FALSEHOODS-2
part 1 / 2 / 3
 クレイマーに起こされるまで、ナポレオンは簡易ベッドのひとつでうとうとしていた。
「俺は外でもう一度試してくる」
 上着を肩にひっかけながら相手は言い、
「今度はうまく行くと思うぜ」
そう言ってにやりと笑った。戸口から半分出かけたところで立ち止まって、肩越しに声をかけた。
「こいつの猿轡は外すな、いや、側にも近寄るんじゃない。いいな?俺はすぐに戻るから」
 ナポレオンはベッドから出る気力をふりしぼりながら起き上がった。このベッドが今までで最高に寝心地がよかったわけではない――なんとなくそう思える――のだが、とにかく何も考えずに寝ていられるのはありがたかったのだ。彼はようやくのことで起き上がると、コーヒーをつごうとキッチンへ向かった。さしあたり自分にはカフェインが必要だ。
 動いた拍子に、ロシア人が堅い床の上で不自由そうに寝返りを打った。ナポレオンはクレイマーの注意を無視して相手に歩み寄った。近づいたところでそれが何だというのか?相手は身体中を縛り上げられているのだ。それより何より、彼はこの男をよく見てみたかった。何かを思い出すために。
 彼は静かに、眠っている捕虜の前に膝をついた。何故かその髪に心を惹かれ、彼は無意識に指を伸ばし、親指と人差し指の間に一房を挟み込んだ。
 絹糸のような、柔らかな髪。強烈に引きつけられる。そして奇妙なまでに覚えのある感触。
 クレイマーには猿轡を外すなと言われた。にも関わらず、彼は相手の唇の間に挟まっている布を指でなぞらずにはいられなかった。知らず知らず、ナポレオンは柔らかな下唇に触れていた。
 ベルベットのような、暖かな唇。全てに覚えがある。ありすぎるほどに。
 あるイメージが頭の中に押し寄せ、脳を刺す痛みにナポレオンは悲鳴を上げた。違う、イメージというよりはっきりとした感覚、彼自身の強い感覚だった。唇を下ろして、相手のそれへと触れ合わせる。乾いた、ふっくらとした、ウォッカの味のする唇。指はさらさらとした髪に触れ、自分の身を堅い筋肉に押し付ける。
 荒い息をついて彼は現実に戻引き戻され、この寒々とした小屋で、クレイマーに敵だと言われた男の前に膝をついていた。それでもこの男は、この『殺し屋』は奇妙なほどに自分を惹きつけて離さない。男の眼がゆっくりと開かれて、自分をじっと見詰めて来た時も、指はその唇に触れたままだった。
 ナポレオンは指が灼けたかのように素早く手を引っ込めると、見詰めてくる青い眼差しから逃れようと尻餅をついたままあとずさった。どうにか足を伸ばして立ち上ったのと同時に、小屋のドアが開き、クレイマーがブーツについた雪を振り落としながら入ってきた。彼はナポレオンと、それからイリヤをじろりとねめ回し、ナポレオンに視線を戻した。
「こいつが何かしたのか?」
 ナポレオンは身体を退いた。
「いいえ。出来っこないでしょ。感謝祭の七面鳥みたいに縛り上げておいて」
「そうとも、だからここに置いてやれるんだぜ。忘れたのか?こいつはKGBだ。何をやらかすか分からない野郎なんだぜ」
 クレイマーはイリヤの側に寄り、脇腹を荒っぽく蹴り飛ばした。ナポレオンはロシア人が苦痛に呻くのに顔を歪めた。敵であろうとなかろうと、こんな扱い方はすべきでない。本当に自分はクレイマーと共に働いていたのか?彼は本当に仲間なのか?ナポレオンは分からなくなった。彼には信用出来ない何かが感じられるようになってしまった。
 クレイマーは上着を脱ぐと空いている椅子に引っ掛け、二つ並んだ寝台の片方に座り、靴を脱ごうと屈み込んだ。
