Act-2

「よし、僕に捕まって」
 ナポレオンが言う。
「君にフロ場で溺死されたくないからね。そんなみっともない報告書を書かなきゃいけないかと思うと」
 彼はイリヤを両腕で支えると、注意深くバスタブの縁に寄りかからせた。二人ともがきっちり中に納まると、シャワーカーテンを引き、シャワーの湯栓を開いた。
 イリヤは下を見た。バスタブの底には、よくあるざらざらした小さなデイジー模様が散らばっている。可愛さを狙っているのだろうが、彼にとっては苛つくばかりだ。もちろんそれがあるせいで、身体が滑らずに済んでいるわけだが。
 それでも、ナポレオンは自分に捕まっていろと言った。そしてナポレオンは彼のセクションの主任だ。イリヤは彼に捕まっていた。ナポレオンがお湯の温度を調節している。
「こんなもん?」
 ちょうどいい暖かさまでシャワーを調節したところで、ナポレオンが尋ねてきた。
「Да(ダー:はい)」
 じゃなくて、とイリヤは首を振った。
「Yes」

 ナポレオンがにっこりし、石鹸を手に取った。手の中で石鹸を擦って泡立て、イリヤの肩や胸を、石鹸で洗いはじめる。イリヤは両目を閉じた。間違いなくこれは、アルコールが見せた幻覚だ。でもピンク色の象だのに出てこられるよりは、自分は喜んでこっちを選ぶだろう。
 ナポレオンの手が彼の腹部から股間へと下がってゆき、力の抜けた脚がさらにくたくたとなった。パートナーの腰を掴む手を強くする。一時、彼はナポレオンが何を言ったのか聞こえていなかった。
 そこで心地よい手の片方が身体から離れ、彼の顎を少し傾けてきた。ナポレオンが彼の目を覗き込む。
「イリヤ、」
 ナポレオンがはっきりと言った。
「君のここ、どう洗えばいいかよく分からないんだけど。だから、その、僕等のは微妙に違ってるものだし……君が教えてくれないと」
 最初、彼のもうろうとした頭ではナポレオンの言っている意味が分からなかった。
 『舌でやって』――そう言いたかった。そして危うく口に出しそうになっているのに気がつき、震え上がった。
「ええと……」
 彼はどもりながら言った。
「こんな、感じで――」
 震える手をナポレオンの腰から外し、パートナーの優しい、泡立った手のひらを注意深く、奥の方へと導いた。
 えもいえぬ感覚に喉から呻き声が上がる。しかし彼の男性器は、アルコールのせいで少々麻痺していた。でなければキューの合図と一緒に起ち上がっていたところだ。

 イリヤはもう一度顔を上げ、ナポレオンが自分の顔をじっと覗き込んでいるのを見た。茶色の瞳に自分が映っている。指はまだ優しく、彼のその部分で動いている。存在するのはただそれだけだった。彼は呟いた。
Боже мой(ボージェ・モイ)……あぁナポレオン、ねえ、お願い――」
 もう黙っておこうという気にすらならなかった。ナポレオンが緩い、掠れた息をついた。
 その機会を見て取り、イリヤはその開いた唇を自分のそれで塞いだ。両手がパートナーの腰から外れ、それ自体が意志でもあるかのように、ナポレオンの顔の両側を挟み込んだ。
 彼の頭の中は狂ったように渦を巻いていたが、ナポレオンがキスに応えてきたのが分かった。そして指が――あぁ、指が……。
 彼は唇を離し、両手をパートナーの背中にさまよわせながら、首筋に顔を埋めて夢中でその喉元から上に、また下へと口接けていった。
「――君とやりたい……ねえ、してっ、たらぁ……」
 今夜という日まで、自分にこんな事が言えるとは――夢以外では――到底認められなかったのだが、もう言葉が勝手に溢れ出し、止めようがなかった。

