by Nyssa
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Act-1

 ナポレオンの姿がドアの向うに消えるとすぐ、イリヤは自分のスーツケースに向かった。
 今夜は細心の注意を払い、普段通りの『仮面』を被り続けていたせいで、文字通り顔が引きつりまくっていたし、胸の中のしこりは、すぐにでも痛みへと代りそうだった。彼の行動はそれ故のものだった。
 無論その痛みとやらもそのうち消えるだろう。いや、消えはしなくても、いっとき隅っこへ押しやっておくことは出来る。自分は根っから、そういうことが得意なたちなんだから。母なるロシアにはこういう場合にうってつけの産物がある。何であれ神様に感謝するとしよう。

 ボトルは一本丸ごと残っていた。彼は普段のルールとして、大酒を飲むようなことはしなかった。少なくとも、同国――ロシア的判断内での『大酒』は。路上で意識を無くしたこともなければ、三日間飲みつづけたあとに目を覚まし、自分が何処にいるかも判らない、というような経験は全くない。こんなふうに自制心をなくしてしまうような輩は、彼にとって軽蔑の対象でしかなかった。
 ロシア的には彼の習慣は、つまり彼の飲酒習慣は、大変に節度のあるものと見なされるであろう。仕事中は決して飲まないし、普段は精神的なものであれ肉体的なものであれ、辛さを忘れるために酒を飲んだりはしない。(とはいえ、例外の無い規則というものはないわけだが)
 彼は食事の時には、寛ぐために、また祝うために酒を飲んだ。とりわけ、絶体絶命の状況を潜り抜けてたことを祝うために。顔面にかぁっと血が上り、心臓が捩じ上げられ、喉元をぎらつく刃先がかすめていくその気分ほど――どれだけ他人がそこで死んでいようとも――自分はまだ生きているのだと実感することはない。
 そう、同じように生きていると感じさせてくれることなら他にもあった。今はそんなことおくびにも出すわけに行かないが。

 イリヤはボトルを、部屋の隅の小さなテーブルに置き、コップを取りにバスルームに行った。個人的には、公共の場でなければそういう容れ物は不必要だと思っていた。が、以前自分が酒をラッパ飲みして、手の甲で口を拭った時の、ナポレオンの驚愕と恐怖の表情を見て以来、そのスタイルを少し控えるようになったのである。
 バスルームのくずかごに、持参したもう一本のボトルが空になって収まっているのに目を止めた。彼とナポレオンは夕べ、任務を完了させたあと、この一本を空けたのだった。
 ぼんやりとした記憶によると、彼はツイン・ベッドの片方に寝そべった格好でとめどなく笑い続けていて、ナポレオンは、最後のひと注ぎをベッドにも、床にも、自分自身にも零さないよう懸命になっていた。そして非常な集中力でもって、ついに何事もなくコップに注ぎ入れた、のはいいが、唇に持っていく前にコップを落っことした。それで余計に馬鹿騒ぎになった。
 酔っ払った時のナポレオンは、それはそれは愉快だった。もしくは、少なくとも二人で酔っ払った時には。

 どういう具合でもう一本を取って置く事になったのか、イリヤは思い当たらなかった。多分記憶もないほどメートルが上がっていたのだろう。とにかく現実に酒は残っている。肝心なのはそれだけだ。
 なおかつ今夜、分け合うべきナポレオンは存在しない。が、せっかく持ってきたものを無駄にするわけにはいかない。コイツにはれっきとした、果すべき役割というものがあるんだから。
 コップを手にベッドルームに戻ると、彼はそれをベッドサイドの、自分のワルサーの横に置いて、アメリカ人が言うところの『ワン・フィンガー』分を注いだ。しばらく考えて、馬鹿なことをしているのに気がついた。何だって無駄に何度も注ぐことがある?彼はもう一度ボトルを傾け、カップのふちまでなみなみと注いだ。

