に映った自分を見て顔をしかめる。胃がひっくりかえるような痛みは治まったが、表情は青ざめて疲れきっている。ナポレオンがその気にならなかったのも不思議じゃない。 ナポレオンの前を割り込んで窓側の席に戻ると、相手が目を上げた。 「大丈夫かい?ずいぶん時間がかかったけど」 イリヤは席につき、背もたれに身体を預けて目を閉じた。 「なんともない」 「だけどそうは見えないよ。まだ頭が痛むの?」 イリヤは目を開けてナポレオンの方を向いた。 「大丈夫だって言ってるだろ。さっきレスリーがいた」 (クソ、何でこんなこと話しちまうんだ!) 「ああ、彼女ね」 ナポレオンが目をきょろんとさせた。 「あの子、貝みたいにくっついて離れやしない」 「彼女がこの便に乗るって知ってたのか?」 (黙ってろイリヤ、お前はコトを悪化させるだけだ!) 「いいや。でも特に不思議じゃないな。きっとウェイバリーさんと僕が話してるのを聞いてたんだろ」 イリヤは頷き、いくらか気分が落ち着いて読書に戻った。だが夕食時、ナポレオンが自分よりよほど食欲がないのにイリヤは気がついた。その後でスチュワーデスがやってきてナポレオンの耳元で何か耳打ちした。イリヤには聞き取れなかったが、相棒は笑みを浮かべて頷くと、席から立ち上がった。 「レスリーからの伝言?」 イリヤはつい不愉快そうに言ってしまった。 「すぐ戻ってくるよ。君はもう少しお休み、具合が悪そうだ」 「ナポレオン、いい加減に……」 (さっさと行っちまえ。わざわざ僕に嘘なんかつかなくていいから) 散々な気分にも関わらず、イリヤは残りの時間ずっと眠り込んでいた。ちょうど着陸に入ったところで彼は目を覚まし、すぐに具合が大分良くなっていることに気がついた。頭痛はほとんど消えてしまい、傷の痛みは身体の奥の方で鈍く感じるぐらいになっていた。 彼らは飛行機を下り、お互いほとんど会話はせずに荷物を引き取った。イリヤは、ナポレオンがレスリーとではなく自分と同じタクシーに乗り込んだのを意外に思った。実際のところ、あれやこれやあったのにも関わらず、ナポレオンは彼女の姿を探しもしていなかった。きっと自分に気を使っているのだろう。少なくともイリヤはこの事を有り難く受け取った。 NYはまだ昼を回ったところだった。イリヤとナポレオンは少し前から同じアパートに住んでいる。とある目的で訪問しあうにはそれが便利だったからだ。彼らは翌日まで本部に出頭しなくていいことになっている。イリヤがメディカルチェックを受けたいというなら別問題だが、それはありえない。 イリヤは、ナポレオンが自分の降りる階でエレベーターを降り、一緒についてきたので少なからず驚いた。 「寄ってくつもりなのか?」 「そりゃ、他に理由があって戸口まで送ったりはしないよ」 「コーヒーを切らしてるんだけど」 「紅茶でいいから」 イリヤがお茶を入れている間に、ナポレオンは靴を脱いで寛いでいた。レコードを選び、イリヤのハイファイ・ステレオのターンテーブルにセットしている。イリヤはコーヒーテーブルの上の新聞や雑誌の山を退けて、カップを置いた。腰を下ろして彼も靴を脱ぐ。ムソルグスキーの『展覧会の絵』の一小節目が、高価なスピーカーから鮮明な音で流れてきた。 ナポレオンは彼の横に座って、指の爪をじいっと眺めている。《プロムナード》が流れる中、二人は無言で座っていた。イリヤは紅茶を飲み、ナポレオンは相変わらず自分の手を睨んでいる。 ずいぶんと経ってから、ナポレオンが言った。 「君に、話さなきゃいけないことがあるんだ」 (ああ、ついに来たか!) イリヤはお茶を一口啜った。ナポレオンが早口に続ける。 「ちょっと困ったことになってしまったみたいで……」 「へえ?」 曲はシロホンと弦楽器の演奏になり、おどろおどろしい雰囲気を盛り上げていく。イリヤは先を待った。ナポレオンはカップを手に取り、また下に下ろし、そして溜息をついた。イリヤは黙ったままでいた。 (畜生ナポレオン、とっとと白状しろ。もう終わりにしようって言えばいいじゃないか) 「……言いにくいことなんだけど、」 (そりゃあそうだろうさ!) イリヤはナポレオンの顔を見上げた。相手は目を合わそうとはせず、またもや爪を弾きながら、イリヤが聞こえないぐらいの声で何かひそひそと囁いた。 「何だって?」 イリヤは問いただした。 ナポレオンが、もう少しはっきりと言いなおした。 「実は……イ ン ポ に なっちまった」 今度はイリヤにも確かに聞こえた。心臓がドクドク脈打つ中、彼は慎重に紅茶のカップを下ろした。 「もう一度言って」 「聞こえただろ」 イリヤは顔中に笑いが広がってくるのをこらえきれなかった。胃の中でずっとのた打ち回って暴れていたものが、押し寄せる安堵に変わり、頭からつま先まで広がっていく。 「イリヤ、何が面白いんだ!」 ナポレオンは心底傷ついているようだ。イリヤはすばやく笑顔をひっこめた。 「いや、悪い、ちょっと……」 《プロムナード》の調べが再び始まった。イリヤはソファに寄りかかり、ナポレオンの手を取った。爪はひどくささくれている。 「で、それで――いつから?」 「一週間前ぐらいから」 ナポレオンが肩に寄りかかってきた。 「君が攫われて捕まってからこっち、全く勃起しないんだ」 悲壮な面持ちで彼はため息を吐き出した。イリヤはナポレオンの髪を撫でてやった。 「ふうん……約一週間ね。今までそういうことはなかったわけ?」 ナポレオンはいたく気分を害したように立ち上がった。 「当たり前じゃないか!役に立たなくなったことなんて一度もなかった!」 憤懣やるかたない様子でナポレオンは言った。 「わかったわかった、落ちついて。もちろん、あんたならそうだろ」 「ごめん。その、つまり……わかるだろ?」 羞恥でナポレオンの言葉の語尾が消えてしまった。 「わかってる。あんたの名誉と沽券に関わる問題だもんな。そうなったのはもしかして……その、僕を心配してのことだと思わない?」 ナポレオンは目をキッと見開くと、頭に手をやり前髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。 「心配?心配って何を?相棒が行方知れずになっちまって、見つけた時には殺されてるか、運が良くても洗脳されて植物人間になっちゃってるかもしれなくて、その上におつむがカラッポの女の面倒を見なきゃならなくなって――ナニがそんなにおかしいんだ??」 イリヤはどうにも我慢ができなかった。マジメな顔をしようとするのだが、たちまちのうちに崩れてしまう。 「そう、それで……それが、何?」 どうにか早口で言った。 「どういう意……ああ、まあね。別に珍しくもない」 ナポレオンも笑みを浮かべるようになった。 「とはいえ、僕が相当な危機に陥っているってことで、あんたが多少……ええと、『グッタリ』しちゃったらしいことはわかった」 「そうかい。君もちょっとはこの話を真剣に受け止めてくれると嬉しいね」 「だけどこういうことは誰にでも、何かのきっかけで起こりうるんだってことは知っておかなくちゃ」 イリヤはナポレオンのズボンの前立てに、思わせぶりな手を延ばした。 「それに僕としては、あんたがそんな状態でよかったと思ってる。どのみち僕はその場にいられなかったんだから」 ナポレオンがイリヤの手を上から押さえた。 「でも君を取り戻してからも……やっぱりダメなんだ」 イリヤの指に力が入り、ナポレオンは少しの間目を閉じた。 「んん……でも、こうされるのは悪くないな……」 「だろう? イリヤはその台詞をいかにもロシア人らしく話した。そうするとナポレオンが面白がるのを知ってのことだったが、相手の表情は再び険しくなった。 「僕は奴が許せなかった。君のためにも、自分自身の手でマンドーを撃ち殺してやりたかった」 「奴はもう死んだんだぜ?それにバランドロスも。