revenge.jpg by Ginny
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Act-1

 イリヤ=クリヤキンは急いでいた。
 彼は何が起こっているのか、さしたる注意も払わずにエレベーターを降りた。今はホテルの部屋のあったかいベッドに戻ることに気を取られていたし、そのベッドの中の恋人の元に戻ることに、更に気を取られていた。彼ら二人はコインを弾いて、どちらが地方支局に書類を届けるかを決めた。負けたのはイリヤで、三時間前にここを出ていったのだ。

 ひとかたまりの人々が、ホテルの自室の周りに立って中を覗き込んでいるのを目にし、言うまでもなく彼はぎょっとした。人目につかないよう、イリヤは歩みを緩めて群集の中に加わり、人々の会話から何があったのか把握しようとした。
 部屋からストレッチャーが引き出され、重傷を負ったナポレオン=ソロらしい姿が運ばれてゆく。彼は驚愕し、その場に立ち竦んだ。堪らずにストレッチャーに駆け寄って叫ぶ。
「ナポレオン!」
 職員を遮ってソロの上にかがみ、息を詰めて脈を確かめる。パートナーから緩やかでしっかりした脈を感じ、クリヤキンは再び息をついた。ストレッチャーを押していた職員の一人に顔を向ける。
「何があったんだ?」
 その時、手を固く握り締められてイリヤは視線を下げた。自分の手が、恋人のそれにぎゅっと握られていると知り、彼はストレッチャーの横に膝をついた。
「Napasha、誰にやられた?」
 ナポレオンにそっと耳打ちしたが、パートナーからは強く握ってくる手と、小さな安堵の吐息の他には、何の応えもなかった。ストレッチャーの後についていた捜査員が、イリヤに歩み寄った。
「一体君は何だね?」
 疑わしげにイリヤを上から下まで眺め回し、彼の手が負傷した男に握られているのをじろじろと見ながら相手は言った。このお巡りに何と思われようが構うもんか、とイリヤは自分の手をパートナーに預けたまま、強く握りかえした。
「いま身分証を出しますよ」
 彼は答え、捜査員に顔を向けた。相手が頷いたので、イリヤは立ち上がってジャケットに手をのばし、U.N.C.L.E.のIDカードを引っ張り出すと、捜査員に渡した。
「この男は僕の仕事仲間なんです」
 ストレッチャーに横たわる、傷だらけの身体に目を落とす。
「何があったのか話してもらえますか?」
 捜査員は奇妙な目で、手にしたIDカードを凝視した。
「一緒に署まで来てもらおうか。担当官はあんたの話を聞きたがりそうだ」
 相手の口調は穏やかだったが、その表情は依然疑い深げだった。ストレッチャーの傍に立ったままのイリヤは、ナポレオンにしっかりと握られている手を振りほどく気になれなかった。彼は屈み込み、パートナーに耳打ちした。
「Napasha、僕は警察署に行って、何があったか調べなきゃいけない。あとで、病院で会おう」
 パートナーの手を柔らかく握り、そっと手をほどく。イリヤは二人の救急隊員が、ナポレオンを載せたストレッチャーをエレベーターに積むのを見ていた。エレベーターのドアが閉まった時、彼は眉をひそめ、目を閉じて友人の姿を追うのを止めた。深呼吸してから捜査員に向き直る。
「さて、僕の同僚に何があったのか、正確な所を教えて頂けますか?」
 捜査員は彼のIDカードを手にしたまま、不審げに彼を睨み付け、
「名前はクリヤキン、というとロシア人か?」
 不躾に尋ねた。イリヤは頷いた。捜査員はもう一度奇妙な視線を向け、
「署まで来てもらおうか」
 横柄な声で言った。まだ一体どういう事なのか分からないまま、イリヤは再び頷いた。
「どんな取り調べでも全面的に協力します。ただし、先に部屋の様子を見て、上司に報告が出来るように、幾つか詳細を掴んでおきたいのですが」
 まだ彼をねめつけたまま、捜査員は答えた。
「我々の知る限りでは、君の同僚は何者かに襲われ、そのままうち捨てられた。部屋から叫び声が聞こえてきて、メイドが警察を呼んだ。襲撃者は少なくとも三人いて、壁にメッセージを残して行った。次の犠牲者は、お前さんだとある」
 イリヤはぎょっとして、少しの間身動きしなかった。
「そのメッセージは、正確には何と?」
 彼は捜査員に尋ねた。相手は意地悪げとも言える口調で答えた。
「メッセージの正確な文はこうだ。『最初はソロ、次はクリヤキン、そして両方が死んで、終りになる』とね」
 イリヤは捜査員を睨んだ。
「メッセージを読み次第、上司と連絡を取らせてもらいます。その後でしたら仰せの通り、署まで同行しましょう」

