by Kate.D
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Act-1
オフィスのドアが勢いよく開き、ナポレオン・ソロが口笛を吹きながら入ってきた。その口笛は、パートナーをまじまじと見たところで中断された。
「ひどい顔色だな!」
ソロはあけすけに言った。イリヤ=クリヤキンが、人を小ばかにするような視線を投げた。
「ああ、おはよ」
もごもごと言い、それから無意識に片手でこめかみを擦りつつ、苛つきながら事務仕事に戻った。
ナポレオンは相手に構わず、デスクごしに手を伸ばし、額に手を当てて熱をみた。イリヤはしかめ面をして手を避けようとしたが、遅かった。
「すごい熱じゃないか」
ナポレオンはパートナーの手からペンをひったくり、機嫌を悪くしたこのロシアンが、何だかわからないうちにその腕を取って、席を立たせた。
「おいで、医務室に行くぞ」
イリヤは手をふりほどこうとした。
「そんなことしなくていい」
彼はやっきになって言った。
「僕はなんともない、ナポレオン。ちょっと頭痛がするだけで、それはさっきから、あんたのせいでよけいに酷く――」
「君は熱があって、医者に見てもらうんだよ」
問答無用の口調で、ソロは言った。
「歩いて行く?それとも抱いてってやろうか?」
「こん畜生!」
上着をひっつかみ、イリヤは、ナポレオンが開いてくれたドアから大股で出ていった。
医務室では、トム=マーフィ医師がイリヤを一目見るや、診察室に行くよう指示し、ナポレオンが彼について入って来ても文句は言わなかった。
中に入ると即、マーフィはロシアンの口に体温計を突っ込み――それは、逆らい続ける相手を黙らすには効果的だった――血圧計を取り出した。
短い診察が済む頃には、イリヤも苛つきが昂じた果てに、すっかり静かになっていた。
「どうです?」
ナポレオンが尋ねた。
「どうやら君が、U.N.C.L.E.中に蔓延しているインフルエンザにやられる番になったようだね、イリヤ」
マーフィは何故か嬉しそうに言った。
「それに君は、すてきに酷い症状になると予想される。看護婦に言って、医務室に君用のベッドを用意させよう」
予想通り、イリヤが叫んだ。
「ここに居る気はありません!」
彼は断固として言った。
「僕は、うちに帰ります」
マーフィが首を振った。
「あと数時間もすれば、君は力が抜けて一人では何も出来なくなるよ。だれか、世話をする者がいないと、」
「僕なら全然……」
ナポレオンが、白熱した論争になるのが目に見えているこの状態に割り込んだ。
「僕が彼を引き受けますよ。僕は二週間前に罹ってますから」
「僕は野良犬じゃない!」
イリヤが言い張る。
「それに僕は一人で大丈……」
彼以外の二人は、互いに同情するような目配せをしあっていた。
「では、この《野良ロシア人》を連れて帰りましょう」
にっと笑いながらナポレオンは言った。
「それでいいですか、トム?」
「ああ、それで結構。看護婦も助かることだろう」
医師は言った。
「こちらへ来たまえ、この数日間に入り用なものを渡しておこう」
1月のニューヨークを襲う、ものすごい雹まじりの雪の中を車で突っ切り、ナポレオンのアパートメントのある建物に車が停まった頃には、イリヤは人の助けがあることを有り難く思いはじめた。熱は危ないぐらいに上がっていて、首が座らなくなってきた。
彼は、ナポレオンの腕に支えられながらエレベータに乗り込んだのをかろうじて意識しており、服を脱がされて、借り物のパジャマを着てベッドに寝かされたのも、ぼんやりとしか憶えていなかった。
そして有り難いことに、不規則に身をもがくことも諦めて、眠り込んだ。
**
次に彼が完全に目覚めた時、ここがどこで、自分が何をしているのか皆目見当がつかなかった。
彼は混乱しながら、見覚えのない部屋の中を見まわした。数秒後、パズルの最初のピースがはまった。
ナポレオン。
それから……
インフルエンザ。
自分が人事不省だったことに気がつき、彼は枕に倒れかかった。ぼやけた記憶の断片はあるが――どれも有り難いものではない――どれぐらい長いこと、ここに寝かされているのかと落着かない気分で考えた。
