Act-1 Act-2 Act-3/3
by Veronica
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Act-1

* * Side-IK * *
「よしと――これで全部だと思いますよ」
 ウェイバリー氏の円卓から立ち上がりながら、ナポレオンが言った。片手を髪に差し入れて撫で付け、もう片方の手は気障っぽくポケットに突っ込んで。
「大変結構だ、ミスタ・ソロ」
 ウェイバリー氏もそう唱えた。
「君は行ってよろしい。あの若いお嬢さんに宜しく言ってくれたまえ」
 ナポレオンが微笑み、僕に向かって片目をつぶった。
「ご理解有り難うございます、Sir」
 少し首を傾げ、ナポレオンは僕等二人ににっこりと微笑みかけて、出ていった。
「さてミスタ・クリヤキン、ウィーンでの問題について話すとしようか。どうも、最近の誘拐事件の多発の背後には、ベルナルドなる人物が……」

* * Side-NS * *
 彼女は息をつめて、僕が来るのを待っていた。バター・キャンディ色のきれいな金髪が顔の両側を流れ、僕を映す青い瞳には喜びが満ち溢れている。
 僕は彼女の手を取って、お気に入りのカフェのちいさなテーブルへといざなった。屋外に席を取るにはいい日だ。日差しが彼女の髪に、それはもう美しく照り映える。
 僕等は手を取り合って、彼女のリハビリテーションについて話し合った。僕はシャンパンを注文した。そのささいな仕草すら、彼女は言葉を失うほどに楽しんでいた。
 彼女の頬を撫で、親しげに額を寄せ合う。指に暖かな肌を感じる。THRUSHの数年がかりのプログラムを、U.N.C.L.E.が凌駕した今、彼女にとって生活そのものが冒険だった。

 THRUSHは彼女の脳に働きかけたが、僕は彼女が、存在すら知らなかったいろんなことを発見する助けをして、その心に働きかけたのだ。
 たとえば、コニー・アイランド。ここは、彼女が何の疑いもなく、人ごみの中に出ても安全なのだと思えるようになった時、初めて彼女を連れていった場所である。それに、スピードの出る赤いコンバーチブルや、月夜の砂浜でのメイク・ラブ――行為のあと、抱き締めた彼女の目に浮かぶ涙が、銀色の月明かりをはじいていた。

 これらのことを、彼女は子供のように発見してゆき、僕とその驚きを分かち合った。そして今、僕等は座って、シャンパンを啜っている。そのうち日が沈み、彼女が肩を震わせ、僕はコートを脱いで肩にかける。彼女は感謝の印に微笑みを浮かべる。
 会話は徐々に途切れて、僕等はゆったりした気分で、ひととき行き交う人々をただ眺めていた。
 僕は、彼女に必要とされている……。

* * Side-IK * *
 ウィーンでの任務は、成功とは言えなかった。
 初め言われていた任務を遂行するには2週間を要した。何度も頭に来るようなことのある、キツくて散々な2週間だった。
 が、ともかく任務は完了したし、主犯格の人間には逃げられたものの、亡命科学者に無事国境を越えさせることができた。
 ウェイバリー氏は、ベルナルドを取り逃がした失望を匂わせつつ、僕の結果報告を一応は誉めた。

 僕はニューヨークのオフィスに戻った。MIT(マサチューセッツ工科大学)からの最新レポートは心を込めて無視し、律義に報告書を書いていると、ナポレオンが大股で入ってきて、ドアの枠に凭れて立った。
「ようこそお帰り、」
 口元に嬉しげな、素晴らしい微笑みを浮かべ、彼は気楽な調子で言った。
「どうも」
 ぼそっと言い返し、ペンの先を噛んだ。『尼さんとガチョウ』のくだりを報告書に含めていいものかどうか、てんで見当がつかない。
 ナポレオンは両手をポケットに入れたまま、部屋の中へと歩み入った。
「ウィーンではうまくやったそうじゃないか」
 眼鏡を鼻の上に押し上げながら、僕は彼の方を向いた。
「それは、どの程度までを『上手く』と言うかによるな。クレイトン氏は無事インターポールに届けてきた、でも、ベルナルドの方がね――」
 無頓着を装ってみても感じている割り切れなさを隠したくて、僕は肩をすくめた。だがナポレオンは騙せなかった。
「あまり自分を責めなさんな。ねえ、マーラと僕と一緒に夕食はどうだい?ソーホーにちょっといい店があってさ、」
 僕は立ち上がり、首を振った。
「ありがとう。でも約束があるから」
 僕はペーパーワークを切り上げ、MITの報告書をブリーフケースに滑り入れて、デスクの上を片づけた。
 彼は最初残念そうにしたが、そのあとで顎を上げて、わかったという目つきをした。
「おや、そうなの。じゃあ4サム(ダブル・デート)というのはどう?」
 またにっこりし、僕を説得できるという自信たっぷりに答えを待っている。僕は首を振って、ブリーフケースを手に、戸口へと向かった。彼が僕の後に続き、僕は明かりを消して、通路に出た。
「やめとくよ。でも、ともかく誘ってくれてありがとう」
 僕は笑顔を取り繕い、彼と目を合わせた。
「マーラに、よろしく」

