THE MOON & THE STARS & THE DEEP BLUE SEA AFFAIR by Deanna

Side A

〜U.N.C.L.E.NY本部内のどこか〜
 数人の女性グループが、通路に立ってクスクスひそひそお喋りしている。皆U.N.C.L.E.の女性用制服を着て、すらっと締まった背中には銃を装備しているらしい。
「貴女、ほんとにやったの?」
 その内の一人、金髪の魅惑的な美人が、感心したように言った。可愛い赤毛娘が頷いた。
「もう黙って見てられないのよ。男ってこういうことには鈍感だったりするじゃない。でも彼らに必要なのは、とにかく進むべき方向に踏み出す事なの!」
 そして悦に入ったようにニッコリする。唇を尖らせたブルネットの娘がこう指摘した。
「でも、それはそれで寂しくなるわよねえ?私たちみんな」
「あぁ――…」
 その事実に打ちのめされ、小さなグループの間を溜め息が束になって吹き抜けていった。

ACT1: Fasten your seat belts! It's going to be a bumpy ride.
 アレクサンダー・ウェイバリーは、椅子に寄りかかって、自分の最も手強いエージェント二人組の、あからさまな反応の違いを観察していた。彼らに与えた任務は通常のものより少しばかり変わっていて、またそう度々出したりするものでもない。かつその対象となるのが誰かというと、それはミスタ・ソロとミスタ・クリヤキンなのであった。
「サー、こんなことをお命じになっておいて、僕らに納得しろって?」
 クリヤキンが尋ねる。彼の口調は平板で、態度は落ち着いていたが、彼の目の中には少なからずショックというか、でなければ困惑がちらついていた。
「そうだよミスタ・クリヤキン、その通り」
 ナポレオン=ソロは顔をしかめてはいたが、口元ににやにや笑いが浮かぶのを隠し切れずにいる。
「にしても、相当に変わった命令ですねえ」
 彼は本気半分、冗談半分のように意見した。ウェイバリーは嘆息した。
「それは認めるよミスタ・ソロ。しかしU.N.C.L.E.のためにも君達のためにも、ぜひとも言う通りにしてもらわなければ」
 イリヤは立ち上がり、部屋の中をうろつき始めた。
「色々と考えてみてもですよ、こういうことを命令するのは、上司の管轄外だと思いますけど」
 ナポレオンはこの命令に魅力を感じるのと同じぐらい、自分の相棒に加勢するべきだと感じた。
「イリヤの言う通りです、ミスタ・ウェイバリー。これはU.N.C.L.E.の為と言うにしちゃ、あまりに個人的に過ぎやしませんか」
「君達が最初にどう反応するかは見当がついてたよ諸君。しかし、君らが実際には、この特別な『任務』を思いっきり楽しんだとしても、私は驚きはしないけどね」
 ウェイバリーは訳知り顔に微笑んだ。自分がこの命令を出してから幾許か先には、疑問たっぷりのエージェント達もきっと、自分の配慮に感謝する事になるだろう。