 捜査員は彼を室内へ通し、イリヤは自分が出ていった後の、自分たちの部屋の惨状に仰天した。部屋は血まみれで、誰かが部屋の隅に吊り下げられていたらしく、血に染まったロープが天井からぶら下がっていた。その下のカーペットには、大きな血の染みに覆われていた。
 イリヤは顔を歪めた。この血は全て、自分のパートナーが流したものなのだ。そして深く息をついて感情を抑えつけ、他に手掛かりはないかと室内を見渡した。ベッドと反対側の壁に、捜査員が言っていたメッセージが記されている。これも、ナポレオンの血で壁に書かれたのだろう。
 ベッドを見て、イリヤは少しの間首を傾げた。奇妙な血の跡がシーツを横切っている。大型のネコ科の動物が残したもののようだった。彼は捜査員の方を向いた。
「こんな足跡を残す、ネコ科の動物に心当たりは?」
 捜査員のほうは我慢の限界だった。
「部屋を見ることは許可した。ここらで署に来てもらう時分だろう。こっちの上司が、お前に少々聞きたいことがあるそうだ」
 イリヤは頷いた。
「いいでしょう。上司に事件の報告をしたらすぐに」
 彼は、捜査員が戸口までついて来て、自分の行き先を目で追っているのを感じながら、また廊下に出た。製氷機の置いてある壁の陰で、こっそりとコミュニケーターを取り出す。
「オープンチャンネルD」
「やあミスタ・クリヤキン」
 即座にコミュニケーターを通して、ウェイバリー氏の声が響いた。
「目下書類の受け渡しを終えて、ホテルにおります、サー。ナポレオンが襲撃を受けました」
 イリヤは声を落ち着かせようと努めた。
「僕ら二人に対する脅迫文が残されています。それと、僕は今から地元の警察署へ、事情聴取に連れて行かれるところです」
 穏やかなウェイバリー氏の声が返ってきた。
「地方支局と連絡を取って、署に誰かよこそう。ミスタ・クリヤキン、それまで君は警察に全面的に協力するように。ミスタ・ソロの容体はどうなんだね?」
「分かりません、サー。警察の連中は、僕を病院に行かせてくれそうにありませんし、今は彼らに同行するのが最善策だと思われます。病院に着き次第連絡します。チャンネルD、クローズ」
 イリヤは壁の窪みから出て、エレベーターに向かう捜査員と合流した。


 恐ろしく長くて静まりかえった道程の果てに、イリヤは捜査員と警察署に到着した。相手の男は彼の様子を伺っているようで、その理由が分かっているイリヤはひどく不安な気分になった。
 自分はアメリカにいるソヴィエトの人間で、その、アメリカ人であるパートナーが重傷を負わされた。イリヤは、合衆国における自分の立場への、とてつもない偏見に晒されてきており、悲しいかなその殆どは、こんな官僚人種からのものであった。ソヴィエトと名のつく全てのものへの彼らの疑念が、まっとうな感性を奪い去ってしまっている。
 クリヤキンは、地方支局からの使者が着くまでは徹底して慎重に振る舞わねばならないと、さもなくば気がついた時には冤罪で牢に繋がれており、ナポレオンを助けることも出来なくなってしまうのだと自分に言い聞かせた。

