obvious.gif by Darklady

「また会えて嬉しいですわ。ミスタ・ソロ」
 賃貸業事務所から出てきた中年女性が、僕の手を取って握手した。賃貸契約の書類によると、彼女の名はジャネット=アンソン。彼女のそぶりからすると、僕は彼女と親しかったに違いない。といって非常に親しかったわけではないらしい、というのも彼女の年ごろは、普段の僕の守備範囲外だったし、その身振りは、挑発するというよりも友人としてのそれだった。
 ともかく、僕は肩を揺すって答えた。
「キャビンを三日も早く使わせてくれてありがとう」
「何てことありませんよ」
 彼女の微笑みがより温和になり、僕が試しに言ったことは正しかったのがわかった。
「今はオフ・シーズンですもの。持ち主も申し出があって喜んでるでしょう」
 そして僕のパートナーの方を見遣った。
「追加日数分は半額にしておくよう交渉しておきました。でなければ空室のままだったんですから。貴方は倹約家タイプですものねえ?」
 彼女のバーモント訛りには異論を挟む隙もなかった。
「それとキッチンのストックや設備も大丈夫、今朝私が自分で見に行ってきました」
「本当にご親切に」
 イリヤは誠意に満ちた微笑を浮かべ、彼女はデスクから鍵束を取り出した。彼はいつも、母親タイプの女性には物腰やわらかなのだ。
「延々ドライブしてきたから、家で食事したいと思っていたんです。大したものは出来なくても……」
「でも、《おうちが一番》ですわよね」
 彼女は同意書を全部作り終えた。この会話は以前にも交わされていたのは明らかだ、とはいえ現在の僕はカヤの外なのだが。
 僕はその後数分の会話をイリヤに引き取ってもらい、その間に書類にサインして、再度内容をチェックした。
 悪くない。この山小屋を見た――記憶はないが、NYあたりのホテルに比べれば、バーモントはずっと安くあがる。
 もう一度握手をし、僕等は車に向かった。イリヤが運転し、僕はいちいち文句をつけたりはしなかった。彼は、少なくとも僕等がどこに行くかを知っている。そして、僕は知らない。問題はそれだ。
 僕は目を閉じて、昨日の午後の事を思い返した。最近の記憶を。僕の、ほとんど唯一の最近の記憶を。

「ナポレオン、ナポレオン!」
 耳元でイリヤの声がし、彼の手が肩に置かれていた。
「え?」
 僕はライトの眩しさに瞬きした。U.N.C.L.E.の診療室だ。イリヤが僕のベッドの傍に立っている。ウェイバリー氏はその横で腰掛けている。ざっと見たところ、大して痛むところはない。
「今度は僕、何を撃たれたの?」
 僕は尋ねた。レスリー=グラハム医師が、僕の肩の所に立っていた。ということは事態は軽いものではないらしい。
「ミスタ・ソロ、最後に憶えているのは何?」
「飛行機からパラシュート降下した、けど……」
 それはこの近辺のことではない、僕はそう言いかけた。グラハム医師はその言葉に、苦笑いを浮かべた。嬉しがってはいないが、どこか満足げに。彼女の予想通りとでもいうようだった。
「多少混乱があるのは予想していました。あなたはアムネジア・ドラッグ――記憶を喪失する薬を投与されたんです」
「分からないなぁ」
「ああ、それは、分からないでしょうね」
 そうじゃなくて。はっきり言えば《アムネジア》が分からないほうがまだ良かった。
「それで、」
 起き上がって、ベッドの端に腰掛ける。
「どれぐらい続くもんなの?」
「問題はそれですね」
 彼女はウェイバリー氏に視線を移した。
「普段の状態を取り戻すまでには48時間。但し……」
「ただし?」
「どうも、THRUSHが使おうとした自白剤と合わさった結果、被験者が現実の時間枠から逸脱する効果が出てしまったようです」
「永続的なものだとは言わないよね」
「勿論ですミスタ・ソロ。実験でもその効果が一過性だと証明されました」
 彼女はイリヤを見遣り、彼は同意の印に頷いた。
「ただ多少……時間はかかるでしょう」
「どれぐらい?」
 僕は尋ねた。
「一週間、長くても十日」
「そんなバカな」
 僕はベッドを滑り下りた。ありがたいことにふらつきもせず立つ事が出来た。
「僕にはやることが……」
「違うんだよ、ナポレオン」
 イリヤが前に出てきた。
「それが副作用のひとつなんだ。今日はね、六月の八日」
「そんなバカな!」
 彼の目を凝視したが、ふざけている感じは全くない。
「48時間人事不省だっただけじゃなく、6ヶ月近くも?」
「一時的に、です。ミスタ・ソロ」
 宥めるような声で、グラハム医師が答えた。
「一時のことに過ぎません」
「でも、僕はどうしたら……?」
「そう、どうにもならないねぇ」
 椅子にかけたまま、ウェイバリー氏が口を挟んだ。
「それは明白だ」
「で?」
 僕の疑問は『どうやって仕事をすれば』だったが、はっきり口に出すことが出来なかった。