 よし、とイリヤは狭いベッドに腰を下ろし、背中とヘッドボードの間に枕を立てかけて、ウォッカをくーっと喉に流し込んだ。満足げに目を閉じ、身体じゅうに熱が液状になって広がるのを感じる。内側から抱き締められたように……これは以前どこかで聞いたフレーズだ。もしくは、ファックされたように、というのはどうだろう?彼は自分の思いつきにほくそ笑んだ。
 ナポレオンはきっと今ごろ、目的地に向かうキャブ(タクシー)の中に違いない。シカゴの交通事情ときたらひどいものだが、彼のパートナーがホテルの正面玄関を一歩出るが早いか、その角の所にキャブが客待ちしていたに決まっている。それがいつもの【Napoleon's Luck――幸運なナポレオン】という奴だ。
 イリヤはがらんとしたホテルの部屋を見渡し、はるか下の通りの、かすかな車のエンジンの音やクラクションに耳を傾けた。
(で、いつもこっちは運に見放されるって調子なんだよな……)

 彼はコップを空にし、あまりに早い酒の減り具合に驚いた。それまでは何ともなかったのが、素晴らしいぬくもりと、強ばっていた筋肉がほんの少しほぐれてきたのを感じた。
 もう少しばかり飲れば、自分の目論見は達成されるわけだ。彼はボトルに手を伸ばした。ほんわかとリラックスした気分で、彼は逆らいがたく自分のパートナーのことを思い返した。周囲に暖かな光を撒いているのが目にみえるようなあの男。彼の眼差し、声音が、微笑み――それは温もりとしか言いようがないものだ。
(でなければ、頭がヘンになりそうな、からかうような、誘い掛けるような、ソソるような、逆らいがたい……その他色々。ナポレオン=ソロのおかげで、英語のボキャブラリーが増えたことといったら。『ロジェット社類語辞典』より余程役に立つってものだ)
 ナポレオンの腕の中で眠ったなら、冬の寒さも風邪も弾きとばせる気がする、と彼は夢想した。
(チャンドラーの奴に、朝鮮で風邪にやられたかどうか聞くというのはどうだろう?)

 コップ二杯めの酒は、最初よりもずっとあっさり、彼の喉を通りすぎていった。もう喉が焼けるような感覚はなくなり、柔らかな温もりが身体をくるむ。
 その感覚に耽溺するうち、ヘッドボードに凭れていた姿勢が少し下へとずり落ちた。身体の強ばりが消えて、彼は上機嫌の溜め息をついた。空になったコップが、彼をあの素晴らしい感覚へと誘い込む。イリヤはまたコップを満たした。
 彼には二日酔いの経験がなかった。今までの最悪の体験は、ウォッカを飲りすぎて口の中がひりひりし、記憶がやや曖昧になったぐらいである。彼はワインも、ビールも、ブランデーも、場合によってはウィスキーも嗜んだが、すべてきちんと節度を守っての上である。
 その種の嗜好品は、下手をするとその翌朝、目を醒ますと気分が悪くなっていることがあるのだが、ウォッカは別だ。それは純粋な輝きであり、エネルギーだ。清らかで鋭くて、灼けつくように熱く、氷のように冷たい。まるで彼の故郷の凍てつく木枯らしのように、身体を引き締めてくれる。
 彼はしばしば、他人が何故他のものを飲みたがるのか不思議に思うことがあった。

 ナポレオンもウォッカを好んだが、スコッチも好きだった。それでイリヤは、パートナーがほんのひと啜りしただけで、ウィスキーに全く口をつけないのを見て驚いたりしたものだ。
 それが、相手には上っ面以上の何かがある、と思うようになったきっかけになった。以後彼はナポレオンの表情を、間近に観察し、相手の腹を読み取ろうとしはじめた。
 ナポレオンは、その暗い深淵に光も通さない幕を引くかのように、必要とあれば何も考えていないような目つきをすることも出来た。今まで自分達はそのおかげで生き延びてこれたし、イリヤは、ナポレオンが唯一ごまかしを使わない相手が自分だ、ということも分かるようになった。
 でもナポレオンは自分を過分に信用している。自分自身は、ナポレオンほど上手くはやれない。ナポレオンがそばにいて、自分の中にしまっておいた方がいいと思うようなことでも顔に出してしまいそうな危険を感じた時には、イリヤは単に視線を外すだけにしている。それもしばしば。
 今夜のディナーでのナポレオンの眼差しは、全てを語っていた。そして、もしナポレオンが自分の気持ちをイリヤに隠した方がよいと思われる場合があるとするならば、正にこの時だったろうに。
 パートナーのあんなとんでもない信頼のされかたを名誉に思うべきなんだろうか、と彼は考えた。そして3杯目を飲み干し、またボトルに手を延ばした。

