Home To Roost--by Salah Lindsay&Theresa Kyle

#5

 ナポレオン・ソロはぼんやりとキッチンに立っていた。夕食の時間になっても、空腹は感じられなかった。料理をするのも煩わしいが、何か食べに外に出るという気にもならない。もう少しの間どうするでなく立っていて、それからリカー・キャビネットの扉に手をのばし、スコッチの壜を取り出した。酒でも飲めば一時的にせよ気晴らしになるかと思ったのに、このボトルを眺めていると逆に心が痛む。それは二週間前、彼の人生が根底から変わってしまった時のボトルだった。
 あの晩、ナポレオンは今のようにキャビネットの前に立ち、自分用にスコッチのオンザロックを作り、それからパートナーの為の飲み物も用意した。ウェイバリー氏の指示に従って、イリヤのウオッカの中に強力な媚薬作用と記憶喪失を引き起こす薬物を忍ばせたのだ。薬の効果が現れるや、ナポレオンは何も知らない自分の友人を、隠しカメラが取り付けてある寝室に誘い込み、その最中の写真を撮らせた。
 全てはグレゴリー・マレンコフ将軍の計画を挫くためだった。彼はイリヤの父の代からの仇敵で、新たにKGBの長官となるや、イリヤのソ連への召還命令を下した。
 ウェイバリー氏によれば、マレンコフがイリヤを呼び戻すのは、彼の殺害を目論んでいるからであって、自国の優秀なエージェントであるからという評定は欺瞞に過ぎないという。ソロはイリヤの命を救うために、イリヤが男性と関係している証拠作りを手伝った。だが、こんなやり方で自分の親友の弱みに付け込み、罠にはめるような真似をするのはしんそこ気が進まなかった。
 ナポレオンの不安をよそに全ては仕組んだ通りに動いた。写真を受け取ったマレンコフは、イリヤの帰還命令を恒久的に取り下げた。ウェイバリー氏の予想通り、同性愛者であると知られてしまったエージェントをKGBに必要な人材だと偽り通すことは出来なかったのだ。クリヤキンは救われ、U.N.C.L.E.に留まり続けることになった。

(そうとも、何もかも上手くいったさ)
 ナポレオンはほろ苦く考えた。
(僕があの晩、イリヤに恋してしまって、しかもそれを口にするわけにはいかないという事以外は)

 至って品行方正だったイリヤ・クリヤキンが、あの夜媚薬の作用により、情熱的な男にがらりと変わってしまった。その劇的な変化は忘れようがない。だがいつもの『禁欲的で初心な』ロシア人なら、『好き物の』相棒からちらりとでも性的な誘いをほのめかされでもしようものなら怖気をふるって逃げ出すことだろう。ソロはこの上彼との強い友情を台無しにしてしまい、全てを失ってしまう危険を冒す気にはなれなかった。
 彼は冷たいスコッチを流し込んだ。それは液状の炎となって、熱くまた冷たく喉を通っていった。彼自身の望みのない、混乱した心情のように。彼は少し後ろに下がってカウンターに手を突くと、目を閉じてウェイバリー氏の計画が引き起こした予期せぬ出来事を、どうにか諦めとともに受け入れようとした。

 二週間前、ソロはただ親友を救いたいとしか考えていなかった。任務の中で感じる彼の友情はありがたいもので、それが自分に同じぐらいの心痛をもたらすことになるとは思いもよらなかった。だが今や、焦がれても無駄なことは分かりきっているのに、焼け付くような欲望を抜きにイリヤを目にすることさえ出来ない。
 クリヤキンの方は、あの熱情に満ち満ちた二週間前の夜のことは何も憶えておらず、そのせいでナポレオンが自分に叶わぬ想いを抱くようになってしまったことと同様、死刑を免れた裏に何があるかも気がついていない。
 ロシア人がそのことで何も変わらなかったわけではない。彼は、自分が呼び戻されることはないと分かった瞬間から、常につきまとっていた暗い翳が消え別人のようになった。彼の態度の変化は、ナポレオンと二人きりになった時に一番はっきりと現れた。おそらくイリヤは、新たに手にした幸福を一番親しい友人と分かち合いたいと思っているのだろう。明るい笑いを見せるようになったイリヤは、ナポレオンの目にはいっそう美しくて恋しくて、そして辛いものに映る。なんとも皮肉な巡りあわせだった。
