#3

 二度目にナポレオンが目を醒ました時、外は明るくなっていた。彼は横になったまま耳をすませてみたが、イリヤが起きだした気配はなかった。
 好都合だ。朝になって友人と顔を合わせる前に、自分を取り繕っておく時間が欲しい。ナポレオンはさっとシャワーを浴びると、それからキッチンに行って朝食の支度を始めた。あのロシア人の気を反らせるには食べ物が一番だし、ソロ自身も何かで気を紛らわせる必要があった。
 しばらく経ってイリヤがゲストルームから出て、廊下をバスルームに向かって歩いていく物音がした。とてつもなく長く思える時間が過ぎてから、ようやくバスルームのドアが開く音が聞こえた。ナポレオンはそわそわしながら台所であれこれしつつ、あの薬の記憶を喪失させる効果が教えられたとおりに働いているよう祈った。
 イリヤが、ソロがよく考えた末に出したままにしておいたローブを着て、見るからにひどく疲れたさまでダイニングに入ってきた。
「やぁ……」
 そう呟き、クリヤキンはそろりとテーブルに着いた。友人の身体の動かし方にナポレオンはぎくりとしたが、落ち着いた、何気ないそぶりを崩さず紅茶を注ぐのに集中した。
「もうすぐ朝ごはんが出来るよ」
 ソロはイリヤに紅茶のカップを手渡した。
「ありがとう、ナポレオン」
 ロシア人がぼうっとした目を向けてきた。
「昨夜はどのぐらい飲んだ?」
「けっこうね」
 ソロは曖昧に答え、テーブルにナプキンやスプーン、フォーク類を並べた。
「迷惑をかけて悪かった」
 ナポレオンはにっこりと微笑み、優しく言った。
「何でもないさ」
 イリヤが溜息をついた。
「今朝は調子が悪いな。そこまで酔っ払ってたことはもちろん、ベッドに入ったことも憶えてない」
 そして青白く広い額に皺を寄せた。
「僕がベッドまで連れてったんだ」
 ナポレオンは、イリヤが昨夜の出来事を思い出すのを遮ろうと口を挟んだ。
「君は明らかにひどいストレスを抱えてる上に働き過ぎだったもの。昨夜まではろくに眠ってさえいなかったんだろう」
 ナポレオンの説明に納得がいったのか、クリヤキンは頷いた。
「色々とどうもありがとう、ナポレオン」
 昨日の夜のぶっきら棒な態度とは正反対の、礼儀正しい口調で彼は言った。
「どういたしまして、友達だろ」
 ソロは相手の表情に、昨夜あったことを少しでも憶えているような兆候はないかと目を凝らしてみた。しかしイリヤの青い瞳に何かの含みはなく、ただぼうっと戸惑いの色を浮かべている。ナポレオンは密かに安堵の息をつくと、キッチンに戻って料理の続きにかかった。火にかけてあったベーコンをひっくり返し、卵をスクランブルにして、オートミールをかき回す。パンをトースターに入れた丁度その時、イリヤがナポレオンの名前を呟いた。その物静かな問いかけは、隣の部屋からためらいがちに、やっと聞き取れるぐらいに伝わってきた。
「うん?」
 ソロは友人の顔を見返した。相手はまごついた様子で、少し顔を赤らめている。
(まずい、)
 ナポレオンは表情を変えないようにしながら、忙しく手を動かし、相棒と向き合うことから、今朝じゅうずっと恐れおののいていた厄介ごとからなんとか逃れることは出来ないかと願った。
「僕は今まで精神的な障害に悩んだことはなかったのに、」
 クリヤキンはためらいがちに言った。
「それが……」
「どうしたんだ?」
 心配になってナポレオンは尋ねた。化学者は何も言わなかったが、あの薬には何か気分を悪くする副作用があるのだろうか?
「気分が悪いのかい?といっても、二日酔だっていうことの他に」
 イリヤは唇を噛んだ。
「もうひとつ、消化不良を起こしたことだってなかった。でも今日は……」
 彼は言い、恥じ入るように肩を竦めた。
「その上変な発疹を起こしてるみたいなんだ。こんなのは今まで見たことがない」
 イリヤがローブの襟を広げると、首元と喉の白い肌をあらわにした。
「これ、ちょっと見てくれないか?」
 ナポレオンにおずおずと頼んで来る。ソロは深呼吸して自分を落ち着かせ、彼に近づいた。
「ふーんん、ああ、わかる」
 ゆっくりと言いながら、彼はうっかりと友人に付けてしまったキスマークを目にしてぎょっとした。もちろん、イリヤの肌は相変わらず抜けるように白くて――
「こういうのが脚にもあるんだ」
 ロシア人は困ったような声でそう告げると、ローブの裾を控えめにたくし上げて行き、太腿に並ぶ赤い痣を見せた。イリヤの白い、完璧に形作られた両脚を前にして昨夜の記憶が熱く蘇る。ナポレオンは必死で自制心を保とうとした。思わず反応しかける自分を押しとどめようと素早く顔を背ける。
「……蜘蛛のヤツだな!」
 とっさに閃いて彼は声を上げた。
「全く、全部始末したものと思ってたのに!」
 彼はイリヤの方を振り返った。
「ごめんよイリヤ」
 クリヤキンは戸惑ったような目を向けた。
「これは蜘蛛に咬まれたあと?」
 ナポレオンは頷いた。
「ちょうど十日ぐらい前のかな、僕にも同じようなのがある」
 彼はすらすらと嘘をついた。
「でも痛みも何もないけど」
 クリヤキンが不思議そうに言った。ソロは訳知り顔で頷いた。
「僕のもさ、ありがたいことにね。害虫駆除の業者にもう一度電話しなくちゃ。あの小さいの、てっきり片付いたと思ったのになあ」
 大げさに息を吐きながら、彼は怒りっぽく呟いた。
「――ここのは新しい痕みたいだ」
 イリヤが、手を延ばしてナポレオンの首筋に触れてきた。
「だね、」
 ナポレオンは同意した。
「えぇと……料理をほったらかしてた」
 彼はコンロの所に戻り、料理を皿ふたつに盛ってテーブルに運んだ。

