Side B

Act3:"The Spy who broke the bank at Monte Carlo..."
 およそ二時間後、イリヤとナポレオンはオペラ・ハウスと併設のカジノへと足を踏み入れた。二つの施設が共有する、十九世紀に造られた豪奢なロビーは、穏やかな夏の宵にふさわしく人々で溢れていた。
 彼らはゲーム・テーブルのある左手へと進み、受付で滅多と貰えないU.N.C.L.E.のオカネを、色とりどりのプラスチックのチップと交換した。
「どれから始める?」
 ナポレオンは何でもやる気だった。もし恋愛運でツイてないとすれば、カードにツキが回って来るかもしれない。
 イリヤはポーカー・テーブルに行きそうだなと思ったが、ルーレットの方に興味があるようだった。
「ついといで」
 ロシア人はもう決めたとばかりに言った。その相棒は笑って従った。
「仰せのままに……」

 彼らは五人の客が取り巻いているルーレット盤に加わった。背が高く年配のディーラーは、それはそれは真剣な態度で、チップを揃えるのに大忙しだった。
Faites vos jeux, s'il vous plaît――さあお賭け下さい!」
 彼が声をかけ、客たちは従った。賭け金が出そろったところで、低く声を出した。
Rien ne va plus――締め切りました!」
 そして盤を回すと、七人分の目が小気味よい金属的な音を立てて回る球の行方を追った。八人目の視線は、黒のスーツに銀灰色のボウ・タイをし、えらく仰天しているような、とあるロシア人の姿をじろじろ見る方に回っていた。といっても今回は、そのさまよう視線はナポレオン=ソロのものではない。
Dix-neuf, rouge, pair――赤の19・ペア!」
 球の位置が決まり、ディーラーは順次勝ち金を分けていった。幸運を射止めたのはとあるブロンドの男だった。事実上一番大勝ちしたのは彼でありながら、嬉しがるそぶりも見せない。当然のようにナポレオンはこう言ってやった。
「こりゃあ、明日の夕食は君のオゴリってことだよね?」
「早合点するなよナポレオン。次に賭けたら全部スっちゃうんじゃないかな」

 が、今夜のイリヤははっきりとツイていた。彼は立て続けに大勝ちし、賭け仲間のチップを殆ど総取りし、彼らをじりじりさせ続けた。
「おやまあ、僕が幸運を引き寄せてるのかもよ」
 イリヤが連続八回目で勝ったあと、ナポレオンは笑いながらそう宣言した。このロシア人には、そこまでの自信は持てなかった。
「分からないなあ、ナポレオン。こんなの何か変だぜ」
 溜め息をついてソロは友人の方を見た。
「なぜ君はそう何でも疑ってかかろうとするの?」
「僕らの仕事柄そうもなるさ、ナポレオン」
「そうじゃないだろ、君の人柄が……、」
 ソロは相手の冷ややかな視線をはね返し、にっと笑った。
「もう止めといた方がよさそうだ」
 イリヤは自分の儲け分を集めて引き上げようとしたが、友人に押し戻された。
「正気かい?君はずっと勝ちっぱなしなんだぜ、続けろよ!」

 それで不承不承彼は続け、また四回続けて勝った。
「今度こそ僕も信じられなくなってきた」
 ソロがやっと認めた。
「だろうね、僕もさ」
 イリヤは決心した。
「このチップを換金して、それから引き上げた方がいいと思う」
 ソロは賛成した。換金に行くと、カジノの従業員はイリヤに、一緒に奥の事務所まで来てくれるよう言った。彼の勝ち分があまりに多額なので、立ち会いの上で換金しなければならないとの事だった。
「いいよ。ナポレオン、君はここで待っててくれるだろ」
「もちろん」
 ソロは凝ったつくりのベルベット張りのソファにゆったりと腰を下ろし、周辺の観光ガイドを手に取った。映画館で何がかかっているか、モナコ王宮の見学時間、それに最高のブイヤベースを出してくれる店はどこか。そのうちに彼は、二十分近く経っているのにイリヤがまだ戻って来ないことに気がついた。何か変だ。

