FALSEHOODS
by BLONDIE
part 1 / 2 / 3
 彼は、自分が誰なのか全く分からなかった。

 初めて自分自身を鏡で見た時、目の前には知らない顔があった。顔色の悪い、ぼんやりとしたヘーゼルの瞳が、困惑し混乱した視線で自分を見返している。黒い髪の毛は脂っぽく頭にへばりつき、何日も剃っていない髭が顎を覆っていた。どれもこれもに見覚えがなく、まともに考えることも出来ない。彼にはここで何をしていたのかも、『ここ』がどこかも分からないのだ。
 数時間前、気がつくと辺りには三人の死体がころがり、手には銃があった。銃身はまだ熱を持ち、他には誰もいない。自分が彼らを撃った――殺したのだ――そのことを認識しても、彼は何も感じていなかった。後悔も、不名誉も感じず、ただここから逃げ出したいという強い衝動だけを感じていた。
 しかし……なぜ?
 本能的に彼はその場を離れた。本能のまま乗り物のところへ行き、身体の記憶に従って雪上車で雪原や林を走り、ここがどこか教えてくれる誰かの処へと向かっていった。
 生まれてこのかた、こんなにおそろしい気分になったことはなかった、のではないか?

* * *
 イリヤ・クリヤキンは現地で調達したスノーモービルを急停止させ、燃料を少しでも倹約しようと即座にエンジンを切った。ここは木に囲まれていて、雪はさほど深くはなかったが、鼻腔をつんと刺す寒さに変わりはない。確かに寒い、しかし過去最高に寒いわけでもない。シベリアでの一週間の後では、まるでフロリダの島に遊びにきたように感じる。シベリアでは目を刺す突風に涙が滲むほどで、そのあと涙はたちまち氷に変わり、片方の目が凍り付いて開かなくなるほどだった。
 そう、自分ならこの気候にもたやすく順応できる。自分のような寒冷地に馴れている者には大して辛いものではない。しかしナポレオンもそうかと言われれば自信がなかった。それに相棒がどのような状況にあるかを知るすべもなかった。

 ナポレオンが任務中に行方不明になって二週間がたつ。イリヤは彼の足跡を辿って、アラスカにある敵基地まで辿りつき、そこの最高責任者からナポレオンの所在を聞きだした。イリヤは『説得』するのが巧みで、U.N.C.L.E.では教わらない、また許可もされていない『説得術』を知っている。それが有効で相棒のためとあればイリヤは規範など無視できたし、実際効果があったのだ。
 そうして得た情報によって、イリヤはこの北米大陸で最も寒い場所へとやってきた。彼は人里離れた、小規模な前哨基地をあっさりと発見した。焦げ付いた一帯は、真っ白な雪に覆われた中でひどく目に付いた。何者かがこの建物を破壊したが、完全にはやり損ねたのだ。壊されている部分もあるが、建物の主要部分、肝心の部分は無傷で残っていた。誰だかが爆薬を仕掛けておいて、近くで結果も見届けぬまま急いで去ったに違いない。
 イリヤは建物の外側に、まだ時限装置が爆薬と繋がって残っているのを見つけた。発火した様子はなく、時計の仕掛けに水が染み込んで、厳しい寒さが凍りつかせてしまったらしい。イリヤはナポレオンが生存しているという痕跡を、安堵と多少の腹立たしさを感じながら調べていった。だが相棒の気配はここにない。
 彼は数時間を費やして、発見した書類に目を通し、フィルムを引っ張り出し、録音テープを聴いた。敵のやり方は、効果こそなかったが徹底していた。彼らはナポレオンの衣服と装備を剥ぎ取り、それから彼のアイデンティティをも奪い取ろうと目論んだ。そのプログラムは精神的にダメージを与えるもので、ナポレオンほど深いレベルで訓練されている者でなければおそらく効果があっただろう。
 そして誰かが油断して彼への警戒を解いたのだ。ナポレオンの生存本能が目覚め、自分を苦しめていた者を倒して逃げ出した。だが、洗脳の後遺症はどうなっているのだろう?ナポレオンは連絡を試みることなく、その上何処かへと行ってしまった。それはイリヤに、相棒がいい状態にないことを示していた。
 イリヤは出来る限り相棒エージェントの痕跡を追っていったが、見たところ彼は単独ではないようだった。もうひとつの跡が同じ方向へ向かっている。他の誰かが、相棒の後を追っているのだ。急がなくてはならない。

