突然、はっきりとイリヤは悟った。自分は死ぬんだと。
もう一度だけ鎖をぐいと引っ張ってみたが、無駄だった。無意味なのは判っていたものの、何か抵抗してみずにはいられない気分だったのだ。
抵抗しようとするまいと、誰に知られるわけでもあるまいが……彼は皮肉っぽくそう考えた。失禁してパンツを濡らそうが、実態の無い神とやらに声を上げて祈ろうが、ひたすらヒステリックに叫び続けようが構わない。そういう自分の不名誉も、永久に知られることはないのだから。
無論のこと鎖は切れなかった。イリヤは嘆息した。腕や肩は嫌になるほど痛かったが、手首の感覚は無くなっている。鉄枷が手首を、頭の位置で冷たく湿った壁に繋ぎ止めていて、指からは全く血の気が失せていた。
足首も同じように縛られており、不格好に両手足を広げた体勢でいるせいで、腰から背中にかけてが鈍く重く痛んだ。レイバンが自分をここに縛り付け、死ぬまで放置しておくつもりだとしても、せめて寝かせて縛るぐらいはしてもいいんじゃないのか?
とはいえ彼にはその理由が判っていた。固いレンガの壁は後ろだけでなく、顔のすぐ前にもあり、要するに回り全部がそうなっていて、この格好で閉じ込められざるを得ないのだ。
彼は完全に壁の中に幽閉されていた。レイバンという男は、万事をゴシック趣味に、特にエドガー・アラン・ポオの小説風にしたがるという強迫観念の持ち主で、これもその例外ではないらしい。
どのぐらいの間こうしているのか分からなかった。腹時計が2度鳴ったから、少なくとも2回分は食事をしそこねているようだ。しかし、空気が薄くなってきていることに気がついた時、騒ぎたてる胃袋のことはさておいて、少ない酸素をなるべく無駄遣いしないように、呼吸を整えなくてはならなくなった。
ここに押し込めらて以来、自分の幽閉場所がどれぐらい広いのか計る機会がなかったもので、従ってどれぐらいの空気があるのかも計測できなかった。自分に分かるのは、このレンガの空洞は非常に狭くて、暗いことだけだ。目を開けていようが瞑っていようが、全く変わりないのは確かだった。
そこで、彼は目を瞑り、首の後ろの痛みをほぐそうと頭を前に突き出した。
窒息死というのはあんまりいい死に方じゃないぞ……イリヤは想像してみた。しかし少なくとも、餓死よりはあっさりしている。後者のケースは、子供の頃強制労働所で何度か目にしていて、飢えて死ぬなど考えるのさえゾッとした。
こうしているうち、すでに肺に負担を感じ、比較的早く絶息しそうな具合になってきた。頭がクラクラしてきて、思考がまとまらなくなってきて、それから徐々に意識が薄れ、二度と戻らなくなるだろう。
レイバンが、自作のウィルスを――彼はそれを『赤い死』と呼べと言い張っていた――THRUSHに売り渡す前に捕らえられたかどうかも知らずに、自分は死ぬ。
再び外の世界を目にすることもなく、自分は死ぬ。
ナポレオン=ソロと愛し合ったら、どんな気分かも知らないで死ぬのか……。
彼は鋭く首を振った。自分の意識にそんな考えが浮かんでくるたびに、速やかに頭から追い出すのが長年の習性になっていた。それから彼は、諦めの溜め息をついた。今や何の違いがあるっていうんだ?自分はもう死ぬところなんだから。
ナポレオンは今この時にも、必死になって自分を探しているに違いない。でもナポレオンは、どこにレイバンが身を隠したかも、屋敷の下にワインセラーがあることも、そのワインセラーに、小さな仕切りが隠されていることも知らないのだ。
レイバンが気障ったらしく教えてくれたことには、ここは完全防音になっているそうだ。
「ポオの18世紀よりは、科学は進歩しているからね」
彼を捕らえた男は、そう言って笑っていた。
ならば今、彼がナポレオンのことを考えてはいけないと言う理由はない。パートナーの大きな茶色の瞳を、誘うような口元の曲線を、自分を呼ぶ絹のようになめらかな声音を思い描いていけない理由はない。『イリヤ=クリヤキン』と、『My Whiteknight――僕の白騎士』と、『坊や』と(これがどんなに嫌だったか!)または簡単に、かつ素晴らしく『Tavarisch』と。
