Last Time
By Jackie Thomas
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 その晩はほぼずっと、イリヤはナポレオンに付き添っていた。そして普段より少し遅い時間に眠りに就いたのだが、彼は半ばうとうとしながら、ふらりとキッチンへ向かった。
 ブラインドを上げると、ひときわ輝かしい夏の日になることを告げるように、朝の陽が射し込んできた。
 彼は残っていたコーヒー豆をパーコレーターに入れた。食料の買い出しが必要だった。配達を頼むかしてみよう。いま家を離れる事など思いもよらなかった。
 ローブのポケットに手を突っ込んだまま、ゆっりとコーヒーが濾過されてゆくのを待った。ちゃんと動いている――彼は嬉しくなった。コーヒーメーカーが壊れて以来、この数日かけてなんとか動くようにしようといじり回していたのだ。
 ジェシーは新しいのを持ってくると言いつづけていた。アメリカ人というやからは、何かと物を粗末にしたがる。
 器械が順調に動いているのに満足し、彼はホールに出て、ドアマットの上に落ちている新聞を拾い上げた。キッチンテーブルで見出しを読もうとしたが、眼鏡をしていないことに気がつき、その上どこに置いたかも思い出せなかった。
 彼は溜め息をついた。焦らなくても世間の出来事は逃げたりするまい。世間など、どうだって構わない。

「これをお探しかな?」
 彼は顔を上げた。ナポレオンが眼鏡を持って、戸口に立っていた。痛みが相当ひどいときにしか使わない杖に寄りかかっている。
「ありがとう」
 自分の考えを読まれるのはいつものことで、イリヤはそう言った。
「何をしているんだ?」
 ナポレオンの具合が悪そうなのにはもう慣れていたが、今日の彼はほとんど顔色が失せていた。
「こんなふうに一日寝たきりでいるのは、情けなくてね」
 ナポレオンはテーブルに向かい、椅子のひとつに身体を落ち着け、ポットの中に滴っているコーヒーに目をやった。
「おや、これを直したのか?信じられないな」
 イリヤは眼鏡を掛け、新聞を読むふりをしていた。
「僕に爆破工作をさせたりしたんだから、もっと信頼を見せて欲しいもんだな」
 ナポレオンは含み笑った。
「そう、だから自分ではそういう事をやらずに済んだし、ヘアスタイルをめちゃくちゃにする危険も犯さずにすんだ」
 イリヤは新聞から目を上げた。ナポレオンの髪がすっかり白くなり、笑顔を浮かべる時の左の口元の皺が深く顔を横ぎり、彼の茶色の瞳から輝きが失われたのはいつなのか、彼には思い出せなかった。
 少しの間そういうことを気にしなければわかることだ。彼はまだハンサムだし、病身にも関わらずその瞳はまだ暖かい。

 自分が何をしにキッチンに来たのかを思い出し、彼はカウンターに行って二つのマグにコーヒーを注いだ。
「朝食には何が欲しい?」
 そのひとつをナポレオンの前に置きながら、彼は尋ねた。
「君は何か食べなきゃいけない」
「あとで何か食べるよ、イリヤ。約束する」
 相手はそう言ってコーヒーを啜ったが、イリヤには本心でそう言っていないことが分かっていた。
「ナポレオン、医者を呼ぼう」
 彼はさりげなく言ってみた。相手は首を振った。
「この錠剤をふたつ飲むようにしている。僕は、何ともないよ」
 イリヤは冷蔵庫からジュースを取り出し、グラスに注いでナポレオンに渡した。昨夜から彼はローブのポケットに痛み止めの薬壜を入れていて、そこから2錠を取り出した。
 イリヤは、ナポレオンが薬を飲み込むのを、ジュースのグラスを持つ手が震えているのを見つめていた。ナポレオンはしばらく彼と視線を合わせ、それから杖に手を伸ばし、それを支えにして立ち上がった。
「シャワーを浴びてくる」
 彼が出て行くのをイリヤは見ていた。長いことたってから、シャワーの音が聞こえてきた。ナポレオンは介助されるのを嫌がったし、イリヤは出来る限り彼の気持ちを尊重していた。だが今日は、あれこれ考えるより先に寝室を抜けて、バスルームへと向かい、服を脱いで、ナポレオンのいるシャワーストールに入り込んだ。
 ナポレオンはすぐに支えを求めて彼の肩を掴んだ。自分が来たのは正しかったのだ。