 イリヤは苛々と歩き回った。このロシア人を大いに動揺させるどころか、その表向きのクールさを試しているようなものである。
「この提案に、ソロさんと僕が、何と言うか……従えるような点があるとは思えませんが?」
 ウェイバリーはゆっくりと首を振った。
「それが何だね、ミスタ・クリヤキン。君ら二人がいくら気にしようとも、この命令は私が下す他の命令と同様だ。そして私には、君達が一方でも今まで私の直接命令に従わなかった覚えはない」
 この人物の、いかなる状況でも勿体つけて変化したりしない口調の前では、彼の為に働く者は皆、ノーという返事はあり得ないことを十分に悟るのである。イリヤがいつもの冷静さを取り戻し、負けを認めようとしているのを、ソロは興味津々で見つめていた。
 個人的には、どうにかしてこの命令に逆らってやろうという気はそんなに無かったのだ。これは正に、もうずっと前からやってみようとしていた事であって、ウェイバリーは自分の膝の上にぽんと、素敵な小さい金色のプレゼントの箱を置いてくれたのである。
 自分にするべきことは、最高のやり方でそれを開いてみせることだ。彼は目を輝かせながら笑みを浮かべた。
 相棒が不承不承自分の肩を持っていることに気付かぬわけがなく、イリヤは不審げに片眉を上げた。
「ナポレオン、あんたはどうなの?」
「僕はどうかって?イリヤ、ミスタ・ウェイバリーが命令を下したんなら、彼の言う事に逆らえる訳がないじゃない」
 自分がどんなに嬉しがっているかイリヤに悟られませんようにと、彼はポーカーフェイスを繕った。
「分かってくれて嬉しいよ、ミスタ・ソロ。ま実際、そうなる気はしていたがね」
 ウェイバリーは、イリヤの延々と続く混乱ぶりを、言内で含み笑っているようだった。
「君にしてもだ、ミスタ・クリヤキン。君もそのうち、私の命令に従うのに何をそんなに神経質になっていたのかと気が付くと思うよ」
「しかし、サー……」
 イリヤは簡単に諦めるような人間ではなかった。
「何でそう気乗りしないのか全く理解しがたいな。何といっても、君とミスタ・ソロは他のどの任務においても素晴らしいチームだったじゃないか。それに、私の目に狂いがなければ、君達は最初に組んだ時からずいぶん親しくなっていただろう」
 ソロはさっと戸口の方に顔を背けた。彼は単に、顔じゅうににやにや笑いが浮かぶのを押さえ切れなかったのである。イリヤの表情たるや、愉快千番であった。
「サー、仕事をする時に親しくするというのは、こういうふうに親しくなるのとは全然別次元で……」
 ウェイバリーは、イリヤの話は聞こえないとばかりに無視することにした。
「さて申し訳ないが諸君、妻との約束がある。私の素敵な奥さんも、私にちょっと似たような事をさせるつもりらしい。必要な拘束期間は短いし、かかる労力もそう骨の折れるものではないながらも、私の参加を抜きにしては始まらないことをだね」
 イリヤは口をぽかんと開けたまま、ナポレオンとウェイバリーの間に視線を往復させた。片方は彼を無視して半分中身を入れた書類鞄にかかりきり、もう片方は壁の方をじーっと睨み付けている。ナポレオンの身体がちょっとぷるぷるしているのは、笑いの発作を押さえつけていると見える。

「楽しんでおいで諸君。きっとそうなるとも。必要なものは皆整えてあるから、秘書課のミス・ケインのところで受け取ってくればいい」
 イリヤが両手を掲げた。お先真っ暗とはこのことだ。
「秘書課の人間に知られてるんですか、これを?」
「そうだとも。実を言えば、そもそもミス・ケインが私に言ってきたことなんだからね。お優しいことじゃないか」
 ウェイバリーはちょっとの間帰り支度の手を止めて、天井を見上げるとその事を思い返した。
「彼女の指摘するには、君達はここ最近、あまりにもしばしば別々の任務についているとのことだ。君ら二人ともが、近頃しょっちゅうTHRUSHにあまり愉快でない目に合わされていることは言うまでもなく――私は同意する他なかった――君達にはぜひとも幾らかの休養と、それと同様に、何かで一緒になることが必要であると。彼女はその二つを兼ね備えた、最高の方法を提案してくれたわけだ」
 彼は上機嫌で鞄を閉じると、出口に向かった。
「君らが目的を果し、十分に休養になったと思ったら帰って来たまえ。では楽しんでくるように。それは私もなんだが、この年ではちょっとレストランにゆく程度しか出来やせん」
 オフィスを出る相手に、ソロはただ最高の礼で送るばかりだった。そしてイリヤの方を振り返った。
「さてと、僕らは今週末のデートをキャンセルしとくよりなさそうだな。どれぐらいかかるのか知らないけどさ」
 イリヤは上着を取って、ソロと一緒に戸口に立った。
「何というか――これが女性部員相手に親交を深めろってなら、もっと楽しかったのに」
 ソロは顔をすがめて微笑んだ。
「傷ついちゃうなあ、イリヤ」
「君が気にするこたない、ナポレオン。でもTHRUSHにまとめてひっ括られるのと、ウェイバリー氏にそうされるのとは全然話が違うよな」
「問題は誰に縛られるかじゃなくて、誰と縛られるかだと……」
 イリヤが前を通り過ぎた直後に、ソロはそう呟いた。そして深い溜め息をついて、相手の後を追った。