 オフィスのドアをノックすると、さっきイリヤを連れていったのとは違う男がドアを開いた。
「ムッシュウ?」
 男が尋ねた。
「連れを探しているんだが。大分前にチップを換金しに入ったんだ。どこに行ったのかな?」
 男はあきらかに気まずそうな顔になった。
「ええと……申し訳ありませんが、存じませんムッシュウ。多分まだお金を数えておられるのでは?」
 その煮え切らない態度に、ソロの胸の中で警報ベルが一斉に鳴り出した。常に携帯している銃を引き抜くと、周りに気を配りながら男の大きな腹に突き付け、後ろ向きに部屋の中へ押し戻した。
「彼はどこだ?早いところ答えないと、その満月腹を三日月にしてやるぞ!」
 どっと汗を吹き出し、男は吃りながら言った。
「わっ……分かりません。最初男が二人入ってきて……で、銃で私を脅して……貴方のお友達を何度か勝たせるようにして、このオフィスに連れ込めと……彼らはその人を殴り倒し、車に載せて逃げちゃったんです。済みません……」
 ナポレオンは銃を下げた。この男の言う事を疑う理由は何もない。間違いなくTHRUSHだ。一目でU.N.C.L.E.のエージェントを見分けるとすれば、彼ら以外にはあり得ない。
(クソ、何だってこんな時に!)
 息を押さえながら彼は毒づいた。
「知っていることを全部話してもらおう」
 彼が命じると、怯えた男はイリヤを攫っていった時の様子を憶えている限り説明した。今は積極的にナポレオンに協力しようとしており、もう銃をちらつかせる必要はなかった。
「その車は見たのか?」
 何だってこう、滅多とない幸運ばかり続いてしまうんだろうか……。
「はい、ムッシュウ。彼らは私に後部座席のドアを開けさせましたので」
 意を得たように男は、車の説明を始めた。左側に目立つ長い引っ掻き傷のついている、栗色のジャガー。
 男に礼も言わず――というのは結局彼にかなり時間を食わされてしまったので――そのままドアの後ろに立ってろ、とソロは命令した。
 建物を出ると、彼とイリヤのレンタカーが停めてある場所まではそう遠くない。車に飛び乗り、男が示した方向、港の方へとすっ飛ばした。自分が到着するより前に、イリヤが船で連れ去られていないことを祈りながら。そうなれば彼を発見するのが難しくなってしまう。

 首がへし折れそうなスピードで狭い道路を駆け下り、ようやく中央の埠頭に停まっているジャガーがナポレオンの目に留まった。間を置かずに銃を取り出し、車を降りる。ほぼ同時に、近くに係留してある船から弾丸が飛んできた。ソロは首を屈め、弾丸が来た方向を見定めようとした。
 射撃地点と思われる方では、Distinと名前の書かれた大型のヨットが埠頭を離れようとしていた。イリヤがどこに連れ込まれたかは想像に難くない。

 ソロは船の右舷側へと駆け出し、大柄な男がショットガンを構えているのが目に入るや、闇雲に船に飛びついた。正確に急所を数発殴り付け、相手を片づけた。目指すキャビンに辿り着くまでに、ナポレオンは更に数発の弾丸を避け、もう一人の相手をしなければならなかった。そして最も待ち望んでいた姿が目に入る。
「イリヤ!」
 彼の友人は縛り上げられ、猿轡をされ、ソファの横に転がされていた。あまり喜ばしくないもう一人の人物が、頭に銃を突き付けている。
「ミスタ・ソロ!よくもここまで辿り着いたもんだ」
 見知らぬ男はからかうように言った。
「とすると君も、我々の小旅行に加わりたいらしいな。君の相棒と私は、THRUSHの地中海方面本部に向かうところなんだ。最高のおもてなしをさせてもらうよ?」
「ご親切に。でも悪いけど遠慮しとくよ。僕らには他に予定があるんでね」
「気の毒だがその予定とやらを変えてもらおうか」
 銃を構えたまま、ナポレオンは首を振った。
「ダメダメ、無理に連れて行こうったって、数の上では君が不利だもの」
「数で負けてるだと?」
 THRUSHの男は首をひねった。
「どういうことだミスタ・ソロ。よく考えてみろ、ここには私が一人、そして私の目に狂いがなければ、もう一人はきみイイイイイイイイ!!!」
 イリヤの足が目標を捕らえ、男は悲鳴を上げた。
 必死で股間を押さえて苦痛を和らげようとしているTHRUSHに、わざわざ武装解除させるのは時間の無駄だ――ソロは笑った。蛍光ミドリ色の顔色からみて、相手にこれ以上何か出来るとは思えない。
 ナポレオンはイリヤの縄を解き、猿轡を外すと、すぐに同じロープでその男をソファの後ろの綺麗な柱に縛り付けた。
「何を手間取ってたんだよ?」
 ロシア人が文句を言ってきた。ソロは声を出して笑った。
「寂しかったのは僕もなんだけど」
「それは失礼。とにかく……せっかく今まで申し分なく過ごしてた素敵なヴァカンスを、THRUSHの連中のせいで浪費したくはないよな」
 唇を尖らせ、イリヤは続けた。
「その上、儲けも全部パアになっちゃった」
「あーあー……」
 ソロはイリヤの手を引いて立たせ、肩をぽんと叩いた。
「こう考えてみろよ――君は休暇の残りをずっと僕と過ごせるようになったんだ!世界中のあり金全部より価値があるんじゃないかい?」
 お愛想を言って貰おうとするのは、いつもの彼のやり口ではない。これでは頑固な相棒にどんな……。
 イリヤは少しだけ微笑み、述べられた真実を否定しなかった。ソロはびっくりして黙り込んでしまった。