「幸い、君とミスタ・クリヤキンは今週末から休暇を取ることになっている。ともかく、」
 ウェイバリー氏は立ち上がり、空のパイプをポケットにするっと入れた。
「私が少しばかり期間を延長してあげよう。今回の報告が終了し次第、君ら二人は休暇に入ってよろしい」
 グラハム医師を一瞥してから、付け加えて言う。
「それに、医師が君を退院させてくれればね」
 イリヤが頷いた。
「一時間頂ければ、僕はそれまでに報告を持って上がりますし、ナポレオンもここを出る準備が出来るでしょう」
 そこで僕は微笑んだ。記憶に関する薬のおかげで、非・協力的なパートナーが報告書を引き受けてくれた。こういう場合にならイリヤも、いつもの不満口はナシだ。
「それから、ナポレオンと僕は一緒にキャブで、」
 イリヤが続けた。
「キャブ?」
 僕は言った。
「どうして僕の車じゃないんだ?」
「車?」
 イリヤとウェイバリー氏は、少しの間揃って困惑顔をした。
「ああ、あの車」
 ウェイバリー氏はポケットからパイプをまた出した。
「まったく残念だったねえ。トラックに轢かれてしまって」
「トラック!」
 あれは僕の、まっさらのジャガーだった、その上をトラックが『轢いて』いった!
 ウェイバリー氏が肩をそびやかした。
「あの時はTHRUSHの下っ端が山ほど載っていて……まあ、すぐに何もかも思い出すだろう。それまでは休養すること!これは命令だ」
「イエス・サー」

 僕は眠り込んでいて、多分夢を見ていたに違いない。次に感じたのは、肩をポンポンと叩かれたのと、耳に届いたイリヤの声。
「ナポレオン、」
「何だ?」
 車はもう停まっていた。
「ついたよ」
 僕はあたりを見回した。その『キャビン』は恐れていたほどボロではなかった。丸太とガラスの、モダンな鋭角の外観、中庭は小さな渓流に面している。本格的な釣りをするほど水は深くなさそうだが、午後のひとときを楽しむには十分だ。
 ここに来たのが二度めだとすれば、少なくとも僕は、ここが滞在するに足るところだと考えたらしい、しかし……休暇を丸々過ごすことにしたこの場所の、何がそんなに魅力的だったのだろう?それも二度も?
 イリヤがトランクから荷物を取り出すのを手伝いながら、僕は昨日のドライブのことを思い返した。かなり違ってはいたが、ある意味かなり似てもいた。

 イリヤに必要なのは報告書を完成させることで、僕に急がれるのは診療室から出ることで、一緒にタクシーに乗って自宅に向かうまで、真剣にものを考える機会がなかった。アムネジア(健忘症)のせいで混乱してもいた。それでも、数分してから、僕はキャブが思っていた道程を通っていないのに気がついた。
「イリヤ?」
 僕はパートナーの方を向いて言った。
「君が先に下ろしてもらうんじゃないのか?それとも、自分の住所まで忘れちまったのかな」
「いいや、」
 イリヤが落着いて答えた。
「君の住所は一緒。僕が変わったんだ」
「なんで?」
 僕の声はしんそこびっくりしていたと思う。人事課では、彼のニューヨーク勤務が定まって以来、始終彼にもっといい住処を提示しており、終始彼からはねつけられていたのだ。
「ルーミス氏がヨーロッパ支局に転勤になって、僕が彼のアパートメントを引き継いだから」
「本当か?」
 それは結構な事じゃないか、と僕は喜んでみせた、のだが、イリヤの声は幾分冷ややかだった。
「もっと上の連中の方が、あのアパートメントには相応しかったよ」
「そりゃそうだけど……」
 僕は彼が、上等の住まいを得る柄じゃないと馬鹿にするつもりはなかった。何故だか彼は、いつも身分相応以下の暮らしをしても、それより上にはならないのだ。
「単に僕は、君があの古いアパートメントを気に入ってたと思って。少なくとも十数回は、いい部屋に移れと言われては断ってただろう」
「僕は前のアパートメントが好きだった。今のはもっと好きだ」
「OK、わかった」
 イリヤがすっかりロシア人モードになった時、あれこれ話しても仕方がない。