その時ドアが開いて、ナポレオンが口笛を吹きながら入ってきた。ソロが、パートナーをじっと見た時、イリヤは奇妙な既視感(デジャヴ)に囚われた。
彼は、相手から『ひどい顔色だな!』と言われるのを待ち受けた。しかし、その代りにナポレオンの顔には嬉しげな笑みが浮かんだ。
「ああ、やっと気がついたね?良かった」
彼はベッドに屈み込み、ロシアンの額に軽く手を置いて具合を見、背を伸ばした。
「それに熱も下がってる――ますます結構。ようこそお帰り、Tavarisch。どんな気分?」
イリヤは額に皺をよせて、その質問を真剣に考え込んだ。相応しい回答を出すには、あまりにも選択肢が多いように思えた。
そしてようやく、彼は決定を下した。
「のどがかわいた」
彼は言い、かすれてひび割れている自分の声に仰天した。
ナポレオンは仰天せず、全くの予想通りであるかのように頷いただけだった。
「何か飲み物を持ってこよう。――ほれ、」
彼はベッドサイドから体温計を取り出し、イリヤが機械的に口をあけるまで突き出した。
「それまで、ちょっとの間静かにしておいで」
それから、体温計を口に差し入れた。逆らうには体力が無さ過ぎて、イリヤは頷いた。
ナポレオンは優しげな目をして、相手のくしゃくしゃに乱れた髪を手で梳いた。
「気がついてくれて嬉しいよ、Tavarisch。心配になってきたところだった」
最後に軽くぽんと叩いて、ソロは部屋を出ていった。
イリヤは仰向けになって、ぐんにゃりと回転する天井を見つめながら、どうしてこんなにものを考えるのが大変なのかと思っていた。
戻ってきたナポレオンは、ぐるりを露で覆われた、トール・グラスを持っていた。
イリヤが物欲しげにそれを見つめる。乾ききった喉に、冷たい液体が流れていくことで頭の中は一杯になった。
ナポレオンがグラスを置き、体温計を取り上げた。目盛りを読んで、顔をほころばせた。
「平熱に戻ったね。こう言って構わなければ、いい加減下がってもいい時だと思った」
「どの――くらい?」
イリヤは、どうにかしゃがれ声を出した。
「まる1日と半分だ。座って、ジュースをどうぞ」
イリヤは起きようと身じろぎしたが、相当な努力をしても間に合わなかった。
ナポレオンがベッドの横に座って、片腕を差し入れ、このロシアンが思うには必要以上に優しく、座る介添えをしてくれた時、彼は憤慨したい気分になった。が、それはあまりにも大変そうだったし、一方では……いい気分でもあった。
代りに、彼はナポレオンが唇に持ってきたグラスに顔を向け、頭に来るほど震えている手を伸ばして、グラスを掴もうとした。
ナポレオンは手を離さなかった。
「おいおい、ベッド中にジュースをぶちまけるのは嫌だよ。僕が手伝うから、とにかく飲んで」
じっさい、他に選択はないようなので、イリヤは従った。
最初のひと口で、何もかもがどこかへ飛んでいった。冷たくて……甘くて。まさに神の美酒。こんなに美味なものは味わったことがない。
彼は喉を逸らして、貪るように飲んだ。が、ナポレオンが、数口飲んだだけでグラスを取り上げてしまった。彼はがっかりした。
「最初から飲みすぎないように、Tavarisch。様子をみるだけにしよう」
胃の中が少しばかり暴れだし、イリヤは相手が正しいことを思い知った。彼は深呼吸をして、気分の悪さを鎮めようとした。
ナポレオンは相手の変調を見逃さず、急いでグラスを置いた。
「大丈夫?」
イリヤはどうにか頷いた。
「横になりたい?」
「いや……」
彼は目を閉じて、パートナーの肩に寄りかかり、意志の力だけで胸のむかつきを消すことに集中した。
「まだいい」
「しばらくじっとしておいで」
ナポレオンは、パートナーがもう少し楽な姿勢になるよう身体を動かし、相手の身の震えを注意深く見守っていた。
ついにその甲斐あって、イリヤは溜め息をひとつつくと、身を起こし、目をしばたかせながら瞼を開いた。
「もう平気?」
彼は頷いた。
「ああ、有り難う」
ナポレオンがにやっと笑った。
「こんなに礼儀正しくなるのなら、君はずっと病気してなくっちゃな。ちょっと手を離すから、枕の位置を変えるまで倒れずにいられるかい」