「じゃあ行こうか。ホテルに戻って寝よう」
 ナポレオンは確信はなかったものの、その言葉に何かが隠されているように思った。勿論希望的観測ではあるのだが。
「私はどうなる?」
 THRUSHの男が抗議した。U.N.C.L.E.エージェント二人は視線を交わした。ソロが決定を下す。
「君には休暇を台無しにされかけたんだ。この際君にはもうしばらくそのままでいてもらわなきゃならないと思うね。明日にでも誰かよこしてやるから」
「何だとぉ――?!」
 男は怒ってロープの中でじたばたした。笑いながら、イリヤとナポレオンは船を後にした。能無しのTHRUSH一味に幸いあれ!

Act4:"If it's excitement you want…"
 ホテルまでの帰り道、イリヤはナポレオンに何があったのかを全部話して聞かせた。それは近頃あった、THRUSHとの大して危険でもない小競り合いの一つであり、いい感じになってきた今の状況を駄目にしてしまうほどの事ではなかった。
 夜はまだ浅く、イリヤは美しい。ナポレオンの気分は間違いなく高揚していた。ついさっきのイリヤの態度になにが関連しているのか、さて自分は誤解しているのかそうじゃないのか、などと考える。
 このロシア人の話を聞いていると、事件が全部遊びだったかのようだ。自分の相棒が、ちょっとした刺激無しにはいられないのではないかとナポレオンには思われた。
 彼が無為に過ごすのを楽しいと認識できないのは、もう十二分に明らかだった。
(いいでしょ、もし刺激をお望みなら……)
 ソロは考え、暗がりの中で微笑んだ。