 イリヤは上り坂の少し先までを重い足取りで登ると、ざらざらしたトウヒの幹を背にして、携帯してきた小型双眼鏡を取り出した。坂のてっぺんには小屋があり、煙突からゆっくりと立ち上る煙が中に誰か居ることを告げている。しかしそれは誰だろうか?イリヤはナポレオンがこの隠れ家を見つけ、中に安全でいると考えたかった。当然他の可能性もある。あそこに人の居るしるしは、ナポレオンを追っている何者かのものかもしれないし、単なる一般人かもしれない。
 だがナポレオンはこの方向に来ていて、誰かがこの避難所を見つけたのなら、それは自分の相棒に違いないという気がした。精神状態がどうであろうと、ナポレオンにはいつも幸運が味方してくれる。
 イリヤは何か手がかりは見つからないかと、しばらく監視を続けていたが、あまりいつまでも待ってはいられなかった。じきに日が落ちて、僅かな太陽の温もりもなくなれば気温はあっという間に下がるだろう。彼はアンクル・スペシャルを抜いて脇に隠すと、つねに木が盾になるようにしながらゆっくりと斜面を登りはじめた。小屋まであと五十フィートという所で扉が開き、むさ苦しい姿の男が出てきて、戸口から数フィート離れたところで立ち止まった。
 イリヤは一瞬、男が誰だか分からなかった。乱れた髪形に伸び放題の髭、しかしナポレオンに間違いない。ものすごく散髪と髭剃りの必要があるとはいえ、素晴らしくちゃんと生きている。
「ナポレオン!」
 イリヤは銃をホルスターに収めると、相棒に向かって真っすぐに駆け出した。岩だらけの坂道は新雪に覆われていて歩きにくく、近づきながらイリヤは自分の足元を見るので精一杯だった。あたりは静かで、風もなく、聞こえて来るのは近くの木々で煩く騒ぐ鴉の鳴き声ばかり。牧歌的な、平穏そのもののような情景。
 微かな、しかしあまりにも聞きなれた音がイリヤの耳に届いた。銃の撃鉄を起こす音だ。イリヤが顔を上げてナポレオンと向き合うのと同時に、相棒が引き金を引き、肩を弾丸の衝撃が襲った。撃たれた弾みに彼の身体は仰向けに雪に投げ出された。混乱と苦痛とで頭の動きが鈍り、視線を上げた時には、ナポレオンが上から被さるように見下ろし頭に銃を突きつけていた。
 ナポレオンの手にした銃の台尻が頭に振り下ろされるのを、イリヤはスローモーション画面のように、避けることも出来ずただ観ていた。彼が気を失う前に見た、それが最後の光景だった。

* * *
 新雪を踏む軋むような足音が聞こえて、ナポレオンは振り向いた。
 ゴードン・T・クレイマーが、隠れていた納屋から足早に近づいて来てナポレオンの横で立ち止まると、雪の中に倒れている相手を見下ろした。
「頭を狙って撃てと言ったろう」
 彼は吐き捨てた。ゴードンはThrushの最も新しく、最も昇進を約束されているメンバーだった。
「で……出来ません」
 ナポレオンは口籠った。
「敵意があるようには見えませんでした」
「畜生が!……まあいい、こいつを中に運ぼう」
 ナポレオンは気絶している男を小屋の中に引きずり入れるのを手伝い、小屋の隅の薪が積んである横に寝かせた。彼は動かない身体を、上着の袖に開いた穴から血が染み出しているのをじいっと見つめた。
「ジョン?『ジョン』!」
 その名前にナポレオンは振り向いた。それが自分の名、そう教えられた。『ジョン』――短くてよそよそしくて、その上何も伝えてはくれない。何も書いていない本の空白のページをめくっているようだ、と彼は思った。始まりもなく終わりもなく、もちろん途中もない。空っぽで、混乱だけがある。
 だがこのクレイマーという男は自分のことをかなりよく知っているらしかった。彼が唯一の手がかりであり情報源であり、しぜん彼を頼ることになったのだ。そのクレイマーが、自分の名前はジョンだというのだからそうに違いない。しかし未だに馴染むことが出来ない。
「ジョン!」
「なんです」
 足元に横たわる金髪の男に注意を戻しながら、ナポレオンは小さく答えた。
「こいつを見張っとけ。俺は何か縛るものを探してくる」
 ナポレオンは頷いた。見張るって?彼からどうやっても目が離せないでいるのに。雪景色の中、近づいてくるこの男に危険は感じられなかった。クレイマーに相手は殺し屋だと強く言われたが、危険人物には見えなかった。では殺し屋というのは殺し屋っぽく見えるものなのだろうか?彼が、自分に向かって叫んだのは何だったのだろう?あの呼びかけは?『ナポレオン』――フランスの皇帝がどうしたというのだろう。自分に何か、関係があることだったりするのだろうか。暗号か何かとか?

