#7

 七時きっかり、ナポレオンはイリヤの部屋に着いた。ノックに応えて友人がドアを開けてくれ、ナポレオンは再び、彼のその姿を目にしただけで息が詰まりそうになった。イリヤはなんてきれいなんだろう。何だって二年もかかってやっと気がついたのだろう。
 彼はロシア人の顔立ちに視線をさまよわせ、官能的なバラ色の唇、象牙色の肌、魅力的なシルバーブルーの瞳に浮かぶ知性の輝きに見惚れた。イリヤの美しさは清冽で、月光のように怜悧で、太陽の光のように輝く髪がそれを完璧なものにしている。しかし友人の見た目の美しさより、剃刀のように冴えた頭脳や、痛烈な皮肉を言う所や、勇気や誠実さにソロは惹かれていた。
「やあ、」
 彼は挨拶をし、持参した小さな白い箱を差し出した。イリヤがそれを機械的に受け取った。
「デザート?」
 イリヤが尋ねた。ナポレオンは頷いた。
「イチゴのチーズケーキ」
 イリヤは彼をしばらく見てから、視線を少しきつくした。
「中に何か仕込まなかったか?」
 ナポレオンはその棘のある質問にぐっとなったが、その後でイリヤが少しぐらい意地悪く考えるのも尤もなことだと思った。彼はきっぱり言った。
「いや、次に誰かに媚薬を盛るとしたら自分の方にするよ」
「次の朝には何も思い出せなくなるのに?」
 イリヤは猫の額ほどのダイニングキッチンに入っていくと、チーズケーキを冷蔵庫に入れた。ソロは肩を竦めた。
「それでも一晩はぶっ飛んでいられるだろ」
 イリヤはオーブンを開けて、何かの具合を見ているようだった。
「夕食はなんだい?」
 イリヤがオーブンのドアを閉めた。
「『ジョバンニ』のピザを温めてるだけ。知ってのとおり僕は料理はしないんでね」
「それで構わないよ」
 ナポレオンの目は勝手にイリヤの引き締まった身体に注がれていた。彼はいつもイリヤのジーンズ姿を好ましいと思っていた。形のいい臀部がきっちりと収まっていて、ひどく魅力的だ。彼ははっとなった。そうなのだ――自分はもうずっと、ジーンズ姿のイリヤが素敵だと思っていた。ベッドインした時よりずっと前からだ。自分は何年も、イリヤに対してそんな思いを抱いていたのだろうか?だがイリヤが自分のものにはならないと分かっていたから、意識して考えられなかったのだろうか?

 何てことだ。考えていたよりずっと厄介なことになってしまった。

「飲み物を出してもらえるかな」
 イリヤに言われてナポレオンは頷いた。
「わかった」
 そう言って彼は冷蔵庫の所へ歩いていった。
「ピザにはルートビール、コーラ、オレンジジュースと何にいたしますか?」
 彼はフランス人シェフのアクセントを真似て尋ねた。イリヤが唇の端を上げた。
「ルートビールで結構」
 イリヤが言った。ナポレオンは二人分のルートビールを注ぐと、食卓は相変わらず新聞や科学雑誌で散らかっているので、リビングのコーヒーテーブルに運んだ。とはいえリビングルームの方も大して片付いているとは言えない。ナポレオンはぐるりを見回すと、改めて使い古された家具に目を止めては笑みを浮かべた。イリヤは徹底した倹約家で新しいものを買い込んだりせず、古い本棚には本がぎっしり詰まっている。ふと彼はこの前この部屋に来た時のことを思って胸を詰まらせた。イリヤがソ連へ戻ることになった前の晩、ナポレオンはテーブルの上に青酸のカプセルを見つけた。ウェイバリー氏の計画が上手く行っていなければ、イリヤはそれを服用する気だったのだ。どんなに危ういところで自分は友人を永久に失ってしまうところだったか……
 少ししてイリヤもピザを持ってリビングにやって来た。
「あんたがいつも食べてるようなご馳走じゃないけど」
 飲み物の隣にピザを置きながら、ロシア人は言い訳をした。
「いいって。ジョバンニのピザは好きだよ」
 ナポレオンは安心させるように言ったが、イリヤと一緒に食事できるのならネコイラズだって食べてみせる、と付け加えはしなかった。彼は相棒がピザカッターで丸い土台を切り分け、スライスしたものを紙皿に滑り落とすのを見ながら、彼の手はなんて力強く美しいんだろう、と考えてしまっていた。
(ああ、全くもって重症だ!)

