Tangled Web Affair--by Salah Lindsay

#1

 U.N.C.L.E.のカフェテリアで相棒を見かけた瞬間、何かあったとナポレオンは感づいた。独り座っているイリヤは、いつものそっけない態度を遥かに超えて、およそ近づきがたい雰囲気を漂わせていた。
 今までに時折塞ぎこむことはあったが、一体何がこのロシア人をそんなに悩ませているのだろう。いぶかりながらソロはテーブルや椅子の間をかいくぐって相手のところへ向かった。近づいてみると、年下のエージェントは身動きひとつせず、空ろな目で手付かずの皿を見つめている。青白い顔には何かに怯えているような影が貼りついている。
 ぎょっとしてソロは、挨拶の笑みを口元で凍りつかせた。この二年間一緒に働いてきて、その間にずいぶんと色々な目にあってきたが、こんなイリヤを見たのは全く初めてだった。ナポレオンは普段の礼儀を省略し、やおら相手の向かい側に腰を下ろした。
「イリヤ?何があったんだ?」
 彼の目はこちらを見ているようで見ていなかった。
「何でもないよ、ナポレオン。寝不足なんだ」
 彼にしては嘘のつき方が下手だ。ナポレオンはパートナーをしげしげと伺った。イリヤが故意に、ゆっくりとナポレオンの鋭い視線を見返してくる。その顔から全ての感情は拭い去られ、ブルーグレイの瞳はしっかりと落ち着いている。
 ナポレオンは内心で毒づいた。まったくこいつは有能だ。ある意味有能すぎる。そして年上のエージェントは溜息をついた。ロシア人が一旦ハマグリのように口を閉ざしてしまったとなれば、何をそんなに悩んでいるのか口を割らせるすべはない。しばらく様子を見ることにして、ソロは相棒とたわいないお喋りを始めた。イリヤは難なくナポレオンに合わせて会話を繋ぎ、いささかも動揺などしていないふりをしていた。だがその間ずっと、常に欠食児童のようにがっついているこの男が、食べ物に全く口をつけていないことにソロは気づいていた。
「ナポレオン、悪いけど――
 イリヤは慇懃に言った。
「ラボでの実験がまだ途中なんだ。立ち会って来なくちゃ」
 そしてクリヤキンは、手付かずの皿の横に置いていた新聞を脇に抱えると席を立った。ソロは心配と苛立ちとで唇を噛みしめながらその姿を見送った。イリヤ・クリヤキンは飛びきり優秀なエージェントで、今までで最高のパートナーであるのだが、時々尻を蹴っ飛ばしてやりたくなることがある。あのロシアの一匹狼と仲良くなるのに彼はあらゆる手段を尽くし、それはかなりの程度の成功を収めてきた。なのに彼は、困ったことがあっても自分に打ち明けてはくれず、代わりに手の届かない壁の向こうへと引き篭もってしまうのだ。
 イリヤとのやりとりに心を乱され、ナポレオンはどんよりした気分で自分のオフィスに向かうと、溜まっている書類仕事にかかった。三時間せっせと仕事に励み、成果が束になって積みあがって来たころ、ウェイバリー氏のオフィスへの出頭命令で打ち切りとなった。

 ナポレオンは上司のオフィスで席についた。ウェイバリー氏が歯の間でパイプを噛みしめ、レポート用紙を捲りながらむっつりしている。ふと振り向くと、パートナーが部屋に入ってくるところだった。イリヤは彼には目もくれず、音も立てずに向かい側の席に座った。ロシア人の顔色は、この日初めて見かけた時と同じぐらい青ざめていた。
「諸君、」
 彼等が揃ったのを認めると、ウェイバリー氏は頷いた。
「非常に喜ばしからぬ報告をせねばならん。二人とも、KGBのトップ、ウラジミール・オーロフ将軍が昨日の午後に死去したことと、周囲の予想に反してグリゴリー・マレンコフ将軍が彼の後釜に座ったことは知っているだろう」
 ナポレオンには初耳だったが、そのことは隠しておいた方がいいだろうと彼は考えた。この日彼は新聞に目を通してもいなければ、毎日『決裁』箱に届けられる、ニュースの切り抜きすら目にしていなかった。遅れている二課の報告書を今日中に仕上げてしまうつもりだったので、その暇がなかったのだ。
 彼はパートナーに目をやった。そこにはクリヤキンがじっと、死人のように青白い顔で、ぴくりとも動かずに座っている。これではっきりした。彼は母国からのニュースを全て知っており、昼食の時に見せた動揺はこれが原因に違いない。ウェイバリー氏は更に続けた。
「残念なことだが――クリヤキン君。マレンコフ将軍からの命令が下された。君は直ちにソ連へ帰還せよとのことだ」
 ナポレオンは息を呑んだ。ショックを受けながら、彼は反論を試みようとしたがウェイバリー氏に遮られた。
「無論私はマレンコフを説き伏せようとしたのだが、頑として応じない。どうにか君が研究室での重要な実験に欠かせない人物だということは納得させたものの、遅くとも次の水曜日までには帰国せよと言って聞かん」
 イリヤが重々しく頷き、全く抑揚のない口調で答えた。
「了解しました」
 ソロは急き込んで言った。
「いや、そんな無茶な、そんなことを……
 彼は懇願する目つきでウェイバリー氏を見た。
「イリヤはU.N.C.L.E.で最高のエージェントですよ」
 ウェイバリー氏は眉をしかめた。
「マレンコフの命令を拒否すれば、米ソ関係をこじれさせることにも繋がりかねん。国際問題になれば正当性があるのはあちらの方なのだ。ソビエト連邦は何時でもクリヤキン君を呼び戻せる権利を握っていて、それは彼の契約書にも記されている」