 キャブは速度を落とし、喜ばしくも見なれた入り口の前に止まった。僕は上着の中を探った、が……。
「財布を忘れてきたらしいや」
 運転手に支払いながら、イリヤが呟いた。
「だと思った――健忘症だろうがなかろうがね」
 彼は僕と一緒に部屋の入り口まで来た。赤ん坊みたいに世話をやいてくれと言ったつもりはなかったが、彼が気を回したがっているように思えた。これは諜報員として悪い特性ではないし、正直言って、僕も彼と別れたい気が全然しなかったのだ。
 それで、キーを回しながら聞いてみた。
「イリヤ、ちょっと入って一杯やらないか?」
 彼がすぐに答えないので、付け加えて言った。
「それとも、僕は例によってウォッカを買っとくのを忘れたかな?」
 彼はためらいがちに言った。
「いや、それはちゃんと憶えてたよ、でも……」
「わかった」
 僕は答えた。それに了解した。もし今の僕があんなもの飲んだら、救急隊を連れて来なくちゃいけなくなるだろう。
「君は疲れてるし、僕も疲れてるんだよね。だから……明日の朝、会おう」
 彼は少し置いて頷いた。
「ナポレオン、明日の朝に」
 彼がホールに向かったところで、僕は尋ねた。
「ああ、ところで――僕が今夜デートの約束をしたか憶えていない?レディに待ちぼうけさせるのは大嫌いだし、自分は憶えてさえもらえないのかと思わせちゃあ……彼女が可哀想だものね」
「NO、ナポレオン」
 彼は答え、どんなに疲れているのかその声で分かった。
「デートの約束は無い」

 それは理に適っている。もし僕が任務についていたのなら、約束をとりつける暇などなかったろう。
「もうひとつ質問いい?」
「いいけど」
 彼が戻ってきた。
「休暇中、僕はどこに行けばいいと思う?」
「僕等はバーモントにあるキャビンを借りてる。セントジョーンズベリの近くの」
「We?僕等が一緒にってこと?」
 間違いなくウェイバリー氏の思いつきだろう。R&R(民宿)に泊れと言われたのは、これが最初ではないはずだ。
「もし、君が一人で行きたいなら……」
「いやいや、」
 僕はにっと笑った。
「あのお年寄りとモメるつもりはないよ。特に、一番親しいGFのことも忘れてちゃね。で、何時?」
 少しの間イリヤは黙り込んでいて、それは大方、計算でもしているかのようだった。
「9時。ナポレオン、9時に迎えにくるから」

「ナポレオン!」
 イリヤの声で、僕は現実に戻った。僕はスーツケースを二個持ち、さらにシェービング・ケースを脇に挟んでいた。イリヤはスーツケースを一つだけ持っていて、でも僕を手伝おうとは、当然のように言わなかった。もしそう言われたら、僕なら腹を立てていたんだろう。休暇が与えられたとはいえ、病人ではないわけだから。
 彼が鍵を開けているあいだ、僕は周りの景色を観察した。樫の木に、楓、松の木立。全てが春の息吹きを受けて瑞々しい。青々とした緑がひたすら弧を連ねている。ベッカおばさんの所を、僕の両親が公務から解放される期間、都会を離れて子供時代の夏を過ごした場所を思い出す。
 これは絶対に静養療法になるだろう。ナイト・ライフは楽しめないが、山歩きや釣りをする場所はたくさんある。
 今度のことは医者が命令したことだという気がしてきた。何なら賭けたっていい。あのお年寄りに電話してお礼でも言おうものなら、精神面の再評定を受けさせられるだろうけど。全くもってこのソロらしくないことだから。
 
 内部は期待していたよりずっといい感じだった。僕のアパートメントより広くて、調度品も上等だ。よくあるA型のレイアウトで、中央に大きな部屋がひとつ、むき出しの梁にレンガとガラスの壁面。木の床にカントリー風の、荒く編んだ絨毯と、ところどころに羊の毛皮。詰め物たっぷりの革張りの椅子。部屋の中央に、すすけた鉄枠の暖炉と、まわりに一段低くなった談話用のスペース。きちんと矢車状に並んだクッション。
 こんなおぜん立てがあれば、僕は丸太だってその気にさせてやれるだろう。見渡したところ、その対象はたったひとつしかなさそうだが。
 片方の側が解放型のキッチンで占められていて、もう片方は階段の下にバスルーム。寝室は、きっとロフトにあるのだろう。あそこに二部屋しつらえてあるのなら、相当狭いのが。
 それは問題じゃない。こんな隔絶されたところでは、僕だって眠るより他にすることはないだろう。