 クレイマーがロープの束を手に戻って来て、ナポレオンにロープを輪にしたものを投げた。
「おら、こいつで奴の足を縛っとけ」
 ナポレオンは言われるまま跪き、クレイマーがぐったりしている相手をうつ伏せに転がすと、手首を背後でひとまとめにするのを覗き見た。彼は相手の手首の周りにロープを何回か巻きつけ、足首も同じようにして、血の循環が止まらない程度にしっかりと結び目を作った。
「かれは何者ですか?」
 ナポレオンは尋ねてみた。クレイマーは手の汚れをパンツで擦り落としながら立ち上がった。
「KGBだ。こいつは俺たちを殺しに来たんだぜ。見ろよ」
 クレイマーはアンクル・スペシャルを取り出してみせ、ナポレオンが手を延ばそうとするのを振り払った。そして銃を自分のパンツポケットにねじ込むと、その手をナポレオンの肩に置いた。
「コーヒーでも入れてくれねえか、ジョン?」
「いいですよ」
 ナポレオンは微笑もうとしたが、自然には出てこなかった。うわべだけのような笑顔。自分は微笑むことなどなかったのか?忘れてしまった自分の人生でも、ずっと今のように恐れ、戸惑ってばかりいたのだろうか?まるで自分というものが存在せず、何処の誰でもないという感覚は、吐き気を催すほどに気分が悪かった。
 クレイマーにやんわりとキッチンへ追いやられ、彼は大人しく従った。さしあたり自分にはクレイマーしかいない。唯一縋れるのは彼だけで、自分には彼が必要なのだ。

 ゴードン・T・クレイマーは相手が向こうへ行くのを見送りつつ、内心で笑みを浮かべた。実験対象として、ソロは大した値打ちものだ。困難ではあるがその価値はある。クレイマーが施した最初の洗脳プログラムが、彼ほどのU.N.C.L.E.エージェントを打ち負かせたのなら、訓練されていない人間相手なら容易いものだろう。この研究の可能性は計り知れない。もし洗脳状態が続いているうちにソロをThrush中枢部に引渡し、プログラムを完遂できたならThrushはどれだけ機嫌をよくするだろう!
 クレイマーはごく最近Thrushに加わったばかりで、功名心に燃え、何としてでも上層にアピールすることで頭が一杯だった。彼らが自分のところへ、ある申し出を携えてやってきた日はまさに至福の時だった。クレイマーはいつも野心を抱いていたので、予言が現実となって表れたように思った。正に天賦の才能を発揮する場所を与えられたのだ。
 なのに他の者は誰も彼の才能に敬意を示さなかった。勤め先だった大学では、非合法で倫理にもとる実験を行ったというかどで二度非難された。彼の行動には問題があるとされ、研究テーマは嘲笑を受けた。しまいに彼は自分の実験を秘密裡に行うようになり、キャンパスをうろついている学生を説明抜きで被験体にした。それで非常に巧く行ったのだ――あのバカ女が死んでしまうまでは。彼女が精神的に不安定だったことがどうして分かる?彼女が神経症で、ついには勝手に死んでしまうことなど自分に分かるはずがないではないか。
 Thrushは不遇な自分のことを聞きつけ、到底断れない、また断る気も起こらないような話を持ってきた。好きなだけ使える研究費に設備に、さらに肝心の、実験用の人間モルモットまで提供してくれた。
 ソロには相当に手こずらされたが、時間をかけ、彼が調合した各種の薬品を使った結果、U.N.C.L.E.エージェントから自我を奪い、全く白紙の状態にして、記憶を植え付け直せるところまでこぎつけた。プログラムはもうほとんど完成していたのだ。
 そこであの阿呆どもが、すでに怯えきっている相手を何の警戒もせずにいたぶり、からかい始めた。訓練を受けてきた人間は相手の隙を見逃さず、反射的に銃を奪い取り役立たずの阿呆どもの頭を吹き飛ばした。クレイマーが唯一良かったと思ったのは、その時同じ部屋に自分が居合わせなかったことだけだった。部屋の惨状を目にするや、クレイマーは証拠隠滅のため爆薬を仕掛けると、ソロの後を追いかけた。
 それから事態はあまり変わっていない。研究機構のトップに報告を送るのは週に一回きりなのだが、あと四日のうちには連絡を取らねばならず、またそれまでには洗脳の効果も薄れ始めるだろう。もし彼がそれまでにThrushと連絡をつけ、迎えを寄越してもらえれば状況は取り繕えるはずだ。
 クレイマーは、クリヤキンから取り上げたコミュニケーターを凝視した。彼は電子機器の専門家ではないが、それなりの知識はあった。Thrush中枢に繋がる周波数に合わせられたら、数時間のうちにヘリが自分と被験体をここから連れ出してくれる。クリヤキンはそのボーナス、栄光の冠につける羽根飾りのようなものだ。

