..Only A Beginning..
by Elle Shukugawa

 壁に取り付けられた銀のカランとシャワーヘッドが、細い窓から射し込む光を弾いていた。
 白と黒のチェッカー模様のタイルに、クラシカルな足付ほうろうびきのバスタブ、シャワーカーテンを引かなくてもしぶきが届かない距離にトイレットと洗面台。オープンシェルフの中にきちんと畳まれたタオルのストックが数セット。
 カランをひねると、勢い良く湯水が吹き出して来た。適温になるのを待たずに頭からシャワーを浴び、髪を十分に濡らしたところで顎を上げる。口を開くと既に熱いぐらいになった湯がたちまち口腔に溢れた。
 軽く口をゆすいでから水を吐き捨て、思わず眉を寄せた。こんなふうに一日二十四時間、たっぷりの適温の湯が出てくるのは実に有り難いのだが、NYの水道水は赤錆とホコリの味がきつすぎる。

 数分後、ほこほこと湯気の立つ身体をバスローブでくるんで、イリヤ=クリヤキンは浴室のノブを回した。無造作に、大股でベッドルームに足を踏み入れる。部屋の真ん中に据えられたベッドの上に、彼に背を向けるような格好でナポレオン=ソロが片膝を立てて座っていた。
 お先にとか何か、普通っぽい言葉をかけようとしたところで、言葉が喉の途中で逆戻りした。
 彼のパートナーは、彼が戻ったのも気付かぬ風に、背中を丸めてベッドの上で朝刊を読んでいた。何か興味深い記事でもあるのか、集中しているときの癖で手を顎にあて、指先で軽く下唇を擦っている。
 察するに、とイリヤはドアの脇に立ったまま考えた。この男は素っ裸で戸口まで歩いて行ったかして朝刊を拾い上げ、ベッドの上に広げて記事を読みながら服を着ようとしたところで記事を読む方にひっかかってしまったらしい。艶のある黒糸で織られたソックスを、片方の足にだけ履いている。
 ナポレオンには服を脱ぐ時はまず上から、着る時は正確に下から初めていく妙にガンコな癖があって、よって今身につけているものと言えばそのくつ下片方だけ、であった。
 視察を続けながらイリヤはむっつりと腕を組んだ。何でこうなんだこの男は。服を着かけたのならちゃんと最後まで、せめてアンダーシャツとブリーフぐらいはつけておくものだ。くつ下だけ、それも片一方だけとは中途半端もはなはだしい。片方がくつ下ばき、片方裸足なんて気分的に落着かなくはないのか?なら最初からくつ下なんぞ履こうとしなければいいのに。
 白いリネンが波打つ中で妙に浮き上がって見えるその黒いくつ下を、いっそ足首を掴んでひっぺがしてやりたい衝動に駆られ、慌ててイリヤは視線を少し上にずらした。
 上半身と比べて妙に白い脚と腿と、その内側に畝を刻んだ脇腹、そして盛り上がった肩の筋肉の造形の見事なこと……ますますいけない。
 上膊部のラインを追うのをやめ、丸めた背中へと移した。晩秋の低い陽射しが、高層階にあるこの部屋の、半ば開いたブラインドを潜ってベッドまで射し込み、薄く焼けた皮膚の上に降り注いでいた。ぴんと張った肌はオリーブ色に、うすいうぶ毛がまばらに白く浮いたように見える。思わず目を凝らしてしまった拍子に、その広い背を幾筋か走る、薄赤い縦線に気がついた。
 イリヤは喉奥で呻き声を殺した。一瞬で顔に血が上ったのが自分でわかる。パートナーの肩に浮いているあのフレッシュな傷痕は――どう考えても爪跡だ。それも間違いなく自分がつけた跡だ。
 彼の脳裏に昨夜の出来事が、皮膚の感触も含めて全て生々しく蘇る。あの手が自分の身体の隅々をさまよい、背中から肩を捕らえていた腕が腰に回されて……それから息もつけなくなるほど揺さぶられ内部を突き上げられ掻き回されて、あの背中にすがり付き、目の前に晒された首筋に熱い息を吐いて、あの――。

「イリヤ、」
 いきなり名前を呼ばれて、彼はぎくんと背中を壁から浮かせた。
「君の視線には電流が流れてるね。首のここんとこがピリピリするよ」
 ナポレオンがまだ背中を向けたまま、片手で首の後ろをぽりぽりと掻いた。完全に声をかけるタイミングを逸したイリヤには、今更返事のしようがない。
 相手の男が大儀そうに身体を回し、片っぽくつ下だけの妙な格好で優雅にベッドの上で脚を組む。その表情は問いたげでもあり、また単に面白がられているようでもあり、どちらにせよイリヤはむっとした。
「いつから気が付いてた?」
「バスルームを出てきた時から」
 事も無げにナポレオンが答える。
「君に男の後ろ姿を鑑賞する趣味があったとは知らなかった」
「!馬鹿ぬかせ」
 ナポレオンの唇が更に綻ぶ――おや、そうなの?
「あんたのダラシない格好に苛ついてただけだ、あんたの……」
「僕の?」
「あんたの、くつ下が……」
「くつ下?」
 イリヤは口をつぐんだ。言い訳しようとすればするほど、せっせと恥の上塗りをしている気がする。
「僕のくつ下がどうかした?」
「――別に。なんでもない」
 ナポレオンは、ほんの数秒ほどきょとんとしていたが、
「あ、そう」
 ばさばさ、とベッドの上に広げた新聞を4つに畳み、ナイトスタンドに放った。そしてひょいと身を屈め、片方のくつ下を足から抜き取った。ぎょっとしているイリヤに、ナポレオンが視線で呼びかける――おいでよ、相棒。君の場所は空けたから。
 広い肩が、厚い胸が、鈍い金の光を放つ肌が自分を誘っている。イリヤはようやく詰めていた息を吐き出し、肩から力を抜いた。
「……チェックアウトの時間は分かってるよな?」
 無遠慮に注がれる視線を正面から見かえしながら、イリヤは彼に歩み寄った。
 どうせ抗いようがないのなら、いっそ思いきり従順になってやろうか?そうすれば少しは、この忌々しい男の意表を突いてやれるかもしれない。

◆おしまい◆

A SOCK-END
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