 秘書課に入ると、彼らはまっすぐに綺麗な赤毛をした女性の占めるデスクへ向かった。二人の姿を見て、彼女は微笑んで立ち上った。
「あら、やっと来たのね!」
 ヘスター=ケインはあの老人に、また自分自身にもよくやったと言ってやりたい気分だった。
「ああ、おかげさまでね」
 イリヤは用意された書類をジャケットにつっこみながら、ぶちぶちと言った。ナポレオンはその若い女性の腕を取り、端の方へ引いていった。傍目には例によって女の子とふざけているかのように、彼女に耳打ちする。
「どうもありがとう、蜂蜜ちゃん」
 彼女はくすぐったそうに笑い、冗談っぽく彼の胸にトンと突きを入れた。イリヤが首を振る。
「まだかよ、ナポレオン」
 ソロは自分のぶんの書類を受け取り、ちらっと目を通した。
「君はどうか知らないけどね、イリヤ。でも僕には、コート・ダ・ジュールでのヴァカンスがそう酷い任務だとは思えないなあ」


「シャンパンですね?」
 明朗快活なスチュワーデスが、ナポレオンに向かって睫毛をぱちぱちさせた。彼は魅力的な微笑を浮かべた。
「その通り」
「そちらのお客様はどうなさいます?」
 ファーストクラスのメニューでも応じてやらんばかりの気遣いで、彼女はイリヤを見遣った。しかし彼女を大いに落胆させたことには、相手は冷淡にこう言った。
「水だけでいい」
 相手の方を見ようともせず、代りに視線は遥か雲の彼方の一点から動いていない。ナポレオンは相棒のそんな不機嫌な様子を無視し、タイを解くと前の座席ポケットに突っ込んだ。そして備え付けのひざかけを広げ、スリッパを履き、座りごこちのいい椅子の背を倒してゆったりと寛ぐ姿勢を取った。
「前に人相書の写真や手錠のセットを荷物に忍ばせずにどっかへ出かけたことって、もう思い出せないねぇ」
 彼はそうコメントした。それを口に出すが早いか、イリヤと一緒に手錠のセットを持ってヴァカンスに行くところを思い浮かべてしまい、内心で含み笑った。そうしたら少なくともこの仕事熱心な相棒だって、いくらかは本当の任務の時のような気分になるんじゃないかと。
「何がそんなにおかしいの?」
 クリヤキンが不審げな顔を向けたちょうどその時、水のグラスを届けにスチュワーデスが来ているのに気がついた。彼は頷いて礼をし、彼女は今度はナポレオンのトレイに、シャンパンのグラスを置くと、ワゴンを引いていった。
「君の事よ、イリヤ。なんだって楽しもうって気にならないの?」
 ソロはシャンパンを啜り、満足の息をついた。
「世界中で一番美しい場所へ、高い費用は全部向こう持ちで旅行するより最悪な運命だってあるでしょうに」
「そういう事じゃないんだ、ナポレオン。僕はただ、強制されてヴァカンスに行くのは嫌なんだ。それに何処に行くかも、誰と行くかも――
 ソロが傷ついた顔をした。
「僕がくっついて来たのが、そんなに本気で気に入らないってこと?」
 クリヤキンは悪いことを言ったと感じた。
「いや、もちろん違う。これは物事の道理としてで、」
「誰も君の道理にはついていけないよ、イリヤ」
 ソロは微笑した。
(全てにってわけじゃないけど、とにかく……)
 その間もイリヤは続けていた。
「それに、向うで一体何をしてればいいと思う?ヘスターによれば、ウェイバリー氏は少なくとも一週間は戻ってくるなとさ。絶対に僕らは心底退屈しきっちまうよ!」
 彼はむかっ腹を立てているかのようだった。この時になってソロは気掛かりになりはじめた。こんなに騒ぎ立てるのは、全くもって自分の相棒らしくない。一体何を気にしているんだろうか?
「言わせてもらえば、僕個人としては退屈なんかする気はないけど」
 返事が返って来ないので、彼は付け加えた。
「やーれやれ、イリヤ。君は楽しむってことを知らないのかね?」
 今度はイリヤが傷ついたような顔をした。ナポレオンはすぐさま自分の言ったことを後悔した。
「ごめん、僕はただ、何が問題なのか理解できなくてさ」
 それは本心だった。イリヤがぼそりと呟く。
「ああ、君にはね」
 イリヤはまたむっつりと静かになり、ナポレオンは溜め息をシャンパン・グラスの中に吐き出した。イリヤを十分に寛いだ気分にし、楽しもうとさせるにはかなり色々やることがありそうだ。しかし自分はやってもみないうちから躊躇うような人間ではないし、まだ始まってもいないのだ。
 ロシア人を横目で見遣る。黒をまとったすっきりした姿、冷ややかに窓の外を睨んでいる青い瞳、引き結んでいながらも幾らか突き出しているような唇。今までどんなに長く待たされていようと、どれほどの代償が求められようと、今回それで得るのは相当の価値があるのだ。
「シートベルトをお締め下さい、着陸時に衝撃が予想されます……」
 彼は内心で呟いた。