 エージェント二人は寛いだ様子で、静かに食事をした。クリヤキンの食欲は、謎の不快感で衰えてはいなかった。食べたいだけ食べ終えると、最初食堂に入って来た時よりすっきりした様子で、満足げに椅子の背に凭れかかった。
「ごちそうさま」
 イリヤが立ち上がって伸びをした。
「悪いけど、なるだけ早くラボに戻らなきゃならないんだ」
 彼はゲストルームに戻ると、あっという間に出てきた。身の回りに構わないぶんだけ身支度は早いのだ。
「おもてなしをどうも有難う」
 イリヤは穏やかに言った。
「どういたしまして」
 ナポレオンも微笑んで答えた。

 イリヤが傍に寄ってきて、ソロに抱きつき、つま先立ちで相手の頬に頬をすりつけた。ナポレオンは友人の、らしくない感情的な仕草に驚いたあまりしばらく反応できずにいたが、イリヤのしなやかな身体に回した腕に力を込めると固く抱きしめた。クリヤキンが深い息をつくと、後ろに下がった。ナポレオンは引き戻したいのを堪えた。
「いい友人でいてくれてありがとう」
 信じられないことにイリヤの眼が潤んでいる。ソロをその場に残し、彼は向きを返ると戸口に向かった。
「さようなら。ナポレオン」
 クリヤキンはきっぱり言ったが、声に滲むわびしさ、瞳の中の絶望の色は隠しきれなかった。友人の打ちひしがれた姿に、ソロの胸は激しく痛んだ。だが今は何も出来なかった。
 彼にはクリヤキンのさっきの行動が、自分たちのプライベートな場での最後の別れのつもりだったと分かっていた。このロシア人は、出発の日まで研究所に篭りきり、これ以上は感情的なやりとりを避けてひっそりと出て行ってしまうつもりなのだろう。
「さようならイリヤ」
 ナポレオンは暗い声で言った。そしてイリヤは行ってしまった。ソロは溜息をつき、自分も出勤の準備をした。カメラが取り外される時にこの場にいたくなかったし、写真がマレンコフの所に送り届けられるのは早ければ早いほどいい。