 何か話さなくてはと思い、ナポレオンは言った。
「今日ウェイバリーさんと話はした?」
 イリヤがこちらをちらっと見た。
「なんでそんなことを聞くんだ?」
 用心深げにイリヤが尋ねた。ナポレオンは宥めるように両手を広げた。
「いや、ただ君がマレンコフに国籍を剥奪された件で、あの人が何か手を打ってくれるんじゃないかなと思ってさ」
「ウェイバリーさんには手紙と写真を渡した」
 クリヤキンは固い口調で言った。
「この件についての資料は全て、いつか僕の潔白を証明する時に備えて保管しておくと言われたよ。具体的なことは分からないが、僕の国籍については何か手を打ってくれるらしい。でもどっちみち、僕は二度と母国に戻れないだろうな」
「今は駄目だろうね」
 ナポレオンも同意した。
「でもマレンコフが永久にKGBのトップでいるわけじゃない。奴が死ぬか引退するかすれば、ウェイバリーさんはきっと君の汚名を晴らしてくれるよ。あの人は君のことをとても買ってるんだ、イリヤ。君をどうやって大学に通わせ、君がどうやってU.N.C.L.E.に入ったか教えてもらった。あの人は君を死なせたくなかった。だからこんな面倒な手段を取って君を救おうとしたんだ。この状況を招いたのがあの人なら、きっと何とかしてくれるさ」
 イリヤは何も言わなかったが、ナポレオンには相手が完全に自分の言うことを信用していないのが感じられた。それとも、もしかしたらまだ自分に腹を立てていて、この件についてあれこれ話す気になれないのかもしれない。そうだ、何故腹を立てていけないことがある?とりわけ昨夜ナポレオンがあんなことを喋った後で。もしかすると――ナポレオンは突然恐ろしくなってきた。自分がイリヤを本気で想っていることを彼に悟られてしまったのだろうか。
 今のうちに相棒に、自分がおかしな欲望を抱いてはいないと、だから気に病む必要はないのだと話すか、それとも食事が終わるまで待ったほうがいいだろうかと迷っていると、イリヤに突然声をかけられた。
「ナポレオン?」
 ナポレオンの心臓が胸の中で痛いぐらいに鳴った。ついに来たか。心を落ち着けて彼は言った。
「なんだい?」
「あの日の……あの、翌朝に付いた痣のことで聞きたいんだ。二週間前のさ、憶えてるか?」
 ソロは持てる限りの自制心を動員して無表情に頷いた。
「あんたは蜘蛛に咬まれた跡だって言ったけど、あれは本当か?それとも薬の副作用?AP-734には副作用の類は無いはずなんだが」
 緊張した場面であるにも関わらず、ソロは可笑しくなってきてしまった。
「いいや、蜘蛛に咬まれたんじゃないよ、」
 さらに言った。
「でも『たった』二十五歳の男だったとしても、キスマークを見て判らないとは思わなかった」
 ロシア人の瞳にちらりと動揺の光がよぎった。ナポレオンはクリヤキンにほんの少しだけ勝ち誇った笑みを浮かべた。
「数週間前、ウェイバリーさんから君の本当の年齢を教わったんだ」
 クリヤキンはむっとしたらしく、はぐらかすように言い返した。
「あんたは僕に何歳か聞かなかったろ。それに、キスマークとやらもさっぱり分からない。あんたは僕に何をしたんだ?」
 疑り深げに目を細めながらイリヤが追求した。ナポレオンは吹き出さないようにするので必死だった。
「あぁイリヤ、少なくとも君がその若さでどうやって博士号を取ったのかは分かったよ」
「どういう意味だ?」
 イリヤが噛み付いた。
「きっと君は青春時代をひたすら学問に費やして、もっと実りのある目的には使わなかったんだろ」
 イリヤは自分が侮辱されたのかそうでないのか測りかねているようだった。そしてとうとう返事はしないことにして、ピザを口に運んだ。ナポレオンも食べようとしたが、食欲は湧いてこなかった。イリヤが招待してくれたのは、自分を殺すつもりだからでは、などと思い悩みながら半分冷めてしまったピザを幾切れか口に入れたのち、ついにこれ以上生殺しの状態は耐えられない、と決心した。
「そろそろ話し合いをしようと思うんだけど」
 ピザを皿に戻し、ナポレオンは言った。
「何について?」
「分かってるんだろう。僕らがパートナーであることについて、それと僕らが友人であることについてだよ。僕は二週間前のことで、そのどっちも駄目にしたくない」
 イリヤはしばらく黙っていたが、やっと聞こえるぐらいの声で呟いた。
「それは、僕もだ」
 ナポレオンは、いかにも不承不承口に出されたようなその言葉を聞いてほっとした。
「良かった。少なくともこの点で意見が一致したわけだ。じゃあ教えてよ――僕のしたことを許してもらえるかい?」
 彼は懇願するようにイリヤを見詰めたが、ロシア人の視線は手にしたルートビールのグラスに注がれ続けている。カウチの向こう端にあるランプが投げかける光で、伏せた瞼の下のきめ細かな肌に金色の長い睫毛の影が柔らかく落ちている。ナポレオンはこの穏やかな光が、相棒のささくれた気分を幾らかでも和らげてくれることを願った。クリヤキンがようやくソロと目を合わせた。
「どうしてあんたがウェイバリー氏の計画に従ったのかは理解できる」
 そこで彼は青灰色の瞳を挑みかかるようにナポレオンに向けて、永遠にも思える間言葉を切った。
「だけど、なぜあんたがその後も黙っていたかは理解に苦しむね」
「分かるよ。実際僕もものすごく悩まされた。話すべきだと分かってはいたけど、とにかくそうすることが出来なかった。何が起こったかを知られたら、君に憎まれるんじゃないかと怖かったんだ。悪かったよ、イリヤ」
 彼は縋るような視線でパートナーを見詰めた。
「お願いだから僕を許して欲しい」
 イリヤが頷いた。
「分かった、ナポレオン。君の謝罪を受け入れる」
 ソロは感謝の吐息をついた。
「ありがとう……」
 彼はイリヤに暖かな笑みを向けた。イリヤは落ちついた、真剣な表情でその視線を正面から受け止め、ピザをもう一切れ手に取った。幾らか食欲が戻ってきてナポレオンも食事を続けたが、そこでイリヤが言った。
「なら今度は別の質問だ。僕らは以前のような関係に戻れると思うか?」
 ナポレオンは目を細めて見返した。
「君はついさっき――」
「そうさ、確かに君の事は許したよナポレオン。命を助けようとしてくれたのに何故許せないわけがある?でもそれだからって、二週間前に僕たちが性的な関係を結んだという事実は消せない。僕にはああいう事があって、また元のように戻れるとは思えないんだが、あんたはどう?」
 ナポレオンはしばらく考えていたが、やがてしぶしぶ現実に顔を向けた。その通りだ――自分たちの関係は、良かれ悪しかれ、引き返せないところまで変わってしまっている。
「無理だろうね」
 ナポレオンは認めた。
「僕も同意見だ。一度関係した相手とただの友達に戻るのは難しいと思う」
 ナポレオンは相棒の実務的な、まるで事務仕事をしているような口調に苛立った。このロシア人は、ちょっとぐらい悲しむふりも出来ないのだろうか?
「それで僕に食事を奢ってくれたのかい」
 ナポレオンは固い調子で尋ねた。
「僕を――学生時代の言い方をすれば――『ポイしちゃう』おわびのつもりで?」
 イリヤが顔を上げたが、やがて目を逸らした。
「それは違う」
 彼は言った。
「本当のことを言うと、これはウェイバリー氏が考えたことなんだ」
「何だって?」
「今日の午後写真を持って行って、ウェイバリーさんに言われたんだ。僕たちが揉めているのは分かっているから、関係を修復できなければそれぞれ別のパートナーと組ませるって」
 そこで間があった。
「それに、駄目になった責任は僕にあると人事記録に残しておくとも言われた。何があろうとパートナーと上手くやっていくのも仕事のうちだそうだ」
 ではウェイバリー氏はこのロシア人に何よりも有効な手として、彼の義務感に訴える手段を取ることにしたわけだ。これで納得がいった。ナポレオンは二週間前、ウェイバリー氏にかかればマキャベリだって幼稚園の先生のようなものだと考えたことを思い出した。氏にはこうなることが分かっていたのだ。
「で、僕を夕食に招待するよう言われたの?」
 イリヤが首を振った。
「話をするよう言われただけで、夕食に誘ったのは僕の思いつきだ。いやちょっと違うな、昔からあんたが僕に、何か話をつけたいときによくやる手を使わせてもらったのさ」
 ソロは皮肉っぽく笑った。
「そこまでお見通しだったとは知らなかったよ。どうして言ってくれなかったんだい?」
 ほんのかすかな笑みが返ってきた。
「僕が乗ってやってるだけだと教えたら、もうディナーを奢ってもらえなくなるじゃないか」
 ナポレオンは心底愉快な気持ちになった。
「お悧巧さんだな」