どこかの狭苦しいモーテルの部屋の、一つきりのベッドで、ナポレオンの側で目覚めた時のことを思い出していけない理由もない。眠っている彼の、逞しい胸が上下しているのを見つめ、その上に手を滑らせそうになるのを顔を顰めて耐えたことも。
もしくはナポレオンが、女性とダンスをし、女性にキスし、女性の耳に囁きかけているのを見ていた時のことを。その後で心のスクリーンに、そのイメージと自分を重ね合わせて、密かに自分を慰めていたことも。
この期に及んで、性的興奮にそこが硬くなっていく具合の悪さを感じて、彼は思わずゲラゲラ笑いそうになった。ナポレオンにはいかなる状況下でも、非常事態でさえも、相手に劣情を催させる能力があるのは間違いない。
かなり皮肉なことでもあるが、イリヤ=クリヤキンが、『Ice Prince』が、もうすぐ自らの墓となる地下で、最後の息を繋ぎながら、彼に欲情したっていいじゃないか。
彼は深呼吸して自分を落ち着かせ、それから息を詰まらせた。一瞬動転したが、目を固く瞑って、ゆっくりと呼吸し、痙攣する肺に少しずつ空気を送り込もうと努力した。
胸のあたりが痛み出し、乾いた唇を、ほぼ同じぐらい乾いてしまった舌で湿らせる。そして、疲労と恐怖で痙攣しはじめた自分を意識した。
とはいえ今更怯えるのも馬鹿げたことだ。自分の死から逃れる術は何もなく、多分苦痛に耐えられなくなるより前に気絶してしまうだろう。
さほど幸せではなかったにしろ、自分はまあまあの人生を送ってきた。後に思いを残すようなことも、正直いってほとんどない――ナポレオン、だけだ。
古い諺はなるほど正しかった。《やらなかった事ほど後悔する事はない》と。
どんどん思考することも出来なくなってきた。考えようとするのを止め、彼はただ肉体に意識を集中し、肺に空気を送ろうと苦心し、こめかみの疼きと、耳の中一杯に響くゼエゼエいう音から気を逸らそうとあがいた。目眩に襲われて、苦痛が少し薄れた気がした。
自分がまさに意識を失おうとしているのを、彼はぼんやりと認識し、奇妙な安らぎを感じた。ああ、もうすぐだ――もう少しでこの苦労もなくなる……。
耳鳴りの向うから何かが壊れる音がした。底無しの闇の中で彼は目をしばたき、どうしたんだろうとぼんやり考えた。
もう一度破壊音がし、突然に光が差し込んできた。イリヤは顔を上げ、眩しさに目を逸らした。それから顔を戻して、ナポレオンが前に立っているのを目にした。それぞれに大槌を手にした男達を半ダース従えている。
イリヤの足元までレンガが落ちかかってきて、彼は動ける範囲で後に反り返った。ナポレオンが、槌を置いて、破れた壁の穴から潜り込んできた。
鎖が外れたのを感じた瞬間、イリヤはくたくたと前に倒れ、ナポレオンに抱きかかえられた。
耳元に暖かな息がかかり、愛して止まないソフト・ヴォイスが聞こえる。
「急ぎに急いで来たんだよ、Tavarisch」
イリヤは目をつぶって、生涯最高においしい空気を肺一杯に吸い込んだ。
「じゃあ何に乗って来たのさ?荷車?」
******
ルームサービスの慣習は――数時間のち、イリヤは判断した――間違いなく西側民主主義最高の功績だ。
彼はチョコレート・プディングの最後のひと匙を平らげて、満足感に文字通り喉を鳴らし、皿をツイン・ベッドの間のサイドテーブルに置いた。
そして今夜は、自分のフトコロを痛めてチップを払わねばならないという、いつもの苦行に食事の喜びが差し引かれることもなかった。そっちの面倒を見てくれたナポレオンは、食べている彼を残して、ついさっきシャワーを浴びにバスルームに消えて行った。
バスルームのドアが開き、イリヤは顔を上げ、バスローブに身を包んだパートナーが出てくるのを見た。