「今度は連絡がついたんですか」
 ナポレオンはもう片方の寝台に座って尋ねた。
「ん、ああ。ヘリが飛ばせる天気なら明日にでも迎えは来るだろうぜ」
 クレイマーは寝台に横になり、頭の下に枕を引っ張り込みながら答えた。何度か試した結果、彼はついに正しい周波数を探り当てたのだ。これで安心だ。もうすぐここから出られる。もうじき、この『ごっこ遊び』を止められる。いい加減苦痛になって来たところなのだ。
 顔を上げると、ナポレオンの不安そうな視線とかち合った。
「おい、心配するな。もうすぐここから出してもらえるんだからな」
 ナポレオンにじろじろ見られて、彼は落ち着きをなくしはじめた。
「えー…、なあジョン、もう少し休んでりゃどうだ?」
 それは尤もな提案に思われ、ナポレオンは言われたとおりした。多分、もう少しの間眠ってしまえばいいのだ。もうじき自分はここから出られる。自分とクレイマーが。そしてあのロシア人、もうじき彼のことや、色々なことで悩まなくてもよくなるのだ。
 自分に分からないことが、分かりさえすれば。

* * *
 その夢ははっきりとしないイメージから始まった。金属で囲まれた通路に、見覚えの無い顔に――それからロシア人がいた。いつもロシア人がいた。夢の中で彼はどこを向いても、どちらへ歩いていっても、ロシア人が真っ先に現れた。まるで糖蜜の中で足掻いているように、彼から逃れようとしてもそれは無駄なことだった。
 夢はそのあと悪夢となって彼を苛みはじめた。鉄の壁がじりじりと寄ってきて、ナポレオンをがっちりと挟んで押しつぶそうとする。そこで誰かが彼を引っ張り上げてくれた。ナポレオンは、眩しい姿に手を引かれ、上へと昇っていくのを感じた。解放され、彼は助けてくれたお礼を言おうと振り返り……そこにはまたロシア人がいた。いつもいつも、あのロシア人が。
 ナポレオンは感謝のしるしにその金髪の男を固く抱擁した。すると突然、夢ではありがちなように自分たちはベッドの上にいた。金髪の男はナポレオンを抱き寄せると、母国の言葉で語り掛けた。ロシアの言葉は穏やかでいて艶っぽく、ナポレオンは一言一句を理解することができた。
「もう大丈夫」
 ロシア人が囁いた。
「僕と居ればいつでも大丈夫なんだ、ナポレオン」
 彼の唇が頬に触れ、手が身体をまさぐる。そして夢の中で、ナポレオンは本当に安らいでいた。
 金髪の男はうつぶせになり、自分から求めてきた。彼は湧き起こる欲望のまま、白い背中を撫で下ろし、覚えのある傷あとをなぞっていった。開かれている身体にためらいなく身を沈める。律動を始めてさらに深く突き入れると、渇望と悦びがどっと押し寄せた。彼は幸せで満たされていた。相手が誰かという記憶と同様に、掴まえようとするとするりと逃げてしまうような感覚ではあったが、この感覚には憶えがある。これこそが天国だった。いつまでもこうしていたかったが、情動はいつか頂点を迎えて終わってしまう。彼は声を出して呻き、このロシア人と快感を分かち合おうとした。達しかけた彼は喉を鳴らし……。
「おいっ!」
 素晴らしい夢は掻き消え、ナポレオンはクレイマーの怒声に叩き起こされて呆然となった。
「止めねえか馬鹿野郎。俺はこっちで眠りたいんだ!」
 自分は寝言を言っていたのか?ナポレオンは夢のことを思い出し、恥ずかしさに顔を赤くした。
「すいません」
 もごもご呟くと、寝返りを打ってクレイマーに背を向け、自分の出したもので胡麻化しようもなく股間が濡れているのを感じた。夢精というやつだ。いい年をした男が夢精を?その上敵を相手に。これはどういうことだろう?