 イリヤが息を吐き出した。
「ナポレオン……僕らの関係についてだけど、言ったとおり僕らが以前と同じに戻れるとは思えない。でも色々と考えてみて、解決法をひとつ思いついた」
「どういう?」
「もう一度ベッドインするんだ」
 彼の声は表情と同じぐらい淡々としていた。
「今度は僕が、自分が何をしたのかすっかり分かった状態で」
 ナポレオンは驚きのあまり、パートナーを見詰めるより何も出来なかった。
「だ、だけどそれがどうして解決になるんだ?」
 ようやくショックから立ち直ると彼は言った。
「ますます事態を悪化させるだけじゃないのか。そもそも昨夜君が出て行ってしまったのは、僕があれを楽しんだって言ったから――
「違うよナポレオン。僕がどうしても認められなかったのはあんたが楽しんだって事じゃなく、僕もそうだったって事だ。僕はAP-734の効能を憶えているし、今日コンピューターで調べてみて僕の記憶が正しいことも確認した。あれは性的な欲求を最大限に引き出すと同時に自制心を失わせてしまう、だけど全く別の人間にしてしまうことは出来ないんだ」
 ナポレオンはまだ当惑していた。
「君は自分がゲイじゃないか不安だってこと?」
 イリヤが肩をすくめた。
「そうじゃない。僕が主に気になる点は、もし僕らが一夜を過ごして……実際にそうなったわけだけど、ああいう感情が今もあるとしたなら、任務の上の関係に影響するものかどうか、って事だ」
 彼の口調は固く、講義でもしているかのようだった。
「思うに、僕らが解決しなければならない問題は、あの一夜のことから始まってるんだ。本当のところ、僕らはお互いをどう思っているのか?あの晩確かに僕たちは性的にかき立てられた、でも今でもそうなのか?でなければ、あれはただのAP-743が引き起こした一過的な逸脱行動だったのか?また二人で組めるようになる前に、そのことをはっきりさせなくちゃいけない。そして僕の意見としては、その疑問を解くにはあの体験をレプリケートしてみることだ、ただ今度は薬とかの影響は抜きにしてね」
 ソロはしかめ面を押し隠した。全くこの陰険なロシア人と来たら、こんな時に科学的検証を持ち出そうって言うのか?いいだろう、そっちがそう来るならこうだ。
「それじゃあ、」
 ナポレオンは冷淡に言った。
「君が言ってるのはこうかい――セックスがしたいんです、と」
 クリヤキンが顔を上げ、一瞬動揺した目つきになったが、すぐに反応を隠してしまった。少し臆してしまったのがソロには見て取れた。
「そうさ……そういうことを言ってるんだよ」
 イリヤは頬を赤くし、羞恥心を隠しきれずに俯いた。今までこれほど子供っぽくて純真無垢に見えたことはない。どうしようもなく欲望に囚われながら、ソロはしばらく無言で相手を凝視していた。
 イリヤは彼の沈黙を誤解したらしく、羞恥を全て消し去った面をぐいと上げ、きつい声で詰め寄った。
「さあナポレオン、あんたの答えは?あんたはしっかり意識のある僕と寝るのはビビっちゃって駄目なのか?あんたの言うなりになる、イタイケな僕の方がお好みかい?」
 ソロは面食らってしまった。
「イリヤ、それは違うよ。勿論違う。あんなふうになった君につけこんで好きにするのは嫌でたまらなかった」
「あんたは楽しんだと言ったじゃないか」
 厳しい目つきでイリヤが言い返した。ナポレオンはうっとなった。
「行為自体は、そうだった。でも状況としてはノーだ」
 クリヤキンはしばらく彼をじっと見て、言った。
「いいだろう、ナポレオン。あんたを信用する。でももしあの行為をそんなに楽しめたのなら、何で今さら躊躇うんだ?」
 ナポレオンには何も言えなかった。自分がどんな風に感じていたか、その違いは言い表せるものではない。ただ彼にノーと言うことは出来なかった。科学的実験であろうとなかろうと、断ることなどできなかった。
「いいだろう、」
 彼は言った。
「やってみようじゃないか」
 イリヤはもう一度目を伏せ、気まずそうに言った。
「もし気が進まないんなら……」
「いや、問題を解決するにはそれしかないというのは僕も同意見だ」
 そうとも、多分それが最上の解決法だろう。セックスしてみて、イリヤがとことんその行為に嫌悪を覚えたら、その時こそ自分は進んで現実を受け入れられる、そしてイリヤと恋人同士になるという夢想を捨てることができるはずだ。
「でも、本当に君はそれでいいの?」
 イリヤが頷いた。まるでこれから一緒に地雷原を突っ切ろうと決めたかのような断固とした顔つきだ。
「ならいいよ。君が確かにその気なら、僕は君の……えぇと、プロポーズを受ける」