ナポレオンは疲れているがリラックスした様子で、ランプの明かりに照らされ、彼の胸の薄いうぶ毛に、小さな水滴がいくつか光っているのが見えた。イリヤは慎重に、そこから視線を外した。
ナポレオンがもう一方のベッドに身体を落ち着け、石鹸の清々しい香りがイリヤの鼻孔をくすぐった。
この気分を逸らす必要を感じて、イリヤは口を開いた。
「レイバンの奥さんが、僕の居場所を密告してくれたそうだね」
「ああ」
彼女を思い返すように、ナポレオンがにっこりした。
「レオノーラ・レイバンは素敵な女性だよ。結婚生活はとても不幸だったけどね」
イリヤは居心地悪そうに、ベッドの上で身動きした。
「でも僕は、どうやってレイバンが死んだのかまだ聞いてない」
パートナーは彼を怪訝そうな目で見遣った。
「君は詳しい話を聞けるような状態じゃなかったろ。とにかく君を病院に連れて行きたかったんだ」
苛立たしげにイリヤは手を振った。
「僕はもう、どこも何ともない。そもそも最初から病院に行く必要はなかったんだ。手枷足枷のせいで数箇所傷があったけど、それだけさ。また息がつけさえすれば大丈夫だったんだよ」
ナポレオンが溜め息をついた。
「まぁ、僕は医者じゃないけど、でも生き埋めになってたってことは深刻な事態だと思うな」
「僕は繋がれてたんで、埋められてたんじゃ――」
「わかったわかった。ともかくね、僕等がセラーで君を助け出してる間に、レイバンは心臓発作を起こしたらしい。僕が君を病院に連れていってる頃、マークは上の階で彼が死んでるのを見つけた。『赤い死』の入った薬壜は死体の横にあった。有り難いことに蓋は閉まっていた」
イリヤは眉を寄せた。
「心臓発作?」
ナポレオンが笑い声を上げた。それは、救出されてから初めてイリヤが聞く笑い声だった。
「マークの考えでは、奴は僕等が壁を壊す音を聞いて、君が死から蘇り、奴の所へ来るもんだと思い込んだんじゃないかって」
そしてコミカルに眉を動かしてみせた。イリヤははっとして相手を見た。
「つまり――」
「奴はとことんポオに拘ってただろう?」
感慨深げにイリヤは頷いた。
「確かに奴は、相当あの話を読みふけってたんだな」
「かわいそうなロデリック・アッシャー」
「かわいそうなマデリーン嬢」
ナポレオンが立ち上がり、部屋についた小さなクロゼットの床においてあるスーツケースのところに行った。そして小さな四角いボトルを手に戻ってきた。
「飲めよ」
ベッドの元の位置に帰り、手を伸ばしてイリヤにボトルを渡した。
「といってもウォッカしかなくて、悪いけど」
彼はにっと笑った。
「Amontillado(スペイン産のシェリー)は僕が全部空けちまった」
イリヤは微笑んだ。
「ウォッカで全然構わないよ。ありがとう」
ボトルをぐーっと傾け、ナポレオンに返した。彼も一杯やってから、ボトルをサイドテーブルに置いた。
ナポレオンは突然、真剣な暗い目つきでイリヤを見据えた。
「君は死ぬところだったんだ、それは分かってる?」
イリヤは肩を竦めた。
「これが初めてってわけでもないし……多分最後にもならないんじゃないかな」
ナポレオンはしばらく押し黙っていた。
「死ぬのが判っていて、君は何も後悔することはないの?」
パートナーの凝視を受けて、イリヤは少し身体をもぞもぞさせた。
「ナポレオン、そんな話をする必要はあるのか?」
彼は無意識に左の親指を、残りの指で擦っていた。
「嫌な気分になるだけじゃないか」
「僕もさ」
ナポレオンが静かに言った。
「死ぬことを考えるのが好きな筈がない、それに、君が死ぬことを考えるのはもっと嫌だ」
イリヤは相手の方を向き、困惑した視線を泳がせた。何を言われたのか意味が分からず、それで何も言い返さなかった。
「――エレンが亡くなる直前、僕等はひどいケンカをしていた」
ナポレオンがそこで言葉を切った。
「この話は、したことがなかったかな?」