 ナポレオンはそれ以上眠れなかった。彼は早いうちに起き上がり、コーヒーを入れ、小屋の外の階段に座って考え込んだ。
 実際彼には山ほど考えることがあった。ロシア人の事だ。何故、自分は彼の夢を見たのだろう?それは何を意味している?あの、男――クリヤキン?彼はその名に憶えがなかったが、確かに以前会った気がする。何故、自分はあんな……エロチックな夢を見たりするのか?まるで彼と自分とが恋人だったかのような。
 ナポレオンは自分のこめかみをさすり、酷くなっていく頭痛を抑えようとした。あのクリヤキンは、クレイマーにない何かで、自分の心の中を掻き回して離さない。
 歴史だ!自分たちには一緒だった時がある。今や彼はそれをはっきりと確信していた。それが明らかになったとして、良い方に転ぶか悪い方に転ぶかはともかく確かなことだ。クレイマーといる時には、彼は居心地の悪さしか感じない。夜が明けるに従って、その居心地悪さは日の光とともにどんどんと広がってくる。
 クリヤキンは何と言った?じぶんの本能を信じろ――今や彼の内なる声は、何かが絶対に間違っている、と告げていた。

 背後でドアがキイと開き、クレイマーが眼を擦りながらポーチに出てきた。
「ここに居たのか。変な時間にコーヒーをいれてたろ」
「ストーブの上に残ってます」
 ナポレオンは答え、立ち上がってクレイマーについて中へ戻った。あのロシア人――クリヤキンも目を覚ましていた。彼は二人が入って来るのを注視しており、クレイマーには用心深い視線を向けたが、ナポレオンを見る時にその眼差しは柔らかくなった。ナポレオンはぞくりと身震いした。
『あんたの本能を信じるんだ……』
 ナポレオンはコーヒーを注いでいるクレイマーをじっと見た。彼の視線はクレイマーとクリヤキンの間をちらちらと行きつ戻りつした。
「……ぁんだ?」
 クレイマーは、寝不足で間延びした声で尋ねた。早いところチョッパーが来てくれないものか。善人ぶりっこをするのはいい加減うんざりだ。昨夜はろくに眠れなかった上、ようやく寝付いたと思ったら、ソロが真夜中にブツブツ言う声で起こされたのだ。
「何も。何でもない」
 ソロは簡単に答えた。その気の抜けた口調がクレイマーの気に障ったらしく、彼は顔を上げ、内心同様に苦いコーヒーを啜りながらソロを伺った。ソロが笑みを浮かべたので、クレイマーは少し警戒を緩めた。
「そうかい。ならいいんだ」
 クレイマーはカップを下ろし、下半身をボリボリ掻きながら別のことを考えることにした。
「ちょっと小便してくる」
 そして外へ向かいながら、何か手掛かりを見つけるかのように辺りを見回した。ソロはそわそわとしはじめ、クレイマーをまた苛立たせはじめた。
 ナポレオンは、クレイマーが出てゆくのをずっと目で追った。ドアが閉まるが早いか、ナポレオンは狭いキッチンへと向かった。はっきりとした何かを探しているわけではないが、錆びたフォークやスプーン、ネズミの落とし物以外の何かがそこにあるはず、と彼は引き出しを開いていった。食器棚を開け、台所用品のあれこれをかき回す。探っていた手が何かの刃に当った。錆びたパン切りナイフ、古びてはいるが、鋸目がついていて十分役に立ちそうだ。彼はナイフを取り出すと、その獲物をまるで聖剣エクスカリバーであるかのようにまじまじと眺めた。

 そして彼は広い部屋に戻ると、自分たちが掴まえた男を見下ろした。イリヤを――それが彼の名前ではなかったか?イ・リ・ヤ。その言葉はひどく快く響く。まるで履きなれた靴がすっぽりと嵌った時のように。声には出さずその名を呟くと、もう千度も口にしたことがあるように舌の上で転がった。