 二人は目を合わせ、お互いを見つめ、しかし身動きはしないでいた。どちらも最初に行動を起こすのをためらっているのは明らかだ。おそらくイリヤは相手が先に動くのを待っているのだろうが、ナポレオンにはどうしていいか分からなかった。媚薬が回っているイリヤを誘惑するのでさえ大概大変なことだったのに、こうして凍てついた氷のような瞳に見つめられていては何ひとつ出来ない気分になってくる。
「君に――キスしても構わない?」
 彼は尋ねた。イリヤは硬い表情でこちらを伺いながら、了承のしるしに首を振った。
「あっさり言うことを聞いてくれるのも何だかね……」
 ナポレオンは皮肉っぽく言い、そろそろとカウチの上を移動して身体に触れるところまで近づいた。平静な表情とは裏腹に、震えているのがはっきりわかる。
「まず、君を抱きしめても平気?」
 視線を外してイリヤは機械的に頷いた。ナポレオンはおそるおそる相手を引き寄せ、出来る限り優しく抱きしめた。しかし座ったままの姿勢ではやや納まりが悪い。
「もっとしっかり抱きしめられるように、横になってもらえるかな?」
 そう頼むと、イリヤは素っ気なく答えた。
「お望みなら」
 ソロは一緒にカウチに横になると、友人の身体に腕を回した。頬と頬を合わせてしっかりと抱きしめる。ロシア人の激しい動悸が胸に直に響いてきて、若い彼の冷静な態度が虚構だと教えてくれる。ナポレオンは顔を引き、イリヤの唇に唇を重ねた。記憶にあるのと同じ柔らかさだった。優しく、優雅に、愛情を込めて、数瞬の間口接けると、抱擁を解いた。イリヤが戸惑ったように見上げてくる。
「ねえ?そう悪いもんじゃないでしょ?」
 ソロは囁いた。
「そう……だね」
 クリヤキンははっきりしない声で言うと、ゆっくり上体を起こしてカウチに寄りかかった。ソロは相手の乱れた金髪を丁寧に直してやり、絹のような感触を楽しんだ。相手は逆らいもせず、じいっとナポレオンの顔を見つめている。
「もう一度キスしてみる?」
 ソロが思い切って言うと、イリヤはむっとした顔になった。
「さっさとベッドへ連れて行ったらどうなんだ、ナポレオン?それが肝心な点じゃないのか?」
「そうだね。でも君に無理強いはしたくないんだ。もしこれ以上先に進むのが嫌だったらそう言って欲しい」
 クリヤキンに探るような視線を注がれ、ソロは上辺は穏やかに、しかし相手に分かってもらえることを心底願いつつ、友人の反応を待った。ほんの数インチの近くにいるイリヤが今までで一番綺麗に見える。柔らかな明かりに彼の金髪やクリーム色の肌が照り映え、青灰色の瞳の輝きが胸に突き刺さる。欲望に背筋がぞくりと震えた。
「怖がることなんかないんだよ、イリヤ」
 彼は宥め口調で言った。ロシア人はきゅっと唇を引き結び、言い返した。
「あんたを怖がったりするもんか」
「そうだね、でも自分自身への怖れはあるだろ?」
「それは、たぶん」
 イリヤは認めた。
「でも今気掛かりなのはそれとは別のことだ。今夜の僕は薬の影響を受けてないから、期待してるのと違う結果になって、あんたがひどくがっかりするんじゃないかって点なんだ」
 イリヤがまた科学者口調を使い始めた。冷静で第三者的な言い方、しかしナポレオンは、そのガードの固い態度がどこから来るものなのか分かっていた。
「あぁ、イリヤ、君に対して予想も期待もないよ。ただ叶うわけがないと思っていた夢や望みを抱いていただけで――
 そこで彼は、本音を漏らしすぎたことに気がついて言葉を切った。しかしイリヤの方はショックを受けた様子はなく、驚いてすらいないようだった。そしてロシア人が言った。
「寝室に行こう。そこの方が落ちつくだろう」

