Act-1 Act-2 Act-3/3
Act-2

 イリヤはナポレオンをバンガローのベッドに戻した。パートナーは安心しきって眠っているようで、大きな音を出さないように極力注意した。ベッドの傍の椅子に腰掛け、半分開いたブラインドから外を伺った。
 突然ベッドから物音がして、イリヤははっと顔を向けた。ナポレオンが眠ったまま、ぼそぼそと何か呟いている。
「ヴィクターJr.……」
 ソロが呻いた。
「カーマック!」
 毛布を跳ね除け、酷い痛みに襲われて身体を引き攣らせた。
「イリヤ!!」
 カーペットの上に転げ落ちながら、彼は叫んだ。イリヤはさっとベッドを周って床に膝をつき、倒れ伏した身体を持ち上げた。
「ナポレオン……」
 注意深く身体を上向けさせると、汗の浮いた額を軽く撫でた。
「Napasha、聞こえるか?」
 友人の怪我に障らないよう、イリヤはぐったりした身体を精一杯注意してベッドに抱え戻した。ベッドに腰を下ろして壁に凭れ、そっとパートナーを後ろから胸に抱き寄せ、腕を回して静かに座った。

「ナポレオン」
 友人の耳に囁きかける。突然ソロの瞼が開いた。
「イリヤ、思い出したことがある」
 クリヤキンは恋人を抱く腕を放さなかった。
「僕も聞いた。ヴィクター・ジュニア、それからカーマックと言ってたな」
「僕を襲った奴等の一人が相手を、あの最中に一度、ヴィクターJr.と呼んでいた」
 ソロは身体を堅くしたが、必死に記憶を辿ろうとした。
「その後でぼんやりと、カーマックという名が聞こえてきた」
「覚えがないんだけど、ヴィクター=カーマックには家族がいたのか?」
 イリヤがパートナーに尋ねた。ソロはしばらく考え込んでいたが、
「正直僕にも思い出せないよ、イリヤ。でも調べてくれそうな人物になら心当たりがある。最新の報告はした?」
 イリヤはポケットに手をやって、自分にすっかり凭れ掛かっているパートナーにぶつからないよう、コミュニケーターを取り出した。
「オープンチャンネルD」
 即座にウェイバリー氏の声が返ってきた。
「ミスタ・クリヤキン?ミスタ・ソロは見つかったのか、無事なのかね?」
 コミュニケーターに声が届くよう、ナポレオンは首を回した。
「イエス・サー、ここにいます。僕は大丈夫です」
 そして顔を上げて恋人の目を、光を湛えた目で覗き込む。愛してる、と声に出さずに口にした。
 イリヤは友人に暖かい微笑みを返すと、抱く腕を強くした。
「お聞きしたい事があるのですが。ヴィクター=カーマックに家族がいて、ヴィクターJr.と言う者がいたかどうかを」
 ウェイバリーが不思議そうに言った。
「カーマック――君ら二人を殺そうとした男の事かね?彼の血縁の者が、君の襲撃に関係しているようなのだね、ミスタ・ソロ」
「その可能性はあります、サー」
 イリヤが答えた。
「調べさせて返事をしよう、諸君。君達二人は、明日の飛行機に乗れそうかね?」
 ウェイバリー氏の口調は気遣わしげで、イリヤが答えるより前にナポレオンがコミュニケーターに飛びついた。
「ええ、もう帰りたくって仕方ありませんよ」
 イリヤがじろりと睨んで来る。
「チャンネルD・クローズ」
 パートナーの方を見ずにソロは言い、もう一度その筋肉質の胸に寄りかかり、恋人の鼓動にゆったりと聞き入った。
「ナポーリオン、」
 イリヤは脅し口調で言った。
「君には身体を動かすようなことは無理で、旅行なんて問題外だってことぐらいよく判ってるだろう?」
 ソロは恋人の腕からするりと抜け出し、いたずらっぽい光を目に宿しながら彼を見た。
「Illyusha、僕が無理だっていう『身体を動かすこと』ってのは、一体どんな種類のだい?」
 イリヤは口元が緩むのを我慢しながら、相手をにらみつけた。
「Napasha、君は今すぐ休んで、明日どこかに行こうなんて思わない方がいい。正直言って、君は少なくとも48時間はベッドでじっとしているべきだと思う」
 ナポレオンがベッドの上で身をずらせ、友人の横に座る姿勢を取った。
「イリヤ、それよりもシャワーを使わせてもらいたいな。いま僕にそれだけの体力があるかどうかは分からないが、どうしても明日には君と一緒にうちに帰りたいんだ。これ以上用もないのに、こんな町に居るつもりはないね」
 イリヤは心配しきった表情で相手を見つめた。
「Napasha、せめて明日具合を見てから、どうするか決めることにしないか?」
 ソロがベッドから滑り下りて、足を床につけた。
「分かったよイリヤ、でもシャワーぐらいはいいだろう。僕は襲われてからずっと身体を洗ってないんだから」