* * Side-NS * *
 そのレストランには何もかもが揃っていた。工夫を凝らした料理、やわらかなろうそくの明かり、でしゃばらずに控えている、しつけの行き届いたウェイティング・スタッフ。
 マーラは青いレースの、優雅なドレスをまとい、髪はふっさりとカールさせていた。今夜の彼女は、新しく調査を受けることになるというので興奮ぎみだった。
 世間一般の、核反応施設なんかよりは厳重でない、比較的お優しいものだと。自分は厳しく監視はされるが、同時にその能力を認められることになるだろう――。
 彼女が話す間、僕は微笑み、彼女の知性や教養が、あの薬によって損なわれていないことを嬉しく思った。メディカル・セクションには、使用者の意志の働きで薬の効き目を選べるということを教えてやったわけだ。
 彼女は全てを一足とびにやってのけた。ひとたび記憶の殆どを失う恐怖を乗り越えてしまえば、全ての事がとても興味深いのだと、僕はある夜遅く、ベッドの中で打ち明けられた。

 デザートのスフレを待つ間、僕はコーヒーを啜りながら少し考えごとをしていた。彼女はずっと喋っていて、僕は聞き役をしていたが、頭のどこかでU.N.C.L.E.本部でのことを思い返していた。
 イリヤが戻ってくる前に、僕はウィーンの件について報告を聞いていたし、嘘を言ったわけではない。彼とヨーロッパ局員のチームは、ベルナルドを逃した以外はよくやっている。報告書の内容には、途中でもっと危険な状況があったらしいことが匂っていて、今日の午後、無事にデスクに戻ってきたパートナーの姿をみられたのは喜ばしいことだった。でも、何かが――。

「ナポレオン!」
 テーブルごしに僕の手を掴み、マーラが笑っていた。
「すっかり遠くに行っちゃって!わたし、そんなに貴方をとことん退屈させた?」
 僕はにっこりし、その手を唇に持っていった。
「ちっとも、ダーリン。ごめんよ、職場でのことを思い出していて」
「あら、」
 ウェイターがデザートを持ってきたので、彼女は座り直した。
「イリヤは今日戻ってくる予定だったわよね?」
 彼女の青い目が無邪気に、興味深げに光っていた。

「彼は、どうだった?」
「不機嫌だったよ」
 僕は答えた。
「任務のあとはいつもなんだけどね、」
 スプーンをもて遊びながら、そこで僕は眉をひそめた。
「疲れてるみたいだった、それとも塞ぎこんでたのか――よく分からないけど」
 僕は顔を上げて、微笑んだ。
「まあ、多分時差ボケなんだろうさ。最後に君のことを言ってたよ。今夜彼も一緒に誘ったんだけど、デートの約束があったみたいだ」
 僕はスフレを口にし、しみじみと味わった。でも、マーラはまだデザートに手をつけていなかった。

「彼を夕食に誘ったの?今夜、一緒にって?」
 彼女は噛んで含めるように尋ねた。
「そうだよ」
 もうひと匙口にしながら、僕は肩をすくめた。
「彼のうちには食べるものがないし、もしあったとしても、ウィーンに17日も居たあとじゃ、まるで食べられなくなってるだろうしさ。そう思わない?」
 すぐに返事が返って来なかったので、僕は視線を上げた。マーラが口元に小さな笑みを浮かべ、僕を見つめている。
「17日なのね。ナポレオン?」
 彼女はおだやかに尋ねた。
「大体それぐらいだな」
 その反応にやや戸惑いながら、僕は答えた。実際のところ、17日と約6時間なのだが、それを指摘する必要は感じなかった。
 マーラは頷き、それからやっと、デザートを食べはじめた。
 初めて僕等の間に気詰まりな沈黙が流れたが、それが何故なのかはまるで分からなかった。