 ぼんやりと、イリヤはハァっという荒い吐息を聴いた。そうして、ナポレオンの手が自分のそこから離れ、動かないよう両手首を捕まれて、身体を押し戻された。
「しぃっ、」
 ナポレオンが一本調子で言った。
「君はどうかしてるんだよ。もうここいらで止めて、ベッドに連れてかなくちゃ」
 もしイリヤが酔っ払っているだけで、こんなに疲れきっていなければ、多分彼は怒鳴り散らしていただろう。でなければ毒づいたり、そのへんの物を投げつけたり、どうしてマット=チャンドラーにできたことが自分には出来ないのかその理由を聞かせろ、と詰め寄っていたかもしれない。
 その代りに、彼は穏やかに、今すぐここで自分とセックスすることに同意するまで、パートナーの顔をお湯の流れているところへ持っていって上向けにしてやったらどうだろう、と考えを巡らせた。彼はそのイメージを頭から追い払い、だるそうに答えた。
「ああ、そうだね」

 彼等は黙ったまま互いにシャワーを使い終えた。ナポレオンは彼を外に出してやり、念入りに身体を拭いてやったあと、自分の身体も拭いた。
 暖かい柔らかなタオルが、それは優しくイリヤの身体に巻きつけられ、年下のエージェントはもう少しでまたおねだりを言いそうになった。
 それから彼はイリヤにパジャマを渡し、袖を通すのを手伝い、歯を磨くように言いつけ、自分もそうした。
 ナポレオンがようやくベッドカバーを引き上げるころには、イリヤは力が抜けてよろけそうになっていた。ベッドに潜り込むと、即座に全身の筋肉がくたくたに緩んだ。
 彼はおぼろげに、横の暖かい身体の感触に気付いた。そして暖かい二本の腕が、彼の身体に回された。彼はうっすらと目を開き、ナポレオンが言った。
「忘れた?もう一方のベッドは酒びたしなんだよ。それにこのベッドは恐ろしくせまっ苦しいから、こうやって身体を絡ませてないとね」
 イリヤは溜め息をつき、底無しに深く真っ暗な、無意識の底へと沈んでいった。


 それから何時間経ったのか、闇は徐々に明けてゆき、思い出せない夢の断片すらも失われ、そしてイリヤはゆっくりと眠りの淵から浮かび上がった。
 目を開けてみると、回りはお馴染みの景色だった。自分のものではないナイトスタンド、その上に置かれた自分の銃、ほぼ目線のあたりに取り付けられた、小さなプレートのメッセージ。彼は目を凝らして、それを読んだ。
『チェックアウトは正午まで』ベッドサイドの時計は、6時20分を指している。

 大きくあくびをし――動いた拍子に何か硬いものにぶつかって、ぎくりとした。ゆっくりと、用心深くふり返り、ナポレオンが横ですーすー眠っているのを目にした。片手でベッドの端を掴み、頭を乗せている枕は、具合よく彼の枕を押しやっていて、彼のはというと具合悪くベッドのもう端から飛び出してしまっている。
 イリヤは目を擦った。ベッドは二台なかっただろうか?右側を見ると、もう一つのベッドがあった。ベッドメイクはされておらず、しわくちゃで乱れたままで、枕がなくなっている。
 ああそうだ、自分は夕べここに座って、酒を飲んでいたのだっけ。それからナポレオンが入ってきて、マット=チャンドラーの名前が出てきて、それで……。
 彼は首を振った。マット=チャンドラーの事は考えたくなかった。しかし、他に何があったのか、はっきりと思い出す事は出来なかった。