そしてスラッシュの主要人物二人の名前を聞き出せた」 「三人全部の名前が必要だったんだ。君が車の中で眠っている間、ウェイバリー氏にえらく叱られたよ」 「お陰でマンドーのつまらない遊びに付き合わされなくてよくなったことを感謝すべきさ。それをしたのは君で、僕はほとんど役立たずだったけど」 ナポレオンが顔を曇らせた。 「今にも死にそうにフラフラしていて何が出来るもんか。僕は本当に……君に済まなくて……」 「けど僕はもう大丈夫。そしてあんたが僕を助けてくれた。肝心なのはそこだよ」 イリヤは友人の顔を両手で包み、その唇に優しく口接けた。ナポレオンは吐息をつき、キスを返した。 「そうかもね」 「だからあんたにはとても感謝してる――こっちに来て」 イリヤはナポレオンに両腕を回して抱きついた。何か甘い花のような香りがして、イリヤははっとなった。 「襟元のこの匂いは何なんだ?」 昨夜嗅いだのと同じ匂いがする。 「匂い?」 ナポレオンは眉を顰め、身体を引いて服の襟を嗅いだ。 「そうだよ。上着についてる匂い。アフターシェーブを代えたなんて言うなよ。あんたの好みは知ってるけどこれは絶対に違う」 もう一度嗅いでみて、ナポレオンはにっと笑った。 「あー、これはリスボン支部の受付にいたマリアのだ!君も憶えてるだろ」 そして彼女の高い声とポルトガル風のアクセントを真似てみせた。 「『んまーぁソロさァん、またお会い出来るなんて嬉しいわァ!こっち来てアタシに顔をよく見せてちょおだーい』……彼女の香水の使い方はなってないな。いつも瓶ごとぶちまけたぐらいに香水をつけて、行く先々まで匂いを残していくんだから」 イリヤはうっという顔をした。 「うえっ!――早いところその服を脱げよ。それじゃ何にも出来やしない」 しかしナポレオンはまた真面目な顔になった。 「ちゃんと勃つかどうかわからないんだよ、イリヤ」 イリヤの首筋でぼそりと呟いた。 「そんなの気にすることないさ。結論を出すのはまだ早い」 イリヤは相手のうなじをそっと撫でた。 「気を楽にして。きっとうまくいく」 「もし、ダメだったら?」 「それだって楽しみ方はあるさ」 ステレオから流れてくる曲は楽しげな《チュイルリーの庭》に移った。イリヤはにっこりと微笑んだ。今この時、ナポレオンが勃起するかしないかはどうでもいい。彼を独り占めしているのがただただ嬉しかった。胃がグーと鳴り出し、イリヤは朝食の後ほとんど食事を取っていないことを思い出した。その朝食だってずいぶんと前のことだ。 「ピザか何か頼んでいい?腹が減ってきた」 「こんな午後の中途半端な時間に?」 「そうだけど、ヨーロッパ時間では今が夕食の時間だろ。とにかく本当に腹ペコなんだ」 ナポレオンが立ち上がった。 「外に出て何か食べないか。長時間飛行機の中で座りっぱなしだったんだから」 「そういえば、ウェイバリー氏から呼び出しがかからないのが不思議だな。いつもなら半日休みをくれるなんてしないのに」 「あの人は少なくとも明日までアフリカだよ。話してなかったっけ?リサを連れてポルトガルから直接あっちに向かったのさ。だから僕らは民間機に乗らなきゃいけなかったわけ」 もう一つの疑問が解け、イリヤは微笑んだ。結局ナポレオンは、レスリーともう一度会うために民間機を取ったのではなかった。ナポレオンは『彼女は頭が空っぽ』と思っているし、現にそう言ったではないか。 二人して向かい合って立つうち、イリヤは急にもう一度相棒を身近に感じたくなり、ウエストに腕を回して抱きついた。 「キスしてよ」 「それなら今の僕にも出来る」 音楽はひそやかでゆったりとしたマーチのリズムになっていた。二人は長いこと、熱く口接けあった。互いの口腔を初めての時のように舌で探り合う。いつものようにナポレオンの口接けを受けているうち、イリヤの両膝は震え出し、たちまちのうちに自身は堅く勃ち上がった。彼はナポレオンの盛り上がった臀部に手を這わせ、ちょっと具合を見るように腰を摺りつけた。