 このボトルの中のアルコール度数をかんがみれば、既に危険域に達しているかもしれない。彼はボトルを斜めに睨み付け、既に摂取した量と、残っている量とにどれほどの開きがあるのか計算しようとした。このボトルは、夕べナポレオンと一緒に飲んだものと全く同じサイズである。自分達はボトル半分ずつを飲んで――もしかすると、自分が見てないすきにナポレオンが一、二杯余計に飲んだかも?
 彼はむっと眉を寄せて考えたが、それから首を振った。それは違う。自分はずっと目を外さなかった。その必要がないと思えても、常にパートナーを見つめている――それは、彼の習慣だった。ナポレオンが言ったこと、したことの全てを見逃すなと。
 二人の間で交わされる、殆ど分からないような信号や閃きに、自分の生死がかかっていることは何度もあった。そしてナポレオンの生死も。

 というわけで――自分達は夕べ、ちょうどこれぐらいずつ飲んだわけだ。自分とナポレオンの任務は完了し、NYに戻る前に、一日そこらをぶらつける余暇がもらえた。自分は負傷しなかったし、さらに重要なことにはナポレオンも無事だった。
 仕事が終った時は、ナポレオンが言うところの『plastered――やっつけちゃった』気分で満たされていた。時間はどれぐらいかかったっけ?それと今飲みはじめてからどれぐらい経った?彼はベッドサイドの時計に目をこらした。
 9時45分。ナポレオンが出ていったのは9時ごろではなかったか?とすると、前夜より飲んでいないのは確かだ。じじつ、自分の五感は十分に働いている。じじつ、やばいかなという感じは殆どない。もちろん今夜の酒量は多い目だ。それが何か変なのか?変といってもどれぐらい?

 彼は首を振り、もう一度考えてみる。もし自分が45分間のうちにボトル半分を空けて、そうひどく酔っ払っていなくて、そして昨夜は同じぐらい飲んだけれど、もっと少しずつ飲んでて、かなり酔っ払って、飲んだのはナポレオンと一緒にで、体内のアルコール代謝の度数はそうすると……。
 それが何だってんだ。彼は注意深くコップに注いだが、ボトルをベッドサイドに戻す手がおろそかになり、ボトルに自分の銃が押しやられて、床におっこちた。
 彼はその有り様をしばし、恐ろしげな面白がるような気分で、だがどっちもそう強くでなく、眺めていた。そしてそろりと自重を支えて、ベッドの端の方へ屈み込んだ。少々ふらっとなったが、どうにかベッドサイドに銃とボトルを両方置き直した。

 ナポレオンは勿論、銃を携帯していった。
(彼の『昔の戦友』に襲われた場合を考えて)
 ヒステリックな感情の波が寄せてきて、彼は馬鹿みたいに笑いだした。
(そう、奴ならやるかも。僕もやるかも。ナポレオンがこのドアを開けて帰って来たら、何なら僕は……)
 ナポレオンが今夜、このドアを開けて戻ってこなければ別だ。だって彼は朝まで戻らないだろう。こういう場合において、あの男がそんなことをした試しはない。イリヤは唇を固く結びながら、4杯めを注いでいった。
 これが女なら構わない。彼はナポレオンの、異性に対するしごく健康な欲求には慣れてしまったし、もうそのことで、本気で苛つくことなどほとんどなくなった。しかしそれでも、自分のパートナーが《男》と関係することを考えるだけで……。
 ナポレオンの嗜好に《それ》が含まれることなど、今まで疑ってもみなかったが、今夜のことは明白な事実だった。信じがたいことに、彼が普段研ぎ澄ましてきたレーダーは、自分が世界で一番よく分かっていると思い込んでいた人物の前に敗北したのだ。