 正直言うと、車の中で居眠りしていたせいで喉が渇いており、僕は荷物を置いてキッチンへ向かった。イリヤにどっちの部屋を取るか決めさせ、何分かしたら荷物を持って、もう一方に行く事にした。以前僕等がここに来ていたのなら、気に入っているほうがあるだろうし、彼の機嫌を損ねるつもりはなかった。
 ドライブの間、彼は幾分ピリピリしているようだった。何か他の理由があって、ウェイバリー氏も僕等に休みを取らせたのだろう。今までの行動についてのファイルを読むよう命じられてもよかったのではないか?
 最後にやった任務のことは憶えていないが、イリヤがこんなになるほど悪い状況だったのだろうか。今回のことは僕ら二人にとって、いい骨安めになることだろう。
 僕は冷蔵庫からソーダを取り出した。ジャネット=アンソンの言ったことは正しく、あるべきものが、あるべきところにあった。冷凍庫の中に肉類、冷蔵収納室の中に野菜。毎晩のように外食するのは止めにしておこう。これまでのような(もしくはそんな気がしたような)外食の習慣は控えた方が良さそうでもある。

 僕はそのことについて考えてみた。夕べ自宅に戻って最初にやったのは、自分のアパートメントのチェックだった。眠る時やその外の時に使用していた、自動セキュリティはちゃんと稼動していた。完全に僕の記憶にある通りだった。
 コーヒーテーブルの上に、数冊の本が置いたままになっていた。それを拾い上げてみて、きっとイリヤのだろうと思った。僕が、もう一度ロシア語を読めるようになろうとしてたのでないなら。
 僕は数年前からロシア語が喋れるようにはなっている――理由の一つは僕らが組むようになったことで――僕のパートナーたるイリヤによれば、僕のアクセントはほぼ完璧に近くなったそうだ。でも読むとなると?このロシア式アルファベット(キリル文字)が問題だった。一、二度ほど取り組んでみたことはあるが、華々しい成果はあげられなかった。本をぱらぱらめくってみて、今度も幸運には恵まれなかったと判断した。
 休暇に持っていくものも、同様にテーブルの上にあった。行き先と賃貸同意書、担当者の名前に地方の地図。何もかもきちんと揃っている。きっとヘザーがやってくれたんだろう。僕は時計を見た。やや遅い時間ではあったが、担当者がまだオフィスにいれば、彼女を捕まえることは出来そうだ。そうすれば少なくとも、明日の夜泊るところがあるかどうかが分かる。
 うまいことに担当者はいた。そしてキャビンは早めに取っても全く構わないとのことだった。
 それがいいのか悪いのかは確信が持てないが、少なくともウェイバリー氏は喜ぶだろう。

 用事を済ませて、僕はキッチンに向かった。いつも真っ先に向かう場所ではないが、お腹がすいていたのだ。今日の長かった、ような一日と、診療室から出てくるのにかかりきりになっていて、何回か食事抜きになっているのに違いない。
 普段ならチャイニーズの出前を頼むことになるのだが、今回僕はツイていた。シーバス・リーガルが脇の戸棚に、ウォッカが冷凍室に、ステーキ肉数枚もそこに収まっている。一枚を解凍のため流しに放り込み、冷蔵室を調べる。じゃが芋にサワークリームも。結構。
 おイモさん(spud)をオーブンに放りこみ、焼きはじめた。ステーキを焼くのはシャワーの後にしよう。中まで溶けてからの方が上手く火が通る。

 バスルームに向かいながら、僕は道すがらイリヤの本を更に拾い上げた。多分、僕に教えてくれて『いた』のだろう。彼の態度もこれで説明がつく、と僕は考えた。
 イリヤは総じて意味のない行動はとらないのだが、数ヶ月のレッスンを忘れてしまった僕を責めるのも彼らしい。特に、この本の数からして、彼がかなり大層な労力をつぎ込んでくれたのならば。
 僕は心の中で、彼にお礼をいうこと、それと僕に何を教えてくれたにせよ、そのうち全部思い出すんだということをお忘れなく、と言う事をメモしておいた。この状態は、ともかく一時的なものに過ぎないんだから。
 バスルームは、いつも僕が使った後よりも少し散らかっていた。使用済みのタオルが余分に、シャワーストールに引っかかっている。多分洗濯に出す暇がなかったのか、でなければ任務のせいで、いつもより汚れてしまったのだろう。どちらにせよ、今日明日使うきれいなタオルはまだ十分にあったし、留守の間に洗濯に出す事も出来る。
 ウェイバリー氏は普段なら無駄遣いはやめろと言うだろうが、僕をさっさと出発させたのは当の彼ではないか?ならば他にどうしようがある?