 彼は黙ったきりの捜査員に伴われ、初めに指紋の採取、そして写真撮影、それから説明抜きで研究室に連れて行かれた。血液を採取される間もじっと座っており、そして自分を取り調べ室に連れてゆく捜査員を、問いたげに見た。
 男がもう一人、大きなテーブルの前に立っていた。
「掛けたまえ、ミスタ・クリヤキン」
 イリヤがドアから入って来た時、相手は荒っぽく言った。
「私はウォレス刑事、本件を担当している」
 示された椅子に腰掛け、イリヤは握手しようと手を差し出した。
「ウォレス刑事、よろしく」
 その手は黙殺され、仕方なく手を横に下ろす。
「僕のパートナーの具合は?」
 ウォレスは暫くの間、黙って彼を観察していた。
「まだ病院からは何も聞いていない。何か分かったらすぐ知らせる」
 イリヤはパートナーの状態が気になって、そのあとに言われたことを聞き逃した。
「……いま何と?」
 ウォレスは声を荒げた。
「君と、君のパートナーは、この町で何をしていたのか、だ」
「U.N.C.L.E.の仕事で来たんです、刑事さん。任務はもう完了して、朝になったら飛行機で帰ることになっていました」
 こんな事がなければ、自分たちはもうNYに帰るばかりだったのに――イリヤは首を振った。捜査官は更に続けた。
「君と、君のパートナーは、上手くやっていたのかね」
 何を聞かれたのかと、イリヤは身を固くした。
「上手くやっていた?」
「そう、上手くやっていたかだ。何か揉め事があったんじゃないのか」
 イリヤは遂に事の成り行きを悟った。
「刑事さん、ナポレオン=ソロは僕の生涯で、おそらく最高の友人であり、また数年に渡ってのパートナーでもあるんです。あなたは本気で僕が、彼が襲われたことに関係していると考えてらっしゃるんですか?」
 自分が疑われているのだという考えに、彼は驚愕していた。
「あらゆる人物を疑うのが私の仕事なんだ、ミスタ・クリヤキン。とはいえ、君から採取した血液の検査結果で何もかも明らかになるのではないかな。君とパートナーは、しょっちゅう同室になるのかね?」
 イリヤはもう一度首をひねった。
「一体どうして血液検査が必要なんですか、ウォレス刑事。それと――先程の質問ですが、僕らは、雇用主からそう命じられた場合はいつでも、同じ部屋を取っています」
 ウォレスが直に目を合わせてくる。
鑑識の話では、君の同僚は性的に暴行されている可能性があると、少なくとも、何らかの性行為の痕跡があるとの事だ。彼の身体から採取されたサンプルと、君の血液型が一致しないと分かれば、直ちに我々は、君を嫌疑から外せる」
 イリヤは全力で表情を変えまいとした。一瞬、支局の人間に会いに出かける直前、自分とナポレオンが激しく愛し合ったことが頭に浮かぶ。
 ちょうどその時、ドアが開き、スーツ姿の壮年男性が現れて、彼の思考は中断された。その男はイリヤに近づいて来た。
「ミスタ・クリヤキン、私はジェイムズ=ウォーレン、この支局の特務課主任です。お会いできて光栄に思います。あなたとナポレオン=ソロの名前は、いつも伺っています」
 ウォーレンは、ウォレス刑事の方を向いた。
「ウォレス刑事、また会えて実に嬉しいですよ。U.N.C.L.E.支局では、貴方にも貴方の調査にも何なりとお手伝いしましょう」
 ウォレスは当然のように、その男と握手をした。
「ミスタ・ウォーレン、また会えて何より。この件はU.N.C.L.E.の応援がなくとも、我々で何とか出来ると思います」
 そしてもう一度イリヤを睨んだ。
「とはいえミスタ・クリヤキンに関しては、今のところ用は済みました。ミスタ・クリヤキン、もう行っていいが、無断で町から出ていかないように……」
 電話が鳴り、彼はそこで言葉を切った。
「ちょっと失礼」
 そして手を伸ばし、受話器を取った。
「ウォレスだ」
 イリヤは立ち上がり、相手が受話器を置くまでじっと机の脇に立っていた。
「連絡はします、刑事さん。僕は今からパートナーの具合を見に行きたいのですが」
 ウォレスはまた疑り深い目を向けてきた。
「そうもいかないようだよ、ミスタ・クリヤキン」
 ジェイムズ=ウォーレンが口を挟む。
「何か問題が?ウォレス刑事」
 ウォレスは、自分より年若い男の方を向いた。
「そのとおり、ミスタ・ウォーレン。ミスタ・クリヤキンの同僚が、病院から姿を消したようだ。病院でX線検査をしてから、彼を暫く一人にしておいた。看護婦が戻ってみると、姿がなかった」
 イリヤはとっさに考えた。ナポレオンが単に出ていったか、でなければ彼を襲った何者かが戻って来たことになる。彼はドアに向かった。
「いますぐ病院に行かせてもらう」
 彼の口調は、先程の刑事同様に荒っぽかった。ウォーレンが戸惑い気に彼を見遣る。
「ミスタ・クリヤキン、我々はここにいて、ウォレス刑事に手を貸した方がよいと思うのですが」
 イリヤは全く構わずに言った。
「ミスタ・ウォーレン、僕はパートナーを探しに行くので、貴方がここに留まって、必要ならどんな助力でもしていて下されば非常に有り難く思います――車を貸してもらえますか?」
 キーを渡され、車について説明を受けるが早いか、彼は警察署を飛び出して行った。