 少し大きく声に出して言ってみると、金髪の男が顔を上げ、名を呼ばれて懸命に頷いた。邪魔な口の布の間から何か言おうとしている。ナポレオンは膝をついた。
(本能に、従え……)
 彼の本能は厄介ごとを引き起こすかもしれない。しかしこの瞬間、彼が正しいと感じられるのはこれだけだった。ナポレオンが取り出したナイフが視界に入り、イリヤは目を丸くした。刃が顔の近くに来た瞬間、青い瞳に失望と恐怖の影が射すのをナポレオンは見た。それからナポレオンはナイフを引っ込め、イリヤの身体を横向きにすると手首の周りのロープを引き切りはじめた。
 ロープが外れた感触がして、イリヤはそろりと痺れた腕を動かし、血行を戻そうとした。ナポレオンはイリヤが起き上がるのに手を貸しながら、縛っていた所に残る痛みを消してやろうと彼の手首を擦った。イリヤが顔を上げ、口から猿轡を引き下げて首の周りに落した。彼はにやりと笑い、足首の縛めを解いた。
 ナポレオンは万一のために錆びたナイフを固く握り締めたまま、相手を不審げに見ていた。イリヤはロープを放り出すと、ナポレオンの両肩をぐっと掴んだ。
「これで何もかも上手くいくさ、なっ!」
 その呼びかけが、ナポレオンを捕らえていた不安を吹き飛ばしてくれた。彼は握っていたナイフを落とし、やおら両腕をイリヤに回して思いきり強く抱き締めた。
「僕は、君を知っている。思い出せた気がする!」
 表情を引き締めることは出来なかったが、イリヤは笑ったままナポレオンの腕を緩めさせた。
「けっこう、でも話はあとだ。これからクレイマーを何とかしなきゃ。奴はどこ?」
「外で用を足してる」
 イリヤはナポレオンに手を引かれて立ち上がり、窓の脇に張り付いた。ナポレオンはその後ろについて立った。屋外便所のドアは開いていたが、クレイマーの姿はない。
「ここで待っててくれ」
 イリヤが言った。
「僕はクレイマーを探しにゆく」
「僕も手伝うよ」
「駄目だ。あんたは戦える状態じゃない!」
 そこでイリヤは口調を和らげ、
「ここにいて、じっとしていてくれ」
そう言って辺りを見回し、自分のアンクル・スペシャルを見つけて手に取った。
「これを」
「君が持っていけよ。クレイマーは武器を持っている。銃が必要だろう」
 クリヤキンが近づいてきて、ナポレオンはその顔に浮かぶ気遣い――愛情に胸が詰まりそうになった。
「僕はこういう場合の訓練を受けている。目下のところあんたは全くの無防備なんだ、ナポレオン。あんたに何かあったらいけない……そんなことは耐えられない」
 ナポレオンは手を伸ばして彼に触れようとしたが、イリヤはするりと身体をかわし、もう一度掴まえようとする前に相手は戸口に立っていた。
「幸運を祈ってて」
 クリヤキンはそう言い、ドアの隙間から出ていった。ナポレオンはイリヤがいなくなったあとの窓辺に陣取り、外を監視した。アンクル・スペシャルをしっかりと握り、引き金にぐっと指をかけて。

* * *
 クリヤキンは足早に屋外便所に忍び寄ると、古い羽目板の隙間から中を覗いた。内部は無人、ということはクレイマーは何処かにいるのだ。イリヤは辺りを見回した。建物と呼べるのはわずかで、薪小屋に、崩れかけた囲い、それに小さな物置小屋。
 イリヤがまず物置を調べようとした時、林の影で何者かが動いたのが視界に入った。はっとしてその方向を見ると、それはただのカラスだった。向き直ろうとして、一瞬早く堅くごつごつした物に背後を殴られた。