 自分の相棒が何年もの間、ダモクレス王のように常に頭の上に剣を吊り下げられた状態で、ある日ソビエト連邦に呼び戻され、後はどうなるかも分からぬまま過ごしてきたのだということがソロにはよく分かった。イリヤのために良かったと思えば思うほど、今の関係がなおほろ苦く思われる。イリヤが明るい表情で、瞳を輝かせて微笑みかけてくるたび、ベッドの中でこの微笑みを眺められたらどんなにいいだろうかと思わずにはいられない。ソロは溜息をつき、またごくりとスコッチを飲み下した。

 扉を強くノックする音がして、彼は虚しい空想から引き戻された。このノックの音には聞き憶えがある。自分の相棒だ。ナポレオンはいそいそと戸口に走った。あの晩とは違うのだと分かっていながら、彼が来てくれたのは嬉しかった。
 友人の取り乱した表情を眼にした途端、ナポレオンの胸は不吉な予感にざわついた。いつもならクリヤキンは感情を見せないことにかけては達人だ。その彼が全く動揺を隠せないでいるとあれば相当の事があったに違いない。
「イリヤ?」
 ナポレオンはドアを開き、ロシア人が入れるよう脇にどいた。クリヤキンは一歩中に入り、その場に立って見上げてきた。その目はたった今ホラームービーを観てきたとでもいうように、恐怖に見開かれている。
「何があったんだ、イリヤ?」
 クリヤキンはやっとのことで話し始めた。
「ナポレオン……」
 やっと聞こえるぐらいにそう言うと、マニラ紙の封筒を押し付けてきた。
「たった今これが届いたんだ。僕には何のことだか……」
 彼は口ごもり、語尾が掠れた。ナポレオンは用心深く渡された封筒を手にし、USSR(ソビエト連邦)の消印があるのに気がついた。封筒を傾けると、写真がバラバラと手の中に落ちてきた。紙片が一枚が床に舞い落ち、クリヤキンがさっとしゃがんでそれを拾い上げた。ソロは手を出せなかったが、その動作に微かな緊張を嗅ぎ取った。彼はゆっくりと写真を改めた。
 それはあの夜の、ソロの部屋でのイリヤと彼自身の写真だった。
 ソロは膝から力が抜けていくのを感じた。彼は実際にその写真を目にしたことはなく、ウェイバリー氏が自分の寝室に、高感度のセンサーにより、物音に反応して自動的に撮影を始める特殊なムービー・カメラを設置したことを知らされただけだった。ことを完全に隠しておくため、そのフィルムから静止画像を取り出したのは、昔OSSで写真を扱っていたウェイバリー氏自身である。あの老人が実に効果的な場面を選び、それでいて極めて実務的に作業を進めたことを、ソロは否応なく思い知らされた。動揺を隠しつつ、ナポレオンはもう一度相棒の方を向いた。
「ナポレオン――どうして、こんなものが?」
 狼狽しきった声でロシア人が尋ねてきた。
「こっちに来て座ったら」
 ナポレオンは相棒を丁重にカウチまで連れて行った。相手に飲み物を勧めようかと思ったが、あの運命の夜に、酒を使って彼に一服盛ったあとでそうすることは出来なかった。イリヤを座らせてから、ナポレオンはどうにかしてこの写真を消し去ってしまうことは出来ないものかと思いながら、カウチの前のコーヒーテーブルに置いた。相棒に事情を説明するなど考えるだけでも恐ろしかったが、これ以上隠しておけないのは分かっている。
 イリヤは便箋の端を掴んだまま、写真をまじまじと睨みつけていた。
「誰がマレンコフにこんなものを送った?きっとスラッシュの仕業だ。他に僕らを陥れようとするやつがいるか?」
「マレンコフが君あてに送って来たのか?」
 ソロは胸を悪くしながら、答えを知りつつも尋ねた。
「ああ。そしてマレンコフは事務局長に僕の国籍を抹消するよう要請したそうだ」
 イリヤは封筒と一緒にあった便箋を振り回しながら語った。その報告を読んだとき、イリヤがどんな辛い思いをしたのかを悟り、ナポレオンは顔をしかめた。彼は相棒の手からその紙切れを受け取ると、読み始めた。簡潔に書かれたロシア語は、終わり近くの数語を除いて彼にも読み取ることが出来た。
「『ヒューソスカ』……これはどんな意味だい?」
「知らないほうがいいと思う」
 クリヤキンは頬を薄く染めて答えた。
「なんとなく分かるよ」
 ナポレオンは溜息をつき、手紙を写真の脇に置いた。
「僕は国籍を剥奪されてしまう」
 イリヤが物悲しげに言った。
「この事はウェイバリー氏に報告しなくちゃならない。でも何と思われるだろう?ああナポレオン、こんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてだ!」