「何ニヤついてるんだ、ナポレオン」
 イリヤが尋ねた。例によって彼の注意力から逃れることは出来ない。
「ちょっと考え事をね」
「あっそ」
 ナポレオンが何を考えているのかと、イリヤは眉を寄せた。ゆっくりとコーニッヒ崖の上の道を辿り、ニースへと向かいながら、彼は相棒の横顔を眺め、暖かい夏の風が彼の艶やかな髪をなぶっていくさまに見入っていた。何にもわずらわされず、くつろいだ雰囲気のナポレオンが、イリヤをいい気持ちにさせてくれる。
 月光に導かれながら、夜の道を宿に向かって車を走らせているだけで、素晴らしくロマンチックだった。この美しい場所で彼と一緒にいると、自分がどんな気分だかナポレオンに話すことができたなら……。
「何を見てんだい?」
 イリヤがたびたび聞いてきたことをリピートするように、相手が詮索してきた。ロシア人は素早く、こう言ったらナポレオンを怯えさせるか、でなければ大笑いされやしないかと考えてみた。
(月の光に照らされた君の横顔に見とれていたんだ――なんてね)
「イリヤ?」
 友人が繰り返し聞いた。
「悪い、考え事に夢中になってた。睨み付けるつもりはなかったんだよ」
 ちょっとの間相棒に視線を投げると、ナポレオンは微笑んだ。
「ああそう。別に構わないけど」
「うん、気にするとは思っちゃいない」
 イリヤは笑みが浮かんでくるのを隠そうともしなかった。
「何が言いたいんだい?」
 ナポレオンはわざと憤慨したように彼の方を睨み付け、それから道路に注意を戻した。
「よく言うよナポレオン。君は見られているのが嬉しいんだろ。解ってるんだ」
「ということは、やっぱり見ていたわけ?」
 イリヤが照れたようにそわそわした。面白い、こんなのは滅多にあることじゃない。
「えっ、いや……もちろん違う。人が見てる時にそんな気がするからさ、誰かが……誰かが君を見ていると、」
 イリヤは歯噛みし、行く手に顔を向けてしまった。
「そうかな?」
 ナポレオンはとことん屈託無く尋ねた。
「ああもう!」
 何か他の話題を掴み出せないかとばかりに、イリヤは腹立たしげに両手を空に突き出した。
「運転に集中しろよ」
「かしこまりました、サー」
 ナポレオンは笑いながら会釈した。ついさっきの事件のせいで少々気分が浮き立っているのと、二人の冗談めいた雰囲気とが合わさり、イリヤはその笑いに背筋をぶるっと震わせた。ナポレオンにそれが気付かぬわけがない。
「寒いの?」
 心配そうに彼が尋ねた。
「いや、」
「ほんと?席の後ろに車内用のひざ掛けがあるから、ちょっと待って……
 ナポレオンがイリヤの座席の後ろに手を伸ばし、毛布を引っ張り出そうとした。
「何やってんだ?道路から目を離すな!」
 イリヤが叫んだ。彼の警告通り、その道路は突然行き止まりになっていた。ナポレオンは目を見開き、ブレーキを踏み込むと同時にハンドルを切った。タイヤを軋ませながら、車はやっと止まった。

 イリヤは我慢できずに、思い切ってドアの縁から覗いてみた。車は断崖の縁からほんの数インチのところで停まっている。
「危なかった?」
「ああ、」
「ごめん。今度エンジンをかけるときには、バックギヤの存在も忘れないようにする」
 ナポレオンはもう一度手を伸ばし、今度はちゃんと毛布を取り出した。
「ほら」
 相棒の膝に毛布を置いて、彼は言った。イリヤは口をぽかんと開けた。
「どうかしてんじゃないのか、解ってんの?」
 しかしどうしても顔に笑いが浮かんでしまう。ナポレオンも笑いかえし、そして彼らはしばらく顔を見合わせていた。風が一吹きすれば、地中海へ向かってまっさかさまになるという事実は気持ちよく無視しつつ。
「手伝おうか?」
 ナポレオンは穏やかに言い、毛布を振り広げて相棒の身体の上に具合よく掛けてやった。
(このロシア人ときたら、)
 彼はふとそんなことを思った。
(僕を親鳥みたいに世話焼きにさせちまうんだから)
「――ありがと」
 イリヤもウールの毛布を自分の周りにたくし込むのを手伝った。助手席のドア側の端を留めた時に、彼の手が、背中にたくし入れてやろうとしていたナポレオンの手に触れた。
 思わずナポレオンの目を覗き込みながら、イリヤは相棒の身体が、自分の身体に被さり、腕が回されていることをはっきりと自覚した。彼の身体、その温もり、そして、毛布を巻くぐらいイリヤ一人でも出来ることは解っているのに、手を引かないでいるという事実も。
 ナポレオンも毛布を巻くのを手伝おうとして、自分の手がイリヤの腰の辺りを、危険なくらいに密接してさまよっているのに気がついた。そして、今やそんな事などお構いなしとでもいうように、相手の不思議なぐらいに青い瞳が真っ直ぐに自分を見つめている。
 その視線から逃れられた試しはなかった。今もそうだった。ひたすらにその瞳に見入り、その深い青の中へと沈んでいく――何だか陳腐な言い回しだなと言う気もしたが、そんなことはどうでも良かった。これ以上に相応しい表現はないのだから。