 ありがたい事にお湯はやはりふんだんに出て来た。この建物はこういうところがいい。立地条件も合わせて、ここが空室待ち状態である主な理由はこれだ。
 イリヤが、機会さえあれば住むところを変えるようになったのは嬉しかった。いつ他の住まいを受入れる気分になったかはしらないが、彼がこの近くに移って来たのなら、僕たちはもっと親しく行き来できる。
 自分の傷痕を調べてみた。前より増えているようだが、ひどい怪我はしていないみたいだ。僕の記憶が戻ればすぐに、任務はうまくいったと話すことができるだろう。
 人心地がついたところで、僕はいつものように髭を剃ることにした。デートの約束がなければ、普段夕方に髭は剃らない。あごに陰が浮いていたが、そう濃くなってはいない。イタリア人なんかよりかなり控えめだ。でも目を醒ましてからどうも気色がわるいのだ。なら剃ることにしよう。

 僕は引き出しを開けた。使用中の髭剃りが二本?僕も不精になったものだ。二つともゴミばこ行きにして、新しいのを開けた。髭を剃ったのはよい思いつきで、済ませてみると、更にすっきりした気分になった。
 今度は、歯ブラシが二本?この散らかり方で、僕はさらにもう少し事態がのみこめた。張り込みがあって、誰か他のエージェントがうちに来ていたに違いない。マークとか、ポールあたりが。控えめにそれとなく、彼等に後片付けをするよう話すとしよう。そのために使い捨ての歯ブラシを置いているんだし。
 どっちが自分のか判らなかったので、僕は両方ともぽいと捨てた。薬などが入っているキャビネットを開き、替えを探してみる。見つからない。歯磨き粉も?引き出しを調べる。よしよし、歯ブラシ、歯磨き、デンタルフロスに、潤……潤滑剤!何でだ?

 僕は半分使ってあるKYのチューブを凝視した。何だってこれがここにある?僕はこの類の逢い引きを、自宅に持ち込むような軽率なことは絶対にしなかった。くそ、違うぞ、どんな逢い引きだって自宅ではやらなかった。それは厳然として僕のポリシーに反する。
 多分、任務で?ああ、そうなんだ。もし任務がそういう類のものだったのなら、思い出せなくて幸いだ。だったらイリヤのとげとげした態度も説明がつく。彼も任務でそういうことがあったのだ。僕らには皆ありえることだ。でも彼は絶対に、唯々諾々と引き受けたりはしない。
 フックに手を伸ばすと、バスローブが二枚あった。上にかかっている方が新しくて、上等だ。でも何で二枚もあるんだろう?それに僕は黒はあまり着ないのに。とはいえ、古いのよりさらっとした感触で、気持ちよかった。

 そこで僕は荷作りしなければいけないことを思い出した。イリヤの事だから、9時に来ると言えば8時45分にはやってくるだろう。もし用意が出来ていなければ、どんなことになるやら。
 僕はスーツケースをベッドに放り上げ、クロゼットを開けた。僕の記憶よりも、少し中が増えている。じゃあ新しいスーツを何着か手に入れたのかな?そうツイてはいなかった。隅っこにあるのはイリヤのだ。きっとクリーニング屋から自分の分のついでに、彼のも引き取ってきたんだろう。
 調べてみる。ほうら、彼のシャツも何枚か入っていた。それなら明日の朝彼に返せばいい。でなければ、休暇から戻ってから。バーモントの自然の中では、オフィス・ファッションはあまり必要あるまい。
 僕はスラックスとジャンパーを入れ、念のためちゃんとしたシャツとタイも足した。僕の記憶が戻るまでは、あまりオフィシャルな場所に出る機会はありそうにない。イリヤがついていなければ。

 僕は一人笑い、現実に意識を戻した。確かに社交的な機会はない。こう人里離れていては、地図とコンパスを持参しても、隣人の姿すら探すのは困難だ。僕はグラスと氷を持って、メイン・ルームに戻った。一段低くなった暖炉周りを囲むソファを選んで腰を下ろす。一方の壁側には、もう一組の椅子が、キャビネットに納まったTVの前に並んでいる。
 少なくともここでは、TVを見ることはできるのだ。僕は昨夜の冒険の成果を思い返した。