 ロシア人の頬はもう真っ赤に染まっていた。
「君には済まないけれど、この写真をラボに持ち込んで分析させる必要がある。丹念に調べてみたんだが、僕ではどうやって偽造したのか判らなかった」
 どうにもならなくなって、ナポレオンは深く息をついた。
「なぁイリヤ、それは偽造じゃないんだ」
 クリヤキンが戸惑ったような、不審気な視線を向けてきた。ナポレオンは覚悟を決めて言った。
「それに、ウェイバリー氏に何と思われるかは心配しなくていい。それをマレンコフに送ったのはあの人なんだから」
「何だって?」
 これ以上ないぐらい仰天した顔でイリヤが言った。
「君を助けるためにしたんだよ、イリヤ。君が戻されればマレンコフに殺されることを知っていたから」
 動揺している相棒の目から視線を逸らすまいとしながら、ナポレオンは説明した。イリヤは茫然自失としている。
「この写真を送ったのがウェイバリーさん?」
 到底信じられないように尋ねる。
「だから、マレンコフは僕が……『道徳的に堕落している』からと帰還命令を取り下げたのか?」
 彼は二週間前の、ウェイバリー氏がマレンコフはイリヤをソ連に呼び戻す意思を変えたと告げた時の言葉を引用した。ソロは頷いた。
「ウェイバリーさんは、マレンコフがもし誰かに、恐らくはスラッシュに君が同性愛者だという証拠を握られてまで、君をKGBで使いたいと言い張ったり出来まいと踏んでたのさ」
 イリヤが眉を寄せた。
「スラッシュが写真を偽造したのか?」
「いいや、」
 ナポレオンは淡々と言った。
「ウェイバリーさんは、ただマレンコフに、出所はスラッシュだと教えただけさ。それはウェイバリーさん個人のラボで作られたものだ」
 クリヤキンの顔色がピンクから蒼白に変わった。
「ナポレオン――僕には理解できない。ウェイバリーさん一人でこんなに出来のいい偽造写真を作れるはずがないだろう?」
 ナポレオンは私情を切り捨てようと目を瞑った。スパイとしての長いキャリアの中で、平気な顔で嘘をつく方法なら身につけてきた。だがこの場で真実を告げる方がよほど困難だった。今になって彼は、イリヤの記憶にないあの夜の出来事を、ウェイバリー氏がもう彼の命が脅かされることはないと告げてから可能な限り速やかに、相手に話しておくべきだったと痛感した。
 だが、何故そうしなかったかも分かっている。もしそうしたら、イリヤに自分の想いを勘づかれるのではないかと怖れていたのだ。
「すまない、イリヤ、」
 喉のつかえを押して彼は言った。そして手を延ばし、イリヤの掌を握って自分が何をしたのか告解したかった。だがそんな虫のいい事はとても出来ない。自分の罪はあまりに重すぎる。
「その写真は、本物なんだ」


 クリヤキンが呆然とした顔を向けてくる。ナポレオンは気力を絞って続けた。
「二週間前僕が君を夕食に招待して、次の朝飲みすぎたって話になったのを覚えてるだろ」
 イリヤはナポレオンの顔に視線を据えたまま、無言で頷いた。
「あの晩君のグラスに薬を仕込んだ。ラボで貰ったAP-734を」
 その薬の作用をいちいち列挙したりはしなかった。クリヤキンはU.N.C.L.E.の研究所に通暁しているはずだ。少し前の彼を青ざめていたとするなら……今のロシア人は、文字通り愕然として紙のように青白くなっていた。ショックと相手に裏切られた苦痛を湛えた視線に、ソロは耐え切れなくなった。
「イリヤ、悪かった。他に手段があればよかったんだが、それをひねり出している時間がなかったんだ」
「あんたは、僕に一服盛って――媚薬を――それで、ベッドに連れ込んだって言うのか?」
 イリヤが小声で言った。声に出すのも辛くてナポレオンは頷いた。コーヒーテーブルに散らばっている、テラテラした罪の証となる写真に目を落とし、彼は身体までもが痛むようだった。あの晩のことは、ナポレオンの眼には特別で神聖なことに映っていたが、これらの写真を通すと何か醜悪な……胸が悪くなりそうなほど淫猥な代物に見える。そして自分がそのように見えるのなら、あの晩の記憶のないイリヤの目にはどれだけ汚らわしいものに映っていることだろう。
「何だって――でもなぜ?なんでそんなことを?」
 イリヤがまた小声で呟く。