「ベッドがエクストラ・ラージってのはどういう意味だ?」
 クリヤキンはニースのHôtel Séductionのフロントマンを、物騒な視線でねめつけた。
「ムッシュウ、カルメ・ヴ(落ち着いて下さい)」
 クラークは穏やかに、後ろの鍵棚を指し示した。
「他にお部屋はございません。もしそちらの叔母様が……」
 そして予約帳をちらりと覗き、
「……ヘスター叔母様は予約時に、出来ればスウィート・ルームを一室お願いしたいとおっしゃいました、のですが……」
肩を竦めた。イリヤが呆気に取られた顔をする。
「《ヘスター叔母さん》がスウィートを一緒に使えって?」
「ウィ、ムッシュウ。わたくしの記憶では、スウィートと呼ぶに相応しい部屋をと特に希望されました。最も雰囲気のよいお部屋を頼まれたのだと思います」
 ソロは宿帳の記入に没頭していた。ともかく、前途は明るくなってきた。ヘスターには忘れずに彼女お気に入りのフランス製香水をひと壜買っておかなくては。
「で、このちょっとした手配をしてくれたのはいつ?」
 イリヤが尋問した。
「確か、おおよそ一週間前でございます。言うなればあの時は、幸運にもたまたまお取り出来たようなわけで。観光のお客様が一番多いシーズンですから」
 温厚なフランス人は、晴れ晴れとした顔をした。
「あーそうとも。なんたる幸運!」
 イリヤが苦々しく意見を言った。ナポレオン=ソロはにやっと笑った。
「あのさ、ここにソロ夫妻と書くべき?それとも、クリヤキン夫妻がいい?」
 このアメリカ人がたまげたことには、相棒は顔じゅうを真っ赤にした。それは今まで見てきた何よりも楽しい眺めだった。
「ハネムーン用スウィートじゃないんだぞ、ナポレオン!」
 フロントマンに向かって、イリヤは心配そうに言った。
「違うだろ?」
「おお、ノン、ムッシュウ。申し訳ありませんが、」
「なら結構」
 イリヤはポーターと、自分たちの鞄についてエレベーターに向かい、その間にソロはホテル・クラークの手の中にチップをどっさり渡していた。
「メルシィ・ボクー(どうも有難うございます)、ムッシュウ・ソロ!」
 その男はにこにこ顔になった。
「何でもないよ、嬉しいのは僕も一緒」
 黒のタートルネックの上にある、ぱさぱさのブロンド・ヘアから目を離さず、ソロは相手の解釈任せにしておいて、相棒に追いついた。
「ヘスター叔母さんとやらはどういうつもりで……」
 エレベータがシュッと音を立てて閉まると同時に、イリヤがぶちぶち言った。ソロはこっそりと微笑んだ。


「君は何をしてみたい?」
 ナポレオンはうきうきと声を上げた。相棒が隣接するバスルームでちょうどシャワーを使い終えた時、彼は特大のベッドに寄りかかっていた。松や杉木立の香りが、ベッドルームにまで強く漂ってくる。
「退屈するぞって言った通りだ。もうあんたは何をしていいか分かんなくなってる」
 イリヤが、スチーム・ルームとしか言いようのない所から出てきた。青いタオル地のバスローブにくるまり、同色の厚いタオルでせっせと髪を拭いている。
 ナポレオンは息を呑んだ。イリヤの顔や髪のしずくの全てに、大きなバルコニーから射しこむ遅い午後の陽光が照り映えていた。金色に染まった肌は輝くようで、そのせいか瞳の色まで倍ほどに青く明るく見える。
「ナポレオン……」
 イリヤが眉をひそめた。
「ナポレオン?ナポレオンってば!」
「なんだ?」
 豊かなブロンドの髪を、適当に後ろに梳いているイリヤの右手に目を据えたまま、ソロははっと言った。
「僕らはもう退屈してるぞって、言ったんだよ」
 ソロは雨の中から部屋に入ってきたネコのようにぶるぶると首を振った。何か返事をするほうに意志を集中させる。
「ああ……いや、退屈なんかしてませんよ。僕はただ、君が今夜はどうやって過ごしたいのかなと思って」
 僕が何をしたいのか聞かない方がよかろうさ、神のみぞ知るだ!――ローブの打ち合わせの、イリヤのV字形になった素肌の部分に物欲しげにさまよう視線が止められないまま、彼は考えた。そしてロシア人は顔をしかめた。ナポレオンはどうしたんだろう?時差ボケなんだろうか。
「そうだな……正直言って、夕食に何か食べてから、寝たいってだけ」
 ソロは、もっと面白い夜を過ごしたいとか文句を言うことはまるきり出来なかった。彼は、イリヤがわざわざ服を着替える手間を省けるよう、ルーム・サービスにしようかと提案してみた。もちろん彼には、相棒にそんな金の無駄遣いは耐えられないことぐらいは十分知っている。そうであっても、彼には最高の夜のためのプランは出来ていた。
 アメリカ人は起き上がり、イリヤに変に思われないギリギリ近くをすり抜けて、バスルームに向かった。
「よしと、」
 彼は応じた。
「待つのが構わなければ、僕もちょっとシャワーを浴びてくる」
 クリヤキンは首を振った。
「ああ、いいとも。僕はその間荷物を解いてるから」
 ナポレオンは片頬で笑うと、出来うる限り早くバスルームに消えた。ロシア人の芳香が、湯気を含んだ空気の中に満ち溢れている。彼のアフターシェイブ、石鹸、シャンプーの香り――ソロは素早くドアを閉めてペタンと背中を寄りかからせると、深く息を吸い込んだ。