「全て承知しています」
 イリヤはすっと席から立ち上がった。
「――ラボに戻ってもよろしいでしょうか?」
 ウェイバリー氏は頷き、クリヤキンはひたすら平静さを保ったまま部屋を出て行った。ナポレオンは彼の後を追おうとしたが、ウェイバリー氏に呼び止められた。
「ソロ君、出て行く前に君に話がある」
 ナポレオンは、自分が感情をむき出しにしたことについて小言を言われるのだろうと考えながら席に戻った。しかしウェイバリー氏は、長いことパイプを弄り回したのちに話し始めた。
「ソロ君、今から私が話すことは君独りの胸に収めて置くように」
「わかりました」
 ナポレオンは厳粛に答えた。

 ウェイバリー氏はパイプを灰皿に置くと、色褪せた瞳で特務課主任を見据えた。
「私がOSS(戦略情報事務局:CIAの前身)の将校だった頃、ウラジミール・オーロフとは何度か行動を共にしたことがある。彼は非常に有能な人物で、ナチスに対抗するには欠かせない協力者だった。戦後、西側とソ連邦との関係が悪化するに従って彼との付き合いはなくなったが、情報部を通して彼がKGBで急速に出世し、力を持つようになっていったことはずっと知らされていた。1956年に、彼は私に接触し、ある若年のKGBエージェントをU.N.C.L.E.へ送る取り決めをした。それがイリヤ・クリヤキンだ」
 ソロはすっかりウェイバリー氏の話に引き込まれていた。彼は何故、どのようにしてイリヤがU.N.C.L.E.に来たのか全く知らないでいた。あのむっつりやのロシア人は几帳面なまでに自分の過去に関する話題を避けていたし、詮索などするだけ無駄だとナポレオンも分かっていた。ウェイバリー氏が続けるのを、ナポレオンはひたすら聞き入った。
「オーロフは戦争で死んだクリヤキン君の父親の友人だった。彼は死んだ友人の息子の後見役をしており、子供が十二歳になった時、KGBの一員に加えた。五年後、ソビエト最高評議会の構造改革によりグレゴリー・マレンコフが、クリヤキン氏の息子を直接支配下に置く立場に昇進した。詳細は未だ不明だが、マレンコフ家とクリヤキン家の間には長年の確執があることは間違いない。オーロフは直ちに、クリヤキンの息子の身柄を私に預けた。第一の目的は少年を保護することだったが、ソ連邦のエージェントをU.N.C.L.E.に受け入れることが、双方のためになるとお互い考えてのことだと確信している。
 彼の技量を測るため、私は彼を将来のエージェントとしてサバイバル・スクールに入隊させ、彼はその若さにも関わらず素晴らしい成果を収めた。そして広範囲の科学技術を身につけた実戦用エージェントとして北米へ呼び戻すにあたり、ケンブリッジとソルボンヌで引き続き学業を修めさせた」
 ソロは暫く黙り込んでそれらの情報を取り込んだ。イリヤが飛び切りのエージェントになったのには、こんな長年の計略や配慮があったのだ。ウェイバリー氏の人を見抜き、将来を見通す力に感嘆していたナポレオンは、些細かもしれないがおかしなことに気がついてはっとなった。
「ではイリヤを十七歳でサバイバル・スクールに入れたのですか?年齢が二十一歳に達していなければならないと厳しく定められていたと思っていましたが」
 ウェイバリー氏は落ち着いて受け答えした。
「クリヤキン君については特殊な事情があることと、既にKGBのエージェントとして訓練を受けていることも勘定に入れて例外とした。後に試験をしてみたが、彼の成績は私の決断が正しいことを証明する以上のものだったよ」
 その点においてはナポレオンも肯定したが、こうやって明らかになった自分のパートナーの経歴を無意識に年月に勘定していて、またあることに思い当たった。
「ということは、イリヤは二十九歳ではなく、まだたったの二十五歳だということですか?」
 信じられない思いで彼は尋ねた。ウェイバリー氏の口角が微かに持ち上がった。
「サバイバル・スクールに入れるため、私がクリヤキン君の出生記録を改竄したのだ。彼の年齢を少々加算することで、その後彼が大学を卒業するに当たっても、世間の注目を引かずに済んだ。この世界では目立たないことが肝心だからね、ソロ君」
「では同様の取り計らいで、僕にもイリヤの本当の年齢を明かさなかったというわけでしょうか?」
 言葉に気をつけながらナポレオンは問い質した。
「その通りだよソロ君。済まんことをしたが、二十三歳の男と組めと言われていたら君はムキになって拒絶しとったろう」
 ウェイバリー氏はさらりと続けた。
「その上クリヤキン君は実年齢以上に分別のある人間だ。これは他の連中もそうあって欲しいものだね」
 ソロは開きかけた口をつぐんだ。上司の言うことは正しい。当時イリヤの本当の年齢を知らされていたら、自分は烈火のごとく腹を立てただろう。イリヤは年の割には若く見えるなといつも考えていたことを、彼は顔をしかめながら思い返した。今さら自分の、『たった二十五才のパートナー』を、三歳年長のベテランと取り替えたりは出来ない。そこまで考えたところで、これから一週間もしないうちに自分の大切なパートナーで友人を失ってしまう、ということが一気に押し寄せてきて彼はたまらなくなった。その上、ウェイバリー氏の話によればマレンコフの命令には悪辣な意図が含まれているらしい。