#4

 火曜日の午後を迎えるころ、ナポレオンは心痛でどうにかなりそうだった。マレンコフから何らかの反応があったという報告はなく、イリヤに与えられたソ連に還される最終期日は明日だ。
 なおかつ、彼はウェイバリー氏に会いにいくのがどうにも恥ずかしかった。繋ぎ合わせれば立派なX指定映画が出来そうな写真を発注したのはあの老人なのだから。
 ついにナポレオンはこれ以上緊張に耐えられなくなった。昼からは大した用事もなく、したことといえばいらいらと気を揉んでいただけだ。彼は腹を据えると、上司のオフィスへと足を向けた。
「ソロ君か、御機嫌よう」
 ウェイバリー氏は読んでいたファイルから目を上げると、いくぶん上の空で挨拶をした。
「失礼します」
 自分を見てもウェイバリー氏が大して反応しなかったので、恥ずかしさが幾らか薄らいだ。
「マレンコフから何かお聞きになっていませんか?」
 ナポレオンは単刀直入に尋ねた。
「まだだよ、ソロ君」
 ナポレオンは唇を噛んだ。
「しかし期限は明日までです」
「ソロ君、落ち着きたまえ」
 ウェイバリー氏は淡々と言った。
「諦めるのはまだ早かろう」
 そして読んでいたファイルに視線を戻した。これでますます安心するどころでなくなり、ソロはがっかりして上司のオフィスから出て行った。

 ナポレオンには、イリヤがきっちりと決められた日にソ連へ帰るつもりであると分かっていた。考えうる限りで彼を引き止められるとしたら、研究所での作業がそれまでに終わらないことぐらいか。ソロはどうにかして、実験を延長させる手段は見つからないものかと研究セクションへ急いだ。ラボ中を探したが相棒の姿はない。彼はイリヤの事を尋ねにラボのチーフの部屋へ向かった。
 デスクの向こうで、シンプソン博士が鼻の上の眼鏡をずり上げながら顔を上げた。
「クリヤキン君は一時間ほど前に出て行ったよ。昼も夜もここに詰めて、実験を終わらせていった」
「完成――したんですか?」
 ナポレオンは落胆を抱えて尋ねた。シンプソンが頷いた。
「この午後にね。まったく当初の予定通りだった」
 研究所長は溜息をついた。
「彼がソ連に戻らなければならないとは全く嘆かわしいことだ。彼は素晴らしいエージェントでもあったが、この部署でも本当に有難い存在だったのに。君も相棒を失ってしまうのはさぞや辛いだろうね」
 所長は同情を込めて言った。ソロは礼を言うと、本部の建物から走り出た。イリヤの出発を止める手段を見つけなくては。もう少し時間を稼がなくてはならない。ナポレオンはイリヤがせめて翌日まで留まっていてくれることを祈りながら、ラッシュアワーの中をイリヤのアパートに向かって突進した。もしクリヤキンが自宅にいなければ、ナポレオンは後先構わず爆破予告の電話をかけてやり、東欧往きの全便をストップさせるつもりでいた。
 ようやくイリヤのアパートの建物にたどり着き、ナポレオンは階段を駆け上がってドアをノックした。応答はなく、心臓をドキドキ言わせながらナポレオンは、イリヤと組んだばかりのときに渡された、ほとんど使ったことのない合鍵を取り出して中に入った。
 シャワーの水音がして、どうしてクリヤキンがドアのノックに答えなかったかが分かった。ナポレオンはほーっと安堵の息をつくと、辺りを見回した。イリヤのアパートは何も変わりがないように見える。リビングを占めるのは持ち主を二度か三度は代わったような幾つかの家具と、桁外れな数の本がぎっしり詰まった本棚。まだ荷造りに取り掛かってさえいないようだ。
 ソロは相棒を待ちながら部屋を見てまわりつつ、小さなダイニングキッチンに歩いていった。少々散らかし屋の彼らしくなく、イリヤはいつもの新聞や雑誌の山を古ぼけた食卓から片付けてしまっていた。鍵と、小さなビニールの袋だけが塗料の剥げた卓上に載っている。好奇心をそそられて、ナポレオンは袋を取り上げて検め、途端に心臓が縮み上がり全身が凍りついた。
 袋の中身は青酸カリのカプセル、U.N.C.L.E.の薬剤部で扱っており、余程の非常時でなければ手に入らないものだ。