Act 2: I didn't know you sang in the shower
 Liaison Tendreでの夕食はまさに至高だった。ナポレオンはさる友人の薦めでこの店を選んだのだが、フランスはリヴィエラと聞いて人が想像する通り、料理は美味でウェイトレスは美人、ワインは希少な銘柄が揃い、エキゾチックムードに溢れている。
 何が最高って、それらの全てをひっくるめたよりも、自分の連れに優るものはないってことだ――ナポレオンは満足げにグラスの中身を啜り、エッジ越しにその眺めを愉しんだ。
「何でそんなにこっちを見るんだ、ナポレオン?」
 イリヤが怪しむように尋ねて来た。
「え、どんなに?」
 ソロが照れ隠しにニヤっと笑ってみた。もう少し自分の行動に気をつけた方がいいかもしれない。イリヤがフォークを置き、自分のグラスのシャトー・オ・ブリアンを睨み付けた。
「よく分からないけど――ジロジロと」
「ジロジロだって?へええ、イリヤ!」
 この返事はいつも通り上手くいく筈だった。自分が物事をみな茶化してしまえば、友人はこれ以上突っ込んでくるのを止めるだろう。相手に誤解だと思わせるようにしておけば、それでこの件は片付いてしまうのだ。
「一度や二度の事じゃないだろう、ナポレオン。この前も……」
 イリヤが視線を上げると、相棒はフィレ肉の切れ端を口に持っていく途中で硬直していた。
「は、あ?」
 この展開は自分の予想外だったが、死ぬほどほっとした事には、ちょうどその時、数テーブル向うでウェイターが飲み物を載せたトレイを落っことした。その騒動のおかげで、適当な釈明を考えつくまでの間、イリヤの注意を逸らすことが出来た。
 イリヤは振り向いた時には《目付き》のことなどすっかり忘れてしまったようだった。彼自身が話題を変えたがっているかのように、明日のことについて喋り始めた。
「ナポレオン、あした何をしたらいいかアイディアはあるかい」
 ソロは微笑んだ。
「そうだな、ビーチで肌を焼いてもいいし……」
 海水パンツと日焼けローションだけの姿の相棒の隣で、日がな一日寝そべって過ごすという考えがぱ――っと広がったが、予想もしていない答えが返って来た。
「?何のためにそんなことをするんだ」
 頭の中であれこれと考え込んでいるかのように、イリヤは額に皺を寄せた。
「わかった……車を借りて、モンテカルロまでドライブしよう。ピクニックの用意をして、途中で古い建物のあるきれいな村に寄ってさ」
 ナポレオンは勢いづいてきた。
「それか夕方になってから出かけて、カジノで運試ししてもいいな」
「資本主義者め!」
 ソロは吹き出した。
「君のそういうところが好きだよイリヤ、今君は――カシミヤとシルクの服を着て、高級レストランで上等なワインを啜り、チェリー・ジュビリー(バニラアイスの上にダークチェリーを載せ、ブランデーをかけてフランベしたデザート)の皿が来るのを待ちながら、資本主義について文句を言ってるんだからな」
「君が、僕をディナーに誘ったんだぜ?僕ならサンドイッチとかでも良かったんだ」
 が、もちろん自分の服装まで説明がつくわけではない。
「まぁ君の言う事にも一理あるけど」
 イリヤはにこりとした。
「まあいいや、カジノね。でも別の日にはピクニックだ」
「それでいいよ。楽しみだな――」
 ナポレオンは、自分とイリヤがラベンダーのお花畑でブランケットを広げ、寝転がっているところを想像してみた。クリームをつけた苺を、相棒に手ずから食べさせ、顎に流れた果汁を舐め取る自分が目に浮かぶ。その時には……。
 ナポレオンは我ながら間の抜けた笑みを浮かべ、
「いちごとクリームを持って行くんなら……」
と呟いた。