「もちろん」
彼はむっとして言った。しかし、支える腕がそろそろと引きぬかれると、大きくふらついた。
ナポレオンは彼を捕まえ直し、あわれっぽく首を振った。
「OK、片手でも枕は直せるだろう。凭れてなさい」
再び例の、驚くほどの優しげな手つきで、年上の男は彼を抱き支えながら、空いた方の腕で申し分なく枕を縦に重ねて置いた。
そして、彼は詰め物の効いた枕に寄りかかり、その柔らかさにほっと息をついて身体をくつろげた。
「一日と半分、」
また気掛かりになって、彼は言った。
「本当か?」
「それは確かだね。僕が君を連れて帰ったのは、月曜の朝だった。そして今は火曜の夕方だ」
「だけど……」
彼には、ごちゃごちゃになった考えをまとめあげる事ができなかった。驚いたことに、ナポレオンはそれを理解した。
「安心して。仕事で変わったことは無いよ。THRUSHだって、この天気で何かやらかそうとするほど馬鹿じゃないだろう」
「天気?」
ナポレオンが窓の方に顎をしゃくった。灰色の夕暮れ、みぞれが窓に吹き付けていた。
「この数十年来でも最悪の部類に入るような吹雪になってる。街じゅうが完全に遮断されているよ」
嵐。
火曜日。
THRUSH。
何もかも急すぎて、いっぺんには考えられない。
ナポレオンは、彼の表情をじっと見守り、なにひとつ見落としはしなかった。彼は、上掛けを引き上げて裾を整え、手をのばして、安心させるように相手の乱れた髪を梳いた。
「今はあれこれ考えないで。そもそも君はゆっくりしていればいいんだ、他に出来ることはないんだから」
「ふん、」
何も出来ずにここで寝ているという展開は気に入らなかったが、ナポレオンは正しい。他にできることはあまり無さそうだった。
この頑固で、人に頼るのが嫌いな相手が何を思っているのかが非常によく解って、ナポレオンは面白そうににやりとした。
「君は休まないと。もう一度眠れると思う?」
イリヤが彼を睨んだ。
「それじゃほぼ2日間眠っていることになるんじゃないか。寝過ぎだよ」
ナポレオンは賢明にも、口出しは控えた。
「じゃあ何をする?ボッティチェリ?タイムズのクロスワード・パズル?石けり?」
あらゆる可能性から選択を行うには、並々ならぬ時間と努力が必要に思えたが、ついに彼は一つを選び出した。
「シャワーを浴びる」
相手は驚き顔になった。
「シャワー?きみ、本気?」
イリヤは気むずかしげに、鼻に皺を寄せた。
「本気だとも」
ナポレオンが不審げに彼を見る。
「君は子猫ちゃんみたいに弱ってるんだよ、Tavarisch。代りに身体を拭いてあげるのはどう?」
「ナポレオン!」
彼のスラブ気質は、根底からひどく傷つけられた。それを見てパートナーは愉快そうに笑った。
「こんな事は言いたくないんだが、格好つけようとしても遅いよ。君の身体は隅から隅まで知っているんだ、my friend――じっくりとね」
この2日間の、ぼんやりとした記憶がいくつか、恥ずかしいほどはっきりと蘇ってきて、彼は顔じゅうに朱を注いだ。ナポレオンがにやっと笑う。
「気にすることはない、見慣れたモノしか見てないからさ」
イリヤは彼を、また不名誉な記憶のことも無視することにした。
「やっぱり、シャワーが浴びたい」
そしてきっぱりと言った。
口論しても何にもならないと思い知り、ナポレオンは諦めの溜め息をついた。
「まあ、やって出来ないことはないだろうけどね。真面目な話、シャワーの代りに風呂につかることにしないか?少なくとも、君は座っていられるんだから」
イリヤはこの提案について吟味し、そのメリットを理解した。事実、自分はひと所に立っていられないどころか、シャワーの水圧にも耐えられそうにない。
「大変結構だ」
「ありがとうございます、your highness(殿下)。僕は風呂の用意をしてこよう。いい子にしていたら僕の『ゴムのアヒルちゃん』で遊ばせてあげてもいいよ」
彼はパートナーが怒って反撃してくるより前に、ドアから出て行き、すぐにお湯が流れ出る音がした。
溜め息をついて枕によりかかるうち、イリヤから苛ついた気分が引いていった。