はっきりとは分からないが、いくらかの反応が返って来たように思える。だがそれはどっちでもいい。まだ、今のところは。 イリヤはナポレオンの耳元に囁いた。 「ベッドルームに行き先を変えないか」 「たった今飢え死にしそうだって言ってたのに?」 「飢えてたのはあんたにさ。頼むよ、はやく」 そう言ってナポレオンの耳をちろりと舐め、息を吹き込んだ。漂ってくる甘ったるい匂いに夕べ抱えていた感情を思い出す。イリヤは顔をしかめると、相棒の肩からジャケットを引き剥がし、下に着たシャツとホルスターを露にした。これで大分よくなった。 自分のジャケットも続けて脱いで床にそのまま落とし、ナポレオンの耳の中を舌でくすぐる。ナポレオンの昂ぶりがビクンと身体に当たったのをイリヤは感じ取った。 「ナポレオン、どうやら何か反応があったみたいだぜ」 音楽はクレシェンドになり、脈打つようなリズムに変わった。イリヤはナポレオンを背中向きに寝室に連れていくと、ベッドに押し付けた。腰のあたりに馬乗りになり、屈みこんで上下の唇を奪う。背後では《プロムナード》が再び静かに流れている。 「シャツを脱いで。あんたの肌を感じたい」 ホルスターとシャツ、続いて残りの服も素早く脱ぎ捨てられ、ベッドの脇の床に積みあがっていった。ナポレオンが腰から下着を抜き去ると、堂々とした昂ぶりが露わになった。二人分の視線が注がれる。 「ほーら見ろ!」 イリヤはナポレオンの両脚の間に屈みこむと、大きさを増していくそれをコーンアイスのようにぺろりと舐めた。 「ん、いい感じ」 「ええと……何だか、その気になったみたいだ」 「僕がいなくて寂しかったんだな」 イリヤはほっと息をついた。何故自分は彼を、自分のパートナーに不信を抱いていたのだろう?保身など気にしてどうする?世界を飛び回るスパイにどんな身の安全が必要だというのか。イリヤは胸の中で苦笑すると、思いつく限り最良の方法で自分を救ってくれたパートナーへお返しをするための行為に専念することにした。 曲のテンポは突き進むように早くなっている。イリヤは無意識にリズムを合わせながら、荒っぽくまたふざけているように舌を躍らせ、相棒の肌を刺激した。ナポレオンの感じるところを捉えるたび、小刻みに喘ぎや息を呑む音が上がる。とうとう堪えが効かなくなってきて、ナポレオンのしっかりと勃ち上がったものがイリヤの口元に向かってそそり立ち先をねだっている。やにわに彼はそれを口に咥えこんだ。舌を刺激する雄の味がする。頬をくすぐる黒い繁みに熱い息を吹きかけると、相棒が自分の髪をかき回し、あやうくえづきそうになるまで性器が口腔の奥まで押し入ってきた。 イリヤはそれをしっかり受け止め、ナポレオンの弱いところを攻め、何度も何度も絶頂寸前まで追い詰めてやった。それから愛撫を胸の尖りに移し、指で摘み、また唇で刺激して、吐息と共にロシア語で甘く囁きかけた。 曲が終盤の壮麗な《キエフの大門》にさしかかったところで、イリヤにも限界が近づいてきた。自分自身をナポレオンの両脚の間に挟みこみ、付け根の膨らみを揉みしだきながら、ナポレオンの昂ぶりを咥え込む。びくびくと震えている脚のぬるついた肌に自身を擦り付ける。二人は互いの身体で快感を貪りあい絶頂した。 どちらも息が上がって喋ることも身動きすることもできなかった。ずいぶんと経ってから、イリヤはナポレオンがもぞもぞと動き出すのを感じた。ずり上がって相手の肩に顔を載せると、ナポレオンが髪の毛を梳いてきた。何を言う必要もなくしばらくそのままでいたが、やがてナポレオンが口を開いた。 「……で、どうだった?」 全身がくすぐったくなるような笑みが広がる。しかしイリヤはちょっと考え、身体を起こして今は大人しくなった器官を検分するようにじっと見た。 「試験には合格した、と思うよ」 その後、彼らは小じんまりとした格の高い、贅沢をしたい時に幾度か行ったイタリアン・レストランに席を取った。