FALSEHOODS-3
part 1 / 2 / 3

 イリヤはここに来るのが嫌で仕方なかった。この臭いだけでも気分が悪くなりそうになる――まさに具合が悪くなった時のための場所だというのに。ここは、彼にとって痛いわ苦しいわ、幾晩も幾晩も眠れないわの最悪な場所だった。
 それでも、病院というところはそれなりに役に立つ場所ではある。
「ミスタ・クリヤキン、腕の調子はどうだい?」
 戸口でスプーナー医師に挨拶され、イリヤは作り笑いを浮かべた。
「いいよ。僕の相棒はどんな様子?」
 イリヤは答えながら素早く話題を変えた。自分の腕は間違いなく大丈夫、治りは早い方なのだ。だがナポレオンの方は少々長くかかっている。精神の分野は複雑で、ゆっくり休んで回復を待てば治るというものではない。ナポレオンの記憶は、じりじりするほどゆっくりしたペースでしか戻っていなかった。
「彼は、ありていに言えば外に出たくてウズウズしているよ。退院の準備はすっかり出来ている」
 スプーナーは向きを変え、イリヤは彼について廊下を進んで行った。
「記憶の方は?」
 イリヤは尋ねてみた。
「殆どが元に戻った。ギリギリ九割方というところかな。だが前にも話したと思うけど、彼はまだ幾つかの出来事について、夢と現実をごっちゃにしてしまっている」
 スプーナーが溜息をついた。
「そりゃがっかりもするだろう。例えば、自分は赤いポルシェを所有してると信じ込んでいるんだから」
 イリヤはぷっと吹き出した。
「彼の思い違いは正してくれるんだろう?」
「それは無理だ。この後のことは君に任せることにするよ、彼の友人としてね」
「そりゃどうも」
 イリヤはまた含み笑った。
「やーれやれ、奴さん気落ちするだろうな〜〜」
「全くだ」
 スプーナーは笑って同意した。
「だが他の部分においては全く問題ない。あと何週間かすればまた任務につくことも出来るだろう。ああ、ここだよ」
 スプーナーはドアの前で立ち止まり、ノックした。たちどころにドアが開いて、イリヤは相棒の張り切りように笑みを抑え切れなかった。二人はしばらく何も言わず、スプーナーが咳払いをするまで見つめあっていた。
「まあ、後はご勝手に。さようならお二方、次に来るときはもう少し間を置いてからにしてくれよ」

 医師が出て行くと、ナポレオンが先に喋りだした。
「君がいなくて寂しかった……」
 イリヤはここ数日仕事で他所に行っていたのだが、彼もまたナポレオンに会いたかったし、相手に必要とされているなら帰ってやりたいと気に病んでいた。
「ここにいるだろう。で、用意はいいかい?」
 イリヤが尋ね、ナポレオンは返事のしるしにスーツケースを持ち上げた。
「道案内は任せる」
* * *
 ナポレオンは、自分が赤いポルシェを所有していないと知らされてずいぶんとがっかりしていた。確かにU.N.C.L.E.支給のセダンと比べて、居住性などからすると実用性で劣るにしてもだ。なりが大きくないのは、すなわちパワーを優先して造形されたからなのだ。それはどこか自分の相棒にも似ている。ナポレオンは笑みを浮かべながら考えた。
 彼らの住まいのある地区へのドライブは爽快だった。ナポレオンが戻ってきてから、ひっきりなしに医療スタッフに邪魔されることもなく、初めて友人と二人きりになれた。ここ数週間で初めて、イリヤは幸福感を味わった。しかし、二人の間にはある奇妙な緊張感が漂っている。危機感や気まずさではなく――何かが起こりそうな予感というか。とびきりのご馳走を前にした時の落ち着かなさのような。
 ナポレオンがふとこちらを振り向いた。彼も同じように感じているように思える。
「この数日ずっと君に会いたかったって話したっけ?」
 答えを促すようにナポレオンが尋ねてきた。
「前にも聞いたよ」
 イリヤは前方に注意を払い続けながら答えた。