 そしてゆっくり立ち上がり、歩きだそうとしてふらついた。イリヤがすぐさまベッドから離れた。
「ナポレオン=ソロ、どうして僕に手伝えと言わない?」
 ナポレオンの腕を掴み、自分の肩に回させて、バスルームまで連れて行った。
「ほら、僕に寄りかかって」
「そうほいほいと君を頼るようなことはしたくないから」
 ナポレオンはそう言って、バスルームの壁に凭れかかった。
「ありがとうIllyusha、ここからは一人で出来る」
 口調には力がなく、パートナーと目を合わそうともしない。イリヤはパートナーのそんな顔つきが気に入らなかった。
「ナポレオン、どうした?」
 そのハンサム・フェイスにまた奇妙な色が浮かぶのを目にし、近くに寄って恋人の頬を指でなぞった。
「Napasha、言ってくれ」
 ソロが顔を上げて、友人の方を見た。
「イリヤ、実を言えば――奴等にやられた跡を見せたくないんだ。見て愉快なものじゃないし、君に対してどういう態度を取ればいいのか………」
 イリヤは手を伸ばして友人の顎を捉え、優しくその唇に口接けた。
「Napasha、こんな事何でもないって、まだ分からないのか?奴等にどんなことをされようと、君がどんな姿になろうと君は君なんだ。僕が愛してるのは君自身で、君の身体じゃない」
 そしてソロの顎を放すと、手を下げてパートナーのシャツのボタンを外しはじめた。

 イリヤは黙々とナポレオンからシャツを脱がせ、トラウザーを緩めて下に降ろした。恋人の身体に加えられたダメージの酷さに、イリヤは声を上げそうになった。
 あちこちにナイフの跡があり、苦痛を与えるためだけに刃先を食い込ませたようだった。逞しい身体の前の部分だけでも、三十以上の傷痕がある。ナポレオンは友人の顔つきをみて、溜め息を吐き出した。
「こんなものを見せてごめん、イリヤ。本当に僕一人で出来るから」
 クリヤキンは友人の前に膝をつき、足を持ち上げてボトムを片方ずつ脱がせた。引き締まった脇腹に、軽く指を滑らせる。
「Napasha、言っただろう、何てことはないんだ」
 ゆっくりと立ち上がり、厚い胸に手を添え、数多くの大きな歯形や傷の周りを指で辿って、かるく肌を愛撫した。
 ソロはじっと自分の表情を伺っている。イリヤは肩に手をやってそっと向きを変えさせ、背中が見えるようにした。目の前に現れたものに、彼は深く息を呑み込んで、懸命に怒りを堪えた。
 ソロの背には鞭の跡が張り付き、そして前よりも多くの噛み傷と、幾つかの生々しい紅い爪の跡に沿って、ぞっとするような醜いみみず腫れが出来ていた。
「ああ……Napasha……」
 その痛々しい眺めに、イリヤは身をすくませた。ソロが振り向いて、パートナーに腕を回して引き寄せ、その額を強く肩に押し付けた。
「そんなに酷いなんて僕もわからなかった。Illyusha、済まない……」
「Napasha、謝るのは僕の方だ。君を一人で残して置かなければ、こんなことにはならなかったのに」
 イリヤはずっと心に巣食っていた罪悪感をこれ以上隠せなかった。ナポレオンが顔を上げ、友人の打ちひしがれた表情を目にすると、もう少し強く抱きしめた。
「イリヤ、それは君の過ちじゃないし、誰の過ちでもない。君は決められていた通り、U.N.C.L.E.の仕事をしていたんだ。こんなことが起こるとは誰にも予想できなかった――さあ、シャワーまで連れていってよ」