 その夜。
 予想していて然るべきであったが、ナポレオンは眠りにつくのにいつになくハードな夜を迎えている自分に気がついた。全くもって馬鹿げてる――イリヤと同室になったり、同じベッドに寝たりするのさえ初めてというわけではないのだから。しかし他の気晴らしも、気掛かりなことも無いとなると、自分の意識は全てイリヤに集中してしまっていた。
 彼らは話し合うでなく、勝手に自分が良いと思う方の側に収まっていた。ナポレオンはいつもドアに近い方の側を取ることにしており、それは相棒を護っているような気分になるからなのだが、イリヤには冗談めかして、何か起こった場合逃げ出しやすい方だからと説明している。
 イリヤの方はドアから離れた方の、壁に面するような側を好んだ。巣に篭ったようで落ち着くし、彼自身は認めていないが、よりナポレオンに護られているような楽しい錯覚を覚えるからだった。彼の説明は、ベッドから落っこちたくないから、であった。
 という訳で、彼らはまるで長年連れ添った夫婦者のような具合になっていた。ただし、お互い馴れすぎて何とも思わなくなっているというには程遠い。ナポレオンは相棒のやわらかな寝息や微かな寝返りのたびに、手を伸ばして触れてみたいと自分の中の煉獄に身を焦がされていた。
 イリヤはナポレオンに背を向けていて、彼には相棒の指がもう数ミリで届くところまで伸ばされては、このロシア人がちょっと動くたびに慌てて引っ込められているのを知る由もなかった。そしてナポレオンには、イリヤのやや浅めの息遣いが、眠っているからなのか、またはこの相棒が単にうとうとしているのか全く分かっていなかった。実際のところ、相棒は彼の息を一つ、二つと数えていて、それはどんな子守り歌よりも彼を落ち着かせ、気分を和ませてくれるからなのだが。
 ようやく疲労が程よく効いてきて、彼らは数分のうちに次々と眠りに落ちた。
 まるで長年連れ添った夫婦者のように。


 翌日は平和そのものに始まった。彼らは一日の大半を、ニース巡りの観光客として楽しんだ。魅力的な場所は沢山あり、任務中にはとても得られないような時間を過ごすことができた。
 イリヤは街のあまり知られていない場所に、ロシアの教会があると聞いていたので、正午を少し回った頃にナポレオンをそこへ連れ出した。
 そこは目を奪われるほど美しかった。たいがい相棒のことしか考えていないソロですら、この壮麗な建物の絢爛としたさまは無視できなかった。彼らは長いことそこに留まっていた。
 イリヤはいつになく静かだったが、どうにかナポレオンは彼の気を引き立て、祖国ロシアに似た場所があって、ここにいると自分がどんな気分になるかを話してもらえた。
 クリヤキンが自分の友人に、ロシアの建築の美しさと、それが醸し出す独特な雰囲気を語り、ありのままの自分を僅かに覗かせてくれている。ナポレオンは同時に、イリヤが決して軽いとは言えない望郷の辛い思いを抱えていることを悟った。このロシア人が、幼い子供の頃両親と似たような教会を訪れたことを話す時、声が少し震えているのをナポレオンは聞き逃さなかった。
 彼らは祭壇の前に立っていた。イリヤは木製の礼拝用ベンチに寄りかかり、初めて来た時自分はほんの五歳の子供で、こんな神秘的な場所が恐ろしかったと語った。
 ナポレオンは胸が締め付けられるような気分で、思い切ってイリヤの二の腕に軽く手を置いた。
「君が育ったところを見てみたいな」
 そっと口にした。友人に、自分のプライバシーに踏み込んだと取られないことを願って。彼はそういうことには極端にガードが固いのだ。
 しかし自分の態度を詫びようとするより先に、イリヤの反応に驚かされることになった。
「――いつか僕が連れて行くよ」
 ロシア人はくるりと向きを変え、回廊を下って背の高いドアの方へ向かい、外の暖かな日だまりへと出ていった。ソロはぶるっと身震いしたが、冷気や、暗い石の壁のせいではなかった。喜びの感情と、恐らくは幾許かの希望が湧いてきたからだった。