**
 警察署を後にした時には、イリヤはぐったりしていた。警官達はどこまでも彼を非常な疑いの目で見ていて、もしあの血液検査の結果が出るより前にパートナーを探し出さなければ、大きな問題が降りかかってくる事だろう。
 彼は混乱していた。普段は感情的になる方ではないし、自分の同僚とこうなる前は用心深く、抑制された人生を送ってきたのだが、もうそれ以上に何から考えていいのか分からなくなった。
 分かっているのはナポレオンを襲った何者かにまた発見されるより前に、彼を見つけなくてはならないという事だった。

 彼は車を病院に向かってゆっくりと走らせ、道路を見回しながらパートナーが隠れていそうな場所はないかと探した。さっき目にしたナポレオンの怪我の酷さからすれば、あまり遠くに行ってはいないだろう。イリヤは道の両側を見回しながら、どんどん病院へと近づいて来た。
 病院から半ブロックも離れていない公園に着いた時、彼は思いっきりブレーキを踏んだ。胸の中のなにかが、行くべき方向を彼に告げていた。それはパートナーの事になると働き出す第六感であり、彼はずっとその声に従ってきた。
 メインロードから素早くハンドルを切って、彼は公園を抜け、ほぼ突き当たりまで向かった。そして車を停めて歩いて行った。ゆっくりと木々の間を縫って歩くにつれて、うなじのあたりの髪が根元から逆立つようだ。地面の上に倒れ伏している黒髪の人影が目に入るや、彼は走り出した。