 彼は溜め息をついて、パートナーを起こさないよう、そうっと起き上がった。ナポレオンがどうして同じベッドにいるのか見当がつかなかったし、可能性として唯一揚げられそうなことは、あまりにファンタジックで信じられない。それに、だ――自分達はちゃんとパジャマを着ている。
 しかし今は生理的欲求の方が先で、悩んでいる暇はなかった。足取りがしゃんとしているのを、彼は満足げに自覚した。むやみと喉が渇いているのと、忌々しい記憶の喪失を別にすれば、彼お気に入りの《毒》とのおつきあいは、普段と比べそう酷くはないとみえる。彼はちょっと感謝の微笑みを浮かべた。ウォッカはやはりパーフェクトだ。

 イリヤはバスルームの明かりを点け、後ろ手にドアを閉め――唐突に混乱した記憶がどっと押し寄せて来て、その場に立ちすくんだ。
 彼の視線は、磨きたてのぴかぴかの床から、便器のふた、シャワーカーテンへと移っていった。カーテンのひだは少し開いていて、そこからバスタブの底の、ざらざらしたデイジー模様がちらりと覗いていた。
 しばらく、彼は身動きも出来なかった。それから機械的に、トイレの方に歩いて行って、用を足した。用が済むと、便器のフタを下げ、その上にへたり込んだ。突然のパニックに襲われ、彼は麻痺状態になっていた。
 ナポレオンに・知られた。
 昨夜の自分の嫉妬の嵐を、みじめにもシャワーの中でナポレオンに取りすがり、恥ずかしいおねだりをしたことを思い出し、顔面が燃えるように熱くなった。その中でも最悪なのは、パートナーに拒まれたことだ。
 ナポレオンはもう自分がどう思っているか判っていて、ナポレオンはあきらかに男と関係するのにやぶさかでなく、その上でナポレオンは、自分を求めてくれなかった。

 このせいでナポレオンに、もう一緒にはやっていけないと思われたらどうしよう?パートナーを代えると言い出したら?ナポレオン抜きで、どうやって自分はU.N.C.L.E.で働き続けられる?
 悪寒の波に襲われ、彼は支えを求めて洗面台の縁を掴んだ。
 ああ何てこった。ウェイバリー氏が、同性愛者をU.N.C.L.E.で働かせることなど出来ないと言ったらどうすればいい?変態がばれて職場を追われることなどよくあることだ。アメリカ合衆国においてすら、そういう者を擁護してくれる法律はない。
 そして自分の場合は国外退去だって有り得る。母国に送り返され、裁判にかけられ、さらには抹殺されることだって有り得る。ソヴィエト政府は性的異常者に一切容赦しないのだから。
 昨夜まで彼は、それは注意深く、それはもう思慮深くふるまって来た。そして今や、全てを台無しにしてしまったのだ。
 息が浅く速くなり、指先の感覚がなくなるほど、手は突然に冷たくなり、吐き気がして胃は激しくねじくれたりまた戻ったりする。彼はいきなり、このまま永久にバスルームに閉じこもっていたい衝動に駆られた。

 むっつりと、彼はパニック状態から抜け出した。今の所、ナポレオン以外には知られていないのだ。
 どんなに昨日の出来事が恥っさらしで、自分のみっともないふるまいを見たナポレオンに、どれだけ幻滅されたとしても、きっと、きっと彼はウェイバリー氏には言わないでくれるだろう。
 この二年間過ごしてきた中で、イリヤが唯一確信しているのは、自分とパートナーとの絶対的な信頼だ。自分達は互いに背中を預け、互いに秘密を守りあってきた。
 もしナポレオンが、パートナーシップを解消するに越したことはないと思ったなら、彼は絶対に他の、もっともらしい理由をつけてくれるだろう。そしてウェイバリー氏は、かの特務課主任の希望を疑いもなく叶えてやることだろう。自分達には新しいパートナーがあてがわれ……。
 イリヤは手の中に顔を埋めた。ナポレオンに触れることも出来ず、側で働くことがどんなに気が狂うほど辛かろうと、彼から離れるよりはずっとずっとマシだ。