「マレンコフは、恨みを晴らすためイリヤを呼び戻したがっているとお考えなんですね」
 彼は一本調子で言った。ウェイバリー氏は暗い顔をして頷いた。
「むろんマレンコフは、KGBがイリヤのような有能なエージェントを早急に必要としていると主張している。しかし、あの男は敵対するものに容赦しないことで有名だ。クリヤキンがソ連に戻ると同時に、マレンコフは彼をじりじりといたぶり苦しめた挙句に抹殺してしまうのは間違いない」
 ソロは仰天した。
「そんなこと許しちゃいけない!サー、イリヤを亡命させるわけにはいかないんですか」
 ウェイバリー氏は苦々しく首を振った。
「合衆国政府は、キューバミサイル危機以来脆くなった米ソ関係を置いてまで彼の人権を保障しはせんだろう。北米圏においてソ連からの人材を受け入れさせているというだけでもかなり厄介なことなのだ。クリヤキン君の模範的な振る舞いも一切考慮に入れてもらえない。国家に背を向けた者をU.N.C.L.E.で雇用することは、組織に連なる多くの国家に対する規範を曲げることになる」
「そして、イリヤは国家間の都合で生贄にされるんですか」
 ナポレオンは喉につまった苦いものを吐き出すように言った。
「私は、ここで最も価値のあるエージェントの一人、長年手をかけて鍛えてきた男を、むざむざ残酷で意味のない死に追いやるつもりはしておらん」
 ウェイバリー氏はあくまで落ち着いていた。突然胸の中に希望が湧いてきて、ナポレオンは上司をまじまじと見た。
「では何か考えがおありなのですね?」
 彼は身を乗り出して尋ねた。


 ウェイバリー氏は、どこか落ち着かなげに咳払いをした。
「この状況を徹底的に検討した結果、私はある有効と思われるプランを考え付いた。が、それは多少変則的なものであると言わねばならん」
 氏はそこで言葉を切った。ソロはじりじりしながらその続きを待ったが、ウェイバリー氏はわざとゆっくりパイプを弄り回した。ようやく重たげな瞼の奥の目がソロのそれと合わせられ、氏は続けた。
「必要なのはだね、ソロ君、クリヤキン君がソ連邦の規範で言えばエージェントとして容認しがたいと思わせる理由、表向きは彼を任務につかせるという理由で呼び戻すのを妨げる何かだ。君も知っての通り、ソビエト連邦では自国民全て、特に軍事関係や情報部関係者について、情緒的に欠陥があると見られる人物を極めて厳格に取り締まっている。例えばの話、クリヤキン君がヘロイン中毒になってしまえば、ソ連邦は面目にかけても彼に国境を跨がせることを拒否するか、死ぬまで投獄しておくか、いずれにせよ彼を再びKGBで働かせるのは不可能だということになろう。
 あいにく、クリヤキン君にそのような悪癖があるとなればどう取り繕ってもU.N.C.L.E.に置いておくことが出来なくなり、合衆国政府から国外退去処分を喰らうだろう。行き着く先はマレンコフに呼び戻されるのと同じことになってしまう」
 一体ウェイバリー氏は何をどう考えているのだろう。ソロは顔をしかめた。イリヤをヘロイン中毒にするなど思うだけでも馬鹿げている。ウェイバリー氏はもう一度咳払いをした。
「我々がせねばならないことは、クリヤキン君がソ連の方針上では必要とされないが、U.N.C.L.E.の規定上は雇用できるという明確な証拠を作り上げることだ。熟慮の結果、クリヤキン君が同性愛者であると証明することが、唯一この問題を解決する方法であると結論した」
 ナポレオンはあやうくむせ返りそうになった。周章狼狽しながらも、外見上はなんとか平静を装いながら彼は言った。
「しかし、U.N.C.L.E.でも現場のエージェントが同性愛者であってはいけないでしょう」
 ウェイバリー氏が、いかにも馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「君はU.N.C.L.E.の規定にそのような禁則事項があるのを目にしたことがあるのかね、ソロ君」
「いえ。でもU.N.C.L.E.もCIAや軍隊と同様、構成員にそのような性向があるのは混乱を招くもとであり、危険人物と見なされるものと思ってました」
「必ずしもそうとは限らん。疑惑の人物が目に余るほど軽率な行動を取っていたり、明らかにそのことで脅迫を受けていると見られる場合のみだ。経験上私は、そのような傾向のあるエージェントがいるのを知っているが、彼らはそういう事に偏見がないとは言い難い同僚とも揉め事を起こさないだけの分別を持ち合わせているし、自分たちの品行に対する噂にも一切関心を見せなければ、脅迫を受けるようなことにもならないとわきまえている。ソロ君、君こそがそういうケースの完璧なサンプルだ」
「ぼくがですか?」
 ナポレオンは上司の指摘にギクリとした。ウェイバリー氏はパイプをコンと叩くと、幾らか面白がっているような視線で彼をねめまわした。
「君がU.N.C.L.E.に加入する以前の、君と性別を同じくする多数の人間との放埓な行為を知らないわけではないよ」
 ナポレオンは息をのみ、必死で羞恥心を隠そうとした。上司に自分の、つまらない個人的履歴を知られているのは驚愕だった。
「僕は……そのぅ……そのような行為は、ここ数年行っておりませんけども……」
 ウェイバリーは慰めるような目つきで言った。