「君をここに、この国に残すためにさ。ウェイバリーさんはあのKGB長官が、同性愛者と知られている人物を必要とする真似までは出来まいと考えていた。そしてその通りだった」
 イリヤが幾分か声を取り戻した。
「まだ理解できない。なんでそのことを教えてくれなかった?僕に知っておく権利があるとは思わなかったのか?」
 ソロはごくりと喉を鳴らした。
「この任務を与えられた時、僕ら二人は君がそんな汚い計画に乗るぐらいなら死ぬ方を選ぶだろうと言うことで意見が一致した。僕はウェイバリーさんに、君をその気にさせるなんて出来そうにないと言うと、あの人はその通りだと言って、ラボでAP734を受け取るように言った。この薬には記憶喪失を引き起こす作用もあるから、何があったのか君に気づかれることはないと考えたんだ」
「なら、あんたは僕に教える気もなかったのか?」
 クリヤキンの声は今や消え入りそうに低い。あまたの危険な任務についていた時にだけ、あまりにも聞き覚えのある調子だった。ソロは力なく両手を広げた。
「イリヤ、すまなかった。でもどうしても言い出せなかったんだ。命令が撤回されてからの君があんまり幸せそうだったんで、それを台無しにしたくなくて」
 ソロは訴えかけるような視線で相手を見つめたが、クリヤキンはただ恐ろしいものでも見るような視線で堅く見返してくるばかりだ。 彼は別の方法を取る事にした。へっぴり腰で守勢に回るよりも、むしろ巧く攻勢に回った方がいいのかもしれない。
「騙したと言えば、君が出国する筈の前の晩のことだ。君は青酸入りのカプセルを飲むのは『万一の場合に』だと言ったけど、僕にはカケラも信じられなかった。飛行機がモスクワに着陸したと同時に、君は青酸を口にするつもりだった。そうだろう?」
「あんたはUSSRがどんなところか知らないんだ」
 ナポレオンの言い草を不愉快そうな目で見ながらイリヤは冷ややかに答えた。
「多分判らない。でも君がどうしてあの薬を手にいれ、僕に何を隠していたかはわかる。ウェイバリー氏は君がマレンコフに拷問の挙句殺されるだろうと教えてくれた。そうさ、あの人はそんなことになってほしくなかったし、僕だってそうだった。欺したのは悪かったけど、君を大切に思うあまりの事で、君を失うような危険な真似は出来なかったんだ」
 クリヤキンは相変わらず黙りこくったままである。
「もし国籍を奪われることを気にしているのなら、きっとウェイバリーさんがなんとかしてくれる」
 ナポレオンは思い切ってそう言った。
「そうだろうね。あの人はそういう事が上手い」
 イリヤはよそよそしく言った。
「あの人が君にこの一連の事をやらせたなら、随分と上手く行ったと言うべきだろう。お詫びを言わせてもらうよナポレオン、命を救って貰ったお礼も言ってなかった。じっさい、謝るのは僕の方だったんだな。あんたには僕のためを思ってこんな下劣な行為に関わらせてしまったんだから」
 話が予想外の方向に行ったために、ナポレオンは警戒を緩め穏やかに話してみた。
「この写真を見て、僕が嫌な思いをしていたと思うかい?」
 彼はそう言い返した。イリヤが顔を赤くした。
 分からない男だ、とソロは考えた。寒冷地獄のように冷ややかと思えば、次の瞬間には女学生のように頬を赤らめる。感情などないように振舞っていながら、それはただ出し方を知らないだけで確かに彼の中に存在するのだ。
 問題は、ナポレオンが是が非でも引き出したいと願っている思いを相手が抱いていないということだ。このロシア人ははっきりと、自分とパートナーが愛を交わしたことがあるということに不快感を示し、恥辱感と失望感しか抱いていないように見える。
「僕らが過ごした夜に、下劣な行為なんてなかったよ、イリヤ」
 ソロは言った。
「あの状況で僕を悩ませていたのは、君に危険が迫っていること、君を騙さなければならないこと、その間ずっと、カメラに一挙一動を撮られているということだった。でも君と愛し合うことは……少しも嫌じゃなかった」
 それが可能であるとすれば、イリヤは更に愕然となった。
「あんたは、自分が同性愛者だって言うのか?」
 信じられないように尋ねてくる。ナポレオンは首を振った。