「僕ら全員が病院のベッドでのんきに過ごしちゃいられないだろう、ナポレオン。僕にはやらなきゃいけない仕事があったんだ。この世界はまだまだ助けを必要としてるのさ」
「へーえ?」
 イリヤはこっそりとナポレオンの方を見遣った。
「まあ……正確には全世界じゃないけど。ニカラグアの支部で、コンピュータに関するトラブルがあって、ウェイバリー氏から解決するよう頼まれたんだ」
「当然、解決したんだろ?」
「もちろん」
 イリヤは運転しながら、ナポレオンの視線がどこか別のところに反れてくれないものかと思った。相棒にこうやってじろじろと見つめられていると、なんだか落ち着かなくなってくる。ナポレオンが完全に回復したわけでないのは分かっているが、助手席に座った時に彼がすることといえば、道すがらにミニスカートを履いた女性をチェックすることだったはずだ。だがナポレオンが、どうもイリヤに向かっているぐらいに、興味をそそられるミニスカ女は出てこない。
 家まではもうすぐだと嬉しく思いながら、イリヤはアパートの駐車場に車を入れた。二人一緒にひとときを過ごすのはいいものだ――ナポレオンがそれを望むとしたら、の話だが。そうでないなら、イリヤは戸口でお休みを言って、彼をそっとしておくとしよう。夕べのひとときを一緒に過ごせる機会はまたあるだろうから。

 彼らはエレベーターで上に昇った。密閉された空間には十分な余裕があるにも関わらず、ナポレオンはぴったりとイリヤの傍にくっついて立った。ナポレオンの部屋の前まで着いて、イリヤは相手が付き合って欲しいかどうかはっきり分からず、少し待った。
「寄っていく?」
 ナポレオンはにっこりと笑って言った。どうやらそうらしい。
「じゃ、ちょっとだけ」
 イリヤは肩をすくめて言った。
「あんたがあまり疲れてなければだけど」
「僕が君と過ごせないほど疲れるって?あるわけないよ!」
 ナポレオンが扉を閉めた音がした。イリヤは振り向いて顔を合わせようとし、近づいて来た相手と危うく衝突しそうになって飛びのいた。ナポレオンの眼の中に奇妙な光が宿っている。暖かく親しげな輝きと、それ以外の何かが。イリヤが口を開きかけた時、ナポレオンにしっかりと抱きしめられた。
「ナポレオン?」
 ナポレオンが笑い、唇に軽く口付けてきた。
「君がいなくて寂しかったって、言った?」
「ああ、何千回も聞いたよ、ナポレオン――
「どれぐらい寂しかったか言った?」
「いや、それは。ナポレオ――
 ナポレオンはもう一度顔を傾けてイリヤにキスをした。少しの抵抗を感じたが、構わずに口付けを続けた。イリヤがその気になるまでには時間がかかるのだ、でも一度火がついてしまえば……。
 イリヤからゆっくりと緊張が抜けるのを感じ、開かれた唇にナポレオンは舌を差し込んだ。憶えのある、官能的な感触。たちまち自分のものが硬くなるのを感じ、パートナーの股間にそれを擦り付けた。同様に昂ぶっている相手のものとぶつかり合い、ナポレオンは隠し切れないやに下がった笑みを浮かべると、唇を離した。
「離れていれば想いは深まるって、その通りだよね」
 そして下の方を見ると、吐息をついた。
「そして別の部分はカタくなるし」
「ナポレオン、話が、」
「どんなにこの時を夢にみたか、とても言い切れないよ……
 ナポレオンは溜息とともにまたそろりと恋人の身体に身体を押し付けた。話しなどしたくない。これ以上時間を無駄にしたくはないのだ。自分達はあまりに長く離ればなれになっていたのだから。イリヤが喋ろうと口を開いた隙に、ナポレオンはもう一度唇を重ねた。
「ぼ、僕は――そのことで、話が……
 ナポレオンに首筋を舌でなぞられていては何も考えられなくなる。ナポレオンに感じやすい場所を見つけられて、イリヤの膝が崩れそうに震えだした。ぐっと堪えながら、ナポレオンを押しのけようとしてみる。
「ナポレオン、あんたに、話さなきゃいけないことがあるんだってば」