 彼はよろめいたが、倒れるのを踏みとどまり、柵の木枠に捕まって身体を支えた。ぐるりと向きを変えて相手と顔を合わせる。クレイマーが長い4インチ角の材木を手にゼイゼイ言っていた。
「遅かれ早かれこうなるのは分かってたぜ。しかしもう少し持ちこたえられると思ったんだがな」
 クレイマーがせせら笑った。
「洗脳プログラムを見直してみなきゃなるまいよ」
 相手は再び材木を振り回したが、イリヤは木材の端を掴んで押し返し、クレイマーを後ろに追いやった。クレイマーは怒りに顔を歪めながら木材を放り出し、クリヤキンに飛び掛って喉元を押さえつけた。イリヤは相手の片手を払い、肘を固めてガードしたが、クレイマーのもう片方の手が気管に食い込んできた。怒り狂ったクレイマーの攻撃に、イリヤは一瞬圧倒されそうになった。
 イリヤは一方の手でクレイマーの脇腹に手刀を打ち込むと同時に、喉を捕らえている手に爪を立てた。指の力が緩み、イリヤは身体を捻って咳き込んだ。その隙をついて、クレイマーはイリヤを勢いよく柵に叩きつけると、ナポレオンが撃った肩の傷を親指で思いきり抉った。
「ぐ、あっ!」
 痛みが全身を貫いて少しの間身動きできなくなり、イリヤは苦悶の叫びを上げた。もうクレイマーの優勢は明らかだった。えずきそうな痛みでイリヤの脚から力が抜けた。地面に倒れながら、彼はナポレオンを残して来てしまったことを考えた。クレイマーという男を侮っていた。その代償を負わされるのはナポレオンだ。横腹を蹴り転がされて、彼の苦痛は倍になった。
 クレイマーは哂いながら、パンツの後ろポケットに入れていた銃を取り出した。
「――か、彼から離れろ!」
 そこへ突然ナポレオンが現れた。クレイマーはナポレオンの方を見てにやにやしながら、金髪の男の頭に銃口を突きつけた。ナポレオンは震える指を引き金に掛け、銃をクレイマーに向けた。
「これで五分と五分スティルメイトだ、クレイマー!」
 ナポレオンは怒鳴った。
「銃を、捨てろ!」
 クレイマーは可笑しそうに繰り返した。
引き分け(スティルメイト)だと?そう思うか?」
 彼はクリヤキンから離れると、銃の前でやすやすと両腕を広げてみせた。
「いいぜ、撃てるもんなら撃ってみな」
 クレイマーは、じっと立っているのみならず馬鹿にしたような笑い声をたてて、ナポレオンの前で落ち着き払っていた。ナポレオンはこの笑い声が大嫌いだった。性根のねじくれた酷薄な笑い。引き金にもう少し力を入れるぐらい何だというのか。
 引き金が引き絞られた感触がして、撃鉄がカチリと――空の薬室を――鳴らす音がした。彼は機械的に何度も何度も引き金を引いたが、弾倉は空だった。
「はーっはっは!」
 クレイマーが嬉しげに叫んだ。
「この間抜け野郎。お前が記憶を取り戻しかけてるのは分かってた。だから昨夜のうちに銃から弾丸を抜いておいたのさ。後悔より先の用心にしくはなし、ってな」
 クレイマーは手にした銃をまたクリヤキンに向けたが、その時ヘリコプターのプロペラ音に気を逸らされた。彼はクリヤキンににやりと笑いかけた。
「さあて、迎えの馬車が到着したようだ。あんたには礼をいわなくちゃな、クリヤキン。真っ当に考えてみれば、お前とお前さんの小道具なしじゃ事が運ばなかったからなあ」
 小型ヘリは、クレイマーの背中からどんどん近づいてきた。接近するに従って身体に当たる風が強くなる。
ヘリコプターがゆっくりと背後に着地すると、雪が勢いよく舞い上がった。