 聞き間違いようのない、銃の安全装置が外された音がして、ソロはばっと振り返った。裸で水滴をポタポタ垂らしたイリヤが廊下に立っていて、拳銃をだらりと脇に降ろした。眼から火を噴きそうな勢いで、ナポレオンは相手に詰め寄りビニールの小袋を顔の前に突きつけた。
「これで何をするつもりだった?」
 彼は断じるように言った。
「こいつを飲むつもりでいたのか、今夜?!」
 返事をせずにイリヤは袋を取り上げると、近くの本棚にそれを置き、銃もその横に置いた。
「返事をしろ!」
 ソロは怒鳴りつけ、ロシア人の両肩を掴んで力任せに揺さぶった。イリヤが身体を捻って手を退ける。その表情はぞっとするほど感情が殺げ落ちていた。
「違うよ、ナポレオン」
 彼は冷ややかに言った。
「今飲むつもりはない。それはKGBの、マレンコフの僕への処遇が喜ばしいものじゃなかった時のための、単なる保険だ。アメリカの領土内でそんなことをするつもりはない。それじゃU.N.C.L.E.に迷惑をかけるからね。ソ連への帰還を阻止するために僕を殺害したと思われるだろ」
 ナポレオンは胃の中のむかつきを抑えようと大きく息を呑んだ。気持ちの読めない相棒の目を覗き込みながら、震える声を落ち着ける。
「わかった、すまなかった」
 クリヤキンは突き放すように肩を竦め、ソロはその白い肩に、生々しい赤い痣があるのに気がついた。彼の肩に指を食い込ませてソロがつけた跡だ。
「ごめん、痛めつけるつもりはなかったんだ」
「なんともないさ」
 クリヤキンは棒のように立っていた。
「でも寒くなってきた。ちょっと失礼」
 そしてシャワーを流しっぱなしにしている浴室へと戻って言った。背筋が凍りつくような思いで、ナポレオンはリビングルームにあるデコボコしたカウチまで歩いてゆき、腰を落とした。彼にはイリヤが、青酸を使う時は『KGBの自分への処遇が喜ばしいものではない』ことがはっきりしてからだとはとても考えられなかった。ひとたびクリヤキンがKGBの管理下に入ってしまえば、彼に自殺を許す隙のないよう監視がつけられるだろう。KGBの手に落ち、拷問よりも死を選んだ者は多く、彼等も当然それを警戒してくる筈だ。
 違う。イリヤはその前に、飛行機が着地し理屈の上からはロシアの領土に踏み込んだ瞬間、青酸を服用するつもりでいるとしか思えない。
 ソロの頭の中に、滑走路上の機内で息を引き取っているイリヤの無残な姿がまざまざと浮かんできた。

 ナポレオンの苦渋に満ちた思いは、イリヤがリビングに入ってきて遮られた。ロシア人はその引き締まった身体の上から下まで黒を纏っていた。喪服のような黒の装いが、目の下の翳りを一層際立たせている。
「どうかしたかい?」
 イリヤが何一つ変わらないように尋ねた。
「出発はいつ?」
「飛行機は明日の正午発だ」
 お天気の話をしているような言い方だった。
「空港まで送ってあげる」
 ソロはすかさず言った。
「別にいいよ」
「そうしたいんだ。いいだろ?」
 ソロは頼み込んだ。しばらくこちらを見つめてきたクリヤキンの瞳に、諦めの色が浮かぶ。
「わかった」
 ロシア人がひっそりと答える。
「迎えに来てくれるなら、十時半に待ってるから」
 ソロは首を振った。
「帰らないよ。今夜は君と一緒に居たい」
「ナポレオン、僕は毒を飲むつもりはないってば」
 苛立たしげにイリヤが言った。
「そうじゃない。ただ、君を一人にしたくないんだ」
「考えることがあるし、僕は一人の方がいい」
 クリヤキンが最大級によそよそしい口調で答えた。
「考え事なら飛行機の中でいくらでも出来るだろ。それに、君の考えがあっちの方に向いてるのなら、」
 ナポレオンは本棚の上の青酸を指差した。
「今夜は誰かが一緒にいるべきだと僕は思う」
 イリヤの冷ややかな視線が注がれる。ソロは、相棒の鉄仮面の下に隠された真情に訴えかけるよう、さらに食い下がった。
「頼むよ――ねぇ、イリヤ?」
 クリヤキンは大きく溜息をついた。
「じゃあお好きに」
 そして踵を返すとキッチンに向かった。いつもながらロシア人の動作は静かだ。黒を纏った敏捷な体躯に、金色の冠が奇妙なほど目に付く。ナポレオンはイリヤをぼんやりと見詰めながら、その優美な仕草のひとつひとつを胸に刻みつけ、もう目にすることは出来なくなるのかと恐れを抱いた。