「話はあと、行動が先さ」
 唇を求めながらナポレオンが言う。イリヤは抵抗を辞めた。彼に出来るのはもうナポレオン・ソロという名の大波に従って、流れに浚われて、はるか彼方の岸辺に静かに打ち上げられるだけだった。寝室に行く途中で、衣服が解かれて床に落ちるままになった。そしてイリヤは仰向けにされて、ナポレオンがその上に覆いかぶさってきた。手が身体の隅々までを探り、胸へと下りていって、下腹部をそっと愛撫する。
「あぁっ!」
 彼の手がイリヤの性器に伸びて、柔らかく撫で上げた時、イリヤは快感に声を上げた。ナポレオンは慎重に、敏感な先端を露にすると、指先でゆっくりと円を描くように滑らかなそこを刺激した。感じやすいところを攻められ、イリヤはベッドの上で弓なりに仰け反った。
 ナポレオンがくすりと笑った。
「いいかい?」
「ああ……」
 イリヤが息を吐く。
「あ、っ……いい――」
 恋人をこんなふうに乱れさせるのはたまらない、この征服感は何物にも代えられない、とナポレオンは思った。からかうように尋ねてみる。
「止めて欲しい?」
 イリヤが首を横に振った。
「止めるのは話、行動が先……
 屈みこんで相手に口付けながら、ナポレオンは先端を弄っていた手を止め、硬くなった茎の部分をリズミカルに、馴れた手つきで扱き上げていった。空いた方の手では、その下の丸い膨らみの部分を柔らかく揉みしだき、掌の中で転がす。
 頭がおかしくなりそうだ、とイリヤは思った。叩きつけられるような快感はこれ以上耐え切れないほどで、すぐにでも達してしまわなければそのまま弾け飛んでしまうかもしれない。
 イリヤの双珠を弄んでいたナポレオンの手が止まり、指先が裏側の会陰部をなぞっていく。探る指が更に下の、入り口の扉に触れた時、イリヤの身体がぎくりと硬直した。
 ナポレオンは意外に思い、絡めていた唇を離すと戸惑ったように眉を寄せた。
「どうしたの?」
 ナポレオンは囁いた。
「して欲しいんじゃないの?そうだろ?」
 彼は短く、しかし思いをこめて再びイリヤに口付けた。
「僕は君を夢見ていた、君とひとつになるのを……
 イリヤの手が持ち上がり、宥めるようにナポレオンのこめかみに触れた。
「ナポレオン……あんたが思ってるのは……
 イリヤは一旦言葉を切り、苛立たしさを滲ませて眼をぎゅっと瞑った。
「僕が話そうとしていたのはそれなんだ。僕らが前にこうしたことはないんだ」
 ナポレオンが少し身体を離した。
「君の中に入ったことがない?」
 彼は首を振って言った。
「違うよ、僕は憶えてる」
 言い張りながら彼はまた身体を寄せた。熱い吐息がイリヤの唇に当たる。
「君の感触を憶えている」
 熱い内壁が自身を締め付け、イリヤが感じ入った声を上げ、彼の中で達したことを。
 イリヤは相手をそっと押しやった。
「いいや、本当に僕らは今までこんなことをしたことがないんだ。どの点で言っても。僕ら、二人では……
 ナポレオンは呆けたように相手を見ていた。
「つまり、ベッドで、」
 イリヤが言った。ナポレオンは当惑しているようで、イリヤは溜息をついた。これを説明しようとするのは、今の自分達の状況からすると非常に難しい。
「セックスをさ。僕らが……セックスしたことはない」
 ナポレオンが僅かに後ずさる。
「わからないよ、一体何を言ってるんだ?」
「僕が、言うのは、」
 イリヤは深く息を吸い込んだ。
「ナポレオン……僕らは今夜より以前に、キスしたことすらないんだって!」

 ナポレオンは小さく、どっちつかずの笑い声を立てた。
「そんな筈ない。憶えているもの」
 イリヤが首を振った。
「いいや」
 イリヤが危ぶんでいたとおり、ナポレオンはすっかり興奮からさめて、彼の身体からどくと横向けになった。相手の温もり、相手の心地よさから引き剥がされてイリヤは寒さを感じた。ナポレオンは片手で目を覆った。