 彼等がレストランで、ちょうど席について夕食を取ろうとしていた時、ナポレオンと同年輩ぐらいの、背の高い金髪の男が近づいてきて、生き別れの兄弟に会ったようにナポレオンに挨拶をした。
 相手は彼等と同席していいかと尋ね、イリヤはナポレオンの目に、驚きと喜びを見て取った。が、この男は自分の昔の戦友で、名はマット=チャンドラーだという説明で納得はした。そう、その時はそれで納得していた。けれど食事が進み、ナポレオンが懐かしい思い出の時を取り戻した嬉しさで、酒も料理も、パートナーのことも上の空になっているのを見て、疑いが芽生えてきた。
 彼等を盗み見ていると、チャンドラーがどう見ても男同士で交わすとは思えない視線でナポレオンを見つめていて、しかも信じられないことに、ナポレオンが同じように返している!のが手に取るようにわかった。
 そのことが判ってから、イリヤは苦心して淡々と(表向きは)食事を続けつつ、(内心の)乱れまくった感情と必死に戦っていた。
 彼の二人の同席者が、笑ったり冗談を言ったり、思い出話をしたり、それから――誓ってもいいが――実にイイ雰囲気に浸っているあいだ、不信感と、怒りと、妬みと――そして心のどこかほんの片隅にある、ちいさな希望のかけらが捩れて塊になって、狂ったように身の内を揺さぶっていた。

 果てしなく、永遠に続くかと思われた食事が終わるころには、イリヤは席を飛び出す寸前の状態だった。それでも彼等3人は一緒にレストランを出て歩き出し、チャンドラーは、イリヤにちらりと探るような視線を投げたあと、ナポレオンに、もし差し支えなければ一緒に自分の家に来て一杯やって、もう少し付合わないか、と申し出た。
 イリヤは素っ気無い視線を返しながら、あまりあからさまでなく、自分のパートナーの方に一歩詰め寄った。
 ナポレオンは、喜んでそうすると、それにきっとイリヤだって構わないだろう、そうだよねTavarisch?と答えたのだ。こんな昔話や、面識のない人間に会うのは、君には馬鹿馬鹿しくて退屈なだけだろう、ねっ?

 例によってナポレオンは、一度ホテルに戻って、彼のきちんとしたスーツを、他のきちんとしたスーツに着替えて行く、と主張した。もちろん懐かしのマットには、こんな結構なことはない。
 キャブで戻る10分間も果てしなく長かった。ナポレオンは親愛なる我が旧『友』のこと、砲弾から身をかわし、塹壕に飛び込んだりしていた、すごかったあの頃の話を喋りまくっていて、イリヤはその間目をつむり歯を食いしばって、自分はパートナーにどんな間抜けだと思われているのかと考えていた。
(多分、二年間ほとんど一緒に働いてきた相手が、バイセクシャルだってことに気付かないような間抜けだろうさ)

 彼の指は急速に感覚が鈍り、ちゃんとコップを持っているには辛くなってきた。それでコップは床に落とし、面倒くさいことはやめてボトルを持ち上げ、直接口に持っていくことにした。
 ナポレオンがどう思ったろうが、それが何だ?もしくは、彼がここに居るとして、彼にどう思われようが。だって彼はいないんだから。
 思考は方向が定まらず、行きつ戻りつ、上へ下へとふわふわ漂い、時折ひとつの考えにまとまった。彼は今日の出来事から気をそらすことに集中し、身体の中を通っていく気持ちのいいアルコールの刺激に身を任せていた。