驚いてイリヤはゆっくり首を振った。ナポレオンが、彼の死んだ妻の話をするのは聞いたことがなかった。パートナーを組んでいたこの幾年かの間に、ナポレオンがずっと以前の、短い結婚生活について多少なりと触れてきた記憶もない。
「僕等はお互いに酷いことを言い合った。彼女は僕を愛していないといい、そもそも、どうして僕と結婚したのかわからないと言った。僕は、それは願ったりだと答えた。それから僕は、他の女を探しているところだと言った。それは違うんだが、彼女を傷つけてやりたかったんだ。エレンは車に乗り込んで出ていった。戻ってきたって俺は居ないぞ、と彼女に怒鳴りつけたのを憶えている。
その夜は友達の所に泊り、そこで翌朝、警察が僕を探しに来た。エレンはカーブでスピードを出しすぎ、コントロールを失って木に激突したと教えられた……即死だったそうだ」
イリヤは相手を眺めていた。ナポレオンの視線は向かい側の壁の絵を睨み付けていて、視界には入っているが本当に見えてはいないようだった。
「それは――」
イリヤは言いかけ、息を呑んだ。
「気の毒にな、ナポレオン……本当に」
ナポレオンには聞こえていないようで、長いこと沈黙が続いた。
とうとう、イリヤはぎこちなく咳払いをした。
「もう寝ることにしないか。遅くなったし」
ナポレオンが、苦心して気を取り直してみせた。
「ああ、そうだね」
イリヤは自分のベッドの上掛けを捲り上げ、ベッドサイドのランプのスイッチに手をのばした。そしてナポレオンが動かずにいることに気がついた。
もう片方のベッドの端に腰掛けたきり、イリヤをまじまじと見ている。
「寝ないのか?」
「……寝るのなら、君と一緒がいい」
ナポレオンは穏やかにそう言い、問いたげな視線でイリヤを見上げた。
「構わないかな?」
イリヤは舌で唇を湿らせた。
「え――いや、もちろん……構わないけど、」
彼は疑わしげに、狭いベッドを見回した。
「でもこのベッドはそんなに広くな――」
「分かってる」
ナポレオンがほんの少し笑った。
「だから君が僕から逃げ出さないよう、抱きついているいい理由になるじゃないか」
イリヤの心臓が痛いぐらいに脈打った。顔を向け、ナポレオンの目をしっかりと覗き込む。
「……ナポレオン、僕は、逃げたりしないよ」
彼はそう言った。
ナポレオンは長いこと、相手の表情を観察していた。そして立ち上がり、イリヤの両肩に手を置いた。彼は呟いた。
「そういつも死に急ぐんじゃないよ、いいね?」
そして唇を、イリヤの唇に落としていった。イリヤは驚きの余り、しばらく凍り付いたようになって反応が返せなかった。
そしてゆっくりと瞼を閉じ、思い出したように腕を持ち上げてナポレオンの体躯に巻き付け、熱っぽく抱擁した。パートナーに貪るように口接けているうち、あっという間に意識の中から何もかもが飛び去っていった。焼け付くような、現実とは思えない喜びに身を震わせる以外は。
激しいが甘やかな口接けに存分に浸りきるひまもなく、ナポレオンはキスを中断し、その唇をイリヤの肩と首筋の間のくぼみに埋めた。
彼の意識が渦を巻く。ナポレオンが身震いするのを感じた。
「ねえ、君は死ぬわけにはいかないんだよ、」
ナポレオンが呟いた。
「僕が君に言いたいことを全て話すまでは。それには、おそろしく時間がかかるだろうな」
イリヤは身体の間に手を入れて、せっかちにナポレオンのローブの紐を解いた。
「言いたいことがあれば何でも話せばいいさ、ナポレオン。僕は聞いてやるから。でも今はそれよりも、見せてもらいたいことがあるんだ……そして僕にも君に、見て欲しいものがある」
彼ははすが目に微笑んでみせ、ナポレオンが顔を上げて見つめてきた。
「死がいつも快く迎えられないわけじゃない、よね?ポオは全くうまいことを言ったもんだ。Little Death――『昇天しちまう』場合なら、僕も彼に賛成する」
ナポレオンの目が光を帯びた。
「実にいいところを突いてくるね、Tavarisch」
彼は柔らかくそう囁き、手を伸ばして明かりを消した。