Act-1 Act-2 Act-3/3
TheTwistedTiesAffair
Act-3

* * Side-NS * *
「雨になりそうだな」
 レストランから出て、夜空を見上げながらイリヤが眉をしかめてみせた。
「それに、もう時間に遅れそうだ」
 僕は肩をすくめ、通りを見渡して車が回されてくるのを探していた。
「多分ね」
 笑いかけながら、僕は答えた。
「その事なら心配しなくていいよ」

 彼が微笑み返し、その姿に呼吸が早まるのを感じる。回りは笑いさざめきながら、マンハッタンのそぞろ歩きに向かう人々でいっぱいだ。いつものニューヨークの夜の如く、通りは寄せては返す車の波で溢れている。
 しかし僕には、彼しか見えていなかった。彼のぴったりと身体に合ったタキシードに、完璧に結ばれたタイ――ちょっと待てよ?

「あのー、イリヤ?」
「何だいナポレオン」
「君のボウ・タイだけど、それ……ええと、結んであるけど」
「よろしいナポレオン、君はもう立派なスパイだ」
 僕は冗談ぽく(いくらかは)目を細めた。
「今まで君はそういうタイを結べなかっただろう? 僕が結んでない、とすると、今回は誰に結んでもらって、僕は嫉妬するべきなのかねえ?」
 僕とまともに目を合わせながら、頬がさっとピンクに染まる。それは楽しい眺めだった。

「僕はとっくに自分でボウ・タイを結べるようになってたんだよ、ナポレオン」
 子供に説明するように気を遣いつつ、しかし間違いなく目に光りを湛えて、彼は言った。それで僕は納得した。
「おやおや!」
 眉を上げ、僕は囁いた。
「秘密を持っていたのは、僕だけじゃなかったみたいだな」
 イリヤがわざと、げんなりしたように首を振り、それから僕に笑みかけた。僕等は係の者が車を回してくる間、その場に立って馬鹿みたいに視線を交わしていた。

 席につくとすぐに車を流れに乗せ、トンネルの方へと向かった。車が向きを変えるまで、イリヤは黙って隣に座っていたが、
「ナポレオン、劇場への道は知ってるはずだろうけど、この道は違うよ」
「宜しい、イリヤ。君はもう立派なナビゲーターだ。……申し訳ないんだが、チケットはジョージにやっちゃったんだ。奴さん、今夜デートがあってね」
「僕だって、」
 イリヤがむっとして答えた。
「少なくとも、僕はそう思っていたけど」

 僕は馬鹿にするでなく、含み笑った。
「ああ、今だってそうだよ。単に場所がマンハッタンじゃないだけで。でも、ほら」
 手を伸ばし、ラジオのチューニングを合わせた。
「今ライブで放送があって、道すがら聴いてゆける」
「道すがらって、どこへさ?」
 不審そうに彼が尋ねたが、ふりをしているだけなのは解っている。僕は彼に向かって指を振った。
「おっとっと、行き先はこの僕が知ってるんだよ、相棒」
 僕の横で、彼が楽しげにぶつぶつ言いながら、伸びをして楽な姿勢を取った。オーケストラの音楽が柔らかく流れる中、車は都会を出て田園地帯へと入っていった。

 しばらくして、イリヤが左の手を持ち上げて、ボウ・タイの端を引き、タイを緩めようとした。
「おい!」
 その手をぺんとひっぱたいて、僕は言った。
「勝手に始めちゃ困るな。ほら、手をこっちに」
「なに?」
「手だよ。こっちに貸して」
 視線は道路に向けたままでいたが、僕を見つめる彼の瞳が揺れているのがわかる。僕は片手を上げて、掌を上にして、じっと待った。やっと彼の指がそこに置かれた。
 僕はすぐに彼の手を握って、唇に持っていって軽くなぞり、繋いだ手をシートの間に置いた。
「そう、」
 とっても満足して僕は言った。
「これでいい」
 窓の外を流れる田園風景をじっと見つめたまま、彼が僕の手を握りかえしてきた。