 覚束ない足取りで、ナポレオンは相手について寝室に向かった。彼の心はふわふわとして、今起こっているのが夢のように感じられてきた。イリヤともう一度愛し合うこと、それがこの二週間夢に見続けていたことではないだろうか。それにイリヤの態度で、ますます夢でも見ているように思える。これからのことに焦りも恐怖も抱かず、ひたすら冷静で沈着で、まるでラボでの実験に赴くかのようだ。そう、それこそ彼が言わんとしていることではないのか?これは科学的な実験で、それ以外の何物でもない。
 イリヤがブラインドを閉め、尋ねてきた。
「明かりは点ける?消す?」
「消したままで」
 ナポレオンは言った。
「お互いを見るには、リビングからの明かりで十分だろう」
 イリヤは頷き、それから服を脱ぎ始めた。ローファー、靴下、そして上着にシャツ。機械的な、淀みのない動作で。今から直腸検査を受けようとする患者のようだ、とナポレオンは思った。そして突然、何もかもが耐えられなくなった。昨日の夜まで、イリヤを欲しいと思いながら手に入らないことほど辛いことはないと考えていたが、それより酷い事態を今思い知った。イリヤが本心から求めてくれないのに身体を与えようとすることだ。夢に見ていたことは悪夢に変わってしまった。
「イリヤ……」
 彼の声に含まれる何かがイリヤの注意を引いたらしく、ちょうどジーンズに手をかけようとしていたところではたと顔を上げ、眉を寄せた。
「ナポレオン、どうした?」
「……僕には出来ない」
 ナポレオンは喉につかえている物を飲み下そうとしたが、出来なかった。
「こんなふうに君を抱くなんて出来ない。これじゃレイプと変わらないよ」
 イリヤが今度は戸惑った顔をした。
「だけど――前にもしたことじゃないか」
 彼はゆっくりと言った。
「あの時は君が望んでいたから。たとえ……」
 ソロは再び喉を詰まらせた。
「たとえ媚薬の効果だったとしても、それでも君は……僕を求めてくれた。でも今は違う」
 全身から力が抜けていくように感じ、彼はベッドに深く腰をかけた。記憶にある限りでは初めて、彼は徹底的に打ちのめされた気分だった。イリヤがやってきて、隣に腰掛けた。
「ナポレオン、」
 彼は囁き、手を延ばして髪を優しくふんわりと撫でてきた。そして耳打ちした。
「Napolulya……本当にいいんだ。無理強いされてるわけじゃない」
 ナポレオンは顔を上げなかった。
「でも君から求められてもいない」
「違うんだよ」
 イリヤの手が首筋から肩に回り、それから胸に置かれた。シャツ越しに撫で上げてくる。
「僕はそうしてほしいと思っている」
 また囁かれる。
「もう一度君と過ごして――僕の記憶にない、二人で分かち合った夜の出来事を経験したい。あんたがどう感じ、僕が何を感じたのかをはっきりさせたいんだ。分かってくれる?」
 イリヤが胸を撫で、顔を寄せて口接けてきた。唇のはたに軽く、それは優しく。ここで顔を背けるべきだと頭では分かっているものの、身体が言うことをきいてくれない。首を傾げると、二人の唇がまた触れ合った。今度のキスは絡まり合い、探りあうような柔らかな接吻だった。
 悪夢はもう一度夢へと変わった。ナポレオンはイリヤの両肩を捉えると、ベッドに押し付け、次は激しく口接けた。自分の下になったイリヤの肌は暖かく滑らかで、唇は蜜のように甘い。彼の喘ぐ吐息が顔にかかり、少し震えている手がナポレオンの二の腕にすがりつく。そして彼の昂ぶりが存在を主張するように、興奮を露わにジーンズの前を押し上げている。
 ナポレオンは息を乱し、焦るばかりで手順も手管も分からない童貞男になった気分だった。二週間前、イリヤと初めて愛し合った時にもこんな風にはならなかった。あの時は助けたい友人という存在だったのだが、今はあらゆる意味で恋人なのだ。相手と唇を重ねたまま、彼はパートナーのジーンズのボタンを手探りで外し、ジッパーを下ろした。イリヤが息を吐いて無言で抵抗を見せたため、ナポレオンは口接けを中断し相手を見た。イリヤの目は大きく見開かれているが、焦点が合っていなかった。
「あ……あんたも服を脱いでくれなきゃ」
 彼が呟いた。
「ありゃ」
 ナポレオンはすっかり自分の事を忘れていた。まだ靴さえ脱いでいなかったのだ。
「ええと……ちょっと待って」
 しぶしぶイリヤの甘美な温もりから離れると、ナポレオンは起き上がってシャツの裾を引っ張り出した。イリヤも起き上がって手を貸してくれたが、その形のいい手がさまよっていく感触に、ボタンを外す集中力をすっかり奪われてしまった。結局ナポレオンは諦めてイリヤのするに任せた。
 胸元に口接けながら、イリヤが素早く手馴れた仕草でシャツを剥ぎ、トラウザーと下着を引き下ろす。ナポレオンは自分の姿を見下ろしてみて、下半身が反応していないことに少なからず驚いた。それは恐れと……イリヤにとって、これはただの実験であるということを分かりすぎるほど分かっているために、完全にその気になれずにいるらしい。
「失望させた?」
 ナポレオンは小声で言った。
 イリヤが顔を上げた。驚いたことに笑みを浮かべていた。間違いなく面白がっているような笑みだ。
「そんなことないって言わせたいんだろう?」
 そう囁くと、手を延ばして彼のものをそっと掌に納めた。刺激的な感触、この二週間の間焦がれていたその感触に、ナポレオンは思わずうめき声を上げた。
「凄い……」
 手の中で息づきはじめた男性器に、イリヤが感嘆の声を漏らす。
「これが僕の……」
 ロシア人は屈みこみ、柔らかな声で言った。
「あんたはこうされるのが好きなんじゃない?」
 その言葉にナポレオンはぎょっとした。イリヤはためらいがちに、彼のものの先端に滲んだ雫を舐め、それから昂ぶった敏感な肉塊に舌を這わせていった。ナポレオンは再びうめき声を上げた。彼は以前から舐められたりしゃぶられたりといった、口でのプレイが好きだった。でも何故イリヤがそれを知っているのだろう?あの晩自分たちは、他の色々の行為と同様にこういうこともたっぷりやった。しかしマレンコフが送ってきた写真の中にその場面があった記憶はない。
 そこでイリヤの舌が強く動いて、ナポレオンの思考は突風の前の木の葉のように飛んで行ってしまった。強烈すぎるほどの快感に突き動かされ、相手の両肩をぐっと掴む。
「イリヤ……」
 彼は掠れ声で言った。このまま続けられては、幾らもしないうちに達してしまいそうだった。だがそんなにあっさり終わってしまうのは不本意だ。彼はイリヤを押しのけると、きょとんとしている相手の表情を覗き込んで口接け、口腔を舌で擽った。イリヤの唇から自分のものの味がして、その感覚がさらに彼を興奮させた。そしてジーンズの中ではち切れそうになっているイリヤの昂ぶりが、裸の下腹部に熱く押し付けられてくる。
「素敵だ……」
 彼は呟いた。
「本当に――素敵だ」
 そして手を下に滑らせると、ぴったりしたジーンズの上からイリヤのものを愛撫した。イリヤが身体を震わせる。
「ナポレオン……ダメだ……このままじゃもう……
 ナポレオンはにっこりと笑った。
「ああ、それはないよイリヤ。いく時は一緒だ」
 イリヤのジッパーを一気に下げ、ジーンズを引き抜き、その下に何も着ていないのに気づいてナポレオンは少し驚いた。こういう事になるのを最初から計画していたのか?それに――…。
 しかし、イリヤの腕が絡みついて身体の上に引き上げられ、彼の思考は再び飛び散ってしまった。自分たちの性器が擦れ合う感触に、ナポレオンは自然と声を上げていた。イリヤのものが、存在を主張するように自分のものに押し付けられる……あまりに悦すぎてどうにかなってしまいそうだ。そして自分の瞳を覗きこむイリヤの瞳、それは大きく、深い青で、謎に満ちていて……誘われるままにナポレオンは再びイリヤの開いた唇を捉えた。イリヤが口接けに応え、両脚を巻きつけ、更に身体を密着させる。ソロは一度二度と腰をスライドさせた。甘い刺激に陶然となっている最中に、イリヤの手に押さえられた。戸惑う彼にイリヤが囁く。
「中に入れてくれ」
「じ……冗談で言ってるんだろ?」
 ナポレオンは息を呑んだ。イリヤが首を振った。
「そうして欲しい」
 掠れ声で呟く。
「前にそうなったみたいに――あんたのものになりたい」
 柔らかな声でねだられて、ソロは身体の震えが止まらなくなった。二週間前に彼がそうした時は、イリヤから誘ってというより、強引に押し切られての行為だった。なけなしの自制心をかき集め、彼はどうにか冷静になろうとした。
「君に痛い思いをさせてしまう」
「そんなことはない……初めてじゃないんだし、それにこの……
 どう言い表せばいいのかわからないのか、敢えて口に出したくないのか、イリヤはそれ以上言わずサイドボードに手を延ばすと、何かを掴み出し、ナポレオンの手の中に押し付けた。目をやるとそれは『Joy-Lube』と書かれたラベル付きの小さなチューブで、タイトルの下には更に『身体のあらゆる部位に対して安全』と書いてある。潤滑剤、それも一般的な製品ではなく、タイムス・スクエアあたりのうろんなセックス・ショップに置いてあるような代物だ。ナポレオンはびっくりし、愉快になり、と同時に胸がじんとした。
「本気なんだね?」
 彼はどうにかこれだけ言った。イリヤはまたナポレオンの腕を掴むと、頷いた。
「お願いだ……あんたが欲しい」
 その囁きにはどうしたところで逆らえる筈もなく、ナポレオンは震え声で呟いた。
「わかった。ちょっと待って」
 彼はチューブからジェルを搾り出した。毒々しい赤色で、果物のような香りがする。まず掌に、そして今にも弾けそうになっている自身の昂ぶりに。
(こんなことがあっていいのか?イリヤに抱いてくれとせがまれて、僕はその通りしようとしている!)
 以前にもした行為ではあるが、あの時はこんな風ではなかった。二人とも興奮して見境がつかなくなっていて、自分の快楽の追求しか頭になかった。それが今は、ナポレオンはイリヤへの愛情を十二分に意識していて、自分と同じぐらい相手にも良くなってくれることを何より願っている。彼は心の底から、イリヤを傷つけたりしませんようにと祈った。イリヤにほんの少しでも苦痛を与えることなど考えるだけでも耐えられない。
 何の前触れもなしに、イリヤはうつ伏せになると、枕を下に敷いて腰を持ち上げた。あの晩、例の猥褻な写真を見て顔を赤くしていたと同じ人間が、今は易々とその状況を受け入れている。綺麗な背中が誘うような曲線を描いている。その無防備な姿にナポレオンは思わずぞくりと身震いした。象牙のように白く、汚れなく、鍛えられていて、しかも柔らかそうな……。
「準備は出来た?」
 イリヤが喉を鳴らすような声でそう言った。ナポレオンは頷いてから、相手には見えないことに気がついて、しわがれた声で口に出した。
「なんとかね」
 ずいぶん控えめな言い方だ、とナポレオンは皮肉っぽく考えた。自分自身に目をやれば――納まる場所を目指して、今までにないぐらいに昂ぶり、熱を持ち、欲望にテラテラと光っている。
「でもイリヤ、痛かったらそう言って止めてくれ。いいね?」
「もちろん」
 イリヤは反射的に答えると、Joy-Lubeをナポレオンの手から取り上げ、幾らかを指先に取って自身をぬるつかせた。
「早く……『いく時は一緒に』って約束だったろ?でも僕の方はもうあまり持たないかも……」
 その囁きに膝が砕けそうになり、ナポレオンは相手の背後に覆いかぶさった。心臓の音がドクドクと鳴り響き、今にも胸の中で爆発しそうだ。
(イリヤ……なんてきれいなんだ……そして彼の全てが僕のものだ……)
(少なくとも今夜一晩は)