「ソロ君、私が言いたいのはだね、君の性生活については任務における君の行動を阻害せぬ限り私は関与せんということだ。それに、今度の場合においては有利に働くともいえる」
「は?」
「ソロ君、はっきり言わんといかんのかね」
 ウェイバリー氏は痺れを切らしたように尋ねた。
「クリヤキン君についての風評を捏造し、彼を救うという今回の計画には、君が候補者として最も相応しい。彼のパートナーであり友人であるなら、君たち二人の間に性的な関係あると気づかれるという話がもっともらしくなる。その上、君にはこの任務に基本的に必要不可欠である実経験の持ち主だ」
 ソロは口をぽかんと開けて上司を見た。
「僕に、イリヤとセックスしろとおっしゃるんですか?」
「その通りだソロ君。しかも早急にでなくてはならん。君の寝室には特別なカメラを取り付けておく。君とクリヤキン君の、その最中の写真をいくつか選び出して、これをU.N.C.L.E.最高のチームを卑劣にも脅迫しようと企てたThrushから出たものとして、マレンコフ将軍に送りつける。私としてはそうする義務があると判断してね。そして、かかる遺憾な事態が起こっては、KGBのエージェントとしてのクリヤキン君の将来は全く絶望的なものとなるだろうと伝え、このような形でKGBという組織に将来的に大きく貢献する人物が無価値になっていしまったことに対し、心から哀悼の意を伝えるとしよう」
 ウェイバリー氏はいかにも愉快そうにパイプの煙を吐いた。それをマレンコフに伝えた時のことを思い描いて楽しんでいるのは間違いない。ソロはウェイバリー氏をまったく未知の人物であるかのようにまじまじと見た。実際、理解してはいなかったのかもしれない。彼は動揺を押さえつけながら、他の任務の時と同様、今回の命令についてあれこれ考えてみた。この計画にはひとつ明らかな欠陥がある。
「サー、」
 彼は穏やかに言った。
「僕にはイリヤを、例え彼自身の命を救うためとは言えベッドに引きずりこめるとは思えません。彼は非常に慎み深い人間で、彼が将来母国に帰れなくなるような行動をとることを承諾もしないでしょう。そのような間違った振る舞いは彼自身を貶めると考えることは言うまでもないですし、この計画が最終的にはU.N.C.L.E.に損害を与えるか、国際関係に汚点を残すことになると考えて、どんなに反論を繰り返しても彼はロシアに帰還する方を取ると思います」
ウェイバリー氏は頷いた。
「クリヤキン君の性格をじつに明敏に掴んでいるな。君は彼を大変よく分かっている。私は既に、彼がこの計画に協力しないであろう可能性も計算に入れているよ。彼には背後にある理由の如何を知らせることなく事を進めねばなるまい」
 ナポレオンは首を振った。
「サー、正直言って彼を誘惑するのは無理だと思います。それに物理的にせよ精神的にせよ、無理強いすることも出来ないです」
「そこだよソロ君。そのような手段に訴える必要などないのだ」
 ウェイバリー氏はからかうように言った。
「君に必要なものはU.N.C.L.E.の研究室にある。薬理部門では最近、どんなに自制心の強い人間であっても耐え切れないほど強力な媚薬を造り出した。この薬には、効果を発揮している平均して六時間の間の記憶を完全に無くしてしまう利点もある。したがってクリヤキン君は、自分が救済を受けたことの裏にこのような策謀があったことなど知るよしもないわけだ」
 ナポレオンは必死になって思いあぐねたが、これ以上ウェイバリー氏の命令に反論することも、自分以外の誰かを代わりにすることも考えられなかった。
 彼はこの計画には依然深い疑念を持っていた。相手が忘れていようがいまいが、やがては自分のパートナーで友人である男との仲を壊してしまうことになるのが恐ろしかった。とはいえ、イリヤの命より重んずべきものは何もない。
 ナポレオンは、不承不承ながら自分にはこの命令を受けるより他ないと決心した。今まで与えられた中で、もっとも倫理観にもとる任務であったとしても。ソロは暗い表情で頷いた。
「――見込みのある計画といえますね」
 彼はゆっくりと言った。
「大変結構。明日カメラを取り付けるよう手配しておこう。ソロ君は明日の夜、クリヤキン君を君の所へ来させるように。薬剤部に行って、この命令書を提出したまえ」
 氏はナポレオンにメモを渡した。
「一服分の媚薬を出してくれた上、投与方法も教えてもらえる。この困難な事態に、君の協力を得られたことを感謝するよ」

 氏の部屋から下がって、ソロは自分のオフィスで独りになると、提出期限を過ぎている報告書は忘れて目の前の壁を睨みつけていた。胸の中で今日の午後にあったことがぐるぐると巡る。ウェイバリー氏の下で数年間働いていながら、なお氏にこれほどまでに驚かされるとは。ソロは首を振った。あの老人の頭の中はどこまで行っても迷宮のように謎に満ちている。
(前の戦争で連合国側が勝てたのも当然だ、)
ソロは考え、これが最初ではないがウェイバリー氏の人事記録を読んでみたいと思った。
(あの人にかかっちゃ、マキャベリだって幼稚園の先生みたいなもんだな)
