NATURAL

by Elle Shukugawa

◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

 午後十時五十分、ボール・ルームはまだ賑わっている。緩やかに、いくぶん扇情的に奏でられている弦楽四重奏と、香水と紫煙の間を潜って、ナポレオン=ソロは傍らに女性を伴い、外庭へと続くバルコニーへ滑り出た。
 甘く湿った南国の夜風が、ブーゲンビリアやストレチアの葉を揺らしている。ワルツの続きのような足取りで、彼は濃紺のイブニングの女性の腰を引き寄せ、唇に軽く口接けた。そして宝石の光る耳元に二言三言囁くと、金かっ色の後れ毛を吐息でくすぐる。
 彼女はくすんと笑いながら身を捩り、名残惜しげに男の腕から離れた。
「――じゃあ、明日の夜に」
 綺麗にマニキュアされた指が、タキシードの肩から腕へと滑って、最後に白手袋を嵌めた掌を握る。指が解ける寸前に、ソロはその細い指先に接吻する。
「約束だよ?」
 西翼に通じる小路を去っていく――この建物はホールと社交場を中心に、東西に客室のある棟を配していて、ボール・ルームをもういちど縦断するよりは庭を通って行った方が早いのである――薄闇の中に最後まで浮かぶほの白い背中を、ソロはにんまり笑いながら見送った。そして、彼は更に庭の奥へと一人で入って行った。

 庭の突き当たりには母屋よりはるかに古ぼけた石の壁が続き、海岸へと真っ直ぐに落ちる急斜面を区切っていた。土や切り払われた草の匂いに混じって、かすかに磯臭い海風が吹き上がってくる。
 風雨にざらついた石の上に無造作に腰を下ろすと、ポケットのガスライターに火をつけ、煙草を取り出すでなく(そもそも持ち合わせていない)少しして消すと、またつけなおした。闇に慣れてきた視線の先で、微かに枝葉が揺れ、草が踏みしだかれる音がする。ゆっくりとした確かな足取りで、こちらに近づいてくる。重なり合った枝の向うにほぼ黒一色の人影を認めた時、小さく口笛でも吹こうかと思ったが、壁から上体を軽く乗り出したまま静かに待った。
「ハイ」
「お疲れ」
 葉擦れの音と共に、目の前の薮の中からイリヤ=クリヤキンが姿を顕わした。白い顔に、僅かな光を捕らえて光る眼、そしてフードの端からこぼれ出た金の髪。ジャングルで虎に出っくわしたみたいだな、とソロはついにやにや笑いを浮かべる。
「何だ?」
 イリヤは怪訝そうに言いながら、スーツのフードを取ってぶるっと金の毛並みを振るった。
「いや別に。そっちの具合はどお?」
「予定通り。装備は沖合いの漁船の中に隠した。手筈どおりにいけば――…」
 壁を乗り越えて敷地に入り、側にある苔むしたグロッタの影に入り込む。
「このあたりにゃー監視カメラはないよ」
 ソロもゆったりとセメントと擬石で出来たオブジェに身を寄せる。小さなうろの中に納まったところで、ソロはやおらイリヤの肩を掴んで引き寄せ、不意を突かれて驚いた形の唇にキスをした。そういえば直に顔を合わせたのはまる二ヶ月ぶりだと思い出しながら。
 一瞬だけすくみ上がった四肢からすぐに緊張が抜け、塩辛い唇が口接けに馴染む。しかし柔らかい口腔の甘さを探り出すより先に、どんと乱暴に胸を突かれた。
「YSLの口紅、」
 何のことだといぶかるソロの肩口を、イリヤが大げさな仕草でくんくん嗅いだ。
「……それにディオールの香水か。平々凡々、センスのかけらもないね」
 ようやく気がつき、内ポケットのハンカチで口元に残った紅を拭き取る。白い布地になすりつけられたコーラルピンクの跡をまじまじと眺め、ソロは感心したように言った。
「香水はともかく、なんで口紅のメーカーまでわかんの?この暗いトコで」
 イリヤが面白くもなさそうに口の端をつり上げた。
「イブサンローランのは安物のいちご飴みたいな味がするんだよ」
「へーええ」
 素直に感心してみせ、さて続きをと顔を寄せたところでまた押しやられる。
「う・ち・あ・わ・せ」
 ソロは肩を竦めた。まあいいさ。夜はまだ若く、そして彼も我も――。

・・・to be continued


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