(お願いだイリヤ、死ぬな、死んじゃいけない)

 相棒の悲痛な視線をよそに、クリヤキンは大き目の紙袋を冷蔵庫から取り出してテーブルに置いた。
「サンドイッチはどうだい?帰る途中にデリで材料を仕入れてきたんだ」
 何かすることが出来たのを有難く思いつつ、ナポレオンはハムとローストビーフをそれぞれチェダー・チーズと一緒にイリヤの好物のライブレッドに挟むのを手伝った。イリヤが冷凍庫からウォッカを出してきて、めいめいのグラスに注ぐ。
「こないだの晩みたいに酔っ払う前に止めてくれよ」
 その記憶にイリヤが眉をひそめた。
「二杯が君の限界だった」
 ナポレオンは教えてやった。
「もっと飲んでも平気だったはずなんだけど、余程疲れてたんだな」
 そう言いながらイリヤはサンドイッチを食べ始めた。ナポレオンは友人を心配そうに見つめた。イリヤの様子はひどいもので、ガードの緩んだ目は怯えたように血走って、心痛が若々しい外見を損なっている。
「本当に疲れているみたいだ。荷造りを手伝おうか?」
 どうでもいいと言うようにクリヤキンが肩をそびやかした。
「持っていく物は大してないから。僕がいなくなった後、僕の持ち物を適当に処分してくれたら有難いな」
 声を出せば全く別のことを言ってしまいそうで、ナポレオンは頷いて同意した。二人は言葉少なに食事を終えた。

 クリヤキンが椅子に背を預けると、欠伸をした。
「ナポレオン、申し訳ない。まだ早いのは分かってるけどここしばらく寝不足だったんで、もう寝かせてもらうよ」
「いいとも。僕もなんだか疲れたし」
 イリヤは立ち上がると奥へ歩いていって、枕と毛布を持って間もなく戻って来た。
「僕はカウチを使うから、君は僕のベッドで寝るといい」
「駄目だよ。君のベッドを取っちゃうなんて」
 ナポレオンはきっぱりと言った。
「でも君はカウチじゃ落ち着かないだろう」
 イリヤが言い返す。
「なら君だってそうじゃないの」
 ナポレオンは指摘した。
「ねえ、前にも同じベッドで眠ったことがあるんだし、今夜もそうしないか?」
 イリヤが肩をすくめた。
「いいさ。今は疲れてて言い合いする気にもならない。たとえ君に別の意図があったとしてもね」
 年下のエージェントの言葉に、ナポレオンはぎくりとして目を見張った。幸いクリヤキンはリビングに持ち込んだ毛布を畳みなおすのに構っていて、彼の反応には気づかなかった。
「って、どういうの?」
 ナポレオンは軽い、何気ない声音を作って言った。
「僕を見張るためにとかさ」
 ロシア人が重い口調で答えた。
「あぁイリヤ、そうじゃないよ。ただ今夜は君の傍にいたいだけなんだ」
 クリヤキンは相手を一瞥したが、それ以上は何も言わなかった。
「じゃ、こっちへ」
 諦め声で言うと、彼はナポレオンと一緒に寝室へ向かった。