「君が何の話をしてるのか僕にはさっぱりだ」
「医者が言ったことを覚えている?あんたの記憶は混乱して……本当のこととそうでないことがごっちゃになってるんだ。あんたに使われた薬物は、精神を操られやすい状態にする作用があって、奴等はそれであんたの記憶を消し、誰かにとって都合のいいようなでっち上げの考えを吹き込んだんだ」
 イリヤも横向けになり、わざと相手と身体が触れ合うようにした。
「脱出した時、あんたはまだどっちつかずの状態で、ほんの少ししか記憶を取り戻していなかった。あんたが夢に見ていたことが、あんたにとって現実のことになっちゃったんだ」
 イリヤは身体を傾け、ナポレオンと顔を合わせて囁いた。
「ナポレオン……僕もあんたにとっての『赤いポルシェ』なんだよ」
 真実が染み込んできて、ナポレオンは手を顔から外した。確かに自分は赤いポルシェを夢見ていた。そんなものは持っていないと知って、彼はショックをうけ、少しどころではなくがっかりした。彼にとっては確かなことだったのに――彼とイリヤとが恋人同士だということと同様に。でもそれはただのファンタジーだった。
 では、イリヤとの事もファンタジーだったのか?だとしたらひどい話だが理屈が通る。よく相棒の姿を思い浮かべては自分を熱くしていたのだ。それはちゃんと思い出せる。
 彼のことを夢想しないでいられるものか。自分に一番近くて、一番安心できる人間のことを。部屋やベッドを共有するたびについ反応してしまっていたボディの持ち主を。
「ナポレオン?」
 危うげな響きを含んだ声でイリヤが言った。
「僕の方は、僕らが、その……何でもなかったのを知っている。でも、僕もそうなりたいと思ってる。本当に……それでだけど、あんたはまだ僕のことが欲しい?」
「欲しいかって?」
 ナポレオンは繰り返し、手を持ち上げてイリヤの顎に触れた。
「僕の――赤いポルシェ、」
 掠れた声でそう囁くと、イリヤの上に覆いかぶさった。イリヤ――ずっと夢見てきた相手、どんなスポーツカーも霞むほどの美しい曲線、魅惑的なフォルム。イリヤ一人でポルシェ数千台の価値がある。
 イリヤがナポレオンの手の上に自分の手を重ねると、確かめるようにぎゅっと握った。
「これは現実だ、ナポレオン。ここにいるのは僕で、見せかけでもファンタジーでも、夢でもない。これが僕だよ――君が望むなら」
 彼は屈みこんでナポレオンの掌に口づけると、親指のつけねあたりを軽く舐めていった。
「だってそれが僕の望みでもあるから」
 青い瞳がナポレオンをちらりと見上げ、誘いかけるように首を傾げた。唇がナポレオンの人差し指を咥えて舐め上げる。ナポレオンはうめき声を上げた。
「はあ……」
 荒い息をつき、相手の唇とを隔てる手を引きぬくと自分から唇を寄せて舌を絡めた。口付けはたがが外れたように激しく深く、いままでずっと押さえ込んでいた、夢の中でしか許されなかった情熱に満ち満ちていた。
 唇が離れると、ナポレオンは息を切らしながら尋ねた。
「イリヤ、本気で……?」
 イリヤは返事をしなかった。急に会話するのがもどかしくなり、ナポレオンには直接刺激した方が手っ取り早い、と彼は片足をナポレオンの腿に引っ掛けて引き寄せ、昂ぶった自分自身をナポレオンのそれに押し付けた。
 望んだとおり、ナポレオンは主導権を取り戻すと、イリヤを抱き寄せて胸の上に引き上げた。イリヤの背中にゆるく腕を回す。強引にでなく押さえつけるのでなく、ただしばらく抱いていた。
 ひととき穏やかに相棒の、無防備でいながら落ち着いた表情を伺う。イリヤが自分を信頼して任せきってくれている、それが分かって胸が詰まるような気持ちになった。ナポレオンはイリヤを思いきり抱きしめ、この時を、この気持ちを、残りの生涯かけて覚えこもうとした。だがそもそも忘れたりすることが出来るだろうか?