 自分のものを手に取ると、ナポレオンは無理ではないかと思うほど狭くすぼまった、それでいて誘うような入り口にあてがった。イリヤが息を吐いたが、彼を励ますように腰を引き上げた。もう一度押し付けると、イリヤの身体は彼を迎えるようにほころび始めた。驚きと歓喜がナポレオンを包む。ほんの数センチほどだが、それは始まりに過ぎない。呼吸を整え、ナポレオンは更に先へ進んだ。性急に過ぎないよう、相手を傷つけることがないように。
「イリヤ――」
 彼は耳打ちした。
「Illyusha……僕の……」
「ナポレオン……大丈夫……僕は壊れたりしない」
 彼の恐れを読み取ったかのように、イリヤが呟く。
「痛くなんかないから、さあ……」
 ナポレオンは再び腰を進めた。額に浮いた汗が目に流れ込む。そしてまた少し、自分を抑え、震えおののく全身が訴えるまま、荒っぽくやみくもに突き入れて絶頂してしまわないように、ほんの少しずつ、ごくゆっくりと身を沈みこませていく。イリヤの内部に自分のものが納められていくさまは、例えようのないほど刺激的だった。相手の身体の下を探ると、待ち受けていたかのように昂ぶったイリヤのものが手に当たった。それをしっかりと掴んで擦ってやる。
「イリヤ……」
 切れ切れの声でまた耳打ちした。
「君は、素敵だ……」
 彼の腰の動きに合わせてイリヤが身を捩る。イリヤの乱れた吐息、手の中で脈打つ彼自身が、ナポレオンと同様に快感を味わっていることを教えてくれる。ぼうっとした頭でナポレオンは、まるで雷に撃たれたように感じた。これが愛だ。これこそが全てだ。今この時に死んでしまいたい。いつまでもイリヤとこうしていたい。琥珀の中に閉じ込められた昆虫のように、いっそこのまま永久に凍り付いてしまえたら。そう、もしも……。

 腕の中のイリヤがびくりと身体をこわばらせ、彼の全身を絶頂の震えが駆け上っていくのを感じた。そして次の瞬間には、ナポレオンも全身がバラバラに引き裂かれそうな快感とともに昇りつめた。あまりの悦楽に、言葉にならない鋭い叫びを上げ、そうしてイリヤの上に崩れかかった。激しく息を乱し、震え、汗と体液にまみれた姿で。
 彼の下でイリヤも喘いでいる。彼のものはソロの掌で精を吐き出し、ぐったりとなっていた。言葉のない相手の濡れて張り付いた金髪を唇でなぞり、首筋に口接けながらナポレオンは掠れた声で言った。
「じゃ、抜くよ……」
 イリヤはまだ何も言わなかったが、頷いたような気がした。了解を得たと考え、ナポレオンはゆっくり優しく彼の内部から自身を抜き取っていった。イリヤが微かな叫び声を上げた。
「痛むの?」
 イリヤは首を振ったが、はっきりとした事は言わなかった。
「……体を洗ってこなきゃ」
 小声でそう言うと、彼は身体を起こし、ナポレオンが引き止めるより先にバスルームに消えてしまった。ナポレオンは完全に消耗しきって、ベッドカバーの上にばたりと仰向けになった。これで終わった――永久に終わってしまった。
 イリヤがタオルを手にバスルームから戻ってきて、丁寧にナポレオンの身体を拭き清め、タオルを裏返して手についたままの精液も拭き取ってくれた。ナポレオンは何をするのも気だるく、ただぼうっとそれを眺めていた。イリヤは彼の隣に横たわると、キスをした。
「僕の、ナポレオン……」
 幾分はっきりしない口調でイリヤが声を出した。
「知らなかった。今まで――
 そこで言葉は途切れてしまい、ナポレオンは尋ねた。
「知らなかったって、何を?」
 イリヤがほんの少しためらい、そして言った。
「こんなふうに誰かのものになるのがどういうことか、初めてわかった」
 それは一体どういう意味なのだろうとナポレオンは思ったが、口に出して聞く気力がなかった。
「そう、君がいいと思ったなら僕も……」
 そんなことを呟くと、自分の意思とは裏腹に次の瞬間にはもう眠り込んでしまっていた。