* * Side-IK * *
「諸君、カイロに行ってくれたまえ」
 僕は頷き、ナポレオンが顔をしかめた。
「ああ……Sir、カイロにはラクダがいますよね」
 彼はあからさまに嫌そうに言った。ウェイバリー氏はむっとした顔つきで、考えこむように眉を寄せ、僕は笑いを噛み殺した。
「その通りだ、ミスタ・ソロ。何か問題が?」

 氏が先に僕を見たので、ナポレオンが答えるより前に僕は答えた。
「オシッコですよ、Sir。この間エジプトで、ナポレオンはお気に入りのスーツを駄目にされたんです」
 少なくとも僕はある種大惨事であるかのように言ったつもりだが、ウェイバリーはとげとげしい視線でナポレオンを見直し、彼は申し訳なさげな顔をしながらも、また余計なことを言った。
「いやぁ、スーツはどうという事はないんです――靴よりは。手縫いのイタリア製ローファーだったのに、」
 もっともらしく彼は言い、僕の方を弱りきった目で見た。ウェイバリーは、重々しい苦悩の嘆息を吐き、それから僕等に打ち合わせを進めるよう促した。

 2時間後、僕等は指示を受け、荷造りして空港へ行く事になった。廊下に出ると同時に、背後でウェイバリーのオフィスのドアが閉まった。これからの任務について話し合い、JFK空港まで、キャブを相乗りして行く事にした。
 ちょうど到着したエレベーターを捕まえると、マーラが中から出てきた。ナポレオンを見つけ、彼女はぱっと表情を輝かせた。
「ハロゥ、ダーリン!」
 そう呼びかけながら、両腕をナポレオンの首に回した。彼はそれを抱き留めながら、バランスを崩して少し後ろに下がった。

 彼女が情熱的に片足を後ろでトンと組んだので、僕は素早くそこから飛びのいた。
「4時に会おう、ナポレオン」
 そう言ってエレベーターに乗り込もうとすると、ナポレオンの言葉に引き止められた。
「ちょっと待てよイリヤ、すぐ行くから」
 彼はマーラに笑みかけながら、そっと彼女の腕を首から離させた。
「ここで何をしているの?いつからこの階まで入れるようになったんだい?」
 彼女の額にかかる髪のふさを梳きながら、彼は僕に視線を向け、僕は締まろうとするエレベーターを抑えていた。
「ウェイバリーさんに呼ばれたのよ」
 彼女はそう言い、襟を持ち上げてナポレオンにバッジを見せた。この階のどこにでも自由にゆける、1回きりのバッジだ。
「そんなに長くはかからないと思うの。待っていてくれる?」
 彼女は彼の腕に手を置き、彼はそれを外すと、持ち替えて二人の間で振り動かした。
「ごめんね、My Love」
 彼は残念そうに言い、また僕と目を合わせた。
「これから仕事で、イリヤと僕は空港に行くところなんだ」

「その通り、」
 僕の言葉に、彼等の注意がこちらに向いた。
「それにこのエレベーターはさっきから出たがってるんだ、構わないかな?」
 苛立ちを敢えて隠す事もせず、僕は空のエレベーターを手振りで示した。
 ナポレオンはマーラの手を握り、頬に軽くキスをすると、僕と同時にエレベーターに乗りこんだ。
「帰ったらすぐに電話するよ」
 扉が閉まる間に彼が言った。彼女はちょっと手を振っていたが、ドアが閉まった瞬間に、彼女の目は僕を捕らえていた。

* * Side-NS * *
「あぁ、懐かしの我が家よ!」
 キャブが僕のアパートメントまで近づいた時、僕は目を閉じた。
 僕等はカイロから、そして完全に成功した任務から戻ったところだ。僕のワードローブは、なおかつ世界の平和は、完璧に守られた。
 並んでキャブに座ったイリヤが、空港からここまでの間に半分うつらうつらとしていた顔を上げた。彼は眠そうに当たりを見回し、組んだ腕を解いた。僕の身体ごしに薄目でアパートメントの建物を見あげる。
「君んちか、」
 座り直しながら彼が言った。
「うちはこれから街中を横断して、少なくともあと半時間はかかるな」