 どこからか微かな物音が近づいてきて、彼は目を開いた。
 ナポレオンがベッドの足元の方に立って自分を見ている。よく目を凝らせば、面白がるのとびっくりするのの入り交じった、ナポレオンの表情も分かっただろう。
 パートナーが、いつもの彼らしくもなく黙っているので、イリヤが先手を取った。
「ハイ、」
 彼は言いながら、片手でボトルを掴んだまま、無造作に手を振った。
「あー、どうやら、」
 ナポレオンはにやっと笑って彼に合わせた。
「楽しくやってたみたいね?」
「当然。で、あんたは?」
 それから返事を待たずに、
「なんで――何でこんな――早く戻った?朝じゃないだろ?もう朝?」
 イリヤはぼんやりと辺りを見回した。
「じゃ服を着なきゃ。帰る時間が――」
 よいしょとベッドから起き上がろうとし、倒れ込みかけた。ナポレオンが側に寄って、落っこちるより前に彼を支えてくれた。
「朝じゃないし、まだ帰らなくてもいいし、それに君は服を着てるよ。一体今夜はどうしたんだ?」
 イリヤはもう少しのところでゲタゲタ笑いそうになったが、それからどれだけむかついていたかを思い出した。《誰が》どうしたって?
 彼は身をよじってパートナーの支える腕から逃れ、吐き捨てるように言った。
「どうしてあんたは……と、どうしてあの――」
 名前を出そうとしたが、出てこなかった。
「あんたの『お友達』と一緒じゃないんだ?じゃない、でない、なかって――」
 何か言おうとしても、油がフィルターを通るようにつるつる滑ってしまう。いつもの彼のきちんとした英語は『ない』短縮形の洪水に押し流されていた。
「イリヤ、頼むから声を小さくして。鼓膜が破れそうだよ。マットと僕はちょっと飲んで、お喋りして、それでおいとましたんだ。それがどうかしたのか?僕が彼のところで一晩過ごすなんて考えたんじゃないだろうね?」
「何で考えないって?!」
 彼は大声でわめいた。
「奴にそう言われなかったのか?!」
 ナポレオンが明らかにはっとした視線で彼を見たが、それから目を逸らした。
「いや、彼は僕に、泊って欲しいとは言わなかったよ。どうして――」
「あー、言わなかったのか、奴は!」
 イリヤはわけもなく、大勝利を納めたような気分になった。
「もうわかった。奴は欲しがらなかった。でもナポレオン=ソロなら絶対に――間違いなく――そんなこと言われるようなぁ……」
 また危なっかしくふらつき、ナポレオンは彼を、両腕を腰に回して抱き留めた。イリヤは相手に凭れかかり、パートナーの逞しい肩に顔をおしつけた。ナポレオンの肩はとても心地よく、その香りはとても……。
 彼の、香りは、すごく……。
 突然イリヤの胃がネジ上がり、彼は身を引いてナポレオンの腕を解いた。
「あ、あんた、何を、何を身につけてる?」
 ナポレオンはびっくりしたように彼を一瞥し、それから自分の服を見下ろした。
「出て行く時に着てたのと同じだよ、それが何か――」
「服のことじゃない!」
 彼の声は危なっかしいぐらいに裏返り、ひび割れてきた。
「そうじゃなくて――あんたのじゃない――丸わかりじゃないか……その、匂いは!」
「ああ、」
 ナポレオンはほっとした声を出した。
「僕が行ったとき、マットの奴何だかかなりきついコロンをつけててね、多分それが少しばかり擦れて付いたんじゃないかな、僕等が……」

 イリヤは片手で口を抑え、闇雲にバスルームへすっ飛んで行った。辿り着いたのはまさにギリギリのタイミングだった。このままずっと痙攣が納まらず、ひっくり返った胃は元の位置に戻らないのではないかと思われた。
 彼が震えながら顔を上げるまでの間、ナポレオンは彼の背を優しくさすり、それから冷たい濡れタオルを差し出した。イリヤは呻き声を上げるだけで、ナポレオンはそっと彼の向きを変えさせると、そのタオルで顔を拭いてやった。
 相手が少し笑っている、が、イリヤにはそれで彼に腹を立てるだけの力は残っていなかった。
「気分はよくなった?」
 ナポレオンが問い掛ける。その声には嘲るような響きはなかった。彼は弱々しく頷いた。
 洗面台に置いた小さなポーチから、ナポレオンが小さな壜を取り出した。
「これを含んで、でも絶対に飲み込むんじゃないよ」
 ふた1杯に緑色の液体を注ぎ、しっかりとイリヤの手に押し付けた。彼は素直にそれを口の中でぶくぶくし、シンクに吐き出した。