 傍に膝をつき、イリヤは手を伸ばしてそっと動かぬ身体を仰向けにした。ナポレオンだった。すぐに脈を確かめる。脈はあったものの、ソロに意識はなかった。
 イリヤは震える手で、恋人の顔を軽くはたいた。
「ナポレオン、聞こえるか?」
 ソロの瞼がゆっくりと開き、何か意味不明の言葉を呟いた。クリヤキンは周囲を見回した。公園に人の姿はない。友人を立ち上がらせ、腕を肩に回させてナポレオンの体重の殆どを支えると、彼はゆっくりと車に向かって歩いた。
 友人を助手席に下ろすと、イリヤは膝をついて、傷ついた頬に軽く指を滑らせた。
「見つけたよNapasha、君はもう大丈夫だ」
 ソロはまた何かはっきりしない言葉を呟くと、シートに頭を寄りかからせ、瞼を閉じた。運転席に急ぐと、イリヤはほんの少しの間、傍らの動かない身体を見下ろした。
「OK、ナポレオン」
 声に出して言う。
「これからどうする?」
 友人は病院から逃げ出したのだから、そこに連れ戻されたくはあるまい。車のギヤを入れ、彼は公園を出て、町の郊外のモーテルのある地域へと向かった。

 イリヤはちっぽけなモーテルの一番端にある、小ぶりのバンガローを借りた。
 そこを選んだのは入り口が道路からも事務所からも見えないからで、誰にも見えないと分かっていても、彼は誰かがモーテルから出入りしていないか注意は怠らなかった。
 助手席が正面玄関に向くように車を駐車し、クリヤキンは再びパートナーを抱えるようにして車から出して、そっとクイーンサイズのベッドに横たえた。出入り口に三重の鍵をかけると、パートナーの所に戻っていった。


 イリヤは自分に出来る範囲でナポレオンの具合を改めると、ベッドの横に椅子を持ってきて座り、そのまま待った。ほぼ1時間経った時、ナポレオンが身動きした。
 イリヤはすぐさまパートナーの傍に腰かけた。覚醒しはじめた身体から呻き声があがる。ナポレオンは大声で呻きながら、ベッドの中でのたうった。
 イリヤはナポレオンの顔に手を伸ばして優しくさすり、彼を落ち着かせようとした。
「ナポレオン、大丈夫だ。僕がついている。愛してるよ」
 穏やかに話しかけ、興奮している男を宥めようとする。ナポレオンは聞こえていないのか、のたうつ動きが激しくなり、また何か呟き始めた。何を言っているのかは依然わからなかったが、興奮はどんどん酷くなっていく。
 ベッドに身を乗り上げると、イリヤは壁に寄りかかって、友人を腕に抱き寄せた。相手を出来るだけそうっと胸に抱えると、子供にするように揺すってやる。穏やかにナポレオンの耳に囁きかけながら、彼はソロがようやく落ち着きを見せるまでずっと抱いていた。

 急にナポレオンの腕が持ち上がって、パートナーの身体に巻き付き、その引き締まった身体をぐいと引き寄せた。
「Illyusha……」
 柔らかく呟き、穏やかな吐息と共に彼は顔を友人の胸元に押し付け、深い眠りについた。
 イリヤは二時間以上、ベッドに座って友人を抱き締めたまま離さなかった。最愛の人間の身体を、ずっと抱えてあやしていた。ナポレオンの腕もまた緩むことなく、恋人の身体に強く抱き付いていた。

 突然瞼がばちんと開き、一瞬そのハンサム・フェイスに恐怖を浮かべたあと、自分がどこにいて、抱き締めているのは誰なのかに気づいた。腕から力を抜いて、握り締めていた手を解くと、ナポレオンは顔を上げてパートナーを見た。
「イリヤ?」
 イリヤは恋人の小刻みに震える体を、新たな抱擁で宥めた。
「大丈夫だよNapasha、僕がいる。君は安全だ」
 友人の顔をそっと胸に戻し、揺すりながら、パートナーが生きて腕の中にいる感触を楽しんだ。ソロは軽く胸に手を置いて、彼を押し止めた。
「イリヤ、ここは何処だ?」
 彼の声は低く、聞き取りにくかった。
「公園で君を見つけた。君は病院を抜け出して、今僕らがいるのは町の郊外のモーテルだ」
 イリヤは極力声を平静にしようと努めた。
「Napasha、どうして病院を抜け出したりしたんだ?」
 ソロがパートナーの強い腕から抜け出して、ベッドの足元へと後ずさった。彼の顔にはまたほんの一瞬、怯えの色が浮かんだが、同じぐらいすぐに消えてしまった。
「僕に分かっていたのは、ただ君を見つけて、警告しなくちゃという事だった」
 彼は両手に顔を埋めた。イリヤはベッドを滑り下り、椅子の端に戻った。
「ナポレオン、頼むからもう一度落ち着いて。君がその方がいいなら、僕はここから動かない」