 彼は相棒の身体の重みや、匂いや、舌触りを楽しんだ後、手を下腹部に向けて滑らせていった。肌の柔らかさに驚きながら、相手の背筋がびくびくと小さく震えるのに顔を綻ばせる。ナポレオンが弓なりになって、お互いの昂ぶりを擦り合わせると、イリヤが声を上げて反応した。ナポレオンは身体の向きを変え、イリヤをあお向けに寝かせて、腹部や肢や腿の裏側を撫で回し、同時に鎖骨の窪みに舌を這わせ、喉へと上がっていって、耳たぶを口に含んだ。
 それから顔を上げてもう一度イリヤと唇を合わせながら、掌で逞しい胸をまさぐった。筋肉の形の沿ってなぞり、乳首を片方ずつ捏ね回す。ナポレオンに小さな尖りを丸くなぞられ、イリヤは身体を震わせた。ナポレオンがそこに顔を寄せ、硬くなった粒を舌で刺激された時にはうめき声を上げた。気をよくしたナポレオンは、口での刺激を続けながら合わさった身体の間で手を下に滑らせて、イリヤの昂ぶりを包み込んだ。
 手でゆっくりと自身を弄られ、イリヤはどうしようもなく追い込まれていく。イリヤがナポレオンの手の中で腰を揺らめかせ始めた時、ナポレオンは体をずらせて、更にぴったりと身体を押し付け、自身の昂ぶりをイリヤの引き締まった筋肉質の腿に擦りつけた。
 イリヤのこんな姿を目にし、これほどに熱くなって、なにものにも邪魔されず完全に情熱のままに動く。そんなことも自分は夢見ていた。だが夢だって?この現実に敵う夢などありえない。なめらかな肌、絹のような金色の毛、こうしている間にも情欲に熱さを増す、血の通った身体。
 二人の動きはいっそう激しくなり、擦れあいもつれ合っているうち、イリヤはもう堪えきれなくなった。口付けから逃れ、相手にもう限界だと告げようとして――既に遅くイリヤはギリギリのラインを越えてしまい、今まで感じたことがないほどの快楽の絶頂へと放り出された。ナポレオンも道連れにして。

 一瞬気を失っていたのかとイリヤは考えた。彼は今何時なのかも、ここがどこなのかも分からなくなっていた。相棒の指が顔を撫でているのを感じて、彼はゆっくりと心地よく意識を取り戻した。両目を開けてナポレオンに向かって微笑む。
「やぁ……、」
 呼吸が元に戻るまでの間、彼がなんとか言えたのはこれぐらいだった。ナポレオンはくすっと笑った。
「うーん、」
 ナポレオンは言った。
「僕がこっちのほうは忘れてないってことがわかってよかったな」
 イリヤが笑う。
「その他に憶えていることは?」
 そう尋ねながら、相棒の胸元をからかうように撫でまわした。ナポレオンはその問いについてしばらく考えこんで見せた。
「まあ幾つかはある。なんたって僕らには朝まで時間があるんだしね。君にはこうしたいって希望はあるの?」
「あんたの博学多才ぶりに頭を下げとくよ。あんたがそうしたいということなら、僕は喜んで何だって、って……といっても……つまり……アレ以外なら……
 イリヤが顔を真っ赤にした。ナポレオンは口元が綻ぶのを抑え切れなかった。時々この男、イリヤはものすごく可愛らしい。
「君が言いたいのは、入れられたりする方のこと?」
 イリヤが頷いた。
「最初のデートでそれはさすがに。まだそこまで行っちゃう心の準備が出来てないし……あまり不確かな約束は出来ない」
「君は何の約束もしなくていいけど、僕はしておくよ。僕等は君がそうしたいと思ったことしかしない、と約束する。これでいい?」
 イリヤはこくりとした。
「それと、もうひとつ約束」
 イリヤの唇に軽く口づけ、ナポレオンは付け加えた。
「ぼくはずっと君の事を好きでいる。イリヤ・ニコヴィッチ君」
 イリヤはにっこりと笑った。
「それだけは憶えていてくれよ――この次に記憶を無くした時には」

THE END



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