「こっちにおいで」
 ナポレオンは彼をベッドルームまで引き戻し、ベッドのひとつに腰掛けさせた。
「僕が後始末をするまでここにいて。あっちのベッドに戻るんじゃないよ。僕が戻って来たとき、君はあのガソリンみたいなやつの残りをぶちまけちまったんだから」
 その時のイリヤの表情は、あきらかにわびしげなものだったに違いない。ナポレオンは同情するようにニヤリと笑った。
「そうだねえ、がっかりなのは分かるよ。でも今日の君はこの辺でもう十分じゃないの。ここで待ってて、ちゃんと起きてるんだよ」
 彼はバスルームに消えて行き、イリヤは仰向けにベッドに倒れた。ベッドはとても柔らかだ。彼はぼんやりと、水が流れ、ごぼごぼいう音を聴いた。気分はずっとよくなっていた。胃の具合はかなり楽になったが、脳内のふんわりと心地よい感覚は前のまま残っている。
 彼は溜め息をつき、瞼が重くなるまで天井のプラスター(石膏塗)が小さく揺れたりうねったりしているのをじーっと見ていた。プラスター(plaster)といえば……やっつけちゃった(plastered)……。

 耳に響くナポレオンの声が、彼の空想を中断させた。
「起きてろって言わなかったか?これは命令だ、わかる?」
 彼は自分の体がぐいと起こされるのを感じた。唇の間から抗議のうめきが漏れ出す。
「はいはい、Tavarisch、分かるよ。でもね、まずシャワーが先。それに僕も。そうしたら気持ち良く、ゆっくり眠っていいからね」
「眠ぅ……」
 ナポレオンの柔らかい笑い声を聞きながら、支えられて部屋を横切った。年上のエージェントにぐったりともたれかかって。足元が覚束ないせいでもあったが、もうろうとした意識の中でさえ、その感触がとても快かったからでもあった。

 浴室はぴかぴかになっていた。別の状況であれば、彼はナポレオンがもう十二分にやってくれた、と感心していただろうが、ナポレオンはその上彼のボトムからシャツの裾をひっぱり出し、ボタンに手をかけた。
 イリヤはぎくっとして、両手を無意味にばたばたさせた――止めようとして?
「じっとして。君に任せといたら一晩中かかるじゃないか」
 ナポレオンの指はさらりと冷たくて機械的で、イリヤの方を見もしない。シャツを脱がせると、ナポレオンはそれをきちんとたたんで洗面台の隅に置いた。

「靴を脱いで」
 彼がそうすると、ナポレオンの手がベルトにかかり、手早くベルトを緩め、ジッパーを下ろした。ボトムが足首まで引き降ろされた時には、身体中の力が抜けそうになってしまった。
「足を出して」
 彼は従い、パートナーが、いつも彼自身がやるよりよほど折り目に気をつけて、自分のトラウザーを畳むのを見ていた。自分の中のどこかで、かすかな警告が聞こえる。彼は唇を舐め、出来る限り落ち着いた声を絞り出した。
「じ、自分で出来――」
「僕が、するってば」
 ナポレオンは、イリヤの下着のウエストゴムに指をひっかけ、一気に引き降ろした。イリヤは息を呑んで、そこから足を抜いた。
「お座り」
 ナポレオンが穏やかに命じ、彼はそっと後ろに押され、便器のフタの上に座らされていた。パートナーが彼の前にひざまずき、靴下の片方を引き抜き、それからもう片方。その間イリヤは、催眠術にでもかかったようにぼんやりと視線を下に向けた。黒髪の頭が、ほとんど自分の股間のところにある。彼はそこで目を逸らし、床や壁や天井や、とにかくナポレオン以外の何処かを見るようにした。

 ナポレオンが立ち上がったので、イリヤはようやく息をついて、立ち上がってバスタブに足を入れようとした。しかし足元で床は傾き、彼はうめき声をあげた。
 ナポレオンが腕を掴み、しっかりと便器のフタの上に座り直させた。
「まったくもう、駄目だったら!僕に手伝わせるか、ここで首を折るかだ。頼むからじっとしてて」
 ナポレオンは、イリヤの脱いだ服を手に、バスルームから出ていった。イリヤは目を閉じたまま、待っていた。ナポレオンが戻ってきた音がして、彼は目を開け、とたんに心臓がでんぐり返った。
 ナポレオンは、彼同様に裸だった。

VERITAS

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