 パートナーは恐怖に怯える自分を恥じているのだろうが、時間を無駄には出来なかった。その問題は横に置いてしまっても、これから何をすべきかはっきりさせなくてはならないのだ。
「ナポレオン、どうかしたのか?」
 ソロの顔が持ち上がって、パートナーを見上げる。
「イリヤ…………」
 その声が途切れた。イリヤは立ち上がり、ごくゆっくりとした足取りで二歩歩いて、ベッドの足元で立ち止まった。友人に向けて手を伸ばす。
「Napasha、君を助けたいんだ。何があったか話して欲しい」
 ナポレオンは少しの間、伸ばされた手を目の前に友人を見上げ、そして恐る恐るその手を取って、強く握った。
「あぁIllyusha、本当に悪かった。何であんな態度を取ったのか自分でも分からないよ。襲われた時のあんな、どうしようもない気分は生まれて初めてで――自分を取り戻すことも出来なくなっちまったみたいだ」
 彼は愛おしげに、蒼く澄んだ瞳を覗き込んだ。こうして見ているだけで十分に心が安らぐ。イリヤはベッドに座りなおし、恋人を腕の中に取り戻した。

「いいんだよ。君さえ無事なら、他は大したことじゃない」
 彼は顔を傾け、友人の震える唇に優しく口接けた。
「Napasha、今すぐに話さなくても構わない。僕が本当に気にしているのは、何よりも君なんだから」
 ナポレオンが深く息をついてから答える。
「君がいるならもう平気だ。我々はこんな事に対する備えは出来ているし、訓練もしてきた。ただ、あまりにも突然だったから……イリヤ、奴等は会ったこともない連中だった。奴等が押し入って来た時、僕はぐっすり眠り込んでいた。気がついたら喉にナイフを突き付けられ、目隠しと猿轡を嵌められ、肉の塊のように吊し上げられた」
 彼はパートナーのしっかりした肩に、額を落した。イリヤは必死で怒りを堪えた。
「奴等は何か言っていた?」
「ただ、これは復讐だと、次は君の番だと言い続けていた。あぁIllyusha、奴等がいる間に君が帰ってきたらと思うと、僕は――」

 ナポレオンの肩に両腕を回したまま、イリヤは尋ねた。
「ナポレオン、済まないけどこの事を聞いておく必要がある……性的に暴行された?」
 パートナーの不安げな口調に、ソロは顔を上げて目を合わせた。
「いいやイリヤ、奴等は僕を相当に痛めつけてくれたが、そういう事はなかった。どうして?」
「Napasha、ちょっと困ったことになってるんだ」
 イリヤは声を落ち着かせようとした。
「どんな事に?」
 警察が、君の身体から採取したものと比べるのに、僕から血液サンプルを取った。覚えてるか、あの晩出かける直前に、君と愛し合っただろ?警察の考えでは、君は性的にも暴行を受けていて、血液型が一致するかを調べる気なんだ」
 友人が何と答えるか気に病みながら、イリヤは注意深く彼を見た。
「僕らの秘密をばらしてしまうか、でなければ僕は、君への暴行で逮捕される」
「おいイリヤ、本気で僕が気にするとでも思ってるのか?僕が君を愛してることを」
 ナポレオンは疑いようもなく真剣に、パートナーの青い瞳を見つめながら話した。
「君のどんな嫌疑も晴らしてあげる。僕は奴等の話し声を聞いたし、性的暴行もされなかった」
 イリヤが自信無げに言った。
「U.N.C.L.E.には何と言う?」
 ナポレオンはいたわるように微笑んだ。
「ウェイバリー氏や友人どもは、君が僕と一緒に住むようになった時から分かっているよ。君が気にしない限り、とやかく思うような奴はいないさ」
 パートナーの鍛えられた身体に寄りかかっている男に、目に見えて力が蘇ってくる。イリヤが相手に合わせて仰向けに倒れ、唇が触れ合って優しく絡み付いた。
「OK、今すぐ警察に電話するか、それとも明日の朝?ん?」