「ナポレオン……」
 口を開きかけると同時に、イリヤはこの魔法が解けないようにするには、黙っていた方がいいように思った。
「ちょっとは暖かくなった?」
 掠れた声でナポレオンが言い、手を退けるかわりに、イリヤの腰に軽く当てたままにしておいた。イリヤはまともに声が出せるか自信がなくて、ただ頷いた。
「うんと暖かい?」
 柔和で悪戯っぽいナポレオンの眼差しは、イリヤには覚えがあった。相棒が女の子に意思表示する時に、いやというほど見てきたそれだ。あたりに女の子がいないとすれば、自分に向けられているとしか思えない。彼の胸の鼓動が早くなる。
「……すごく、暖かい」
 彼はどうにか呟き声を出した。
「暖かすぎなければいいんだけど?」
 アドレナリンとイリヤの作用で、高揚感が更に高まっていくのを抑えられず、ナポレオンはひたすら続けた。
「もし暖かすぎるんなら、ボウ・タイを緩めちまえばいい」
 そして相手の許しを待たずに、あいた方の手を伸ばし、タイを解き始めた。銀の布地が月光を捕らえて光っている。その色合いに目を奪われると同時に、友人の喉元にほんの少し触れただけで、拳のあたりに緩やかな脈動を感じた。
 イリヤは背筋をぴんと伸ばし、自分から働きかけることはしないまま、何が起ころうと成り行き任せにしていた。ナポレオンなら一人でもうまくやってくれるだろうと。

 ボウ・タイを剥ぎ取ってしまうと、ナポレオンは少しの間、イリヤはショックを受けているだけなのではないかと躊躇していた。このロシア人に、崖から外へおっぽり出されないという確信がまだ湧いてこない。だが非難めいたことは飛んでこないので、思い切ってイリヤのシャツの一番上のボタンに手をかけた。
 イリヤは懸命に、必死に耐えていた。しかしずっと堪えていた溜め息もいつか外に漏らすよりなかった。ナポレオンの指先が首のつけねに触れ、ゆっくりと下に降りると同時にボタンを外した時、イリヤは覚悟した。頭がぽんと弾けるより前に、呼吸はする必要がある。
 ナポレオンは笑ってようやく手を止め、指を相棒の開いたシャツの襟元に置いた。イリヤの動悸が激しいと言っていいぐらいに高まっているのを確かに感じる。こんなに彼の近くにいられるのも信じられない。
 イリヤはまだ彼を止めなかった。けれど彼の美しい青い瞳は、まるで初めて見るかのように自分を見つめている。その眼差しはナポレオンが夢にみるほどに渇望してきたそれだった。
 ナポレオン、こんな事が起こりうる筈がないぞ――だが現にいまここで起こっている。自分の目の前で。その眼差し、微かに動いている鼻孔、荒く刻まれる鼓動、滑らかな素肌の細かな戦慄。
 そしてナポレオンの手を捕らえているイリヤの手は、まだ彼の腰に置かれていた。イリヤのしっかりした、しかし震えている指先が、ナポレオンの手首を掴み、彼のウエストへ、毛布の端へと導いた。ナポレオンは大きく息を呑み、勇気を奮って更に先へ先へと進む事にした。

 見つめあったままで、てのひらをウール地と、相棒のウエストの下に差し入れ、せまい背中まで持っていく。イリヤが少し身体を浮かせ、相手のてのひらが動きやすいように、同時に相手の方へと身を寄せた。その小さな動きが二人の距離を消し去り、ナポレオンの身体に数十の火が点る。
 片脚を使ってイリヤを身を返させると、両腕を回し、片手で頭部をそっと抱えたままその唇を奪った。
 突然ナポレオンが大胆になったので、イリヤは一瞬身体を固くした。けれど舌が探るように差入れられた時には、激しい、熱い侵入者に夢中で応えてしまっていた。シートも、車も、それに自分たちが崖の上に危なっかしく載っかっているという事も全て崩れ去り、離さない、もうどこへも行かせないとばかりに、ただがむしゃらにナポレオンの腕にだけすがりついていた。身体だけが自由で、頭も心も、魂さえも消し去ってしまったように、必死で相棒にきつくしがみ付いたままでいた。