 手早く自分の服を脱ぐと、イリヤは恋人の腕を注意深く取って、シャワーストールの中へ連れて入った。ずっと片腕でナポレオンを支えながら、傷の間の肌の部分がピンク色になるまで、全身を柔らかく擦っていった。
 パートナーの顔を伺うと、物欲しげな色がちらりと浮かんでいる。視線を下げると張り詰めた昂ぶりが目に入った。
「どうしようもない奴だなあ――君にはまだ無理だっていうのに」
 ナポレオンがにやりとした。
「賭けてみる?」
 そしてくくっと笑い、手をのばして恋人を引き寄せると、その唇を深いキスで塞いだ。
「愛してるIllyusha、君の手が触れるだけで、僕はその気になっちまうよ」
 彼はまた笑った。
「君がどこを見て『どうしようもない』って言ったのか、当ててみようか」
 クリヤキンが掌を横に滑らせて引き締まった臀部に届いたとき、ナポレオンは軽い呻き声を上げた。イリヤは恋人の身体を手で支えたまま膝をついて、引き寄せた硬い昂ぶりを口に咥えた。
 ナポレオンはまだそう激しい情事が出来る状態ではない。彼は自分の口と手を使って男を高ぶらせ、更に引き寄せて漲ったそれを喉の奥までスライドさせた。
 咥えこんだものを数度強く舌で扱くと、ソロが激しく震えだした。あっという間に昇りつめ、パートナーの口内を白い蜜で満たした。
 ナポレオンの脚から力が抜けたのが分かるまで、イリヤは小刻みに震えている性器を口腔に納めていた。素早く立ち上がって、恋人の身体を腕に抱え、ベッドまで運ぶ。そっとベッドに下ろし、眠り込んでいる身体を優しくタオルで叩いて乾かした。
 それから隣に潜り込んで、友人の身体に手足を回すと、イリヤも眠りに落ちた。


****
 翌朝、彼等二人はコミュニケーターが鳴り響く音で目を醒ました。
 イリヤは全身を恋人の身体に絡ませていて、ナポレオンの傷に障らないよう身体をずらし、相手が起きるよりも前にベッドから抜け出た。ナイトスタンドに置いたコミュニケーターを掴み取り、
「オープンチャンネルD」
一息に言う。ウェイバリー氏の、いつもの落ち着き払った声がした。
「おはようミスタ・クリヤキン――ミスタ・ソロ?」
「おはようございます、サー」
 ナポレオンがパートナーに微笑みかけ、ゆっくりとベッドに上体を起こした。
「諸君、例のヴィクター=カーマックには思ったとおり、息子が一人いたよ。父親が死亡した時には、息子はカレッジにいた」
 ウェイバリー氏は少し置いてから続けた。
「彼は年少の頃からかなり悪事を働いてきたようで、とある人物にたびたび脅迫行為を行っている。調べた結果、脅迫を受けた人物は、彼の父親の死亡に関係する人物だ。カーマックの息子は二年前、シーラ=ヴァン・ティルソンに暴行を働き、刑務所に送られている」
 ナポレオンが口を挟んだ。
「彼女が負傷したという話は聞いていませんが」
 ウェイバリー氏が続けて言う。
「その通りだミスタ・ソロ。彼女の父親が事件を内密にしていて、この事が分かったのは、こちらが調査を始めてからだった」
 今度はイリヤが話を遮る番だった。
「ヴァン・ティルソン嬢は無事なんですか?」
 彼はベッドに戻り、パートナーの横に座った。
「かなり酷い打撲や掻き傷があったそうだが、命は助かった。目下父親の別荘に、警護をつけて匿われている。二ヶ月前にカーマックJr.が刑務所から脱獄したことが判って以来、彼女をそこに移したとの事だ」
 ナポレオンとイリヤは視線を合わせた。
「引っ掻き傷、ですか?」
 この質問はイリヤが言った。
「そうだよミスタ・クリヤキン。カーマック氏の息子も、父親同様、大型の猫類がお気に入りらしい」
 ウェイバリー氏は淡々とした口調を繕って言った。
「君らは何時の飛行機で戻るね?」
 イリヤが喋りはじめる前に、パートナーがそれを遮った。
「今日の午後一時に、サー。本部には四時までには戻れるでしょう」
 ソロは平然と言ったが、今度は相手が横から口を出した。
「サー、それと医務局にナポレオンを連れて行くと連絡をお願いできますか?彼はまたヴィクター=カーマックに《飼い猫》をけしかけられて、診察してもらわなきゃなりません」
 イリヤは、今にも文句を言い出しそうなパートナーをちらりと見遣った。
「大変結構だ、ミスタ・クリヤキン。では午後四時に会おう。チャンネルD・クローズ」
 