 初めてナポレオンと一緒にシャワーを使った日から、もう40年以上が経っている。ひと時代、ひと世紀まえのことだ。まばたきの間に、彼はホテルの部屋の記憶をふと蘇らせた。
 あれは、どこだったっけ――ウィーンだ。服が、銃が、そしてコミュニケーターが床に散らばり、ほとばしる水と、情熱にくるまれて互いの昂ぶりを刺激しあった。
 見た目のことはさておいて、お互いの身体のことは、あの時よりもずっと確かなものになっていた。
 その彼には、最近のことが信じられない気分だった。ナポレオンの身体に腕を回し、馴染んできたその身がどんなに痩せてしまったかを意識しながら、全身を石鹸で洗い始めた。
 抵抗はされなかった。つい昨日までは考えられなかったことに。

 それからイリヤが服を着ている間、ナポレオンはベッドに座り、タオルにくるまって息をついていた。イリヤは膝を折って、出来る限りそっと彼をタオルで乾かしていった。
「調子が悪いの?」
 彼は尋ねた。十分に水分を摂っていないせいで、相手の肌がかさついてきていることに気がついた。今日は、強いてでも彼に水分を飲ませる必要がある。
 ナポレオンは、手を伸ばしてイリヤの頬に触れ、屈み込んでその唇に接吻した。イリヤにはそれがどうしてもお別れのキスに感じられた。
 彼は身震いし、身体を引いて、安心を求めナポレオンの瞳を覗き込もうとした。代りにナポレオンは、イリヤを腕の中に抱えた。
「僕等二人で、弾丸の雨の中に飛び込んでいきたいと思ったことはある?」
 裸の肩に額を寄せたイリヤに、ナポレオンがそう尋ねた。
「例のカウボーイ二人組みたいに?」
「ブッチ&サンダースね、そう。彼等みたいに。あれなら面倒がなくていい」
 イリヤはその問いについて考えを巡らせた。
「君に会った日から、僕は死にたいと思ったことはないよ」
 ナポレオンの抱擁が強くなったのを感じた。
Angel――愛しい人」

 イリヤがナポレオンのシャツのボタンを留め終えたと同時に、ドアベルが鳴った。ナポレオンの姪のジェシーだった。食料品の入った包みを抱えている。
「やあジェシー、驚いたよ」
「そんな筈ないでしょ。持って来る物があるって言ったじゃない」
 そういえばそんな気もする。
 彼女は包みをキッチンテーブルに置き、イリヤの頬にキスをした。彼女は、髪を上げてみると5年ほど前に亡くなった母親のマギーにそっくりだった。
 ジェシーが折々、何かを携えて、または単に『顔を見せ』に『立ち寄る』ようになったとき、イリヤの方が先に、自分が老人だということを理解した。彼女は、自分達が浴室で滑って転んだり、財産を丸ごと猫にくれてやるような事がないかどうか確かめに来ているんだ――最初の何回かは、ナポレオンはあからさまに不本意そうにしていた。
 しかし何を詮索するでなく、彼女は自分達を見守ってくれている。

 イリヤは、ジェシーが若さを誇るかのように勢いよく、食料品を取り出してゆくのを見つめていた。しかし若いといっても、自分達と比較してということだ。ジェシーは40代、立派な大人の仲間入りをしている。一体いつのまにそんなになったのだろう?
「コーヒーはどうかな、ジェシー?」
 彼女はパーコレーターを見た。
「ということはこれを修理したのね?これって、私が学生の頃からある気がするわよ。そろそろ引退させてやる時分だとは思わない?」
「あーぁ、君も彼と一緒だな。こいつはどこも悪くないんだよ」
「そうね、それは認めるわ」
 言いながら、彼女はカップを取り上げた。
「伯父さんの具合はどう?」
「今日はあまり良くない。でも彼は起きてるし、行って会ってくればいいよ」
 イリヤは、ナポレオンがリビングルームに歩いていった音を聞いていた。
 彼女はコーヒーカップを覗き込んで、言った。
「それなら入院させるべきだと思わないの、イリヤ叔父さん?あの人は重病人なのよ」
「彼は、どうにかやっているよ」
 庇うように言った。診断が下りてから、ナポレオンは痛み止めの量を増やす以外、一切の治療を拒んだ。医学的な興味だけで、延命させられるような見苦しい事態に陥ることを望まなかった。彼は自宅に留まることを希望し、イリヤは、日増しに衰えてゆく彼に、不承不承ながら従い続けていた。
「いつまでも貴方に伯父さんのお世話ができるものかしら」
 彼女は憤慨したように言った。
「彼に『お世話』は必要ない」
 イリヤはぴしりと言い返した。今朝の出来事は気にしてもいなかった。自分が言い過ぎてしまったことに気がついたように、彼女の表情が和らいだ。
「わかってるわ。ごめんなさい」
 そう言ってコーヒーを飲み干した。
「じゃあ伯父さんに会ってくるわね」