 あえぐような息をつき、ナポレオンはようやく相手からほんの少し離れた。頬はまだ触れ合っていて、唇でイリヤのやわらかな耳の周りの皮膚をなぶる。
「まいった……」
 まだ両腕を回したまま、ロシア人が驚きの声を上げた。ナポレオンは笑いかえし、イリヤを抱き締めた。豊かな金髪を指でかきまぜると、暖かな頭部を支える。長いことずっとやってみたかったことだった。
「ナポレオン……」
 とっさにまとまった言葉も、皮肉っぽい返事も出てこなくて、イリヤは喘ぐように言った。
「シ――ッ……」
 柔らかい耳朶にキスして黙らせ、ナポレオンはお互いが落ち着くまで少し間を取った。ようやくイリヤの瞳を覗き込める距離まで顔を引く。今まで見たこともない、この世に有り得ないほどの輝きがそこにあった。情熱で真夜中のような深い青に変った瞳の中に、月光の煌きが踊っている。ナポレオンは喉に何かが詰まっているような気分だった。
「自分がどんなに美しいかなんて考えたことはある?」
 ナポレオンは囁いた。イリヤが唇を指で閉じさせる。
「君、口が多いよ」
 やんわりと、からかうように言った。

「もし僕にして欲しいことがあるんなら、そう頼むだけでいい」
 あからさまな提案に、イリヤの全身を震えが走った。信じられないようなキスをした唇に目をやると、それが自分に向けられたり、触れたり、自分を捉えた時のことが頭に浮かぶ。彼の欲求はとうに火がついて、確実に燃え広がっている。
 ナポレオンの頭の片隅で、まともな神経の切れ端が、崖っぷちから車を動かした方が安全だぞと告げているのだが、その間イリヤから離れてしまうのがもう耐えられなかった。それに自分のパートナーは危険に脅えているようには見えない。
 イリヤはというと、何だって自分たちは十代のカップルよろしく、車の中でやろうとしているのかと戸惑いながらも、ナポレオンに手を延ばした。ナポレオンの方はそれを気にしてはいないようで、イリヤを腕の中に引き寄せると、大きく息をついた。
「僕が君にしたいことはね……」
 そして、小ぶりで敏感な耳元に、誘い掛けるように囁いた。
「どんなの?」
 イリヤは息を吐いた。頭がくらくらしそうで、ナポレオンが何を求めているのか敢えて想像することはしなかった。
「行いは言葉より雄弁なりき、だよ。Illyusha」
 この台詞はロシア人の気に入ったようで、イリヤがナポレオンの首筋でくすっと笑った。

「まず、これから……」
 ナポレオンが言い、イリヤの膝からラグを剥がしにかかった。イリヤは息をつめて、次に起こることを待った。身体に当たるナポレオンの素晴らしく心地よい手つきをどうしようもなく感じて、イリヤの全身がおののく。
 ナポレオンはさっきイリヤに巻いたばかりの、いまいましい毛布をどうにか取り去って、ほっと息を吐きながら後部座席にほうり投げた。イリヤを自分の身体でシートに押し付け、深く瞳を覗き込む。
「Illyusha、僕にいい事して欲しい?」
 喘ぎ声で応える。
「イエス……」
 かるく突き出された唇を情熱的な口接けで塞いで、ナポレオンはイリヤの身体を自分の炎で溶かす。今度のロシア人は、前ほど驚かされはしなかった。相手の反応にはっとなったのはナポレオンの方だった。彼は仰け反りながら、相棒の腕が身体に回り、服の下へとさまよい入るに任せた。
 イリヤのトラウザーから糊の効いた白いシャツを引っ張り出すと、ナポレオンは終に、ずっと触れたいと思い続けていたその素肌を感じた。それは暖かくて柔らかで……イリヤの外見とは見事に対照的だった。
 彼は微笑んだ。
「分かってたさ」
 そっと口にして、キスで邪魔な問いかけを止めさせる。キスだけでどうしてこうもナポレオンに感じているのか、イリヤには信じられない気分だった。そして欲望は更に、どんどん強まっていく。
「君はがっちり着込んじゃってるんだな」
 相棒の服に手を置いて、文句を言った。ナポレオンは相手の服を脱がし続ける方に夢中で、そっちの方はどうでもよくなっていた。彼の回りにあるのはイリヤだけだった――彼の暖かな芳香、固い筋肉と柔らかな肌、開かれた唇、ナポレオンのそれの下にある彼の漲り。
 ようやくロシア人のトラウザーをくつろげると、ナポレオンは手を止めて、イリヤの身体が昂ぶって震えているのを愉しんだ。それから手を差し入れ、自分の身に押し付けられている、熱く硬くなったものに触れた。