 ナポレオンが振り向いて友人を睨み付けた。
「僕は医者になんか行かないぞ」
 イリヤはコミュニケーターをナイトスタンドに戻し、恋人の方を向いた。
「Napasha……」
 ナポレオンは相手を睨んだまま、怒ったように言った。
「イリヤ、僕は医者が大嫌いだって知ってるだろう」
 クリヤキンは手を伸ばし、パートナーの唇を指で塞いだ。
「Napasha、分かってるよ、でも診察は受けなくちゃ。その爪痕や噛み傷は、猫科の動物のもので、極度に化膿しやすいんだ」
 そして腕を恋人の身体に回した。
「お願いだ、君を病気にしたくない。もし君が入院することになったら、それこそ僕らは貴重な時間を無駄にすることになると思わないか?」
 手の平をさまよわせながら、寄りかかってナポレオンの唇に優しく口接けする。ナポレオンはキスを受けつつ、イリヤの手が背中に触れて顔をしかめた。
「わかったよIllyusha、まず医者に行く。そして医者が僕を解放してくれたらすぐに、ご褒美をもらうからね」
 イリヤが首を傾げながら相手を見かえした。
「ご褒美?」
 ソロが倒れかかってきて、彼をベッドの上に引き倒した。
「君だよ。この上等の、ぴちぴちしたロシア人が僕のごほうびだ。いい子にしてたら僕は、君を頂く。わかった?」
 輝くような微笑みが、イリヤの顔に浮かんだ。
「――わかった」
 彼は繰り返し、またパートナーに腕を回すと、身体をすり寄せた。


 午後3時45分きっかり、イリヤとナポレオンは空港に到着した。
 ソロの動きは緩慢だったが、もうパートナーの助けを借りたりはしなかった。若いロシアンから数歩離れた後ろについて、僅かに脚をひきずりながら空港ビルから出た。
 イリヤはタクシーを拾おうとしていた。友人を医者に見せることばかり考えて、通りに視線を集中しており、周囲の人々にはあまり注意を払っていなかった。
 しかしナポレオンは、そんなロシアンの姿を感謝の面持ちで見守り、周りに目を配っていた。男が三人、パートナーを取り囲むように近づいてくる。
「イリヤ!」
 数歩駆け寄りながら彼は叫んだ。イリヤはパートナーの警告の声を聞いて、身を翻し、最初の男の喉に手刀を浴びせた。向きを変えて二人目に対すると同時に、ナポレオンが三人目に飛びかかった。
 ソロは三人目の男の脚を払い、揃って地面に倒れると、顎を二発殴り付けて気絶させた。立ち上がってイリヤに加勢しようと振り返った時には、パートナーは二人目を殴り倒していた。
「やれやれ、君が味方でほんとによかった」
 イリヤに手を引かれて立ちながら、ソロはそう言った。
「つぅっ、」
 急に立ち上った拍子に彼が顔をしかめる。クリヤキンはパートナーを真っ直ぐに立たせると、向きを変えて、タクシーキャブのドアを開けた。その時、もう一度ソロの声がした。
「イリヤッ!」
 背中を突き飛ばされ、地面に倒れたと同時に弾丸の発射音がした。素早く立ち上ると、イリヤは道路に飛び出し、走りながら銃を取り出した。しかし引き金を引く前に、車は角を曲がって走り去った。