「ねぇ」
 いい事を思いついて、僕は言った。
「僕と一緒に来ないか?中華料理でも頼んで、良かったら君はカウチで寝ていけばいい」
 彼は迷っているらしかった。二人とも疲れているし、街中を横断するには軽く1時間はかかる。
「意地張ってないで来いよ。どうせ君んとこに食べ物はないんだろうし、君はともかく、僕は飢え死にしそうなんだ」
 青い目が黙って僕を見つめ、そしてやっと小さな笑みが浮かんだ。
「大変結構。でもどうせ『ムー・グー・ガイ・パン』を頼まされるんだろ」
 お決まりの軽口に僕はしかめ面を作ってみせたものの、内心では嬉しい気分で、荷物を持って車を降りた。
 確かにこの3日間共に過ごしては来たが、それは仕事中でのことで、今の僕は自分のパートナーとただ穏やかに過ごしたいと思っていた。
 いつからそれがこんなに大切な事に思えるようになったのか、自分でも分からなかったけれど、そのことについて考えるには疲れすぎていた。

 アパートメントまでのエレベーターの中で、夕飯についてああだこうだと話しあった。僕はスイート・サワー・ポーク(酢豚)を、彼はイカが食べたいと言った。
「でもソースはさ、ナポレオン」
 戸口についても彼は説き続けた。
「ピンクなんだぜ。明るくて、芸術的な色彩のピンク!」
「いや、それならオレンジ色の方が――」
 鍵が開いていて、ドアは押すと開いた。次の瞬間、僕は銃を手に片膝を付き、イリヤは立ちの姿勢で同じように銃を構えた。間違いなく、僕の寝室から出てくる進入者の足音がする。

 マーラが現れて、僕等を目にして一瞬びくっとし、僕等はぴたりと動きを停めた。彼女は僕のシルクのローブを着て、頭にタオルを巻き、ワイングラスを手にしていた。
 僕等を凝視し、片手を口もとに持っていった。僕は銃をホルスターに戻し、歩み寄った。
「ごめんよ、スィートハート」
 僕は口篭もりながら言い、なだめるように相手の腕を撫でた。彼女はどうにか笑みを作り、僕はその頬にキスをした。
「驚いたよ」
 声に落胆の色が混じらないよう細心の注意を払いながら、僕は続けた。

 彼女は頭からタオルを取り去り、濡れた金髪が肩に流れ落ちた。
「貴方がここの鍵をくれたのよ、ナポレオン」
 僕から離れて、ワイングラスを置き、向き直りながら答えた。
「いけなかったかしら?」
 誘い掛けるように近づきながら、彼女は言った。
「もちろん、構わないさ」
 おとがいを愛しげに撫で、僕は答えた。
「イリヤと僕は中華料理をオーダーしようとしてたんだ。ねえ、君はイカをどう思う?」
 冗談の続きをしようと、僕は玄関口を振り返った。しかしイリヤは――彼の鞄も、銃も、何もかも――姿を消していた。

* * Side-IK * *
「反応無し」
 僕はたった今出た実験の結果に溜め息をついた。不慣れなせいで、どうも手順を間違えたか何かしたようだ。僕の仮説はどこかで間違っていて、それでこんな結果になってしまったらしい。まさにNowhere……どうしようもない。
 U.N.C.L.E.研究室の奥深く、僕は仕事をする気分じゃないことを自覚せざるを得なかった。言い訳にもならないが。
 あまり居心地がいいとは言えない自分のオフィスで、もう一度調べ直そうと僕は回りの物を掻き集めた。ちらっと時計を見てぎょっとした。もう午前1時近い。
 僕は内心で肩を竦め、出口に向かった。戸口にはナポレオンが、無表情に僕を見つめていた。

「ナポレオン?」
 不意をつかれ、僕は口篭もった。
「こんなとこで何してんだ?」
 彼は眉を寄せ、中に入って暗い研究室をぐるっと見回してみせた。
「僕も、同じことが聞きたいんだけどねえ?」
 ひそひそと、謀りごとでもしているかのように彼は言った。僕は眼鏡を外し、白衣の胸ポケットに入れた。
「じゃあ答える。研究機関のメンバーなら、真夜中までかかるのはいつものことだ」
 僕は肩をそびやかした。
「僕の場合は、もっと普通だよ」
 向きを変えて書類を手に取り、また顔を戻した。僕等の間に奇妙な沈黙が流れる。それで僕は白衣を脱いで、ドアの横のフックにひっかけた。