 クレイマーはコミュニケーターをテーブルの上に置き、腰掛けた。数分してソロが、湯気の立つマグカップを二つ持ってキッチンから出てきた。片方をテーブルに置いた拍子に中身がテーブルに零れた。
「おい、気をつけろ!」
 クレイマーは言い、銀色のペンを庇うように手で囲った。ナポレオンは顎先でコミュニケーターを差して聞いた。
「それは何です?」
 クレイマーはコミュニケーターを持ち上げるとナポレオンに向かって振ってみせた。
「帰りのチケットさ」
 そしてにやりと笑って言った。ナポレオンは何も言わなかった。クレイマーにあれやこれやと尋ねるのはよくないのだ。ナポレオンにはこの男が短気で怒りっぽいのが分かっていた。彼は自分のマグからコーヒーを啜り、捕らえたエージェントの周りをゆっくり歩いた。
 縛り上げた男の身体の下から、血だまりが床に広がっている。ナポレオンはコーヒーを置くとキッチンに取って返し、清潔な布巾を片手に、もう片方の手に配管用のテープを持ってきた。床に寝ている男のところに戻ると、その横に膝をつき布を正方形に折りたたむ。そして血で染まった上着の破れ目を大きく裂き、布を傷口に押し当てた。
 クレイマーは一連の動作を横目で捕らえると、顔を上げた。
「何やってんだ」
 彼はぶっきらぼうに尋ねた。ナポレオンは手当てにかかりきりで顔も上げなかった。
「傷の手当てをしてやらないと、出血で死んでしまいます」
「それがどうした?放っとけばいいさ。そうすりゃ助けがくるまでこのクソ野郎を気にしないで済む」
 ナポレオンがギリっとクレイマーの方を見上げた。目に怒りを湛えている。クレイマーは内心で溜息をついた。今こんな言い合いをしても仕方ない。集中しなくてはいけないのだ。このU.N.C.L.E.の通信機は、Thrushが使っているものより複雑に出来ている。
 クレイマーは肩をすくめると、宥めるような笑みを繕った。
「いいさ。もしお前がこのアカ野郎相手に看護婦さんごっこがしたいんなら、そうしなよ」
 そしてイリヤのコミュニケーターをいじくり回すのに戻った。この道具でThrushと連絡をつけている間、ソロの気をそらせておけるのなら構うまい。
 ナポレオンはまたやりかけていたことに戻った。自分がこうやって手当ての方法を知っていることを半ば不思議に思いながら。彼がテープを手に取った時、ブロンドの男の目が不意に開き、具合の悪そうな、しかし用心深い瞳を向けた。ナポレオンは手にだらんとテープを持ったまま、ブロンドの男が自分の周囲を素早く見渡すのを見つめていた。相手の視線はクレイマーのところで数秒止まり、値踏みするように留まると、ナポレオンの方に戻った。
 ナポレオンは彼が頭を動かした拍子に顔をしかめるのを目にした。彼の側頭部にコブが出来てしまっている。これでは相当頭が痛むのに違いない。ナポレオンは罪悪感で胸が一杯になった。あんなに酷く殴りつけるのではなかった。だからといって、クレイマーに任せていたら今頃この男はカラスの餌になっていたことだろう。
 見知らぬ男は目を瞑って頭を床に落とし、ナポレオンから射すくめるような視線を外した。激しい光を宿し、語りかけてくるような蒼の瞳だった。男は若く見えたが、瞳は人生経験の長さを物語っている。ナポレオンは首を振り、傷口に布を当てる作業を済ませた。ロシア人が目をつぶったまま身じろぎした。
Я ХОЧУ ПИТЬ(ヤ・ハチュー・ピーチ)
 彼は小さな声でそう言った。
「何か持って来る」
 ナポレオンは返事をした。立ち上がってから彼は、自分が外国語を理解していることに気がついた。
「なんて言ったんだ」
 クレイマーは作業に気を取られながら呟いた。
「喉が渇いたと言った」
 クレイマーは苛立たしげに息を吐くと、分解しかけた機械を置いて立ち上がり、負傷した男の所へやって来た。
「よう、金髪の兄ちゃん!」
 ブロンドの男の注意を引くのに、彼は二度足で蹴った。クリヤキンが弱々しく目を開いたところでクレイマーは言った。
「何か飲みたいのか?俺のコレでもしゃぶるか!」
 クレイマーは自分の股間を掴むようにし、卑猥な冗談に独りでげらげら笑うとナポレオンの胸をポンと叩いた。
「何もやるな。こいつは客じゃねえんだ」
 ナポレオンは床に寝ている男を見下ろした。クレイマーは彼をKGBだと言い、彼は確かにロシア語を喋った。しかしナポレオンにはその言葉が分かった、ということは彼もロシア語が話せるのだ。それでは自分は何に当たるのだろう?二重スパイなのだろうか?自分は、一体誰の元で働いていたのだろう?クレイマーは何ひとつ話してくれない。