 ようやく彼は顔を上げた。いかにそうしたくとも、永久に便所に引きこもっていることは不可能だ。視線を上げ、洗面台の向うの鏡を覗きこんだ。目つきは物に憑かれた(haunted)ようで、追いつめられて(hunted)いて、顔面は蒼白だった。
 顎には金色の髭が濃い陰を落としてたが、今はこのままにしておくよりなさそうだった。この状態で、レザーを使う自信が持てなかったのだ。彼は勢いよく顔を洗い、冷たい水を一杯飲み干し、それからバスルームを出た。

 ナポレオンはまだ眠っている。イリヤは時計を見た。まだ6時半にもなっていない。
 自分達の乗る便は10時発だ。いつもなら、7時ごろに起きて、ルームサービスの朝食を頼み、空港に向かう時間が来るまで、カードやチェスをして過ごすことだろう。テーブルを窓の方へ引っ張って行って、カーテンごしに(素通しの窓の前に座るのはまずいので)日向ぼっこをしたりして。
 チェスをすると、大概はイリヤが勝った。そうでなくとも、チェス盤を覗き込み、次の手を考えているナポレオンの、真摯な表情を密かに楽しむことが出来た。これがポーカーなら、ナポレオンがよく勝った。ポーカーに勝つには常に運というものが必要であり、ナポレオンがそれに不自由したことなどありそうにない。
 でなければ、読書をしてもいい。イリヤが科学雑誌や小説に没頭している間、ナポレオンはゆっくりと朝刊をめくっていて、時折面白そうな記事を見つけては手を止めて、読み上げたりする。自分達二人は、そうして安らぎと静けさと、互いに寛いだ気分を楽しんだことだろう。
 だが今はいつもの朝ではなく、イリヤにはナポレオンが目を醒ますまで、何をしていいかも分からなかった。その上、目を醒ましたらどうなることかも。

 静かにベッドに近づき、パートナーを見下ろす。相手の顔つきはどこまでも穏やかで和やかで、イリヤはしばしば、眠っているナポレオンの邪気の無さに驚くほどだった。
 他愛なく枕を抱えているこの腕が、男であれ女であれ、金髪碧眼で狂暴なTHRUSHの殺し屋どもの首をへし折ったそれと同じものとはとても信じられない。
 いけないとは判っていたが、多分これが最後の機会になるだろう。彼は手を伸ばして、ナポレオンの耳の生え際の、柔らかな黒髪をそうっと梳いた。眠りを妨げれば、ナポレオンはいつも、即座に目を醒ましてその相手を叩きのめしている。しかしイリヤは、肌に触れたり突然に名前を呼んだりせず、ただ髪に触れているだけならば、相手を起こして防御態勢を取らせることはないと学習していた。
 一度、パートナーになって間もない頃、彼は愚かにもそれをいっぺんにやってしまい、顎に物凄い右クロス・パンチを食らったことがあった。
 気絶する寸前にかいま見た、ナポレオンの仰天した顔を思い出し、イリヤはくすりと笑った。

 今度の反応はそんなに劇的なものではなかったが、それはそれで同じぐらいに驚いた。ナポレオンの腕がさっと伸びて、引っ込めるより先にイリヤの手首を捕らえたのだ。
 ロシア人は反射的に身体を強ばらせ、鋭く短く腕を上げて、手首を解こうとした。しかしナポレオンは掴む手を強くし、まばたきもせずに目を合わせてくる。パートナーの腕を折りでもしない限り、放してもらえそうにない気がした。
「……離せよ」
 彼は囁くように言った。少しおいて、ナポレオンはその通りにした。手は離れたが、彼の目はイリヤを捉えたままだった。その眼差しは、イリヤには見覚えがあった。ナポレオンが誰かを問い詰める時の眼差し。この先輩エージェントが、自分の胸の中の思いをすべて読み取ろうとしているかのような、探るような試すような、それ。
 声もなく、イリヤは見つめ返した。それから、ゆっくりとベッドの縁に腰掛け、もう一度ナポレオンの髪に触れて、額に落ちた髪を梳き戻した。
 彼はしばらくそうしていた。自分はナポレオンに求められなかった――その事を忘れてはならない。けれどナポレオンは、顔を背けも、抵抗も、君はどうかしているんだよとも言わなかった。
 ナポレオンのさらりとした髪に手を置いたまま、イリヤは屈み込んで、パートナーに口接けた。