「助かったよ、My Friend」
 振り向いてそう言いかけた時、パートナーの姿が目に入った。
「ナポレオン!?」
 彼は叫んだ。ソロがキャブの脇の、舗道のところで倒れている。イリヤは友人の元に駆け寄って、意識のない相手の傍に膝を折った。
「Napasha……」
 小さく囁くと、ソロを抱え起こして、立てた膝に凭れさせた。逞しい身体のあちこちを手の平で探ってみたが、撃たれた跡は見つからなかった。
「ナポレオン、返事をしろ」
 イリヤは顔の横を軽くはたいた。反応はなく、彼は周囲の野次馬の視線を無視し、そっとパートナーを抱き上げると、キャブの後部座席に運んだ。
「デル・フロリア洋裁店へ」
 仰天している運転手に言う。
「急いで!」

 デル・フロリアに着くまでの十分程、イリヤはずっと恋人の身体を強く抱き締めていた。困惑している運転手に十ドル札を投げ渡すと、ソロの身体をキャブから運び出し、店の中を通って、U.N.C.L.E.本部に運び込んだ。
 受付を走り抜けそうになりながら、どうにかバッジを貰うまでの間そこに留まり、ホールを駆け抜け、医局までたどり着いた。
「ドクタ――!」
 叫びながら医療部のドアをバンと開く。ベッドの一つにナポレオンを下ろした時、医師が二人駆け寄って来た。
「正確な事は分からないんだが、何かの発射音がしたのに、彼に弾丸の跡は見つからない。それと昨日何者かに襲撃されて、度重なるショックと、怪我を負わされてる」
 ナポレオンの手を握ろうとしたが、もう数名の医者と看護婦が二人駆け寄ってきて、イリヤは弾き出された。二歩ほど後ろに下がり、パートナーから衣服が剥ぎ取られ、検査が行われるのをただ見ていた。
 リサ=ロジャースが部屋に入って来るまで、彼はその場に立って見続けていた。

「イリヤ、」
 彼女がそう言って、彼の肩を軽く叩いた。
「ウェイバリー氏がお呼びよ」
 彼女に構わず、イリヤはパートナーにあれこれ処置をしている医師から目を離さなかった。リサが手を伸ばし、彼の顎をぐいと掴んでこちらを向かせた。
「イリヤ、ウェイバリー氏がお呼びなの。今すぐ」
 イリヤはやっとそこにリサが立っているのに気がついた。一言も言わないうちに、リサは彼の腕を取り、医局から引っ張り出してウェイバリー氏のオフィスに向かわせた。彼等を隔てるドアが閉まるまで、イリヤは医師と、恋人の姿を目で追っていた。


 二時間の間、ウェイバリー氏はイリヤをオフィスに留まらせた。二人が無言で座っていると、医師がオフィスに入ってきた。
「掛けたまえ、ドクター」
 ウェイバリー氏が穏やかに言い、手招きで医師に椅子を勧めた。
 クリヤキンは立ち上がって部屋を横切り、ひとつ息をついてから恐る恐る尋ねた。
「彼は、助かりますか?」
 フォレスト医師はゆっくりと椅子に近づき、腰を下ろした。青ざめた顔をイリヤに向ける。
「ミスタ・クリヤキン……」
 続く言葉を聞くのが嫌で、イリヤは目を瞑った。
「彼は――死んだ、のか?」
 彼の中で何かが死んだように、その声は抑揚がなかった。彼は後ろに下がり、医師の隣の椅子に沈み込んだ。
「ミスタ・クリヤキン」
 医師が彼の腕に触れてきた。
「彼は死んではいない、しかし…………」
「しかし、何だね?」
 ウェイバリー氏が遮った。
「お二方、」
 医師が話を続けた。
「まず昨日の負傷の方は、生命に関わるものではありません、それよりも彼が撃たれたのは、毒を含んだ針でした」
 イリヤは激しく息を呑んだ。
「毒針?」
 彼は無意識に、左手にはめた指輪を神経質そうに捻じっていた。
「この毒物は以前発見されたもので、彼にはもう解毒剤を投与しておきました。ですから毒そのものは、残っている傷と同様、そう懸念しているわけではないのですが」
 イリヤは医師の薮の中をつつき回しているような話に我慢しかね、腹立たしげに言った。
「ドクター、分かりやすいように言ってくれ、どういう事なんだ?」
 医師は少しの間、躊躇していた。
「ミスタ・ウェイバリー、あれは以前お話した毒物です」
 ウェイバリー氏は一瞬両目を瞑り、頷いて医師に話を続けさせた。医師は落ち着いた口調で、イリヤの方を向いて言った。
「イリヤ、この毒には厄介な副作用がある。以前これに侵されたエージェント二人を治療したが、その後二人とも死亡した。多分全く他人が認識出来ないという、精神的な過反応によるものだ。死亡した二人は、誰一人の顔も思い出せず、他人を恐怖し、一切の接触を受付けなかった。二人は見知らぬ人間に囲まれているのに耐えられず、自殺してしまった――我々はこの心の病を癒すことは出来なかった。我々の辿り着いた結論は、この毒に侵された者は誰も助からないということだ」