 彼らはそこを出て、レンタカーの所へ戻った。ソロは友人に、一緒にロシアへ行くことについてもっと尋ねてみたいように思った。何故イリヤは自分が感傷的になっていることを隠そうとしなかったのかを聞いてみたくも思った。しかし、さっきの出来事を台無しにしたくはなかった。
「じゃ、ホテルに戻って着替えようか」
 友人が賛成するのは自然と分かっていたので、イリヤは借りたプジョー・コンバーチブルタイプの運転席に乗り込んだ。ソロも頷いて車に乗った。
 彼らは無言でホテルまで車を走らせた。気詰まりな沈黙ではなく、特別に親しい友人が分かち合う、互いの思いを尊重した上での気持ちのよい静けさだった。


 部屋に戻ると、イリヤはタイを緩めはじめると同時に足を振って靴を脱いだ。
「どっちが先?」
 ナポレオンは不意を突かれて言った。
「先って何が??」
 イリヤはくすりと笑った。ここ数日ナポレオンはいつになくおたおたしている。事件の無い時のようなものだ。何か夢中になることがあって、注意力はほとんどそっちに向いているんだろう。
「シャワーだよ、ナポレオン!君は最初がいいか、後がいいのか?」
「ああ、」
 自分でもバカだなという気分で、ソロは腰掛けて靴紐を解いた。
「君の後でいい」
 イリヤは頷き、シャワールームに向かっていった。シャワーが流れ出す音がするやいなや、ナポレオンはカバーの掛ったベッドの上に仰向け、片腕を目のところに載せた。水音が聞こえてくる。シャワーから全開になった湯水がほとばしり、相棒の筋肉質の肢体を流れ落ちていくような音だ。
 だいぶん怪しからぬイメージが浮かんで来た――熱い奔流に包まれているイリヤ、柔らかな髪は濡れてもつれ、水飛沫が長い睫毛を叩いて落ち、首筋を、色の濃い髪の先を滑り下りる。イリヤの手が優雅に、濡れた髪のふさをかき上げ、甘美な体躯のすみずみにまで泡を塗り広げながら、顔を上げると熱い水流が襲い掛かる。迎え入れるように開いた唇にはあとからあとから水が溢れて……。
 ナポレオンはうめいた。自分があきらかに二番目にシャワーを使いたがってばかりいることを、イリヤに怪しまれていませんようにと祈った。友人が裸で立って、熱い湯を浴びていることを考えたせいで、自分には反対に冷たい水をかぶるのがどうしても必要なんだとはとても説明出来ない。更に更に、この旅が終る頃に深刻な肺炎に罹ったりして、その説明をさせられたりもしませんようにと。
 しかしいま現在、冷たいシャワーや病院のベッドに拘束されることを考えても、反応しはじめた自分のそれを宥める役には立たなかった。彼は自身に手を伸ばしかけるのを、展開していく想像と戦った。その場にイリヤと自分が居て、物欲しげに手の平を這わせる――どこもかしこも鋼のような、そして、ベルベットのような身体。
 目を細めてベッドの上に仰け反る。自分がイリヤに覆い被さるようにして壁の隙間に捉え、両腕を頭のところで繋ぎ止め、空いた方の腕で相手を自分の方に引き寄せるところ、なんて考えては駄目だ。
 彼は唇を湿らせた。イリヤの頬を伝い落ちる水の滴りを追って、舌を相手の唇の端まで下ろし、唇をキスで塞ぐ。口接けは深く、熱く、シャワーは冷たい波のように自分たちの熱い身体を叩いてはジュッと音を立て――これも考えちゃあいけない。
 つめたい。そうだ。何か冷たい事を考えなくちゃ。例えば……冬の日の事とか。窓は霜で覆われ、外は雪が降っている。風がドアを叩き、自分はソファに座り、役に立たない毛布を被って震えている。そこに、イリヤが来て……燃え盛る暖炉の光、くるまっていた毛布を跳ね除けてより暖かく抱き合う。クールなロシア人からは想像もつかなかった、更に焼け付くような抱擁。
「あぁもう……!」
 ナポレオンは唸り声を上げ、トラウザーの布地を握り込むと、股間の突っ張りがいくらか楽にならないものかと片足を上げてみた。今何かするわけにはいかないのだ。イリヤがすぐドアの向うにいる。頭の中いっぱいに色っぽいイメージの洪水が押し寄せ、ナポレオンはもう片方の手でベッドカバーを鷲づかみにした。