 ソロは溜息をつき、新たな任務を遂行することに意識を向けた。最初に乗り越えなくてはならないハードルは、明日の夜にイリヤを自分のアパートに来させることだ。いつもならそうやって招待することにはなんの問題もない。だが今クリヤキンはトラブルを抱えていて、本能的に他人を徹底してよせつけなくなっているだろう。ロシアに返されてマレンコフの手に落ちれば、どんな恐ろしいことが待ち受けているかイリヤは誰よりもよく思い知っているに違いない。前にカフェテリアで見た、イリヤの死人のように青ざめた、怯えた表情がそれを何よりもはっきりと語っている。
 あの年若いエージェントの心の中には、精神的な動揺を隠したがる癖が深く根を張っていて、この先は出発予定の時が来るまで周囲の人間、とりわけパートナーで親友である人間からあくまでも距離を置くつもりだろう。イリヤが個人的なコンタクトを避ける盾として、完了させなければならない研究室での実験を持ち出すことも間違いない。
 ナポレオンはまた溜息をついた。イリヤを研究室から追い立てるのは実に難題だが、やらなくてはならない。持ち前の愛嬌が通じなければ、ちょっとばかり策を弄する手もある。彼はしばらく考え、パートナーに使うもっともらしい嘘を思いついた。

 ソロはエレベーターで、U.N.C.L.E.の最下層部に降りると薬剤部に入った。彼は媚薬を受け取ると、アルコールで薬の味は完全に誤魔化されること、前もって何か食べていようがいまいが、服用して十五分後に効果が現れるということをしっかりと心に留めておいた。
 それから彼はパートナーを探しにラボの中心部へ向かい、やっとのことで作業に没頭しているイリヤの金色の髪が、蛍光灯の下できらきらしているのが目に止まった。逞しい身体を覆い隠す白衣に、人目を引く青い瞳に被さる黒縁の眼鏡。この殺風景な研究室にクリヤキンはすっかり馴染んでいる。彼のこんな科学者姿を見ていると、この男が今まであった中でも最も有能な実戦要員の一人でもあることがナポレオンには信じられなくなってくる。ウェイバリー氏は被後見人がどんな人物か知った上で、両方の分野で働くべきだと判断したのだろう。
 ソロはパートナーに近づいた。イリヤが顔を上げる。その表情には微かな驚きが浮かんでいた。ナポレオンは滅多にラボに来たことがなかったのだ。
「やあ」
 ロシア人はソロにごく普通に挨拶をした。
「どうも、」
 ナポレオンはラボのテーブルに腰を乗っけると、こんなに深刻な表情さえしていなければ、自分のパートナーは生物学の実験に参加している大学生のように見えるなと思いながら微笑みかけた。イリヤは、丁重だが探るような視線を向け、ソロの目を冷ややかに見つめ返した。
「明日の夜、僕んちで一緒に夕食はどうかと思って来たんだ」
 ナポレオンは思い切って口を開いた。クリヤキンは視線を逸らした。
「ありがとう、ナポレオン。でも正直言ってラボを離れる時間はないんだ」
 イリヤはよそよそしく、堅苦しい口調で言った。ナポレオンは相手にとびっきり愛想のいい笑みを浮かべた。
「でもそのうち食事はしなくちゃいけないだろう?それなら僕のスペシャル・ラザーニャにした方がいいんじゃないの」
 イリヤはもう少しでぐらつきそうだった。彼が『ナポレオン風ラザーニャ』に目がないことは年上のエージェントはよく承知している。だがそこで、細身のロシア人は頑として首を横に振った。
「ありがとう。でも無理だ」
 彼はきっぱりと言った。これはプランBの出番だ。
「あのさ、イリヤ――これは単なる夕食の招待じゃないんだよ」
 クリヤキンは用心深く彼の方を見た。
「君がここを離れる前に、ある事について個人的に話し合うようにウェイバリー氏から言われたのさ」
 渋々言いくるめられてイリヤが頷いた。ナポレオンはかさにかかって続けた。
「じゃ七時でどうだい?」
「伺うよ」
 イリヤは慇懃に承服した。ナポレオンはパートナーに温かく微笑みかけたが、笑みが返されなかったのを見ても驚きはしなかった。相手のふるまいに気を悪くするには、その無表情の裏に何が隠されているのかナポレオンにはあまりにもよく分かっていた。
 ナポレオンはそれ以上何も言わずに立ち去り、イリヤは既に実験に意識を戻していた。


 その夜、ナポレオンは次の夜に自分が何をしなくてはならないか苦悩で胸が詰まって、眠りにつけないでいた。
 パートナーに嘘をつくのは嫌だが、この状況で他に選択肢はない。もしウェイバリー氏の計画が失敗した時にイリヤがどうなってしまうかを考えて彼は身震いした。そのような定めから友達を救うには、やっていけないことなど何もない。
 ソロには、ある面ではイリヤとベッドインすることは困難でないと分かっていた。あの若いロシア人は見てくれからしてとても魅力的で、時々見せる怒りっぽさにも関わらず、彼はイリヤを親友としてとても好意を抱いていた。最後に男と関係してから数年経っているのも全く問題はない。ナポレオンは、二十歳の時妻に死なれて以来の辛い年月を思い返した。しばらくの間彼は捨てばちになり、手当たり次第に誰とでも寝た。一晩かそこら、苦しみや孤独をおぎなってくれるなら誰でもよかった。
 それでも、ナポレオンはこれだけ親しくなっているのに関わらず、パートナーとそのうち関係を持つことになろうとは考えたこともなかった。それは彼自身が男とセックスするのを止めたからだけではない。性別はさておき、イリヤの内向的で知性的な性格は、長年ナポレオンがベッドを共にする相手として魅力を感じるには本来まったく逆のものだった。それらのことを重く見ていなかったわけではない。ソロは自分の個人的な嗜好が、この点でいかに的外れなものか十二分に意識していた。