「よし出発だ、ソロ。ちょっとでもおかしなことをすればクリヤキンを殺るぜ。お前の相棒は居なくたってかまやしないが、お前に逃げられちゃ困るんだ」
 ナポレオンはぴくりとも動かなかった。

 クレイマーは、背後でヘリコプターのドアがカチリと開いた音を聞き、パイロットに向かって怒鳴った。
「ここまで独りでなんとかしたが、二人の面倒は見られねえぜ!」
「……そんな必要はないよ、おっさん。銃を下ろしてもらえるかい?」
 その返答に当惑し、クレイマーは危険を冒して肩越しに振り向いた。マーク・スレートが丁度、アンクル・スペシャルを構えて出てくるところだった。マークが一歩近づいてきた。
「そうはいくか、」
 クレイマーは答えた。
「もう助けを呼んであるんだ。仲間がすぐに来るはずだ」
 彼は山際からもう一機のヘリコプターが現れはせぬかと、ちらりと上空を見上げた。
「期待するだけムダだよおっさん。誰も来やしない」
 スレートは言った。
「ここに来る途中で邪魔させてもらったからさ」
 クレイマーは顔を顰めた。
「デタラメだ」
「あんたがコミュニケーターをいじり回した時に、遭難信号が発信されたんだ」
 スレートは肩をそびやかした。
「俺はそいつを追ってきただけさ。そしたら途中であんたのお仲間と出くわした。いいか、仲間は・来ないんだよ」
 スレートが歩み寄り、ナポレオンも同じように反対側から近づいた。こちらにやってくる二人に、クレイマーは代わる代わる混乱した視線を投げた。
「近づくな!でないとこいつを殺すぞ!」
「俺たちはみんな消耗品だからなぁ。彼が殺られるところを見るのは嫌だけど……」
 スレートは肩を揺すり、全くどうでもいいことのように言った。
「それはともかく、もし武器を捨てるなら、あんたも死なずにすむ可能性が相当高くなるぜ」
 クレイマーが幾ら空威張りをしてもスレートは動じなかった。相手の手が震え、狙いがぐらついた。
「俺がこいつを置いたら殺すつもりなんだろう」
「あんたが銃を置かなかったら、殺すことにする」
 スレートは忠告するように言った。彼はクレイマーにもう数秒の猶予を与えてやって、そのあと脳天を吹き飛ばしてやるつもりでいた。素早くしとめればイリヤも助かるはずだ。
「だが早いとこ決めるんだな。ここに立ってるだけで尻まで凍りつきそうなんで、さっさと帰りたいんだ」
 スレートは銃を構えてクレイマーの眉間に狙いをつけた。クレイマーは相手の心を読んだように、突然腕を後ろに振り下ろし、銃を繁みの中に投げ捨てた。彼が降伏のしるしに両腕を上げるより早く、ナポレオンが眼前まで来て、きっちり顎をめがけて拳を打ち込んだ。ナポレオンの拳もそれなりに痛んだが、クレイマーが雪の上に倒れて動かなくなるのを目にしたので、少しも後悔はしなかった。ナポレオンはもう片方の手をイリヤに差し出し、立ち上がらせてやった。
「大丈夫か?」
 彼は尋ねた。
「ありがとう。僕は平気さ」
 イリヤは上着から雪を払い落としながら、明るく言った。彼はスレートの方を向いて渋い顔を作った。
「僕が死ぬのをみるのはザンネンだってぇ?」
 スレートはニヤリと笑った。
「あぁそうだよ。ニューヨークでイギリス人並みにビールが飲めるのはお前さんだけだもんね」
 そして銃をホルスターに収めると、ヘリコプターを指し示した。
「お車の用意が出来ております、だんな様」

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