 シャワーから出てくるまでに、ステーキは解凍されていた。肉焼き器に投げ込み、自分の飲み物を注いだ。少なくとも僕は、スコッチをちゃんと買い置く暮らしをしていたのだ。これは大変いいことだ、と僕は思った。
 カウチの所に飲み物を置き、僕はステレオに向かった。ヴァイオリンのレコードが乗っかっている。間違いなくイリヤのだ。どれぐらいここに置きっぱなしになっているんだろうか?早いところ返した方がいいのに違いない。
 音楽を聴くのは諦め、僕はTVガイドを探した。どこにあるんだろう?テーブルの端にはない。引き出しかな?僕は調べてみた。リーダーズ・ダイジェスト、シアター・レビュー、コンドームに、潤滑剤がもういっ……また潤滑剤?!
 僕は爆弾でもあるかのように、やはり使いさしのKYのチューブをつまみ上げた。そう、まさに爆弾も同様だ。なんてこった!もしこうも不用心になっていたとしたら、僕は深刻な事態に陥っている。
 この休暇は、考えていた以上に僕に必要なものらしい。全くもって深刻だ。ウェイバリー氏なら、優秀なエージェントのちょっとした癖は大目に見てくれるだろうが、それは『優秀だ』という場合のことだ。僕は、絶対にニューヨークで変な真似はしなかったし、自宅では尚更のこと。それは脅迫してくれというようなものなのだから。
 で、なければ?やっぱり、任務だという可能性は残っている。僕はその説を取る事にした。誰に聞く事ができるだろう?それに、どうやって聞く?それよりは慎重にふるまい、記憶が戻るのを待った方がいい。そうすれば、必要な措置を取ることが出来るだろう。
 ステーキが出来上がった合図のタイマーが鳴るまで、僕は色々な可能性についてつらつらと考え続けていた。そして、一日経った今もまだ考えていた。もし、不幸な任務があった証拠とかではないとすれば、それは……。

 僕はグラスを置いて、荷物を取りに行った。知る術は、方向はひとつだけだ。僕は階段を上がっていった。
 メイン・ルームから引っ込んだ形で、正面にベッドルームがひとつ。イリヤはほとんど荷解きを終えていた。階段の一番上で、僕は凍り付いたように動けなくなった。ベッドはひとつ。キング・サイズではあるが、やっぱりひとつだけだ。そうなんだ。
 思わず深呼吸したくなったが、イリヤに気付かれてしまうだろう。そしてこの時の僕は、僕がどれだけナーバスなのかを彼に悟られるのも憚られるほどに、ナーバスな気分だった。
 証拠はここにあった。まわりじゅう証拠だらけだ。もしくは、僕にはそう思える。
 もし間違っていたら?だとしても、こいつに殺されることはあるまい。きっとウェイバリー氏に反対されるから。多分、怪我をすることだってないだろう――肉体的には。しかし、イリヤの今までのことを考えると、僕はまだ自分の過ちを悔いた方がよさそうな気もしてくる。
 ともあれ、前に進むより路はない、のだ……。

「いつから?」
 僕は尋ねた。
「何が?」
 イリヤが顔を上げた。
「いつから、僕らは恋人になったの?」
「……何でそんな風に考えた?」
「僕は記憶を失ってはいるけど、判断力を失ったわけじゃない」
 僕は部屋に入っていった。
「アパートに証拠があったし、ここにはベッドルームがひとつだけ。ウェイバリー氏は、僕をニューヨークに残すよりも、二人で出かけろ、と主張した……」
「――4ヶ月前から」

 僕は無意識に息を詰めていて、その息を慎重に吐き出した。
「わかった」
 スーツケースのひとつを椅子に置き、蓋をあけてジャケットとパンツを取り出した。イリヤの驚いた顔が目に入る。
「もっと色々聞かれると思ったのに」
「もし4ヶ月間一緒だったのなら、僕らは幸せだったに決まってるさ」
 皺を伸ばし、ハンガーに掛けた服をイリヤに渡した。彼の方がクロゼットに近いところにいるので。
「僕らを一緒に行かせたんだから、ウェイバリー氏ももちろん知ってるんだろ」
「ウェイバリー氏に嘘はつけないよ」
 その考えにぎょっとしたような、イリヤの声。
「勿論ね。僕だってそうだ。馬鹿どころか命取りの所業さ」
 タイを伸ばしながら、僕はちょっと考えた。
「君が何かいいたそうにしている時、尋ねても良かったんだけど。はっきり答えちゃもらえなかったろう」
 タイ・ハンガーを取り出しながら、イリヤは頷いた。
「自然に失われた記憶が回復していくに任せた方がいいんだそうだ」
 タイ・ハンガーを受け取り、タイをていねいに、短い金具に掛けていって、また彼に渡した。