自分はナポレオンにずいぶんと世話になった――今になって分かってきたが――そして、それを表現するのはあまり得意ではないのだが、ほんとうにありがたいと思った。
というわけで、年上の男が戻って来た時、イリヤは手を差し出した。
「態度が悪かったのを許して欲しい」
彼は言った。
伸ばされた手を取り、ナポレオンはベッドの端に座って、パートナーを優しく見つめた。
「いいんだよ、おかしなロシア人君」
そして彼の薄い手の甲を親指で撫でた。
「僕は、君が良くなったのが嬉しいだけさ。ほんとうに心配したんだよ。君は全然意識がなかったからね」
「そうみたいだな。看病してくれて、ありがとう」
「パートナーはそのためにいるんだよ」
イリヤが顔をしかめた。
「君は、義務と言える以上のことをしてくれたと思う」
ソロがもう一度優しく相手の手を撫でる。
「そうでもないさ。同じ立場なら、君だって同じようにしただろ」
彼は皮肉っぽく、半ば微笑んだ。
「でも、僕ならもっと文句を言っていた」
ナポレオンが声を立てて笑った。
「たしかに!」
彼は最後に手をぎゅっと握って、離した。
「風呂の加減を見てくるよ」
イリヤの思うところ、今回の『フロ』は、身体を洗うという行為の上で生涯最も記憶に残るものになりそうだった。
まず始めに、彼は弱っていて立つ事もできず、パートナーの両腕にずっしりと寄りかかって、どうにか浴室に行けた。
そして、彼は子供のように服を脱がせてもらい、病気になる前でも、ナポレオンが自分の裸を見たことがあるのは解っているのに、彼に服を脱がされるという親密な行為はこんなに……違って感じられた。
彼の目下の衰えた状態では、考えるのは難しすぎた。イリヤに出来たのは、普段以上に直感的なレヴェルで、感じて反応するだけだった。
パートナーの触れる手に、今までにないほどに反応してしまっている。自分では認めるのも憚られるほどに。
かといって、ナポレオンがわざと彼を、もっと困らせようとしてしているのではない。それどころか、彼は全く丁寧に、思いやりをこめて手を動かしているのだが、その暖かな手つきで、親しげに触れられる度に、イリヤは勝手に身震いしてしまった。
「さっさとやるよ。インフルエンザの上に、風邪までひかないように」
寒いわけではない、と説明しようかと思ったが、それは諦めた。パートナーに触られて、ぶるぶる震えているのを、どうやって寒さの為ではないと説明できようか?
ようやく、ナポレオンは彼を半分抱え、身体を寄せて支え、バスタブの中に浸からせた。
イリヤの頭から熱い湯の感触以外が全て飛び失せ、身体を低くして、満足の長い溜め息をついた。
相手を心配げに見ていたナポレオンが微笑んだ。
「良くなった?」
「
極楽
」
彼は一言こう言った。
「それは結構、」
ソロはタオルを取りあげて、手を拭いた。
「君がしばらく、溺れずにいられるんだったら、シーツを交換して来るよ」
「んん……」
それが十分答えになったらしく、ナポレオンはドアを開け放したまま、浴室を出ていった。
その間、イリヤにはホールを横切り、寝室へと移動する足音が聞こえたが、聞き耳を立てるのをやめて、このありがたい温もりが自分をつつみ、くるみ込むのに身を任せた。
彼はさらにタブの中に腰を落とし、首から上だけを残して浸かり、警戒心も放棄してしまった。彼の瞼がゆっくりと閉じられた。
(あ・あ・あ……)
次に気がついた時には、お湯の中に沈んでしまった自分の腕を、ほぼ同時にナポレオンが掴んでいた。彼は仰天し、咳き込み、すぐに口一杯の湯水を吐き出した。
力強い腕が彼を引っ張り上げて、タブに座らせた。
「くそっ、」
タオルで顔を拭き、どうしようもなく彼がゲホゲホ言っている間、ずっと支えていた。
「君を放っておくんじゃなかった」
ナポレオンは自分を責めていた。
「大丈夫か、Illyusha?」
彼は咳をしながらも頷いた。
「……悪い、」
また引き付けを起こしたようになり、ナポレオンが巻きつけた腕に力をこめた。
「シッ、まだ喋らないで。深呼吸して――そうだ。よし、もう一度、」
ありがたいことに、彼は身体のコントロールを取り戻し、咳をせずに、震えるような長い息を吐き出せるようになった。
「ぼ、僕はもう、平気だ」