***
 イリヤは車を警察署脇の駐車スペースに停め、助手席に駆け寄ってパートナーに手を貸した。
「Napasha、止めた方がよくないか。君は休まないと」
 ナポレオンの腕を取り、車から降りるのを手伝いながらイリヤはそっと言った。ソロが痛む体を、ゆっくりと席から持ち上げる。
「僕は今ケリをつけておきたいんだ、イリヤ。君の疑いを晴らす前に僕に何かあって、検査の結果が返ってきたらどうなる?」
 脚の痛みに顔を歪ませながら、彼は歩き出した。
「今すぐ間違いを正しに行く。それからなら、君は僕を連れて帰って、好きなだけ甘やかしてくれていい。OK?」
 イリヤはさっとパートナーの腕を取って肩に回させ、出来る限りその体重を支えた。
「じゃあ後で喜んで甘やかさせてもらう。でも今だって手助けぐらいはさせてくれ」
 ナポレオンがそのしっかりした肩に腕を置いた。
「有り難いね、愛しのきみ」
 そしてゆっくりと警察署に向かって歩き出しながら、そっと呟いた。

 イリヤは中央の部屋を通り抜け、今日会った刑事のデスクへと真っ直ぐに向かった。ウォレス刑事は、近づいてきた彼等に視線を向け、びっくりしたような表情を浮かべた。
「ミスタ・クリヤキン、今日またこんなに早く会えるとは意外でしたな」
 イリヤは皮肉っぽく相手を見た。
「僕のパートナー、ナポレオン=ソロを紹介したいと思いまして、刑事さん。ナポレオン、こちらウォレス刑事。今度の事件の担当官だ」
 デスクに歩み寄り、横にいるパートナーの脚が震えているのに気がついて、身体を支えた。
「話したいことがあるので、どこか別室を用意してもらえますか」
 捜査官は何も言わずに椅子から立ち上がり、さっきイリヤを連れていった取り調べ室へと向かった。イリヤはナポレオンに付き添いながら、捜査官の後についてゆっくりと部屋に入ってゆき、そっとナポレオンを椅子に掛けさせ、自分はその横に立った。