 切ないほどに優しい指が自身に巻き付き、即座に速度を上げながら強く動き出す。イリヤは呻き声を上げ、
「もっとゆっくり、ナポレオン――」
懇願するように言った。
「頼むからっ……」
「ごめん、無理だ!」
 上がった喘ぎに危うく理性を吹き飛ばしそうになりつつ、ナポレオンは一層手指の力を強くした。
「君の感触はたまらないよ、イリヤ、」
 言い訳しようとしたが、自分でも聞き取れないような声が出た。イリヤはありったけ集中して、こう呟いた。
「君が……しながら、僕の名前を呼ぶの……すごくいい……」
 ナポレオンの手は万力のように強くてパワフルで、同時に優しくもあった。
「あぁっ――…」
 津波のように押し寄せるオーガズムに、目の前がぐるぐる回る。
「イリヤ……」
 その効果が分かって、ナポレオンは繰り返して名前を呼んだ。
「僕の、イリヤ……僕の、綺麗で、とんでもなくセクシーな……イリヤ!」
 くぐもった叫びを上げてイリヤは果て、ナポレオンの手に濡れた熱いものを零した。ほとんど気絶しそうになりながらも、ナポレオンの宥めるような声と、絶頂が過ぎた後に優しく触れてくる手が、彼の意識を繋ぎ止めていた。
 同じようにナポレオンも、胸に当たっている金髪の頭のせいで我に帰った。力の抜けた身体を引き寄せてしっかりと抱き締め、イリヤの頭のてっぺんにキスをした。
「僕は君を愛してる、わかるよね?」
 彼は穏やかに言った。驚きに見開いた目が向けられる。
「ナポレオン……」
 イリヤはまごついていた。それを認めることよりも、それより先に起こった事に対して。彼は身を乗り出し、互いに息がつけなくなるまでナポレオンの唇に熱っぽく自分のそれを押し付けた。精一杯の感謝を込めて。

「――ホテルに戻ろう」
 イリヤはやっと身体を動かした。
「君が僕にしたいことを、他にも教えて欲しいんだ」
 ナポレオンは笑い、ひょいと自分の席に戻った。
「君に出来るかな?」
 そう揶揄うと、イリヤは自分の衣服を直す手を止め、相棒の頬に素早くキスをした。
「正直言ってわからない。でも、試してみる気はあるよ」


 特別に熱かった夜のその後の、幾分涼しげな夏の日は、予定していたピクニックにはぴったりに思えた。
 おセンチなところを少々発揮して、ナポレオンは崖の上の同じ場所まで車を走らせた。ラグを広げてその上に座り、背中を樹にもたせかける。ラベンダーのお花畑は必要なかった。イリヤの匂いだけで十分に甘美だった。
 彼の――恋人は、前に座って、ナポレオンの胸によっかかっている。
「食べ物持ってきた?それとも、お互いを食べあわなくちゃなんないの?」
 相手が冗談ぽく尋ねた。ナポレオンは声を立てて笑った。
「君がそうしたいんだったら、僕は食べ物なんか持ってこなかったのに」
「当ててみようか。いちごと生クリームだろ?」
 イリヤは相手の驚く顔を完全に楽しんでいた。
「僕が言ったこと、覚えてたのか?」
 ナポレオンは呆気に取られていた。あの時は、イリヤに聞こえていたとすら考えていなかったのだ。
 答えの代りに、ロシア人はピクニック・バスケットに手を突っ込んで、小さな籐編みのかごと、クリームの入った容器を取り出した。いちごを生クリームに付けて振り返り、ナポレオンの口の中へと運んでやった。
「分かってない場合に言うけど――僕も、君を愛してる」
 彼は説明のつもりでそう言った。ぱっと顔を輝かせたナポレオンが、彼にキスしようとする寸前で、コミュニケーターがピーピー鳴った。