「違うよイリヤ。僕が以前男と寝たことがあるのは事実だけど、それは何年も前のことだ。妻を失くした後、僕はしばらく誰とでも寝ていた。実際、だからこそウェイバリーさんはこの計画を立てたんだろう。僕の経歴を知った上で、マレンコフの計画を挫くにはそれが一番だと考えたんだ。僕は、誰かがそれをしなければならないなら、他の誰かに任せるわけにはいかないと思って任務を引き受けた。あの薬にやられて自我を失っている君を、他の誰かに触れさせたくはなかった……」
 彼はそこで言葉を切り、自分の言葉に対するロシア人の反応を探ろうとした。しかしイリヤは身動きしないまま床を睨みつけている。彼の黒い服は、ナポレオンの黒褐色の皮を張ったカウチにほとんど溶け込んで見えたが、それとは逆にイリヤの象牙色の肌や黄金色の髪は、柔らかな照明に照り映えていた。冷たく、美しく、手が届かない。

 ようやくロシア人はもう一度顔を上げた。
「こんなことはあり得ない。僕は今まで……」
 吐息混じりに言い、もう一度薄く赤面した。
「以前にそんな経験はなかったんだから。僕は抵抗した筈だ。そうだろう?」
「いや、しなかった。君に拒絶されたら言うことを聞かせるなんて出来なかったさ」
 ナポレオンはきっぱりと答えた。
「憶えていないのは分かってるけど、あの晩僕たちがベッドで求めたのは、お互いの快楽以外にない。イリヤ、僕は君にひどいことをしなかったし、これからもそんなことは決してないと分かって欲しい」
 クリヤキンは当惑気味に髪の毛を掻き混ぜた。
「信じられない……あんたがそんなことをしたなんて……」
 そして独り言のように呟いた。
「たとえ僕を助けるためだったとしても」
 ナポレオンは逡巡したのち、好奇心に負けて尋ねてみることにした。
「君は、この写真を見た後にも何ひとつ思い出さないのか?」
 イリヤは首を振った。
「あの薬は要求されただけの働きはするんだ」
「ラボで実験してみたことが?」
「いいや、でも話には聞いていた。だからって自分自身がその実験台にさせられるとは思いもしなかったけど」
 イリヤは苦々しく付け加えた。戸惑いを抱え、ナポレオンは相手に視線を注いだ。自分たちはお互いがすみずみまで観察できるくらい近くに座っていて、イリヤはその混乱した精神状態にも関わらず、自分から逃げ出したり距離を取るようなそぶりさえ見せていない。どう説明したものか……イリヤは自分が同意もなしに手を出してこないと信用しているか、必要とあれば自分をはねのけられる自信があるかのどちらかである。ナポレオンはどちらであるかを知る必要があった。
「君はまだ僕を信じてくれている?」
 クリヤキンが薄く開けた瞼の間から視線を投げた。
「そうした方がいいのかい?」
 苦味を含んだ口調で彼は答えた。ナポレオンは胸を刺されながらも、穏やかに言い返した。
(イリヤは取り乱していて、何を言っているか分かっていないんだ)
「僕が君のアパートに泊まって、一緒のベッドで過ごした夜のことを思い出してくれ。君がロシアに帰ることになる前の晩だ――君が悪夢を見て、それから僕の腕の中にいた時の事を。あの時君は僕を信用してくれていた、そうだろ?」
「ああ、」
 イリヤは不承不承認めた。
「でもあの時は、あんたが何をしたのか知らなかった」
「だが僕は分かっていた」
 ナポレオンは柔らかく言った。
「そして僕は、君の弱味につけこんで好きにしようなんて気はなかった。これからもだ。だから僕を信用しなくなる理由はないだろう?」
 クリヤキンは冷ややかに、無反応にただこちらを見ている。しばらく睨みあったままでいたが、強情なロシア人は黙りこくったままだ。それから非難するような口調で言った。
「あんたは僕を堕落させた」
 ソロは肩を落として溜息をついた。
「こんなことまで話すつもりはなかったけど……君だってそれを求めていた」
「信じられない」
「ああ、君がそう言ったのは二度目だな。それに僕が何を言っても耳を貸さない」
 ナポレオンは静かに言った。
「その写真をよく見てみるんだ。僕らがどんなに夢中になっていたか分かるだろう。僕は君に愛情と大切に思う以外の何も抱かなかった――それに、」
 彼はこう付け加えずにおられなかった。
「君だって悦んでいた。僕がそうだったと同じぐらい」

 イリヤは、もう一度テーブルの上に散らばったままの写真に目を落とした。その表情を伺っていたナポレオンは、まるで鉄道事故の目撃者のようだと考えた。恐れおののきながらもそこから目を離せないでいる。