 ナポレオンは、リビングルームから裏庭に出ていた。リクライニング式のデッキチェアに腰掛け、明るい陽射しの中で、目を瞑っていた。
 イリヤが、カウチから持ってきたひざ掛けを広げ、ジェシーが反対側の椅子に腰掛けた時、ナポレオンは目を開けた。
「やあ、マギー」
 彼は言った。ジェシーの微笑みが顔の上で凍り付いた。
「伯父さん……」
 彼女は優しく言った。
「私、ジェシーよ」
「ああ……そうだった」
 彼は呟いたが、戸惑ったような目を向けた。
「よくある間違いだ」
 イリヤが素早く言った。
「彼女は、お母さんにそっくりだものね」
 この言い方は、実際大げさすぎたかも知れない。ジェシーは何か会話しようとしたが、どうなんだと言わんばかりにイリヤを睨んでいた。ようやく、ナポレオンは意識をより集中させた。
「今日は仕事は無いのかい?」
 彼は尋ねた。
「クライアントに会いに行く途中なのよ」
 彼女は時計をちらりと見た。
「そろそろ行かなくちゃ」
 立ち上がり、彼女はまずイリヤに、それからナポレオンにキスをした。ナポレオンは彼女を抱き締めた。
「今夜ここに泊りにこないか?ジェシー」
 そう聞いてから彼女を離した。彼女は怪訝そうな顔をしたが、答えた。
「そうね――帰りに寄らせてもらうわ」
 ジェシーはイリヤをちらりと見た。
「何か必要なものがあれば、携帯に電話して」

 彼女が去ってから、ナポレオンが言った。
「どうだい、うまくやっただろう?」
「君はいつだってタイミングを外すんだからな、ナポレオン」
 ぎくしゃくした一時は過ぎた、とイリヤは思った。彼は椅子をもうひとつ、ナポレオンの横に引っ張ってきて、お互いの顔を見合わせた。
「君の姪っ子は素晴らしい女性なんだけど、同時に……」
「おっかない。そうだろ?」
「何で彼女に、今日泊るように言ったんだ?」
 ナポレオンは言いよどんだ。
「そう……彼女にとって君は、僕同様に家族なんだね」
「わかってる」
 イリヤは答えたが、何故ナポレオンが自分の質問に答えないのかは分からなかった。
「イリヤ?」
「なに?」
「今日は何をするつもりだったの?」
「北極の氷が溶けるような大事件はなさそうだから、洗濯でもしようかと」
「洗濯は今日はいいだろう」
「わかった」
 何故なのかは敢えて尋ねず、イリヤは言った。

 その日の気温は思いがけないものだった。ナポレオンが外にいて、ラジオに耳を傾けたり、イリヤが植えて水をやっている花壇の様子を見に、少しばかり散歩するにはちょうどいい暖かさだった。
 午後も半ば過ぎてから、彼はサンドイッチを食べ、ジュースを飲んだ。彼はどちらも欲しいとも、必要だとも思わなかった。ただ自分が長いこと食べたり飲んだりしていないことを、イリヤがひどく気にしはじめていることを考えただけだった。
 その他にといえば、ナポレオンはとっくに死んでしまった人々のことを、今も生きているかのように、ずっと昔の出来事を、つい昨日の事のように語り始めた。
 イリヤは彼を正すようなことはしなかった。何年でもこんなふうにしていられれば十分に満足だと思えたし、それなのにナポレオンが、こんなにも早く自分から去っていこうとしていることが彼には信じられなかった。

 午後は夕刻へと移ろい、イリヤはナポレオンのすぐ側に座っていた。
 陽射しが陰りはじめるまで、彼の為に新聞を読んでいた。一度だけ、ナポレオンが手を持ち上げて、やはり白くなっているイリヤの髪に差し入れた。イリヤは昔からそうしたように、お返しにその手を取って口接け、自分のそれと握り合わせた。
 ナポレオンがまどろんでいるのを見て、イリヤは新聞を横に置き、彼をじっと眺めた。
 長い間、おそらくは数時間の間、聞こえてくるのは隣家の家族の遠いさざめきと、頭上を飛ぶ飛行機の音と、少しの間垣根に止まっていた鳥の鳴き声、それにナポレオンの、浅いがしっかりとした息遣いだけだった。

 そしてナポレオンは目を醒ましたが、瞼は閉じられたままだった。
「イリヤ……」
 ナポレオンが呟いた。イリヤは屈み込み、ナポレオンの唇にキスをした。

 けれどすでに、彼は行ってしまった。

THE END


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