 ナポレオンがこの小屋に辿りついた最初の日は、記憶の断片が現れては消え、頭の中は混乱してもやがかかったようだった。そこへクレイマーが現れた。初めナポレオンは、また誰か殺すことになるのかと思いつつも相手に銃を向けたが、クレイマーは脅迫をものともせず、両手を挙げて武器は持っていないことを示しながら、お前は事故にあって記憶を無くしたのだと説明をした。二人は友人だ、と彼は言い、彼は仲間で、自分を助けにここに来たのだと言った。
 ナポレオンは銃を下ろし、相手の言うことを聞いた。彼には本当か嘘かを知る由もなく、無防備で気力も萎えていた。それより何より今は友達が、自分を導いてくれる誰かが必要だった。クレイマーは自分のことを、自分では判らない自分のことをとてもよく知っているふうであり、彼を信じる以外に道はなかったし、言われたことを疑ってかかる理由もなかった。記憶もなければまとまったことを考えることも出来なくては、自分にことの真偽を測る物差しはない。
 そうして彼はクレイマーの言うとおりにし、もう物事を考えなくてもよくなったのを感謝した。何かを決めるという責任がなくなって、彼は安心し、少しは落ち着いた気分になった。クレイマーによれば、自分の、もとい二人の仲間が、自分達がいないのに気がつけばすぐ助けに来てくれるので、ここに留まって待っていればいいとのことだった。
 そこへもう一人の男がやって来て、この数日間に言われたことが、突然何もかも疑惑の渦の中に放り込まれたのだ。

 クレイマーがあちこちうろうろし、厚手のコートを着始めたのに彼はぎくりとした。
「どこへ行くんですか?」
 ナポレオンは、急にこのロシア人と二人きりになるのが恐ろしくなって尋ねた。
「連絡をつけにな」
 クレイマーが、組み立て直したペンをちらつかせながら答えた。
「あー…外へ持ってくのさ。そのほうが電波の受信がいいだろうから」
 それに邪魔者がいない。U.N.C.L.E.のエージェントに、自分がThrushと交信するのを聞かれるのはまずいのだ。
「奴が何か面倒を起こしたら、」
 顎をしゃくってクリヤキンを示し、クレイマーは言った。
「もう一度撃ってやれ。今度は脚をな。それで静かになるだろうぜ」
 クレイマーはクックッと笑いながら出て行った。
 ナポレオンは、クレイマーが小屋から数フィートほど離れて行くのを眺めていた。クレイマーが小さな装置に向かって何か喋るたび、寒気の中吐息が白くなって見える。
「――ナポレオン?」
 小さな声に彼は振り向いた。
「何だって?」
 彼は疑わしげに、額に皺を寄せながら尋ねた。
「ナポレオン、君が何も憶えていないのは判ってる。あのクレイマーって男は君が考えてるような奴じゃない。君がこうなったのは奴のせいなんだ。憶えていないだろうけど、君と僕とは友達だ。僕らは二人とも、U.N.C.L.E.って組織で働いている」
 ナポレオンが眉をしかめているので、イリヤは更に続けた。
「U.N.C.L.E.だよ?ウェイバリー氏は?エイプリルやマークは?」
 イリヤは焦れたように息を吐いた。
「ナポレオン、頼むから何とか思い――」
「君は、何でずっとそう言ってるんだ?」
「何が?」
「ナポレオン。何で僕をそう呼ぶ?」
「それが君の名前なんだ」
 ナポレオンは僅かに口元を緩めた。
「ナポレオン?違う、君はまちがってる。僕の名前はジョンだ。ナポレオンなんて名前の奴がいるもんかい」
 イリヤはじりじりして唸り声をあげた。
「へんな名前なのは分かってる。文句ならあんたの爺様に言えよ。それでも何でも、それがあんたの名前なんだ。ナポレオン・ソロ。それから僕の名はイリヤ・クリヤキン」
 ナポレオンは一歩相手に近づいた。
「じゃあ君はロシア人なんだ。クレイマーが言っていたことは本当だった」
「それは奴があんたに話したうちで唯一ほんとうのことだろうな。そう、僕はロシア人、あんたはアメリカ人で、ウェイバリー氏はイギリス人だ。僕らが働いている組織は、国際的な諜報活動機関、正義の味方さ」
 イリヤはいかにも不愉快そうに身体を捩じらせた。
「君と、僕は……僕達はその組織でのパートナーだった。あの男、クレイマーはThrushという犯罪組織の人間なんだ」
「スラッシュ……つぐみ?」