#8

 突然ナポレオンは目を醒ました。部屋の中は暗くてはっきりしなかったが、なんとなく奇妙な感じがする。一秒か二秒して、何が変なのか気がついた。横で寝ていたはずのイリヤがいない。それから物音がした。話し声だろうか、隣の部屋から聞こえてくる。ベッドから抜け出し、彼は足音を忍ばせてリビングルームに向かった。
 狭いキッチンで、イリヤが服も着ずに床にしゃがみこみ、柔らかい声で呟いていた。何かの上で手をゆっくりと動かしている。テーブルが邪魔で何なのか分かるまでに少しかかった――それは猫だった。イリヤが可愛がっているノラネコのうちの一匹で、タダ飯にありつけないかとやって来たのだろう。破れ耳の、痩せこけた白黒のオス猫だ。猫はイリヤの脛に体をこすり付けてゴロゴロ鳴き、イリヤは猫を撫でてやりながら低い声で話しかけている。その言葉は――ナポレオンはようやく気がついた――ロシア語だった。イリヤの声は信じられないほどに優しくて、まるで愛を語っているかのようだ。そしてイリヤは綺麗だった。ノラ猫を撫でているイリヤは裸体をさらけ出し、髪はくしゃくしゃで、顎にはかすかに金色の髭が浮いている。
 はっとナポレオンは、いつ何時イリヤが顔を上げてこちらに気がつくかもしれないと思い、ベッドルームに引き返した。ベッドに戻ると、イリヤの魅惑的な姿を脳裏に焼き付けたまま眠りについた。