彼は言った。
「本当に。驚かせて済まなかった」
年上の男が首を振った。
「君をほったらかして行っちまうなんて、銃殺刑ものだ。申し訳なかった、Tavarisch」
イリヤはかすかに、片頬だけでにっと笑った。
「僕が溺れかけたのを許してくれるなら、君がこの場を離れたことを許すよ。それでどう?」
「いい取引きだ」
青い瞳が、まるで初めて相手を見るかのようにナポレオンの周りをさまよっている。彼はタブの側に膝をつき、湯の中のパートナーの身体を片腕でしっかりと支えて、もう自分がバスタブの中に入っているのと同じぐらいに濡れてしまったのも構わなかった。
イリヤは、濡れたシャツに触れ、心配そうに言った。
「乾かした方がよかないか、ナポレオン。でないと君の方が風邪をひいちまう」
「こっちの方が優先だ」
彼はそろそろと手を離し、ロシアンの身体がまたすぐに倒れていかないのを確かめてひと安心した。
「そろそろ出るかい?」
「まだ身体を洗ってない」
相手が言い返し、ナポレオンは目を丸くした。
「溺れかけておいて気にしないんだな。いいよ、僕が洗ってやろう」
「一人でも出来――」
彼は言い出したが、途中で遮られた。
「僕にやらせるか、ここで上がるかだ」
一本調子で言われた。その口調からして、イリヤは逆らわず従うことにした。
「ああ……それで結構」
彼は後ろに凭れて、目を閉じた。ナポレオンはやれやれと首を振って、ウォッシュ・クロス(ボディタオル)を手に取った。
イリヤは、目は閉じて何も見えなかったが、触覚に全ての感覚が集中してしまったようで、末端神経は苦しいほどに研ぎ澄まされていた。
泡立った、温かなクロスが胸元で動き、喉元に持ち上がり、下がって肩の方へ周り、それから両腕と、両の掌に来る感触……。彼は身体を震わせた。
「もうすぐだから」
柔らかなクロスは、下腹の方へ滑って、少し躊躇してから、股間を洗い、更に下の、まるい部分で一秒……二秒。
恥ずかしいことに、彼はその優しいタッチに、間違いなく反応し感情が沸き立っていた。
それから手は動いて、今度は両脚を擦り、爪先をくすぐった。手が引かれると、彼は計らずしも、何か物足りない気分に満たされていた。
「すんだよ」
イリヤは苦心して目を開けた。
「髪を洗いたいな」
「髪を?ああ……ま、いいだろう。もう十分濡れてることだし。じっとして。僕がやるから」
少しして、イリヤは冷たいシャンプー液が頭の上に垂らされたのを感じ、ナポレオンの両手が髪に触れた。思わず喉を鳴らしそうになるほどに、神経の行き届いた、細やかな指が髪をときほぐす。
「すごく気持ちいい……」
「スパイ稼業に飽きたら、いつでも美容師になれるな」
その手が、彼の頭を固定した。
「洗い流すから顔を下げて。違う、顔をお湯に浸けないよう僕に捕まってるんだ――それでいい」
そして注意深くお湯が頭部に注がれ、泡が彼の裸の胸や背を滑り降りて行った。急に力が抜けてきて、彼はナポレオンの腕に捕まって身体を支えた。
ナポレオンはその様子を見て、支える腕を強くした。
「もう少し頑張って、Tavarisch。すぐ終るよ」
優しい手が、彼の髪を梳いた。
「君の髪は、すごく柔らかいね」
イリヤは瞬きをしたが、何も言わないうちに指が離れ、ナポレオンは立ち上がって、彼を引き上げた。
彼はタブから脚を抜いて立ち、ナポレオンがタオルを取る間、バスマットに水滴を垂らしていた。
その時、不意に全ての明かりが消えた。
彼等は揃って硬直し、本能的にありもしない拳銃に手を伸ばした。ナポレオンが向きを変え、突然の静寂の中にいつになく大きな声を出した。
「様子を見てくる間、ここにいられるか?」
「もちろん」
イリヤは自分が、いつも通りの声が出せたことを喜んだが、鋭い自分のパートナーは少しも騙されなかった。
「ったく、もう。ほら」
暗闇の中で、彼の身体をタオルで包み、そっと後ろへ引き据えて、蓋の締まった便器の上に座らせた。
「じっとしてろ――これは命令だ。すぐ戻るから」
「行けよ」
彼はきっぱりと言った。
「僕は大丈夫だ」
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