「……ナポレオンはどこにいる?」
 内心で感じた恐怖を覆い隠し、彼は落ち着いた声を出した。そして密かにカーマックを、他人に対してここまでの事をさせる、あの男の中にある悪意を呪った。
「彼は、どこだ?」
 ウェイバリー氏はもう一度医師に向かって頷いた。
「彼は医局の外れの、小さな手術室にいる。しかしイリヤ、彼に会うのは薦められないよ。彼をそこへ入れるのに介護人が四人がかりだった。まるで気が狂ったように暴れて、今は完全に殻の中に閉じこもってしまっている」
 イリヤはいきなり立ち上がって、戸口へと向かった。
「ドクター、正直貴方がどう考えていようが構わない。パートナーのことなら僕がよく知っている。彼は僕に会いたい筈だし、とにかく僕は今すぐ、彼の所に行く」
 医師が止めようとするのも省みず、彼は大股でドアから出ていった。医師はウェイバリー氏を振り返った。
「こんな事は止めた方がいい。彼のパートナーは恐らく助からないのに、それを目の当たりにしなくてはいけないんですよ」
 ウェイバリー氏が立ち上がり、出口に向かう。
「――私には彼を止める気になどならんのだが、ドクターはどうだね?」
 そしてイリヤの後について部屋を出た。


*****
 後の二人が医局に来てみると、イリヤは窓の前に立って、手術室を覗き込んでいるところだった。
 ナポレオンがドアに背を向け、手足を丸めて壁の隅に縮こまっている。壁の中に隠れてしまおうとする以外、一切の感情も思考も無くしてしまってるようだった。
 イリヤは目を瞑り、深呼吸して、ドアの取っ手に手をかけ、部屋の中に入っていった。

 ナポレオンからは何の反応もない。この年下の男が入って来た物音も耳に届いていないらしい。壁の隅から、小さな呟きがずっと聞こえてくる。しかしイリヤには意味が聞き取れなかった。
 ウェイバリー氏は窓越しに様子を見ながら、医師を振り返った。
「どうなるんだね?」
 フォレストが顔を向けた。
「二つの前例によれば、誰かが近づいても、身体に触れられたりしない限り無反応のままでした。完全に引き篭もってしまった状態は、また誰かが触って来たり、視界を遮ったりしない間はずっと続きます」
 窓の中の光景に目を戻すと、イリヤはちょうど、ナポレオンの前に屈み込むところだった。
「ナポレオン……」
 ほとんど声にならない声で、クリヤキンは言った。
「Napasha、聞いてる?」
 そして恋人に一歩近づいたが、どんなにそうしたくとも相手に触れはしなかった。
「Napasha、僕が誰だか分かるか?」
 相手に触れない程度に手を伸ばした。ナポレオンはほんの少し振り返って、その手を見たが、丸まった姿勢はそのままだった。何か呟いたようだったが、余りにも微かで、イリヤには何を言っているのかわからなかった。涙が頬を伝っている。
「リュー……」
 イリヤに聞こえたのはそれだけだった。
「Napasha、lyubov(Love)、」
 静かに彼は言った。
「君に話したいことがある。聞いてくれないか」
 まだ恋人に触れないよう注意しながら、もう数インチほど近づく。
「僕は、君を愛してる」
 窓の所に立っていたフォレスト医師が、ドアに向かった。
「彼に触れたら、もう取り返しがつかない」
 ウェイバリー氏が腕を取って引き止めた。
「ドクター、彼にチャンスを与えよう。君の話では彼は助からんという事だった。彼に数分でも、パートナーと過ごす時間を与えて何の差し障りがあるかね?」