 ナポレオンが両手を深くボトムのポケットにつっこんだまま、黙って僕を見ている。いつものように完璧に身だしなみを整えて。スーツとタイ姿ではなく、黒いチノパンツの上からダークブラウンのセーターを着ている。
「今夜はこれで上がるよ」
 そう言って彼の横まで行った。彼はその場を動かず、出口を塞いでいた。
「昨日はずいぶん大慌てで出ていったもんだな」
 彼は探るような視線で、穏やかに言った。僕は頷いた。
「礼は要らないよ、僕はそれほど鈍くない」
 彼が退いてくれないものかと、ドアに向かって一歩踏み出した。しかし彼は首を振った。

「その必要は無かったんだ。マーラはあの後すぐに帰ったんだから」
 僕は仰天し、間違いなくそれは表情に出ていた筈だ。あれから暫くの間、僕はあの場面を記憶から消去しようと無駄な努力をしていた。マーラはとてもきれいで、内に情熱を秘めていて、ナポレオンは自ら望んだ彼女の獲物という所だった。
 僕が何を考えているのかわかったようで、彼はほろ苦い笑い声を立て、つま先に視線を落とした。
「まぁね、」
 どこか謎めいたふうに、彼は続けた。
「巡り合わせが悪かったんだよな。ところでコーヒーでもどう?」

 僕に断られるとはてんで思っていない顔だ。胸につかえているものはそのままにして、僕等は揃って研究室を出た。
 そのあと幾らも経たないうち、僕はそもそも彼が、あそこで何をしていたのか話していない事に気がついた。

* * Side-NS * *
「もちろん、わかってるわ」
 マーラが言い、僕は言葉に含まれた鋭いトゲを和らげようと、微笑みを浮かべた。彼女のご機嫌を取るのはたやすく、僕はそれを喜びこそすれ、物足りなく思う筋合いはない。
 だが最近、それ以外のことでも僕はマーラに戸惑いを感じている。僕のオフィスで立ち話をしていても、その事が頭に浮かぶ。
 どのようにしてマーラが僕の記憶喪失状態を破る役に選ばれたかの報告を読み、その意味がはっきりとわかった。結局、僕は理論に従って、彼女に恋をしたんじゃないのか?

 今前に居る彼女は、長い白衣に包まれてその体型を隠し、髪はひっつめにして、鼻に黒ぶちの眼鏡を掛けている。味も素っ気も無く、どこか彼女らしくないように見える。
 彼女が近づいてきて、僕のボウ・タイを引っ張ったので、僕は相手に注意を戻した。
「あなたって目を見張るほどに素敵よ、ナポレオン」
 彼女は呟き、僕の頬に唇を寄せた。僕は彼女の肘の辺りを掴み、その肩越しに、イリヤが戸口に立って、胸で腕を組んだまま僕等を見ているのに気がついた。
 あぁ、その格好の良いことといったら――マーラの唇が僕の頬をなぞっている間、僕は彼から、タキシードを身にまとった、すらりとした優美な姿態から視線が外せなかった。まだタイは結んでいなくて、シャツの襟ひだの所に引っかけている。間違いなく彼は、僕に手伝ってもらいに来たのだ。彼はまともにタイを結べた試しがない。

 それから彼の不可思議な光を湛えた青い瞳を、黒の衣装に映える白い面差しを意識した。彼の瞳は僕を見据えていて、両手を脇に下ろし、詫びるように少しひらひらさせた。
 突然僕は、彼に行ってほしくないと思った。マーラを押しやって、鼻先にキスをした。彼女は微笑んで僕を見上げ、また寄りかかって、より深いキスを求めて目を閉じた。が、僕に引き戻されて、もう一度目をあけた。

「もう行かなくちゃ」
 そっと囁いて彼女を離す。彼女は後ろに下がって頷き、口をすぼめてみせた。それから振り向いて、イリヤの姿をみつけた。彼等は視線を交わし、マーラが僕を振り返って腕を取った。
「あとで電話してね?」
 イリヤは玄関口に向かっており、彼に追いつこうと気があせった。僕は彼女の頬を軽く叩いて、約束した
「そうするよ。遅くなるかもしれないけど――大使館関係のことは、色々と面倒なことが起こるからね」