 昨夜その唇に接吻したのを憶えてはいるが、それは酔っ払って余裕を無くしたキスで、その時の彼はもう激しく興奮していた。今度のキスは、柔らかく、緩やかで、深いキスだった。
 ナポレオンの唇がひらかれて、舌が触れ合って、驚いたように引っ込み、そしてまた、そっと伸ばされて、軽く絡め合う。
 ナポレオンが手を差し伸べて、イリヤの顔を包み込んだ。指先が優しくこめかみを撫でる。ナポレオンの手の平を自分の手で覆い、それから腕へと滑らせ、ゆっくりとまた撫で上げると、コットンのパジャマの布越しに熱い肌を感じた。

 息がつけなくなって、彼は顔を引いて胸いっぱいに息を吸った。ナポレオンはまだ彼を見ている。手を上げてイリヤの喉に触れ、あごの輪郭から窪みにかけて、羽根のような軽いタッチで指を走らせた。イリヤは首を傾け、瞼を閉じた。
「イリヤ、」
 ナポレオンが囁く。
「このざらざらした感じだと、君、まだ……」
「うん、」
 柔らかく答える。その声は掠れて、自分で自分の声だと思えない。彼の手が、思い出したようにナポレオンのパジャマの上着のボタンにかかった。黙々とボタンを外してシャツを広げ、パートナーの上に被さり、胸元にそっと口接ける。
 ナポレオンが吐息をつき、お返しにイリヤのシャツの下に手を入れて、背骨と、引き締まった背筋を辿った。イリヤはもう一度年上のエージェントに口接け、それから唇をゆっくりと指でなぞった。ナポレオンが口を開き、噛み付くようなふりをして指を挟み込んだ。悪戯っぽく目が輝いている。
 嬉しさのあまり、イリヤは声を立てて笑いそうになった。どうにか声は出さずに、ただにやっと笑みを返す。狭いシングルベッドから転げ落ちないよう注意を払いながら、ナポレオンを横に抱き寄せた。ナポレオンは彼に寄り添い、彼等はしばらくそのまま顔を合わせていた。言葉はなく、ただ触れ合っているだけで充分に気持ちが伝わる。

 それはとてもゆっくりで、とても甘美だった。パジャマのボトムが取り去られ、ナポレオンの手の平が内腿へと下がっていく。イリヤはぞくんと身震いした。けだるげに上へ、下へと動くに従って細かな震えが沸き上がり、彼の内部をとろかしていく。ナポレオンが女性にモテるわけだ……イリヤはぼんやりと考えた。こんなに優しくしてもらえるんだから。
 どうにか気を確かにして、愛撫を返す。ボトムを取り去ろうとする彼に、ナポレオンが気を利かせて腰を持ち上げた。イリヤはゆるゆると相手の臀部に手を這わせてゆき、さり気なくその狭間に指を差し入れた。
 ナポレオンの鋭い、感じ入った息遣いに笑みを漏らす。と、相手の舌が、片側の乳首を嬲り、宥めるようにもう片方へと移動して、彼は呻き声を上げた。同時に、ナポレオンの手の平が、ゆっくりと彼の腿の脇を伝い、もう片方の手の指が内側へと滑り込んで持ち上げ、そうっと彼の双珠を弄ぶ。
 どうかなりそうな強烈な快感に、イリヤは喉を鳴らし身震いする。彼はもう何ヶ月も、誰とも愛し合っていなかったし、もちろんの事ナポレオンとは初めてだった。手を緩めてくれと懇願したくとも、もう声にならない気がする。ナポレオンが、からかうように彼の性器の裏側をくすぐり、それから手を添えて、苦痛を覚えるほどゆるやかに扱き上げる。彼の喉をついて出てくるのは、切れ切れの喘ぎだけだった。