 イリヤは窓の外でどんな会話が行われているか気にもせず、優しくパートナーに語り掛け続けた。
「Napasha、僕には、僕の人生には君が必要だ。僕らは互いを補い合ってきた。君といつまでも一緒にいたい――君なしの人生なんて考えられない。お願いだ、僕の声を聞いてくれ」
 必死で堪えていた涙が、彼の両頬をゆっくりと零れ落ちていった。前よりも穏やかな呟きが壁の隅から聞こえてきて、彼は言葉を切った。
「リューシャ……」
 ナポレオンが、意味など分からないようにそう呟き、いきなり壁の隅から振り向いた。
「僕の――イリューシャ」
 今度ははっきりとそう言った。
「ナポレオン」
 イリヤが差し出した手をそっと震える肩に置き、軽く握り込んだ。
「僕はここだ。戻って来てくれ。僕を一人にするな……君なしでは生きていけない」
 ソロは恋人の方を向いて、その青い瞳を深く覗き込んだ。
「Illyusha、」
 そう言って全身を恋人の腕の中に投げ出した。やみくもに相手の身体にすがりつく。
「僕は、君が死んだと思っていた。奴に殺されたか、連れて行かれたんだと……」
 ソロの声が掠れた。イリヤはパートナーの身体に両腕を回し、胸に抱えて、その艶やかな髪をそっと撫でた。
「僕はここにいるよ、Napasha」
 言いながら、涙が落ちていくにまかせた。しばらくの間、相手を抱き締め、その香りを吸い込んでいるだけで満たされた気分でいたが、それから自分たちが外から見られていることを思い出した。
 窓の方を向いて、ウェイバリー氏に懸命に目で訴える。氏は言わんとすることを理解し、向きを変えて立ち去った。フォレスト医師の方は視線に取合わず、目の前の光景に畏敬さえ感じながら立ち続けていた。
 有り得ないことだった。この男は恐怖に叫び続け、話など出来ない筈なのだ。

 どうやら医者が割り込んできそうに思い、イリヤは立ち上った。ナポレオンを側に立たせてから、掬い上げるようにして腕に抱え上げた。
 彼はこの男を再び腕の中に取り戻した感触に、ふっと笑って戸口に向かい、ドアノブを回した。
「しっかり捕まっておいで、Lyubovnik、ここを出て行くよ」
 イリヤがそっと囁いた。恋人は彼の首にしっかり腕に回し、肩に頭を押し付けて目を瞑った。フォレスト医師は、ドアが開くと同時に近寄ってきた。
「イリヤ、一体全体どういうつもりだ?彼は治療が必要なんだぞ」
 イリヤは歩みを緩めようともせず、ホールに出ていった。
「ドクター、彼に必要なのはここを出ることだ。貴方は彼が助からないと言った。見ての通り、彼は死んでいないし、病室にいる必要もない。必要なのは、僕の側にいることなんだ」
 彼は医師に挑みかかるような目を向けた。
「頼むから僕らをすぐここから出して欲しい。もし何か問題が起これば、すぐ連れて戻ると約束するから」
 負けを認めたように、フォレストは後ろに下がって道を空けた。
「明日の朝一番に、彼を精密検査によこしてもらうよ。これだけは譲れない。今は落ち着いているが、それは解毒剤に精神安定剤としての効果があるからで、彼はしばらく眠ったままだろう」
 イリヤは頷き、通りかかった者たちの問いたげな視線にも取合わず、出口に向かった。彼はひたすらナポレオンが生きて、自分の腕の中にいる喜びに浸りきっていた。
 エレベーターに乗り込み、駐車場のある階で下りると、ナポレオンの車に向かう。コンバーチブルのドアを開け、注意深く恋人の身体をシートに下ろし、少しの間眠っている身体を優しく抱擁した。そして友人にシートベルトをさせると、駐車場から出た。


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