 クリヤキンの寝室は、リビングに置ききれなかった本棚が幾つかと、これも本を積み上げた古ぼけた洋服棚、ガタガタのサイドテーブルに小さめのダブルベッドで占められていた。イリヤは洋服棚をかき回して、パジャマを幾つか取り出した。
「あんたの身体に合うのはないみたいだ」
 彼は口ごもりながら言った。
「何も要らないよ。下着だけで寝るから」
 ナポレオンは答えた。イリヤは至極当然のように服を脱いでしまうと、パジャマに着替えた。相手が裸でいる間、ソロは何も知らない友人に、自分がどれだけ肉体的な欲求を感じてしまっているか悟られるのを怖れて懸命に目を逸らしていた。
 彼らは交代で手早く洗面所を使い、ベッドに潜り込み、イリヤが明かりを消した。
「一緒に居させてくれてありがとう」
 暗闇の中でソロは囁いた。
「うちに手錠を置いてなくてお気の毒さま」
 クリヤキンが妙なことを呟いた。ナポレオンは相棒の言葉にぎょっとした。
「何だって?」
 イリヤは拘束されることをそれとなく言っているようだが、そんなことはあり得ない。
「そしたらあんたは、僕が何かしやしないかと気を揉まずに寝られただろ」
 ロシア人はちくりと皮肉を込めて答えた。
「頼むよイリヤ、僕がここにいるのは君のことが気になるからで、君を信用してないからじゃないんだ。どうして信じてくれないのさ」
 ナポレオンは拝むように言った。クリヤキンは長いこと黙り込んでいたが、やがて溜息が聞こえてきた。
「ごめん、ナポレオン。またしても君の親切や気遣いに酷い態度を取ってしまった。許してくれ。疲れてどうかしてるんだ」
「よく分かってるよ」
 ナポレオンは柔らかく言った。
「僕がついているから――」
 彼は手を延ばし、イリヤの腕に触れると、衝動的に相手の手を握ってしまった。ソロはイリヤがその手を握り返してきたことに驚き、それから緩めた手を預けたままにしたことで更にびっくりした。すぐに穏やかな呼吸が聞こえてきた。眠ってしまったらしい。
 ナポレオンは瞬きして涙を抑えた。彼にはイリヤの皮肉や冷淡な態度は全て表面的なもので、目の前に迫ってくる死への恐怖と孤独を押し隠すためのものに過ぎないと分かっていた。だがそんな彼が、今は何かに縋るように相棒の手を握って眠り込んでいる。ソロは恐らく何時間も目を醒ましたまま、友人の置かれた辛い状況を思い、ウェイバリー氏の計画が最後の瞬間に効を奏することを祈った。
 眠っているイリヤがびくりと身を竦ませ、声を上げた時もナポレオンはまだ起きていた。ナポレオンは手を離すまいとしたが、クリヤキンが激しく身体を動かした拍子に指が離れた。少しの間静かになり、ナポレオンはイリヤが悪夢から醒めたことを願ったが、突然叫び声と共にがばっと起き上がった。
「イリヤ、イリヤ、落ち着いて。ただの夢だ」
 ナポレオンは相手に手を延ばしながら宥めるように言った。クリヤキンはされるままにソロの腕の中に納まった。ナポレオンは相棒をぎゅっと抱きしめ、その引き締まった体から伝わる震えを受け止めながら、じっとりと汗に濡れた髪を梳いてやった。
「ご……めん、ナポレオン」
 震えながらイリヤが言った。
「あんたを起こすつもりはなかった」
「おいで、」
 ソロは穏やかに答えると、仰向けになって友人を腕の中に導いた。ナポレオンの肩に額を預けていたイリヤは、ようやく落ち着きを取り戻し、また眠りについた。ナポレオンは完全に目が醒めてしまい、苦悩を抱えたまま取り残された。