ナポレオンはイリヤにワインを注ぎ足しながら、ここは自分の奢りだと申し出、イリヤも断りはしなかった。身体の傷はまだ痛むが我慢しきれないものではなく、そんなことは今までにもしょっちゅうあった。鈍い頭痛がしていても、気分は晴れたし心の中は満たされている。 「ところで、レスリーをどうしたらいいだろう?」 急にナポレオンが言い出した。イリヤはがつがつと頬張っていたラザニアの皿から顔を上げた。 「彼女がどうしたって?『おつむがカラッポ』って言ってたじゃないか」 ナポレオンは困った顔をした。 「確かにね。でも悪い娘じゃあない。ただシンデレラを夢見て、金持ちの旦那を探してるだけなんだ。で、彼女とデートの約束をしちまった」 イリヤはフォークを置いた。 「その金持ちの旦那とやらと、僕らの給料との相対関係を彼女に説明した?」 「まあね、彼女にはさんざん言ったけど聞いちゃいないんだ。それで水曜にどこかへ連れて行くって約束させられた。飛行機の中で彼女から離れるにはそうするしかなかった。君があんなに具合悪そうにしているのに、一緒に座って相手をしてくれってしつこくて。こっちは君の事が心配でそれどころじゃないってのに……」 胸の中で何かが一杯に膨らみ、それがまぎれもなく『幸福感』だとイリヤは気がついた。 「僕に考えがある」 彼は提案をした。 「デートを断るのはナシだよ。約束したんだから」 ナポレオンが前もって言った。イリヤは首を振った。 「いやいや、あんたはデートに行くといい。ただし、僕もついていく」 「そりゃあ無茶だよ!中学生じゃあるまいし――『こちら親友のイリヤ、ボクたちはどこへ行くのも一緒なんだ』って?」 ナポレオンは笑い出した。だがイリヤははぐらかされなかった。自分のパートナーがあの女の毒牙にかかるのは二度とごめんだ。 「専属の運転手としてなら構わないだろ。ちゃんと制服も着ていくから。僕はあんたらを乗せてナイトクラブかどっかで下ろしてやって、適当な時間が来たら次の約束がありますからとあんたを引き取りに行く」 「その『次の』ってのは、やっぱり君との?」 「もちろん。で、どう思う?」 「うーん、それなら上手く行きそうだ。別れ際に何かプレゼントをあげて機嫌を取らなきゃな。真珠なんてどう?」 「ナポレオン!彼女は金づるを探してるんだぜ。わざわざ彼女にあんたが金持ちだって印象づけることはない。彼女の耳と耳の間の空白を埋めるのは、真珠じゃなくて脳味噌であるべきだ」 「やれやれ、手厳しいねえ」 「手厳しいんじゃなくて当然の警戒さ」 ナポレオンが笑い声を立てた。 「僕だっていつも君を見ているよ。他人に盗られちゃたまらない」 会話がふっと途切れて、ナポレオンの言葉がそのまま空気に溶け込んで自分たちの周りを包んでいるように思えた。胸や顔が、頭の天辺までが赤くなっているような気がする。 「ナポレオン、周りに聞こえる……」 「聞かせてやればいい。きっと妬いてるんだろ」 イリヤは一層頬を紅潮させた。もうナポレオンはすっかりいつもの彼に戻っている。自分が愛したナポレオン・ソロ、人生を分かち合える唯一の存在。不意にイリヤは閃いた。 「レスリーにプレゼントしたらいいものを思いついたよ」 「え、何?」 「新聞の日曜欄で紹介されてた本さ。国中の、もしかしたら世界中の大金持ちの名鑑。よく憶えてないけど、多分上流階級の連中が寝る前に読んだりするんだろ。あっという間に彼女の頭の中からあんたは消えてしまう」 ナポレオンがフォークを置き、ナプキンを畳み、椅子の上で背を起こした。茶色の瞳がキャンドルの光で暖かく煌いている。 「君は最高だ、イリヤ」 恥ずかしいのも忘れるほど、イリヤは彼への愛情が胸に迫ってくるのを感じた。ナポレオンの頬を撫でたい衝動を抑えるため、自分の手で手を押さえなくてはならなかった。 「わかってる」 |
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