 彼が一番悩んでいるのは、自分がパートナーを騙さなければならないという事だった。嘘をついてイリヤをアパートに呼び入れるだけでも最悪なのに、彼を誘惑するのに薬を盛るなどナポレオンの目にはレイプと大した変わりはないように見える。
 だが、それでも、自分がそれをしなかった時には更に更にひどいことになるのだ。彼は友人が苛まれて殺されるのを救うためには、どんな代償も払おうと心の準備をした。例え何らかの原因でソロが行った行為がイリヤに知られて、彼の友情を失うことになったとしても。
 ナポレオンは、イリヤを気遣う気持ちと罪悪感とが心の中で上になり下になりして一向落ち着かず、何時間も目を醒ましていた。やがて疲労感に襲われて眠りに落ちるまで。


#2

 金曜日の夜、イリヤはいつものように、約束した時間ぴったりにやって来た。笑みの消えた硬い表情で戸口に立っている。ソロはそんな彼を愛想よく迎えた。
「ちょうどいい時に来たね。夕食の用意は出来てるよ」
「いい匂いだ」
 クリヤキンはアパートに足を踏み入れながら、不承不承といった感じで言った。
「そうだろ」
 ナポレオンは謙遜もせずに答えると、パートナーに食堂のテーブルにつくよう手招きした。イリヤは頑固にその場に立ったまま、ナポレオンをじろりと見た。
「ウェイバリーさんに、ある件で話し合いをするように言われたんじゃなかったか」
「話の前に食事をしよう」
 ソロは言い返した。クリヤキンは眉をしかめたが、反論する前にソロはきっぱりと付け加えた。
「さあさあイリヤ、君に社交性がないってことぐらいお互い承知の上だけど、少なくともそのフリぐらいはしたっていいじゃないか。それに君は空腹な筈だよ。どうせ今日一日ラボから一歩も出なかったんだろ」
「わかったよ、ナポレオン」
 ロシア人はどさりとテーブルについた。
「ワインはどう?」
 ナポレオンは自分のグラスに注ぎながら尋ねた。
「酔っ払うわけにはいかない」
 イリヤが唇を結んで答えた。
「ラボで仕事が出来るよう、精神状態を平常に保っていなくちゃ」
「ワインをグラスに半分ぐらいどうってことはないし、消化だってよくなる」
 ナポレオンは抗弁した。
「それに、今夜はもうラボに戻るなんて考えなさんな」
「僕にはやることが山ほどあるんだ」
 クリヤキンははねつけるように言ったものの、ソロがグラスにワインを幾らか注ぐのを止めはしなかった。
「ちゃんと食べてよく眠るのは、君の『精神状態』にもいいと思わないかい」
 ナポレオンは柔らかく言いながら、皿一杯のラザーニャ二人分をテーブルに運んだ。クリヤキンは敢えて返事はせず、その代わり本当に一日何も食べていなかったかのように料理を平らげ始めた。ソロはお代わりを盛ってやり、彼が自分の分を食べてしまうのと同時にそれも空になった。
「すごく旨かった」
 ロシア人は少し元気付いた声で話した。
「そりゃあね」
 ナポレオンがテーブルから皿を片付けると、イリヤはさっきの愛想のない態度に戻って、吐き出すように言った。
「それで?」
「リビングに座っていて。すぐ戻るから」
 ナポレオンは忙しくラザーニャの残りを片付けたり皿を流しに浸けたりしながら、イリヤが視界から消えるのを待って食後酒の準備をした。スコッチのオンザロックを自分用に、媚薬入りのウォッカを相棒用に。ギリギリになって考え直すという手もあったかもしれないが、ロシア人のむっつりしたムードにそれは完全にかき消された。その道の達人だという自負はあるものの、今ここで自分がクリヤキンを真っ当なやりかたで誑しこむのは百パーセント不可能だ。
「話をする前に、乾杯といこうじゃないか」
 ナポレオンはカウチの相棒の隣に腰掛けた。イリヤは、前に置かれた卓上のウォッカのグラスに顔を顰めたが、彼が断るより前にナポレオンが機先を制した。
「一杯ぐらいどうってことはないだろう。あれだけ食べた後なんだから。それに、君の大好きな銘柄だよ」
「わかった」
 クリヤキンはつっけんどんに答えると、グラスを手に取った。
「僕たちの友情に」
 ソロはイリヤの瞳を深く覗きこみながら、自分と相手のグラスをチンと合わせた。
「僕たちの――友情に」
 悲哀と苦悩の表情が、強い自制心で押さえ込まれる前にちらりと浮かび、イリヤは少し間を置いて繰り返した。ナポレオンは相棒がグラスを干すのを見つめながら、こっそりと時間を確かめた。15分、カウント開始。
「ウェイバリーさんは、二人で何を話し合えって?」
 イリヤは再び完全に仕事モードになって言った。
「ウェイバリーさんは、いつかソ連邦にU.N.C.L.E.の支局を置くことを望んでいる」
「見込みは薄い」
 クリヤキンは冷たく言い放った。
「確かに、」
 ナポレオンは同意した。
「でも誰にだって夢はあるものだし、ウェイバリーさんは確かに何年もそれを希望している」
「なぜあの人は僕に直接話さずに、君と話すように言ったんだ?」
 イリヤが探るような視線を向けた。
「デリケートな問題だからね」
 ナポレオンは慎重に答えた。