「こんなもの置いてくればよかった」
 彼は文句を言ったが、彼らの職務規程上、呼び出しがあれば即刻応答せねばならぬ。
「こちら、ソロ」
 予想通りウェイバリー氏のだるそうな声がした。
「ヴァカンスの成果はどうだね、ミスタ・ソロ?」
「上々です、Sir」
「それを聞いて嬉しいよ。どうして私が連絡してきたか、不思議に思ってるんじゃないかね」
 ナポレオンは眉をひそめた。
「ええ、はい。そんなところです」
 ウェイバリーは困惑しているようだった。
「君とミスタ・クリヤキンは、昨夜ちょっとしたアドベンチャーがあったそうじゃないか」
 両者の顔にさーっと青白い影がさし、視線を交わし合った。
「あのぉ……Sir?」
 イリヤがしゃがれた声を出した。
「ミスタ・クリヤキン、君もいたのかね。結構、君達二人に話したいと思っていたんだ」
 ナポレオンがきまり悪そうに身じろいだ。
「僕らの『アドベンチャー』についてでしょうか?」
「そうだよ、」
 バックでウェイバリーがせわしなく書類をめくっている音がした。
「君達二人は非常にエキサイティングな夕べと、さぞや眠る暇もない夜を過ごしたろうねえ」
「でも、どうして……?」
 イリヤがナポレオンの方にヒソヒソと言った。ナポレオンはコミュニケーターに手を被せた。
「どーして氏に知られたかって?見当もつかないよ!」

 その間もウェイバリー氏は喋り続けていた。
「……で、近くのヨットのオーナーが今朝港に行ってみると、スラッシュ地方局の代表者とやらの、どう考えてもみっともなく助けを呼ぶ声に気付いて、男が縛られているのを見つけたという訳だ。男の話では二人のU.N.C.L.E.エージェントに襲われてやっつけられたということだが、それは君達二人の事だと私は確信しているんだがね」
 ナポレオンはにんまりと笑い、その間にイリヤはほーっと息を吐き出して、いちごを口の中に放り込んだ。
「イエス、サー。それはおおかた僕とイリヤだったんでしょう。面目ないですが、奴の事はまるっきり忘れてました」
 彼はウェイバリー氏が釈明を求めてこないようにと祈った。その老人は含み笑い、彼は胸を撫で下ろした。
「君を叱責したりはせんよ。結局のところ何も損害はなかったんだし、君達はれっきとした休暇中なんだからね。それに割り込んできた相手の配慮が第一に足りなかったと言うことだな」
 イリヤは頷いた。彼の顔はきっぱりとした、また悪戯っぽい表情を浮かべている。
「そうですね。それと、この旅行を無理にでも行かせてくれてありがとうございました。結局僕たちには必要な事だというのが分かりましたよ」
「言った通りじゃないか、とは言わないでおこう、ミスタ・クリヤキン。しかしそれを聞いて何よりだ。じゃあもう少し滞在を延ばしたいだろうね?」
 ナポレオンの返答は素早かった。
「ええ、差し支えなければ。イリヤはまだ緊張ぎみですし、僕ももう少しお楽しみの時間が欲しいなと」
「大変結構だ、諸君。好きなようにしたまえ。では緊急事態が起こらない限りは、君達に任せるとしよう。通信終り」
「失礼します、サー」

 ナポレオンはコミュニケーターを上着のポケットに戻すと、イリヤに笑みかけた。
「君はどうか知らないけど、僕は今すぐここで、ちょっとばかりお楽しみが欲しいなあ」
 イリヤが身体を寄せる。
「僕がお楽しませてやっても構わない?」
「許可がいるとでも?」
 ナポレオンは寄りかかった姿勢で、イリヤが真っ先にベルトに手を掛けて、手っ取り早く外してしまうと、続いてトラウザーのジッパーに取り掛かるのをびっくりしたように見守った。相棒がクリームのボウルにまた手を伸ばした時にはますます驚いた。
「僕は、いちごはそんなに好きじゃないんだけど……」
 ロシア人は喉を鳴らすように言った。ナポレオンの熱くなっていく表情を楽しげに見つめながら、指を乳白色の泡立ちの中へ突っ込む。そして、色んな邪魔な布を相手から取り除き始めた。
「でもね、クリームは大好物なんだ!」

THE END

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