 年上のエージェントの胸の中に、幾つもの相反する感情が渦を巻いていた。すぐそばにあるイリヤの身体に、金曜の夜の淫靡な記憶が蘇る。腕の中で身悶えていたイリヤの滑らかな肢体、情熱に酔いしれた美しい顔立ち、恍惚とした甘いうめき声。だが、あのイリヤは本来の彼、いま腕の中にいる、悲哀と絶望を抱えて、愛する――プラトニックな意味で――友人の抱擁に『初めて』身を委ねて赤子のように眠るイリヤではない。
 ナポレオンは自分にパートナーへの欲望を抱かせる羽目になったあの媚薬とウェイバリー氏を恨めしく思った。生涯最後の夜になるかもしれない時、クリヤキンに何より用のないのは親友に、このギリギリの状況で安らぎを求めた相手に、自分の望まないセクシャルな感情を向けられることだろうに。
 ソロは自分の情欲に満ちた思考を心から恥じた。何故なら彼のイリヤに対する愛情は、あの晩の肉体的な関係を遥かに超えたものになっていたから。今になって彼は、自分がどれだけ深く、心の全てでこの友人を愛してしまったかに気がついた。ナポレオンは目に涙を浮かべた。
(君を死なせたりしない、イリヤ)
 彼は心に誓った。
(どんなことがあっても。何にかえても)
 自分に出来ることが何かあるはずだ。

 追い詰められたその状況で、ある考えが頭に浮かんだ。
(クソ、そうだとも)
 彼は胸を高鳴らせて考えた。明日の朝になってもウェイバリー氏からはかばかしい知らせがなかったら、自分自身の手でどうにかすればいい。イリヤには空港へ行く途中、自分のアパートに寄らなきゃいけないと話す。着いたら通帳と幾らかの大事な物をひっつかみ、場合によればスーツケースに荷造りをする。空港まで送って行くのは、ウェイバリー氏にどこかへ、例えばアンゴラに向かうよう言われたからでもあるとイリヤに説明する。そして自分の乗る便は、イリヤの便のちょうど一時間に出るんだと。
 この嘘は通じるはずだ。イリヤは自分の事で頭が一杯で不審に思う余裕はあるまい。空港に行く途中で、イリヤの気を逸らして麻酔銃で撃ってやる。それから急いで銀行に行って、有り金を全部引き出して、国境に向かって走り出す。数時間も走ればカナダ国境だ。意識のない小柄なロシア人スパイ一人、世界で一番警備の緩い国境を越えさせることが出来ないのなら、それこそ自分はU.N.C.L.E.の特務課主任(もうすぐ『元』になるのだろうが)である資格などない。
 カナダには頼りに出来る幼馴染の友人がいる。イリヤと自分は、一緒に、そこで新しい人生を始めるのだ。ロシア人は最初は腹を立てるだろうが、遅かれ早かれ説き伏せる自信はある。もしかしたら、やがては恋人にしてしまうことも出来るかもしれない。長い時間と忍耐が必要になるだろうが、イリヤにはそうする価値が十二分にある。それに今のキャリアを捨ててもイリヤの命が助かればそれでいい。
 考えに考えてやっと心が決まり、安心したソロはくたびれ果てて眠りについた。腕の中にしっかりとイリヤの温もりを抱えたまま。