「ウェイバリー氏は、U.N.C.L.E.のトップとしてはこの要望に距離を置く必要があると考えているんだ。僕と君とは親しい仲だから、君がどうにかして僕と連絡がとれるようにしていれば、ゆくゆくはソ連支局を開く時に有利に働きはしないかと期待している」
 イリヤは空ろな目を向けると、首を振った。
「できるわけがない」
 彼は淡々と言った。
「結構なことだとは思うけど、」
 イリヤが眉を顰める。
「あの人がそんなことを考えていられるとしたら、思ったほどソ連の事情に通じてないんだな」
「それは君の能力を評価してのことだと思うな。ウェイバリーさんは、誰かがそれをやり遂げるとすればそれは君だと考えてるんだよ」
 クリヤキンは返事もせずに肩をすくめた。ソロはキッチンに行くと、自分たちのグラスに代わりを注ぎ、リビングに戻る前に時計をチェックした。10分経過。
「ナポレオン……」
 再び満たされたグラスにイリヤが気を悪くしたのは明らかだった、がソロが押しとどめた。
「別に飲めとは言わないよ、ね?」
 ナポレオンは軽い口調で言った。
「壁に投げつけるなり床に落として踏みつけるなり、お好きにどうぞ」
 イリヤがじろりと睨んだが、ソロは宥めすかすようににこにこと微笑み返した。クリヤキンは長いこと石のように黙り込んでいたが、やがて唸り声を出した。
「それじゃ上等なウォッカがもったいない」
 相棒の苛立ちだけを無視して、ナポレオンはカウチの背に凭れ飄然とスコッチを啜った。イリヤも長いことむっつり黙り込んでいたが、やがて深い溜息をついてウォッカにほんの少し口をつけた。
「ウェイバリーさんが僕らに話し合って欲しかったことはそれだけ?」
 クリヤキンがぶっきら棒に尋ねた。ソロは頷いた。
「肝心な点はね。でも僕自身にも付け加えておきたいことがある」
 クリヤキンは問いかけるような視線を向けたが、ソロは少し間を置いて、相棒の視線を何拍か受け止めてから話した。
「もし僕と連絡を取るすべが見つからなかったとしても、僕はいつも君のことを思っていると知っておいて欲しい」
 イリヤの視線が床に落ちる。ナポレオンは相棒を思いやり深く眺めた。イリヤにとっては友人二人が別れるというだけではない。この頑固な若いエージェントは自分が死ぬことになると分かっていて、そのことを――彼の考える限りでは――何の助けにもならずただおろおろしているだけの友人の前ではけして出すまいとしているのだ。
クリヤキンが突然立ち上がった。
「夕食をどうもありがとう、ナポレオン」
 彼は礼儀正しく言った。
「僕はもう行かないと」
 ソロの顔には落胆が浮かんだのに違いない。イリヤはすまなそうに付け加えた。
「今夜はひどい態度でごめん。なんだか色々と落ち着かなくて」
 ナポレオンは相棒の手を取ると、ぐいとカウチに戻した。
「まだ飲み物が残ってるだろう」
 イリヤには薬の効果が出るまで、あとほんの少しいてもらわねばならない。イリヤはしぶしぶとウォッカを飲んだ。
「――ナポレオン、君は僕の最高の、一番大切な友人だ。U.N.C.L.E.で君と過ごした年月は、僕の人生で一番素晴らしい時だった。この先僕のことを考えることがあれば、どうかそのことを思い出してくれ」
 ロシア人の瞳に浮かんだ悲しげな色に、ナポレオンは彼を腕の中に抱き寄せ、心配することは何もないと言ってやりたくなった。だがそうするわけにはいかない。黙っているのがどんなに辛かろうと、この計画を確実に成功させるためにはイリヤには隠しておかなくてはならないのだ。
「ナポレオン、本当にもう行かなくちゃ」
 イリヤが立ち上がって戸口に向かい、ソロはその後を追った。
「ああイリヤ、帰る前に……」
 クリヤキンが、明らかに自制心を保つのに苦労しながら振り返った。
「な――んだい?」
 素っ気無い声を出そうとして出来ないでいる。ナポレオンは意味ありげに言った。
「是非君に見せたいものがあるんだ」
 もう一度イリヤの手を取った。イリヤは繋がれた手を見下ろし、それから顔を上げて相棒の視線を見返した。ソロは、ロシア人の両目がこちらを向いているにも関わらず、ぼんやりと霞んでいるのを認めた。反抗的な態度が急に消えうせ、おとなしくイリヤはナポレオンに連れられて寝室に通じる廊下を歩いた。
「ちょっと座ってて」
 ソロは優しく言うと、部屋の隅のライトを点け、照度を一番下まで下げた。廊下を挟んで居間と食堂から入ってくる光と合わせれば、隠しカメラの光源には十分足りるだろう。
 ナポレオンは相棒の所へ戻った。相手は穏やかにベッドの端に腰掛けてこちらを見ている。ゆっくりとそばに近づき、足元に膝をつくと、反撃に用心しつつイリヤの靴と靴下を脱がしにかかった。だがその代わりに、イリヤがクックッと笑った。ナポレオンはびっくりして相手を見上げた。クリヤキンはニンマリと笑みを浮かべると、いっそうクスクスと笑った。
 ソロは普段の気難しい相棒の変貌ぶりに面食らってしまった。突然イリヤが書類上の年齢の半分ぐらいに見え、プロの工作員というよりもフワフワしたティーンエージャーといったありさまだ。
「何がそんなに可笑しいの?」
「あんたがくすぐるんだもの〜〜」
 クリヤキンは何とか返事をすると、ガマン出来ないとばかりにケラケラ笑った。これが元は、Thrushの拷問に声一つ立てずに耐え忍んだ男だとは。ナポレオンは戸惑い気味に首を振った。イリヤの靴と靴下を脱がせてしまうと、急いで自分のも脱ぎ、友人の隣に腰を下ろす。相手が振り向いて輝くような笑みを浮かべた。