「なら、残りの質問はひとつだけだな……どっちを先にしたい?」
「先にって?」
 僕は二つ目のスーツケースを開け、畳んだシャツを取り出した。クロゼットが一杯なら、これは引き出しに入れてもいい。
「Eat or fuck――食べるか、『する』か」
「えっ、」
 シャツは靴下や下着と一緒に、洋服だんすに納めた。
「僕としては、どちらでも構わない。そんなに腹は減ってないし、でも……」
 イリヤが僕をちらりっと見た。
「もう少し落ち着いた方がいいんじゃ――」
「ごめん、」
 僕はシェービング・キットを取り出した。
「せっついたつもりはなかったんだ」
 少し考えて、キットはバスルームのカウンターに置くことにした。

「ひとねむりさせてくれたら、きっとロマンティックにもなってやれるんだけど、この二日間大変で……」
「そうじゃないよ、」
 イリヤが遮った。
「僕にはロマンティシズムなんてどうでもいい事は、分かってるだろ」
「本当に?」
 少しばかり過分ぎみの彼の主張に、僕は笑みを浮かべた。他の誰もが彼をよく分かっていないけれど、いつでも僕は、彼の本音を捉えることができるようになった。多分それは、彼をよく知っているからであり、また懸命に耳を傾けていたからだ。
「君の意見がどう変わろうが、ロマンティックになった君となら、僕はいつだってそうなれる」
「そんなに自信が?」
 彼の皮肉がまた冴えてきた。
「その通りだったろ。君の言う、四ヶ月間は」
 その言葉に、彼のガードが崩れる。
「そう……時々は……」
「だと思った」
 動揺している彼に、僕は笑みを向ける。
「ロマンスが無かったにしては、ステレオに置いてあった、あのずいぶんとグッとくるレコードだ。僕らはまだ、新婚さん気分を楽しんでいいんじゃないか?」
「それは、そうだ、でも……あんたは忘れてる」
 彼はそこで言葉を切った。
「あんたが男がらみの仕事を嫌うのは、僕がいやほど知っている」
 僕はそこで肩をすくめ、スーツケースを閉めてクロゼットの上に押し込んだ。
「いつもいつも女性がらみの仕事が好きってわけでもないよ、どんなに……」
「僕のために無理させるのは、いやだ」

「何だって?」
 僕は彼に、そんな風に思わせるつもりはなかった。
「イリヤ、」
 腕を延ばして彼の手を取る。
「僕らが恋人同士だったと聞いても、僕がショックを受けなかった理由は、僕がもうずっと……そう、半年よりもっと前から君を愛していたからだよ。本当のところ、君に会った時から。南アフリカの時には絶対に。それから、この気持ちはずっと募っていくばかりだった。ちょっとだけ驚いたのは、自分がやっと行動を起こしたってことで、もっと驚いたのは、そのあとでも僕の『タマ』がちゃんとついていたことかな」
「あんたが、行動を起こした?」
 イリヤの口調はあからさまに面白がっていた。
「最初は君からだったって事?」
「やっとびっくりしたな」
「もちろん、したよ」
 僕はベッドのある方へ戻っていった。

「君はあれだけはっきり、男がらみの仕事を嫌がってたじゃないか。ウェイバリー氏がちょっと遠回しに持ち掛けるだけでも。憶えている一番新しい所では、僕は君の足元をすくう程度にはロマンティックで、かつ翌朝君に正義の裁きを下されない程度には真面目な計画をせっせと考えようとしていた。それでも……」
 僕はしばらくの間考え込んだ。
「今僕が考えていることは、理に適ってるんじゃないのかな?」
「何が?」
「君が事を始めなくちゃならなかったこと」
 自分の結論に満足し、僕は頷いた。
「つまり、僕は軽薄な男だが、君ほどのレベルで殺人の訓練を受けている誰かにコナをかけるほど向こう見ずじゃない」
 彼がにこりとした。
「で、あんたは僕にコナかけるのが自殺行為だと思ったわけだな?」
「君のを握ってきた男に何をしたか、この目で見たもの」
 イリヤは気分を害されたふうをしようとしたが、はっきり喜んでいた。
「奴はTHRUSHの尋問者だったんだよ」
「それだってさ」
 その時のことを思い出して、僕はちょっと身震いした。
「人のタマがつぶれて飛び出すところをみちゃあ、どんな激しい恋心にも水が差されるよ」