 そしてクリヤキンはいきなり立ち上がると、テラテラした写真を掻き集めてまた封筒に放り込み、上着のポケットに突っ込んだ。そしてナポレオンが、自分が何をしたか理解、いや瞬きもしないうちに立ち上がって部屋を出て行った。ナポレオンは荒々しく閉められたドアを見詰めながら、今さらながらに何が起こったかを噛みしめた。自分はやり過ぎてしまったのだ。余計な事まで喋ってしまい――挙句、イリヤの友情を永久に失ってしまった。
 熱く、塩辛い涙がナポレオンの眼をひりひりと刺した。彼はその涙を堪えようともしなかった。

#6

 翌朝、この前の任務についての定例報告会で、ナポレオンは今までなかったほどウェイバリー氏の話に集中することが出来ずにいた。イリヤはまた貝のように心を閉ざし、自分を完全に拒否している。目立つような仕草はないが、ナポレオンにはありありと分かった。ロシア人は彼と眼を合わせるどころかこちらを見ようともせず、やむをえずナポレオンに話しかけなければならない時は、冷ややかな口調で最低限にしか物を言わなかった。イリヤの両肩は引き上げられ、顔はそっぽを向き、両手を固く握りしめ、全身で自分を拒んでいる。
(この野郎、何故こっちを向きもしない?)
 だが勿論、ナポレオンはその理由が分かっていた。全ては自分の招いた結果だ。子供のとき牧師から聞いた話はじっさい正しかった。『遅かれ早かれ、犯した罪は報いを受ける』――自分は相棒に薬を盛り、誘惑し、その後も相手を騙したことを話さず、その上最悪なことに、その行為を楽しんだことを認めた。全てが致命的な間違いで、許される見込みはありそうにない。
 はたとナポレオンは、周りが静かになっていることに気がついた。慌てて会議に意識を戻したところでウェイバリー氏が言った。
「――では以上だ。二人ともよくやった」
 イリヤが先に立ち上がり、スチール製のドアが開くか開かないかのうちに出て行った。相棒に一瞥もされず、ナポレオンはみじめな気分で後に続こうとして、そこでウェイバリー氏に呼び止められた。
「ああソロ君、差し支えなければもう少しいいかね」
 ナポレオンは意外に思い、眉を上げた。先の任務はごく決まりきったもので、上司はこの上自分と何を話し合うことがあるのか?ともかく彼は言われたとおり向きを変えると、席に戻った。ウェイバリー氏は、年老いたブルドッグを思わせる謎めいた顔つきでしばし睨んできてから、口を開いた。
「一体どうなっておるのだね、ソロ君」
「は?」
「君とクリヤキン君とだ。さっきから君たちは殆ど話もせず、お互い目も合わせておらん。何か揉め事でもあったかね?」
 ソロは納得した。ウェイバリー氏は通常部下の私生活に干渉することはないが、それがパートナーシップに影響してくれば別なのだ。彼は溜息をついた。
「イリヤに、あの夜何があったか――あの夜、僕にAP-734を飲まされたことを知られてしまいました」
 ウェイバリー氏がパイプを置いた。それは氏が相当に心を乱されたしるしである。
「何だって?一体どうしてそんなことになった」
「マレンコフ将軍が例の写真のコピーをイリヤに送ってよこしたんです。書簡にはイリヤの国籍を剥奪する件が、それに彼を……同性愛者を意味する言葉で罵っていました」
 ナポレオンはこの間、U.N.C.L.E.のコンピューターを使ってこっそりとマレンコフが使った言葉を検索していた。『cock-sucker(男娼)』という意味だった。
「僕は昨夜、彼からそれを見せられました」
「ふぅ――む、」
 ウェイバリー氏はうなり声を上げた。
「で観たところ、クリヤキン君はそれを良くは取らなかったわけだ」
「その通りです」
 ナポレオンは自分の落胆を声に出すまいとしたが、自分でも上手くいってない気がした。
「マレンコフは何故あんな執念深い真似をしたのかお分かりになりますか?何をしたところで、もうイリヤはKGBの手を離れてしまったのに」
「おそらくはそれこそが理由だろうな、ソロ君。権力者というものは、仕掛けたゲームを邪魔された場合にはしばしば乱暴な手段に出るものだ。さもなくば計算した上でのことか――もしかするとあの写真を送りつけ、国籍を剥奪することで、クリヤキン君を自殺に追い込めると考えたのかもしれん」