 ウォレスはナポレオンを見た。顔色がひどく悪い。
「ミスタ・ソロ、何故病院を抜け出したのか、ご説明願えますか」
 ナポレオンは猛々しい視線を捜査官に向けた。
「貴方なら病院にじっとしていたとでも?僕にはパートナーを見つけ、危険を知らせる必要があった」
 そしてイリヤの方を一瞥した。
「あんたは僕の同僚がこの件に関係してるとかで、あからさまに疑っているそうだな」
 動いた拍子にナポレオンは顔を歪め、楽な姿勢を取ろうとした。イリヤがさっと傍に膝をついた。気遣わしげな表情を一杯にして。
「ナポレオン、頼むからそれは後にしないか。君にはまだ無理だ、さあ帰ろう」
 ソロがちょっと振り向いて、優しげな視線を向けたが、強い調子で言った。
「今すぐにやるんだ。イリヤ、僕は大丈夫」
 視線を捜査官に戻すと、ウォレスが顔を合わせてきた。
「現時点で我々は、あらゆる方向に捜査を進めていくものなのです、ミスタ・ソロ。ご理解いただかなくては」
「ウォレス刑事、あんたが、僕の同僚がロシア人だからというだけの根拠で、こんな酷いことをしたと告発する気でいるんだろうって事ならば理解している」
 相手の痛いところをついたらしいのがナポレオンには見て取れた。
「もし彼がアメリカ人のエージェントだったのなら、あんたらは彼を尋問しやしなかった、そうだろう?」
 ソロの口調は冷ややかだった。
「もし事件が起こった時、僕のパートナーが一緒にいたら――ウォレス刑事、死体になってたのは犯人三人の方だったし、今もこんな捜査にわずらわされることはなかっただろう。僕はこの男を心から信頼していて、彼を告発することは全部、この僕に対してするも同じだ」
「ありがとう、Napasha……」
 パートナーの傍に立って支える体勢を取り直しながら、イリヤはそっと耳打ちした。
「さてウォレス刑事、貴方には二つの選択が出来ます。僕の話を信じて、この捜査を正しい方向に進めて行くか、でなければ僕は上司とU.N.C.L.E.に連絡を取って、この件を引き取らせてもらいます」
 ナポレオンはそこでしばらく言い止めた。
「選ぶのは貴方次第ですが、もし僕らの経歴を調べてみたのなら、イリヤがこの事件に何の関係もないことはもうとっくに分かっているんじゃないですか」
 ウォレスはすっかり気圧されてしまっていた。
「ミスタ・ソロ、経歴調査はしましたし、得られた結果は正に貴方の言う通りでした。実際の所、貴方のパートナーの名前はもう容疑者のリストから外すつもりでいたんです。血液検査の結果が出次第、彼の嫌疑は完全に晴れます」
 ナポレオンは一旦イリヤの顔を黙って見上げ、パートナーが頷くのを待って、話を続けた。
「記録にはないことが一つあります、ウォレス刑事。イリヤ=クリヤキンは三年以上に渡って、全ての意味において僕のパートナーでした。試験の結果が帰って来て、血液型の判定がクロと出ても、それは間違いなく僕が襲われたより前のことです。僕が受けた暴行に性的なものは含まれません。これがどういう事か分かりますか?」
 ウォレスが相手を見上げ、信じられないという顔をした。
「ミスタ・ソロ?」
「ウォレス刑事、」
 ソロは穏やかに続けた。
「僕のパートナーはかけがえのない人間だ。繰り返して言えば、この僕が完全に信頼している、世界中で唯ひとりの存在なんです」
 『完全に』の言葉を彼は強調して言った。
「この意味が分かりますか?」
 ウォレスが頷いた。
「ええ、ミスタ・ソロ。分かったと思います……」

 イリヤは恋人の肩にそっと手を置いた。
「Napasha、ここを出てベッドに戻ろう。君は本当に休まなくちゃいけない。頼むよ、警察はもう理解してくれた、君がこれ以上心配することはないんだ」
 ナポレオンがゆっくり立ち上がり、もう一度腕をイリヤの肩に回した。
「ウォレス刑事、これ以上僕のパートナーがここで嫌がらせを受けないよう、それと容疑者のリストから外すようにしてくれるでしょうね?」
 ナポレオンの身体を支え、イリヤはそろりと戸口に向かって歩き出した。パートナーの身体が震えている。ドアを開けて出ようとした瞬間、友人が喘いだ。
「もう駄目みたいだ、Illyusha……」
 ナポレオンは囁くように言い、友人の腕の中で意識を失った。頭ががっくりとイリヤの肩に落ちかかる。
 ウォレスはこの小柄な男がパートナーを受け止め、あっさりと抱え上げてドアを出て行くのを、驚きの目で見守った。
「医者を呼びましょうか、ミスタ・クリヤキン?」
 今までになく丁寧な口調で彼は尋ねた。イリヤが肩越しに振り返る。
「結構です刑事さん。パートナーの事は僕が面倒を見ますので」
 周りの奇妙な視線にも構わず、彼はオフィスを抜けて、恋人を腕に抱えたまま正面玄関から車まで歩いていった。

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