「それでお宅は今……その気になってる?」
「今は……興味がある」
 僕は彼の腕の中へ近づいた。その腕は心地よく、僕に向かって開かれている。唇が触れ合い、押し付けられて、開く。強くてしっかりした、彼の腕が僕の身体に回される。男とキスすると、こういう所がとてもいい。波のように伝わってくる強い力。ほっと息のつける夢見るような気分。イリヤとのそれは、夢ではないのだと自分で思う。
 彼の広げた指が肩で動き、動悸が早まった。一歩身を引いた時の、僕の息ははっきり乱れていた。
「たった今、その気になった」
「夕食にしようと思ったんだけど」
 イリヤが唇に指をあててきた。
「昨日も食べてないだろ」
 その繊細に動く指の腹を、唇で軽く捉えた。
「賭けてもいいけど、これだって昨日はやってない」
「腹が減ってるんじゃないの」
「飢えてるよ。君に」
 僕は囁いた。

 指を引いて、もう一度彼が僕の唇を捉える。今度は深くて、情熱的で、ためらわず貪るようなキス。これでついに、僕の最後の疑問は消えていった。
「キスが上手いね」
 僕は呟いた。彼は僕の耳元でくくっと笑った。
「四ヶ月前に言われたとおりだ。変なことは出来ないな」
 僕らは手早く服を脱ぎ、床に脱ぎ捨てていった。そのうち彼が脱いでいくところを見て楽しむような趣向もいいだろうが、今欲しいのは彼の生肌だ。
 どちらが押したか押されたか、とにかく僕らは一緒にベッドに倒れ込んだ。枕をあてたり、体勢を整える暇もなく、彼が僕をうつ伏せにして、その上に身体を滑り上げた。ずしりと重みがあり、けれど暖かくて、とても、とても心地がいい。
 イリヤの唇が肩の骨をなぞる。彼の指が股間をさまよう。僕の脳味噌と男性器の間に、電気ショックのような快感の波動が走り抜けた。
「あ、ア、」
 僕は、呻いた。
「そう……そっ――」

 何だか奇妙だ。気持ち良くはあるが変な気分。以前にも、僕らはこういう事を――頻繁に、大いに楽しんで――していたのは分かっているのに、初めてのデートのようだ。自分の身体は憶えているだろうと僕は考えた。詳細不明なのは、ただ気持ちの上のことなのだと。
 そろりと膝を立て、僕はあられもなく無防備に、彼に自分をさらけ出した。もう何年も前から、こんな危険な程に開けっぴろげなことすらも許せるようになっていたのだ、と胸の奥で声がする。僕の身体全体が、イリヤを呼んでいる。質問するような事はもう残っていなかった。イリヤとこの快楽が、全てを凌駕し敗走させたのだ。
 彼の指が、僕の入り口のところで滑るように動き、それから彼の漲りの先端が、強く押し付けられたのを感じた。こう来るには早すぎる気がして戸惑ったが、でもイリヤは絶対に僕をつけたりしない。記憶がなくても僕には分かっているし、信じている。
 彼のが僕に当てがわれる。彼が、入ってきて、そして、奥深くに沈み――僕の身体がそれを受入れると同時に、ゆっくりと動きだす。
 彼のそれは、思った以上にきつく感じられた。四ヶ月も経って、僕の身体はまだこんなに強ばっている。でも彼はどう動けばいいか知っていて、押し広げられる衝撃は、痛みよりも快楽の方が強かった。ああそうだ――僕は女ったらしだったし、彼が、僕に教え込んだんだろう……こうやって。

 腰に置かれた彼の手が、互いの股間のものがぶつかり合うほどに僕を引き付ける。完全に乗りかかられ、めいっぱいに彼を受入れる。僕の内部が彼で満たされる。
 一定のリズムを刻みながら、彼の手が下に回り、僕の昂ぶりを捉えた。腰を使いながら、もう一方で唇が背筋をくすぐる。強烈な快楽に、喘ぎが口をついて飛び出す。
 速度を上げて大きく突上げられ、また扱き上げられるごとに、僕はどんどん絶頂に追いやられて行った。僕らは同時に絶頂し、彼の熱い迸りが僕の中で溢れると同時に、彼の強い掌が僕を絞り出した。

 彼の腕に抱かれて横たわる。少し痛みがあるが、完全に安らかな、またこれ以上無いほど満たされた気分で。唯一残っていた質問が、胸の中に湧き出して来た。
「――僕が、ボトム(される方)だったの?」
 イリヤの舌が、耳殻を丸くなぞる。
「僕がどっちが好きだったか思い出すまでは、そうしていれば」
 僕は彼の喉元に口接けた。
「それじゃあ思い出すきっかけにならないな……」

Nowhere Near The End

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