 その瞬間にクレイマーが小屋の中に戻って来た。イリヤはナポレオンに分からせようと、必死で喋りだした。
「ナポレオン、思い出すんだ。あんたの本能を信じろ、クレイマーに言われたことは……うわぁ!」
 クレイマーにブーツで股間を踏みつけられ、イリヤは声を上げた。嘔吐感に胃の中の僅かな中身さえ出てしまいそうになり、彼は横向けになって身体を海老のように折り曲げた。クレイマーは片方の寝床から枕を取り上げた。ナポレオンは一瞬びくりとして、彼がこのロシア人を窒息させようとしているのではと考えた。
「何をするんです?」
「こいつを黙らせるんだ!」
 クレイマーは枕カバーを剥がすと、破った切れ端を手にクリヤキンの脇に屈み、荒っぽく猿轡を噛ませた。
「ほうらよ、このクソ野郎!」
 クレイマーがナポレオンの方を向いた。
「よく聞きな、奴が言ったことは全部嘘っぱちだ!分かるな!?こいつはKGBだ、殺し屋なんだ。こんな奴の言う事なんぞ信じるなよ」
 ナポレオンは眉をひそめた。
「何を話してたか知らないでしょう」
 彼はそう指摘した。
「それが何だってんだ。俺が知ってるのは、こいつは信用出来ないってことだ!」
 ナポレオンはクレイマーから視線を外し、囚人を哀れむようにじっと見つめた。クレイマーはその目つきに気がついた。あまり相手の反感を買うのはまずい。ソロには自分を信用させておく必要があるのだ。彼は怒りを納めると、穏やかにナポレオンの肩に腕を回して引き寄せ、片手でU.N.C.L.E.エージェントの顔を上向かせた。
「なあ、こっちを向けよ。こんなことはすぐに終わる、分かるだろ?落ち着くんだ。明日の今頃には、あんたと俺はどこか居心地のいい、ぬくぬくしたところに座ってマンハッタンでも飲んでるぜ。この野郎が檻の中で干からびてる間にな」
 彼はソロの視線がまたクリヤキンの方へ向いたのを見て、腕を引っ張り注意を戻させた。
「こいつを見るんじゃない。厄介ごとの元だ」
 実際クリヤキンは素晴らしく厄介な存在だ、とクレイマーは考えた。早いところThrushの中枢と連絡をつけるに限る。U.N.C.L.E.のエージェント二人と同じ屋根の下にいては、夜もおちおち寝ていられない。例えそのうちの一人が記憶を操作されていても。しかし他に選択の余地はないのだ。
「連絡はついたんですか」
 ナポレオンは尋ねた。クレイマーは首を振った。
「いいや。どうもこいつの接触が悪いみたいでな」
 喋りながら銀色のペンを振り回すと、もう一度分解に取り掛かった。
「だが俺がどうにかするさ。心配するな」
 彼はソロの方を見たが、U.N.C.L.E.エージェントの注意はまたしても囚人に移っていた。クレイマーはソロの考え深げな沈黙が気になり始めた。
「お前は少し休め」
 クレイマーは命令した。
「用があったら起こすから」

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