 イリヤは殆ど息も出来ずにいた。
 明らかに友人は、自分がバスルームの戸口に立っていることに気付いていない。ナポレオンは、数分前からシャワーの音が止んでいるのに気付かないほど心を乱しているのに違いなかった。
 そしてこの時、イリヤも取り乱す余りに、友人のプライバシーを侵害するのは礼に反するということを失念していた。ナポレオンはこんなところを――何かをありありと想像していて、だんだんと興奮し欲情しているのを――自分に見られたくないのに決まっている。
 イリヤはドアのすぐ脇の壁の隅に強く身体を押し付けていた。握り込んだ拳の上にギリっと歯を立てる。濡れたタイルに自分を擦りつけ、こんなナポレオンと自分とが――しているところを考えるまいとした。
 こんなことをくよくよ考えるべきでないのは解っているが、どこぞの女性がナポレオンをこうさせてるんだと面白からぬ思いに駆られてすら、昂ぶっていく自分自身を減速させることは出来なかった。
 一体、いつから自分の相棒をこんな風に考え始めたのだろう?あのいまいましいウェイバリー氏が、自分をこんなハメに追い込んだのだ!
 任務の時なら押さえることは出来た。ナポレオンに惹かれるあまり注意散漫になるのは、危険すぎる行為だった。しかし、ここでは……自分たちは二人きり、全てはロマンチックで美しかった。そして、どんな時でも、昼だろうと夜だろうと、自分の鍛え上げた冷静さを感情が上回ってしまわないように、自分を引き締めていなければならなかった。
 なのに何たることか、ナポレオンが問題をさらに大きくしている。何だって彼はああやってそこに横たわって、昂ぶって声を立て、わざわざ自分を危険に晒し襲ってくれといわんばかりにしてるんだ?!
(彼は、どうするだろう?)
 イリヤは束の間、唐突にヤケになって考えた。
(もし僕が今からあそこへ歩いてったら、どうするだろう?僕がベッドに上がって、上に乗りかかって、僕がどんなに奴にそそられたかを教えてやったら……どうするだろう?――きっと多分、僕にペン型コミュニケーターを突き刺して、オープンチャンネルDして、ウェイバリー氏にこの休暇は結局あまりいいアイディアじゃなかったですと報告するだろうな。地中海料理が合わなかったか、太陽に当たりすぎたかして、僕がケモノに変わっちまったんで、僕が惨めな思いをするのを救ってやるよりなかったとでも話すだろう。そしてチャンネルD・クローズ……)

 イリヤは笑った。自分に別の人生があるならば堂々とアプローチしていたかもしれない。この世においては、自分は氷のイリヤ=クリヤキンだった。炎の、ではないのだ。
 もう一度だけ相棒の、熱っぽく開いた唇と、せわしなく上下している胸を盗み見ると、イリヤは代りにナポレオンがみじめな思いをするのを救ってやることにした。
 彼は後ろに下がり、バスルームのドアを静かに閉めると、それからもう一度シャワーの湯を流しに行った。ドアの方を向いて、かなりの大声でヘタクソにロシア語の唄をがなりだす。その一分後、シャワーを止めると身体を乾かすのにかかる時間の分だけ待機した。そして、彼はバスルームを出た。気楽な調子で。
 ナポレオンもその時までには、すっかり体裁を繕い直していた。ベッドの端に座り、さりげなく足を組んで昂ぶりを隠しつつ、きまり悪げになニヤニヤ笑いを浮かべている。クッキーを入れた壜から手が抜けなくなったボーイスカウトのように。
(クッキーといえばボーイじゃなくて、ガールスカウト・クッキーだったっけ?)
 イリヤはちょっと首をひねった。
「君がシャワーを浴びながら歌うなんて知らなかったな」
 声がややかすれているのを完全には隠し切れないで、ナポレオンが言った。イリヤは、ナポレオンが安心してバスルームまで歩いてゆけるように、用心深く彼から視線を外したままで微笑んだ。
「歌わないよ。でも何だか、今日は歌いたい気分だったからさ」
 彼らはもう一度チラリとだけ笑みを交わし、ナポレオンは安全な、一人きりになれるバスルームへと去った。イリヤは嘆息し、この調子ではどうなることだろう、と様々に考えを巡らせた。

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