 ナポレオンの背筋を凍りつくような寒気が走った。二週間前の夜、イリヤがソ連に帰されたら青酸を服用するつもりだと知った時のぞっとする思いは決して忘れることはないだろう。
「マレンコフが本気でそんなことを考えたとお思いですか?」
「極めてありそうな事だな」
 ウェイバリー氏は無感動な声で言った。
「君も知っての通り、ソ連の全市民は政府の統制化にある。それがどういうものか、我々には恐らく理解はしがたいだろうが、いわば狂信的に、有無を言わせぬほど人々の心を支配しておるのだろう。そしてロシア人は――二億余の人間をひとくくりに出来るとして――大多数が東洋系と言える。体面を何より重んじるのが彼らの信条だ。同性愛者であることを暴かれることになり、母国との縁を絶ち切られてしまったクリヤキン君が自ら死を選びはせぬかとマレンコフが考える可能性は大いにある。ふん、見当違いだが、そうすれば彼は『名誉』を守ることになるとね」
「しかしイリヤはそんなことはしないでしょ?」
 ナポレオンは半ば以上尋ねるように言った。
「じわじわとなぶり殺されるよりは自分で死ぬ方を選ぶかもしれない、でも……」
「全く同意見だ。クリヤキン君の性格からすれば、彼がむやみと自殺するようなタイプでないのははっきりしておる」
 ウェイバリー氏の視線がソロを値踏みするように注がれた。
「が、クリヤキン君が今、ことの成り行きに大いに動揺しているのも事実だ。彼は君に対し――何だ、二週間前の出来事について腹を立てているのかね?」
「仰るとおりです」
 この告白は容易でなかった。セックスについては開放的だと長年自負してきたナポレオンだが、上司とこの手の話をするのは全くの別問題だと思い知った。そもそもこうなることを命じたのが上司その人であったとしても。
「理由は聞いたかね?」
「いいえ、はっきりとは。おそらく僕がずっと言わずにいたからではないかと」
(いいや、彼が腹を立てた最大の理由は僕がそれを楽しんだと認めたせいだ)
 ウェイバリー氏は眉を顰めた。
「ふむ。それはともかくだ、このままにしておいてはいかんよソロ君。クリヤキン君と話をして、どうにかして和解したまえ。片方がもう片方に対して腹を立てている状態で、部下二人を任務につかせるわけにはいかん」
「わかりました」
 ナポレオンは言い、それから付け加えた。
「どうすればいいのか、何かお考えはありませんか?」
 ウェイバリー氏はもう一度フンと鼻を鳴らした。
「自分のパートナーとどう話せばいいか教えろとは信じられんねえソロ君。君の本心の声に従って動けばどうだね。ある状況においては、愛情こそが最上の案内人となる」
 ナポレオンは上司の顔を見たまま硬直してしまった。
「ご存知……だったんですか?」
 ウェイバリー氏はあるかないかの微笑を浮かべ、淡々と続けた。
「例の夜の、君らが一緒に写っている写真を見たあとでは比較的容易いことだ。例のフィルムを丹念に観察し、マレンコフに送るための静止画像を取り出すコマを抜粋したのはこの私だということを忘れないでくれたまえ。それに、私自身若い時が無かったとは言わんが、誰かはカメラの存在など全くうわの空だったらしい事は賭けてもよろしい。いや、心配は無用、」
 ナポレオンの『しまった』という顔つきに明らかに気がついて氏は付け加えた。
「私の胸に納めておくべき秘密はこれが最初ではないし、最後にもなるまいよ。君やクリヤキン君の仕事に影響が出ない限り、異議を唱える気はない」
 ナポレオンの頭の中は混乱で渦巻いていた。ウェイバリー氏は、特務課の主任がパートナーに恋心を抱いているのを知っていた。その上、驚かないどころか気にもしないという。
「さてソロ君、君にはこの週末のうちに時間をみつけてクリヤキン君と話をし、行き違いを納めるよう提案する」
 ウェイバリー氏の声は再び事務的なものに戻っていた。
「解決しない場合には、それぞれ新しいパートナーと組んでもらうより仕方ない。ここまでの間、非常に有能かつ実績を挙げてきたチームを解散させねばならないとしたら、極めて遺憾なことだがね」
「承知しました」
 ナポレオンは言い、用は済んだとみて立ち上がりウェイバリー氏のオフィスを出た。だが一体どうしたら、自分の顔を見ようともしない相手との行き違いを正すことが出来るのだろう?