「君がこんなに敏感だなんて、知らなかったな」
 ナポレオンは誘いかけるように囁き、思い切って手を延ばしイリヤの頬骨を撫でた。年下のエージェントの肌はサテンのように滑らかだった。瞳は魅惑的に輝き、物欲しげに開かれた唇が笑みを作る。勢いづいたナポレオンは、ロシア人の唇を指先でそうっとなぞった。イリヤが小首を傾げ、愛嬌たっぷりに相手を見つめる。ナポレオンの瞳を覗きこむ視線が濡れたように輝いている。
 ソロはそろそろと顔を寄せてクリヤキンに口付けた。ためらいなく相手の唇が開き、甘やかに、からかうように応えてくる。ナポレオンは少し離れて友人の様子を伺った。イリヤの青い瞳が、欲望の熱い光を浮かべている。彼の唇が再びナポレオンのそれを自分から捉えに来た。
 ようやく度胸が据わると、ナポレオンはイリヤをベッドに押し倒し、抱き寄せた。


 七時間後、ナポレオンは朦朧とした頭で目を醒ました。膀胱がもう破裂しそうになっていたが、イリヤを起こして二人の間に何が起こったのか悟られないようにと、彼は最大の注意を払い、ゆっくりとイリヤの身体から身を離していった。U.N.C.L.E.の薬学部門から、この媚薬は後作用として前後不覚の、深い睡眠状態をもたらすと保証されてはいたが、危険を冒すことはしなかった。やっとのことで相棒の身体から手足を解くと、彼は静かにベッドを抜け出し、バスルームに向かった。
 用を足しながら、ナポレオンは自分の記憶が信じられない気持ちで昨夜の出来事をぼんやりと思い返した。どんなに自分が旺盛で、バラエティに富んだ性生活を送っていようが、薬を盛った相棒をベッドに連れ込んでから起こったことにはとても平気でいられない。
 ソロにとっては不意打ちのようなものだった。彼は本気でイリヤとのセックスを楽しめるとは予想していなかった。義務的に必要性のある行為であり、目の前の災いを避けるためだけに引き受けたことだった。何も知らない友人を相手にしなくてはならない罪悪感、監視用カメラを意識しなければならない羞恥心、この二つが合わさって彼自身はなかなかその気になれないでいた。
 なのに、信じられないことにイリヤをこの腕の中に抱いた途端、弾けるように全てがひっくり返った。どうしたら小さなカプセルひとつが、あれだけ自分を抑え込み、内に抱え込んでいたクリヤキンのような人間を、優美で、敏感で、えもいわれず情熱的で、貪欲な恋の相手に変えてしまえるのだろうか。
 おおよそあらゆるやり方、あらゆる体位で、自分たちが何度交わったのかナポレオンは思い出しきれなかった。身体の方は覚えているらしく、全身クタクタであちこちが痛い。この媚薬の調合式がけして世間に洩れることがありませんようにと彼は祈った。誰も彼もが死ぬまでファックしまくり、数日のうちに文明社会が終焉を迎えるのは間違いない。
 ソロは身づくろいすると、イリヤに自分のベッドで過ごしたこと、そこで起こったことが分からないような舞台設定を整えた。こっそりと寝室に忍び込み、あちこちに散らばったイリヤの服を拾い集め、ゲストルームに持っていって椅子の上にきちんと畳んだ。それからベッドカバーをめくっておくと、バスルームに引き返し、浴用タオルをお湯に浸して寝室に戻った。
 クリヤキンはソロが離れた時のまま、四肢をしどけなく投げ出してぐっすりと眠っている。万一イリヤが目を醒ますことがあっても、片方は裸でないようにと着込んだバスローブのポケットにタオルを忍ばせる。そして友人の前に屈みこむと、相手を起こさずに抱え上げられる方向を計測した。相手の無垢な、天使のようなと言っていいほどの表情に捉えられしばらくナポレオンは動けなくなった。

(昨夜のことは全部君のあずかり知らないことなんだ。どうか思い出したりしませんように)

 ソロはイリヤの両膝の下に片腕を差し込み、もう片方は背中に回して慎重に持ち上げた。相手はぴくりとも動かずに眠っていて、脱力しきった小柄な身体は驚くほど腕にずっしりと重かった。イリヤをゲストルームまで運んで行くと、そうっとベッドの上に降ろし、タオルで相手の身体を出来る限り軽く擦って清めていった。幸いイリヤは身動きひとつしなかった。
 ベッドカバーを掛けてやる前に、ナポレオンは大切な友人の姿を長いこと眺め、その引き締まった完璧な造形、予想もしていなかった、あの素晴らしすぎる快楽の源となった肢体に見とれていた。
 こんなことではいけないと分かってはいたが、ナポレオンは惑わされたようにイリヤの眉にかかった金髪を梳き上げ、最後にもう一度だけ、甘い唇をそっとついばんだ。眠ったままのイリヤが、キスに応えて笑みを浮かべる。ナポレオンは蕩けそうな気分になった。だが、もうこれでお終いなのだ。自分たちが分かち合ったことは、もう終わりにして二度と戻らない。そうしなくてはならない。
 ソロは深い溜息をつくと、自分の寝室に戻り壁のライトを消した。
「皆様、ショウはお開きです……」
 隠しカメラにそう呟くと、彼はベッドに倒れこんだ。疲れているにも関わらず眠りはなかなか訪れなかった。イリヤのいないベッドは、ひどく冷たくて寂しい場所に感じられた。


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