 ナポレオンを闇雲に引き寄せると、パートナーの動きをまね、その昂ぶりを手に取り、じっくりと手を上下させた。ナポレオンが喘ぎ、腹ばいになって、イリヤの上に身体を伸ばした。互いの性器が触れ合い、弾き合うその感触。
「――こう?」
 ナポレオンが掠れた囁き声で尋ねる。それが、彼等がやっと交わした言葉になった。
 イリヤは素早く頷き、迎えるように腰を持ち上げた。ナポレオンが後ろに腰を引き、イリヤは彼と目を合わせ、それから二人は同時に動き出した。お互いが気持ちのいいペースを探り出し、お互いの動きを合わせて、刺激を強める。
 二人が達ったのはほとんど同時で、一緒に高い声が上がった。全身を引き攣らせて、ナポレオンがパートナーの肩に歯を立てる。その痛みもイリヤの絶頂感を高めるに過ぎなかった。彼はナポレオンの名を呟きながら、その背中に思いきり爪を立てて引っ掻いた。
 彼らはしばらくじっと横たわって、息を乱したまま、徐々にゆるやかになってゆく互いの心音を聴いていた。頭の中がぼうっとして、イリヤはナポレオンが息をつき、上から退いて、それから自分を抱き寄せベッドの端から遠ざけたのを、ほんの微かにしか意識していなかった。彼は満たされた気分で、眠りに落ちた。

 イリヤがナポレオンにキスで起こされた時には、自分達の乗る便が出発するまで一時間足らずだった。いつものように彼は窓際の席を取った。
 地上の景色が下に広がるのを目にし、離陸の時にいつも感じる、ちょっと目眩のするような、不安定な気分が和らいで来た。と思うと、別の理由でまた戻って来た。隣の席に座っているナポレオンが、左の腿をぐいと彼の右の腿に押し付けたのだ。
 イリヤは注意深く回りを見回し、近くにいる数名の乗客が、自分達をまるで気にしていないのを確認すると、強く押し返した。
 ナポレオンがふっと息を吐き、イリヤの膝頭を揉み上げ、パートナーが抗うより先にその手を引っ込める。頬が熱くなるのを感じながら、イリヤは何か言うことを探した。

「……あんたとマット=チャンドラーの事、全然話してくれなかったな」
 声を潜めて言ったが、通路の向うの赤ん坊の声にかき消されてしまった。彼はそっくり同じ事を、ナポレオンの耳に口を寄せて言った。ナポレオンがシートの中で身じろぎした。
「朝鮮戦争で一緒だったって、話したよ」
 相手も静かに言った。イリヤは目線を同じにして、彼をねめつけた。ナポレオンが視線を落とした。
「だからさ――朝鮮の夜は、寒くてね」
 危うくイリヤは声を出して笑いそうになった。
「ロシアもさ」
 彼は息をついて、言った。
「話してくれても良かったのに。僕がべらべら喋るとでも思ったのか?この二年で、絶対にあんたは僕が、言うなれば《女好き》じゃ無いことに気付いてる筈なんだけどな」
「それは……単に僕がずっと、プライベートを守ってきた、それだけさ。おおっぴらにすれば、トラブルを背負い込むだけだってことを理解してくれなくちゃ。それをネタに脅迫される可能性だってあるし。それにウェイバリー氏――あの人がどう考えているかは知らないし、試してみる気もないね。経費の使いすぎだけでも僕は十分睨まれてるってのに……」
 ロシア人が顔を背け、窓の外に視線を注いだところで、彼は言葉を切った。
「イリヤ?」
 イリヤは激しく息を呑み、それから話した。
「ああ、もちろん誰にも言わないし、ウェイバリー氏には絶対言わない。もしあの人のご機嫌をそこねたら、僕のキャリアも、自由も、生命さえ危ういんだから。それに、君を危険にさらすようなことも誓ってしない。もし君が、今後僕とはやっていけないのなら――」
「何の話をしてるんだ?」
 ぞっとしたようにナポレオンが言った。
「僕は、そんなつもりで――」
「ナポレオン、僕等の間に起こったことは、もう二度と起こらない」
 声を落ち着かせようと、一旦言葉を切った。
「どんなに危険かは、僕だって知って……」
「また起こったって全然いいんだよ!」
 ナポレオンは少し声を高くし、キャビンを見渡したあと、声をひそめて鋭く囁いた。
「もし無かったら、それこそ君と一緒にやっていけないじゃないか。あんなにいい思いをしといて、僕が君に手も出さないで、ずっと傍にいられるとでも?」
 彼は言い止めて、しばらく大きく息をついた。
「とにかくお互い慎重にならなくちゃって事」