 その午後いっぱい、ナポレオンはオフィスで書類を片付けながら今の状況について考えを巡らせていた。
 問題は――彼はまた繰り返した。イリヤがソロに対して性的に身の危険を感じてしまっていることだ。彼はあの写真と、マレンコフからの罵倒の手紙を受け取って動転はしていた。それは男なら誰だってそうなるだろう。だが彼がソロに背を向けたのは、相棒が大口開いて、彼と性的関係を結んだのを楽しんだと認めたからだった。ならば、自分はイリヤにとって危険な存在ではないと完全に納得してもらわなくてはならない。
 それはかなり難しいことで、どうやっても嘘をつくしかない。嘘をついたからって道徳的に罪の意識を感じるわけではないし、実際仕事では毎日のように嘘をついているものの、相棒に対して嘘をつくのは別物だった。何か言い逃れをしていても、イリヤにいつも指摘されてしまうのは言うまでもない。イリヤには、ソロが女性相手に何やかや話しているのを全て見られていると来ている。
 それでもやってみるしかない。イリヤに、あの夜のことは自分にとって何の意味もないと、いつもの相手と毛色が違って興味をそそられはしたが、やはり自分は女性を相手にするので十二分に満足である。あの時もイリヤ自身に興奮したわけでは全然なく、もう二度とするつもりはないと言って聞かせる。厄介ではあるが、出来るはずだとナポレオンは考えた。Thrushの美女から情報を得るため、渋っている相手に幾度となくその気があるフリをしてきたのだ。その気がないフリをするのに大した違いがあろう筈はない。自分たちの友情と、パートナーシップが掛かっているのだから。

 報告書にサインして決裁箱に入れ、イリヤのオフィスに立ち寄って話をしようかと考え始めたちょうどその時、扉をノックする音がした。顔を上げると同時に、扉が開いてイリヤが入ってきた。相棒の、全く思いがけない出現にナポレオンは息が止まりそうになった。挨拶の笑みを浮かべようとしたが、顔の筋肉が凍りついて動かない。
「イリヤ、どう……」
「今晩あんたと夕食を一緒にしたい」
 イリヤが単刀直入に言った。彼の口調はケンカ腰とまではいかないが、きついと言っていいぐらいだった。
「空いてるかい?」
 ナポレオンは夕食の招待と、相棒のぶっきら棒な言い様との両方に面食らってしまったが、どうにか返事をした。
「あー、うん。空いてるよ。えぇと……どこかの店にするのか、それとも――」
「僕の家に。七時」
 橋ヲ爆破セヨという軍隊の指令のようにイリヤは言った。そして人を招くというにはやや素っ気なさすぎると気がついたかのように、ためらいがちに付け加えた。
「それで――いいかな?」
「いいよ、」
 ソロは言った。
「じゃあ僕は……」
 そこで彼は言い止めた。ワインを持って来よう、と言いかけたのだが、二週間前イリヤのウォッカにあのいまいましい薬物を忍ばせた後では、イリヤにアルコールの類を持っていく気にはなれなかった。
「デザートを持っていくね」
 ナポレオンはそう言い換え、イリヤが頷いた。
「わかった」
 そのあとイリヤは何か他に言おうとして、でもそれが何か分からないかのように口ごもり、やがてぼそぼそと言った。
「それじゃ、七時に」
 そして気がついた時にはもういなかった。ナポレオンは締まった扉を見つめながら気を取り直した。この招待は、イリヤが自分と同じぐらいにパートナーシップを壊したくないと思っているからなのか?そうでなければ、単に自分たち二人だけになれる場所で、新しい相棒を希望する意思のあることを告げるつもりなのだろうか?
 後者の可能性についてはあまり考えないようにしよう――ソロは事務処理に戻った。

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