 ナポレオンは明るい光の中で目を開けた。もぞもぞと寝返りを打ち、次の瞬間自分がどこにいるかを思い出して完全に目を醒ました。ばっと身を返してイリヤを探したが、年下のエージェントはそこにいなかった。ロシア人が自分を置いて抜け出し、もう空港へ向かってしまったかと動転してソロはベッドから飛び出した。部屋を駆け出たところで、イリヤがカウチに腰掛けて何か読んでいるのに出くわした。
 クリヤキンは皮肉っぽい笑みを含んだ視線で見上げてきた。
「僕はまだいるよ。ナポレオン」
 彼は穏やかに言った。ナポレオンは安堵のあまり壁に凭れかかった。
「いま何時?」
「ちょうど八時半を回ったところだ」
 クリヤキンは淡々と答えてみせたが、口元が強張っているのがわかる。
「ちょっとシャワーを浴びなきゃ」
「全くだ」
 不自然に気さくな声でクリヤキンは答えた。
「朝食にサンドイッチの残りがある。君の分を作ってやろうか?」
「いいね」
 ナポレオンはバスルームに入った。シャワーを浴びながら、彼はイリヤを攫ってカナダに逃げる計画の細部を改めた。行動に出る準備をしておかなくてはならない。残された時間は僅かなのだ。
 あれこれ考えていると、バスルームのドアがノックされ思考は中断した。ナポレオンはシャワーを止めて、バスタブから出た。イリヤがドアから顔を突き出してきた。
「ナポレオン、悪いけど、」
 彼は遠慮がちに言った。
「何かあったらしいんだ。ついさっきウェイバリーさんから、今すぐオフィスに出頭するように言われた」
「僕も一緒に行こう」
 ナポレオンは服を着に走った。スーツに手を掛けたと同時に、彼のコミュニケーターがポケットで鳴りだした。
「こちらソロ」
「ソロ君、何故自分のオフィスにおらんのだね」
 ウェイバリー氏が詰問してきた。
「申し訳ありません。寝坊しまして、」
 ナポレオンはへどもどと言い訳をした。
「直ちに私の所へ出頭したまえ。君が興味を示しそうなニュースがあるのだ」
 ウェイバリー氏はぷつりと通信を切った。
「了解しました!」
 ナポレオンは虚空に向かって答えた。急いで服を着ると、イリヤと一緒にアパートを出た。胸の中はひっくり返っているのに、それを表情に出さないよう彼は苦心した。ウェイバリー氏のニュースはきっと良いニュースに違いない。そうでなければ、緊急時のプランの実行にかかるまでだ――何としてでも。


 エージェント二人は上司のオフィスに入った。ウェイバリー氏は二人が席に着くのを待って、満足そうな声音で告げた。
「クリヤキン君、マレンコフ将軍は、君のソ連への召還命令を撤回して来たよ。恒久的にね」
 イリヤは言葉を失った。ナポレオンは笑みを広げると、相棒の背中をバンと叩いた。
「君を留めておけるのは大変に喜ばしいことだ。クリヤキン君」
 ウェイバリー氏は若いエージェントに言った。
「あ…ありがとう――ございます」
 顔を明るくしていきながら、ぼんやりとイリヤは答えた。一瞬、この意外な知らせについて考え込むと彼は尋ねた。
「その理由については言って来ましたか?」
「ふうむ、」
 ウェイバリーがもぐもぐと言った。
「道徳的に堕落しているとか何とか、馬鹿馬鹿しいことだ。気にすることはない。KGBは西側の影響を受けた者には、誰も彼もひとくくりにしてそう言うのだろう」
 クリヤキンは心外そうに言った。
「僕はロシアを出た時から、KGBに監視されていることを考えて至って慎重にふるまってきたのですが」
「とにかく喜べよ。帰されずに済むんだもの」
 ソロが口を挟んだ。
「何と言われようが気にすることはない。どうせでっち上げの理由に決まってるさ」
「その通りだよ、クリヤキン君。君の品行について咎めることなど何もない。うちの全てのエージェントが、このような賞賛に値する規範を守ってくれたらと願うばかりだね」
 最後の一言に、ソロはちらりっと上司に目を遣ったが、完全に黙殺された。
「有難うございます」
 イリヤは静かに、慇懃に答えた。
「では諸君、御機嫌よう。これにて解散」

 ナポレオンは相棒の後について通路に出た。イリヤが振り返り、嬉しくてたまらないというように彼を熱烈に抱擁した。ナポレオンは笑いながら勢いで後ろに下がった。ロシア人のしなやかな身体をしっかりと抱きしめ、耐えかねて彼の金紗の髪に唇で触れてみる。
 あまりにも早くイリヤは抱擁を解くと、視線を上げてきた。輝く瞳いっぱいに涙を湛えている。
「ああ、ナポレオン、本当に嬉しいよ……」
 彼は息をついた。
君、 マイ・フレンドちょっとごめん」
 そして気を落ち着けようと背中を丸め、近くのトイレに走っていった。ナポレオンは去っていく相手を見送った。イリヤがいないとこの腕が如何に頼りないかを侘しく感じながら。
友よ、 マイ・フレンド どういたしまして」
 彼は突然の、胸の中を抉られるような痛みとともに一人ごちた。

(僕の『友だち』)
 彼は思った。
(『恋人』ならよかったのに……)


A Tangled Web Affair--the end

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