 イリヤはまた窓の外を見た。今度は柄にもなく、満面に広がった笑みを隠すために。突然気がついたのだが、広がる今日の空は雲一つなく晴れ渡っている。ナポレオンがもう一度彼の膝頭を揉み、彼等はしばらく無言でいた。
 もう一つの疑問が、まだイリヤの胸の奥をつんつん突いている。それは忘れて、隣のナポレオンの暖かい身体に意識を集中しようとしたが、無視することは出来なかった。
 とうとう、諦め加減に溜め息をついて、尋ねた。
「夕べは君、どうして奴のところで一晩過ごさなかった?」
 彼はパートナーの……恋人の目を覗き込んだ。
「本当のところ」
「マットと?」
 ナポレオンは愉快そうな顔を浮かべた。
「あの家で奴の奥さんや、お嬢ちゃんたちと一緒は、ちょっと居心地悪かったと思うね」
 イリヤがはっと相手を見た。
「つまり、あんたと彼は何も――でもあんたの話じゃ――」
「何の話?」
 イリヤは少しの間目をきゅっと瞑り、思いだそうとした。
「たしかあんたが――彼のコロンが擦れてついたって……二人が――
 ナポレオンが笑い声を上げ、その声の大きさに、何人かが彼等の方を振り返った。彼は笑い声を、喉が引きつっているような咳に作り変えて、ハンカチで口を抑えた。
「いや単に、別れ際に彼をハグしたんだ。ちょっとばかり長い抱擁だったけど、それだけだよ。彼はもう何年も前に結婚してるし、僕は彼の家族を紹介されて、皆で少しお喋りして、おしまい」
「あっそう……」
 イリヤはぽそっと返事をした。
「君、本気で僕が――」
「そうだよっ」
 彼は必死であたりを見回し、吐き捨てるように囁いた。
「笑うなったら、ナポレオン、頼むから――!」
 その甲斐あってか、ナポレオンはどうにか笑いをこらえてくれた。少しして、イリヤが尋ねた。
「彼は、あんたの最初の男?」
「最初って何の?」
「ナポレオン!」
「はいはい、そうですよ。彼からは何でも教わったからね。……ニューヨークに着くまで、僕等はずっとこの話をしなくちゃいけないの?」
「いや、勿論そんなこたぁない」
 イリヤはちょっと置いて、言った。
「彼の住所覚えてる?」
「へ?」
「彼の住所」
「何でまた――」
「彼氏に、感謝の手紙を出そうと思って」
 ナポレオンはその顔に、ゆっくりとにやにや笑いを浮かべた。
「それはまだしなくていいよ、Tavarisch。僕が知っていることを、君がめいっぱい経験するまではね。そうしたら君は本気で、やつに感謝の念を抱くだろうさ」
 イリヤはまた窓の外を見遣り、大きく息をついた。

VERITAS-THE END

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