 次にナポレオンが目を醒ましたのは朝だった。閉じられたブラインドの隙間から差し込む明るい光がベッドに縞模様を描いている。そして自分の横をちらりと見遣り、自分しかいないのが分かった。具合を見るために伸びをしてみて、やるのではなかったと後悔した。身体中が強張っている。いや強張っているどころでなく、ガタガタのボロボロだ。ぼんやりと腕時計を見ると七時半、自分ともあろうものが寝坊してしまった。仕事に遅れ、いや助かった、今日は土曜日だ。この調子では車椅子のお世話にでもならなければ、仕事など出来そうにない。
 のろのろとナポレオンは寝乱れたイリヤのベッドから起き上がった。筋肉が悲鳴を上げたが、無視して服を着る。シャツに皺が寄っていたが、昨日脱いでおいた時点では汚れていなかったし、少なくとも酷く型崩れしてはいない。シャツのボタンを留めながら、彼はほんの数時間前、イリヤが脱がしてくれた時の手つきを思い出してしまっていた。あの手がどんなにか優しげに……。
 そう、自分たちが過ごした一夜は終わった。そしてこれからどうなる?イリヤはそうすることで、自分がパートナーに対して性的な感情を抱いていないことを証明しようとしていた。しかしナポレオンの方は、思いもかけずに真実を暴露してしまった。今や彼は、自分のイリヤに対する劣情が無視できたり、多少時間を置けば押しやってしまえるような類のものではないということを思い知った。なら自分は転属して――イリヤと二度と顔を合わさないような場所へ行くしかない。ロンドンはどうだろう?それともパリ。イリヤにあんたのアクセントはひどいもんだと言われたものだが、フランス語には自信がある。いや、ローマ……それだ。祖父はイタリア人だし、イタリアの人々にはいつも親しみを感じてきた。休暇でもずいぶんイタリアで過ごしたことがあり、外国人としては誰よりもあの国をよく知っているのではないか。
 ナポレオンはリビングに入っていった。そこにはイリヤがいて、くたびれたバスローブを着てカウチに座り、朝ごはんを食べていた。見ればそれはチーズケーキで、開けられた箱がコーヒーテーブルの上に乗っかっている。
「あんたが持ってきてくれたケーキ、旨いよ」
 挨拶もなしにイリヤが言った。
「これどこで買ったの?」
「僕のアパートの近所のベーカリーで」
 ナポレオンはキッチンに行き、パーコレーターに入ったコーヒーがレンジの上にあるのを見つけた。彼はそれを自分でマグに注いだ。
「付け加えれば、朝ごはん用に持ってきたつもりはなかったんだけど」
 イリヤは肩をすくめた。相応しい場合がどうこうより、肝心なのは食べ物そのものだと言わんばかりに。
「一切れ欲しい?」
 イリヤが尋ねた。ナポレオンはリビングに戻ると、カウチにいるパートナーの隣ではなく、椅子の方に座り、相手と距離を取った。
「いや、結構」
 彼は言った。
「この時間じゃ僕にはコーヒーぐらいがせいぜいだ」
 そして例の白黒ぶちの猫がまだいるのに気がついた。まるでこの場所は自分のものだとでも言うように、クッションの上でぬくぬくとしている。
「この猫の名前は何ていうの?」
「僕は『スシ』って呼んでる」
 イリヤは言い、そのあとで説明を付け加えた。
「こいつは生魚が好きなんだ」
 ナポレオンは顔をしかめた。彼は一度スシ・バーに行って、そのあと物凄い腹下しに襲われたことがあった。
「なんて勇敢なやつ……」
 ナポレオンは呟き、再びパートナーに視線を戻した。もう馴染みになった相手への思いに胸が張り裂けそうになる。あと数週間ニューヨークに留まっている間ですら、この感情を抑えておくのは難しそうだった。抑えるつもりになれるかどうかすら彼には自信がなかった。イリヤがチーズケーキにまたかぶりついた。
「今朝の調子はどう?」
 本気で知りたそうに、イリヤが尋ねた。
「あぁ……いいんじゃない?ちょっと節々が傷むけど」
 ソロは素直に言った。イリヤが横目で視線を送ってきた。
「僕もさ。でも正直に言えば、そうする価値はあった」
「それは褒め言葉と取っていいのか、どうかな」
「まあね」
 イリヤが頬張っていたものを飲み下した。
「で、ナポレオン。打ち明けることがある」
 ナポレオンは驚き、コーヒーのマグを置いた。あの一夜の後で、何をまだ打ち明けることがあるというのか?
「何だい」
 彼は聞いた。
「二週間前の、あんたと寝たあの晩……どんなだったか僕には分かってた」
 ナポレオンの胸が激しく脈打ち始めた。
「というとつまり……思い出したってこと?」
 ほとんど呟くようにナポレオンは聞き返した。
「いいや」
「じゃあなんで分かった?」
「昨日の午後ウェイバリー氏の所に行った時、あの晩のフィルムを渡されて、誰もいないところで観るように言われた」
 ナポレオンは仰天した。自分の上司が 権謀術数主義者 マキャベリスト だということは勿論承知していたが、こればかりは別問題で、言い表す言葉も見つからない。一体ウェイバリー氏は何を考えていたのだろうか?
「つまりウェイバリーさんは、僕らがセックスしているところを見ろと命令したの?」
 彼はずばりと言った。
「いや、命令というより提案だった。想像に任せておかしな風に思い込んでいくより、実際にどういうことがあったか知った方が、事実を受け入れやすくなるんじゃないかって言われたんだ。僕には断ることも出来たろうけど、そうしたくなかった。あの写真を見て、あんたから僕らが二人とも……本当に楽しんだと聞かされて、あの晩に何があったのかこの目で確かめたかった」
「まあ……わかった。で、好奇心は満足した?」
「ああ」
 イリヤは微かに頬を赤くしたが、真っ直ぐにナポレオンの方を見て言った。
「フィルムを見て、あんたが正しかったのがわかった。僕らは楽しんでいた、二人ともが」
「それで、昨夜も一緒に寝ようと言ったのか?もう一度そうなるか試すために」
「それだけじゃない」
 今やイリヤはひどくきまり悪がっていた。自分の心情を話さねばならない時にはいつもそうなのだが、腹をくくったように話し続けた。
「あんたが僕と……媚薬が回っていない僕と寝てもいい思いをするかどうかも知りたかった」
「したともさ」
 ナポレオンは呟いた。
「本当に悦かった。最初の時よりも昨夜のほうがずっと」
 ナポレオンは大きく息を吸った。
「お互い告白を続けるなら、僕にも打ち明けることがある」
 この際隠しておいてもそれが何になる?どのみち自分は他所へ行くのだ。正直に言ってしまった方がいい。
「僕は君を愛してる」
 イリヤがきょとんとした顔をした。まるでナポレオンが、全く知らない国の言葉で喋りだしたかのようだった。
「そりゃ、あんたは僕の親友で――」
「ああそうだとも。でも僕は君に恋してもいる」
 ナポレオンは言った。
「どのくらいか教えて欲しい?あの晩、君がロシアに帰される前の日、眠っている君を抱きしめながら僕はウェイバリーさんの計画がうまく行かなかったらどうしようかと不安で仕方なかった。そこで僕は思いついた。朝になって君を飛行機に乗せ、死に追いやってしまう代わりに、君を攫ってカナダへ脱出しようって。U.N.C.L.E.からもKGBからも追われることになるけど、僕らは一流だ。逃げ切れるはずだと」
 クリヤキンは呆れ返った顔をした。
「本気で僕を拉致するつもりでいたのか?あんたがどうやってさ、ナポレオン」
「麻酔弾でも使ってね、イリヤ。計画は全部出来てた」
「それで、カナダに行ってどうするつもりだった?」
 ソロは肩を竦めた。
「木こりになるか森林警備隊か、カリブーを狩るか――ま、知ったことじゃない。そんなの問題じゃなかった。君が死なずにいてくれて、僕らは一緒で、肝心なのはそれだけだった。君が無事でいてくれることだけ考えていた」
「あんたと一緒なら……」
 イリヤが呟いた。ナポレオンはその言葉の先を待ったが、何も言ってくれない。辛い沈黙がずっと続く。ようやく、ナポレオンはもう一度口を開いた。
「僕の気持ちが君を困らせるだけなのは分かっているし、それで君を責めはしない。でも君からパートナー代えを申し出て、履歴に傷をつけなくてもいい。僕が出て行くのが一番だと決心はもうついた。僕はウェイバリーさんに、ローマ支部へ転属してもらえないか頼むつもりだ。現時点で未解決の仕事を抱えているわけじゃないから、あの人も……一体何がそんなにおかしい?」
 首を振り振り、イリヤは小さく笑みを浮かべていた。
「まったく、ナポレオン――」
 愉快そうな目つきで彼が言った。
「あんたは洒落者で頭もよくてそりゃあ大した男だけど、時によってとんでもなく鈍いんだな」
 そう言ってソロの座っている場所まで歩いてくると、足元にしゃがみこんだ。ナポレオンは目をぱちくりさせた。
「あんたと取り決めをしたいんだ、Napolulya」
 イリヤが言った。
「昨夜僕が、愛情からでなしにベッドに誘ったことをあんたが許してくれるなら、僕は二週間前にあんたが僕を不当な手段でベッドに引っ張り込んだことを許すことにする。これでおあいこにならない?」
 頭がクラクラしてきてナポレオンは言った。
「一体君は何を言ってるんだい」
「つまり僕もあんたを愛してるってことだよ、この大マヌケ野郎。昨日のことではっきりわかった。僕はあんたが好きだし、パートナーのままでいたいし――それに、恋人同士になりたいと言うんなら、まあ……」
 まだ微笑んだまま、イリヤは睫毛の間からはにかみがちに視線を上げた。
「僕の方に異議はない」
 どんな状況でも言葉に窮したことなどない口八丁手八丁の超一流スパイ、ナポレオンがどもりながらただこう言った。
「じ、冗談だろう?」
 イリヤは唇を震わせて笑み、答えたその声もまた震えていた。
「いや冗談なんかじゃない。一緒に過ごした夜のフィルムを見たとき、僕は自分にとてもよく似ていて、でも存在するのか分からない男を目にした。初めあんたにくつ下を脱がせてもらって、くすぐられて、クスクス笑って、温かい血の通った、情熱的な人間がそこにいた。愛すること――そして愛されるのがどういうことかをちゃんと分かっていた。僕はその人間が本当に存在するのか、それとも単に薬物のなせる業だったのかを知りたい、知らなくちゃいけないと思った。そしてゆうべ……真実が分かった気がした。『彼』は存在する。ただあんたが引き出してくれさえすれば」
 イリヤは目を伏せ、また引き上げた。
「そしてまだここにいるんだよ、ナポレオン。もしあんたが望んでくれたら」
 それからナポレオンの手を取ると、そっと掌に口接けた。ナポレオンは目が眩むどころではなかった。似分前まで、彼は二度とイリヤに会うまいと決心を固めていたのが、今や……。
「でも多少問題があるんじゃ、」
 彼はふと口にした。
「先のことは分からないけど」
 社会的な偏見のことなど些細な問題だというふうにイリヤが言った。
「KGBの方ではとっくに僕らは恋人同士って事になっているんだし、どちらにせよ僕は向うの手を離れた。ウェイバリーさんだって文句は言えない、そもそも仕組んだのはあの人なんだから。それにあの人が最初からこうなると思ってたと言われても、今更大して驚きゃしないね」
「それは僕もだ」
 ソロは同意した。
「まったく何てこったろうね、ウェイバリー氏とKGBとがキューピッド役をしてくれたなんて」
 彼はイリヤの手をぎゅっと握った。
「そう、正にお笑いぐさだ」
 イリヤが頷き、相手に注ぐ視線が光を帯びた。
「で、あんたがここまで降りてくるか、それともそっちまで引っ張り上げてくれるのかい?」
 ナポレオンはにっこり笑うと、椅子から滑り下り、パートナーの横に膝をついてぎゅっと抱き寄せた。それから二人は口接けあった。昨夜のことを思い出させ、またこの先の幾多の夜への前奏となる口接けだった。

――僕の、友達。
 ソロは思った。
――僕の、恋人だ……。
 そして微笑んだ。

THE END

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