 彼女をここで放り出して行くのは気が引けたが、イリヤはもう角を曲がってしまっている。僕は追いつこうと早足になった。
 僕が着いた時、彼はエレベーターを待っていた。黙って待っている間、彼は僕をちらりとも見なかった。
 エレベーターの中に入るとすぐ、彼は両手をポケットにつっこみ、無言で僕の方を向いた。きまり悪げに小さく笑い、側によって顎を上げ、タイを結んでいない襟元を突き出した。
 あろうことかタイの両端を手にした手が震える。今まで幾度となくやってきたことなのに、胃の中の深いところで何かが暴れまわっているような気分だ。考え深げな彼の視線が、僕の顔を、その回りをさまよっているが、どうにもならなかった。

 僕は唾をのみ、さっさとタイを結んで後ろに下がった。ジャケットのすそをのばしながら、含み笑いを作ってごまかす。
「君も、自分でタイが結べるようにならなくちゃね」
 他に何か言う事があったのだが、からかうように僕は言った。
「ああ、そうしたほうが良さそうだ」
 彼は答えたが、その口調にふざけたところはなかった。
「気に入らないのに、あんたがそれを言ってくれないなら」
 彼が僕を、横目でじろりと見た。
「僕のタイを結ぶのが、さ」
 エレベーターが駐車場階で止まり、彼は僕を置いて外に出た。遠ざかる後姿を見つめながら、僕は突然の、胸を締め付けてくるようなこの痛みは何だろうかと当惑していた。ドアが閉まりかけたので、僕はドアをすり抜けて彼を追った。

* * * * *
 大使館のパーティは上首尾に終った。暗殺計画は阻止され、他のU.N.C.L.E.チームが、この事件の首謀者を逮捕した。しかし、事件が上首尾に終ったのは翌朝になってからで、僕等が任務を解かれたのは夜明け近くだった。
 僕等は二人で、ボーイが車を回してくるのを待っていた。何も話さなかったし、その必要も感じなかった。その沈黙は快く、マーラといるときのように持て余すことがない……。

 マーラ。僕の美しいマーラ。僕は密かに、彼女が自分の、U.N.C.L.E.が用意したアパートメントにいて、僕のベッドに潜り込んでいなければいいと思っていた。もちろん、彼女の姿を見るのが嫌だというわけではないのだが、本当の所僕は疲れていて、うちにかえってシャワーを浴び、独りになる以外は何もしたくなかったのだ。

 イリヤを下ろしてから僕は真っ直ぐアパートメントに向かい、そこに誰もいないことを喜ばしく思った。しかし皮肉にも、今度はうら寂しい気分になってきた。オレンジジュースのグラスを手に、部屋の窓から日の出を眺めながら、僕は自分自身に戸惑っていた。
 この10時間というものの、部屋いっぱいの仰々しく着飾り、はなはだしく飲み食いした外交官達と過ごした後で、自宅の静けさには心を癒されていいはずなのだが、それよりも何か物足りないような、何か大切なものが欠けているような気分だった。

 僕は電話を睨み付け、マーラはもう起きて仕事に行く支度をしているだろうかと考えた。しかし、その考えはすぐに捨てた。今は朝の6時だし、僕は誰かの気をひいたり、気をつかったり、愛想よくするのも嫌だった。僕はただ……。
 無意識に受話器を取り上げて、ダイヤルを回していた。
「はい?」
 彼が応答し、僕は微笑んだ。彼はしっかりと目を覚まし、いくぶん退屈ぎみなようだった。
「朝食をおごろうか?」
 楽しげに、多少以上の期待を込めて言った。少し間があって、僕は息を詰めた。
エッグ・ベネディクトが食べたいな」
 彼が勿体ぶって言った。僕はほーっと安心の息をつき、それから含み笑った。
「結構。Chaucerの店で30分後に」
「睡眠時間はどうする?」
 彼の口調には面白がっているような響きがあり、僕は笑みを浮かべた。
「何の為に、オフィスにカウチがついてると思うのさ?」
 自信たっぷりにそう答えると、彼は柔らかく、からかうように鼻を鳴らした。
「U.N.C.L.E.エージェントで、オフィスにカウチを置いてるのは君独りだってこと忘れてるだろ」
R.H.I.P――トップエージェントの特権ってもんさ」
 僕はくくっと笑った。
「30分後だよ、My frend」
 受話器を置き、戸口に向かう。ボウ・タイは後ろに放ったが、出てゆく時タキシードの上着を手にした。
 後ろ手にドアを施錠しながら、僕はなんとなく、イリヤもまだタキシードを着ているといいなと考えていた。


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