 45分後、僕等は木立を背にした家屋へと続く、砂利敷きの小路を辿っていた。小さなポーチの前の階段の脇に車を停める。迎え入れるように明かりがついていた。
 車を降り、イリヤが最初の段に足をかけ、僕は車のトランクの方に行ってふたをあけた。
「ほら、手を貸して」
 小ぶりの旅行用バッグを取り出し、ぽんと放った。彼はその取っ手を握って、問いたげに僕を見ている。かまわずにもう一つのバッグを取り出して、トランクを閉めた。

 彼は階段に足をかけたまま待っていて、僕が上がってくると胸のへんに手をかけて引き止めた。
「ナポレオン、」
 静かに言いながら手を下げる。僕はすぐ、その声の真剣な響きを感じ取った。
「うん?」
 僕は穏やかに答えた。
「本気なのか?」
 彼の問いかけは、ためらっているというよりも説明を求めているようだった。でも僕は騙されない。彼の口振りに含まれるニュアンスは、みんな分かっている。

 僕は空いた方の手を差し上げ、親指で彼の頬骨をなぞった。彼に感じている愛情のありったけを視線に託して見つめる。
「My Love,」
 慎重にそして真剣に、気持ちを込めた言葉をそっと返す。
「僕が、本気じゃないと思っていた?」

* * * * *
 彼はとびっきりの人間だ。
 長い付き合いの中でこの時初めて、僕は彼を甘く見てしまった。

 バッグを受け取り、寝室で中の荷物を片づける間、相手が談話室をうろうろするのに任せていた。
 内心で、自分の書いたシナリオどおりに事を運んだことにほくそ笑みつつ、僕はさっさと荷を解き、夢のようなこの夜に胸を躍らせながら、あるべき場所に片づけていった。
 手首をひょいと返してタイを引き抜き、足台の上に放り、タキシードの上着も続いて放った。寝室を出ながら、二番目のシャツのボタンに手を掛けた時、何の前触れもなく彼が照明を消した。

 僕は、何が起こったかわからないうちに、後ろの壁にしっかりと釘付けにされていた。鋼のような手に両腕を固定されて、身動きが出来ない。
 職業的本能から、僕は最初身体を捻じろうとしたが、もっと深くて根源的な本能から、この手荒な振る舞いに従ってしまった。この僕にそんなことが出来るのは彼だけで、相手もそれを知っている。

 身体をくつろげ、僕は強烈な青い視線と向き合った。その視線が強くなるにつれ、不意打ちされて既に速くなっていた動悸がさらに速さを増す。
 胸のうちだけで考えていたイリヤが今ここにある。急激に二人の間に熱が立ち上り、ゆっくりじっくりと気分を高めていこうという僕の考えは、彼方に飛んでいった。それに、このほうがずっといい。
 今更驚く事でもないが、彼は僕の心を読んでいた。
「こうなるとは思わなかったろ、ナポレオン?」
 悪戯っぽく笑いながら彼が囁いた。ゆっくりと僕に体重をぜんぶ預けてくる。僕は少しだけ彼を押し戻し、そのかたちのいい唇が目に入るようにした。
「そうだねえ」
 ウェストに腕を回しながら、僕は答えた。
「詩の暗唱でもして、それから庭のあずまやで語らってとか考えてた。どう?」
「……もーっと、後でね」
 うなるように言い、彼の唇が重なってきた。

 この間キスしたときは、彼の唇をじっくり味わうゆとりがなかった。最初のタッチで、僕は目を閉じた。彼の唇が僕のそれをなぞって、暖かく優しく押し付けられる。
 唇に触れる舌の感触に集中していて、最初彼が腕から手を離し、僕の顔の両側を支え持ったことに気がつかなかった。
 僕等は少しだけ身体を引いてふっと息をつき、それから彼がそっと僕の顔を傾けた。もう一度唇が重なり、ごく自然に開かれていく。
 初めて舌が触れ合うと、互いの喉から声が漏れた。抱く腕に力を込めて、さらさらしたシャツ越しの手触りにうっとりとなる。相手がジャケットを、タイを外していくのを記憶に刻んでいったが、だんだんと思考を保っているのが難しくなってきた。

 どれだけそうしていただろうか。長い間お預けをされていた飢えを満たすように、固く抱き合って唇を重ねていたが、すぐにそれだけでは足りなくなった。
 僕の完璧に仕立てられたボトムには、あんまり余分というかゆとりがなくて、今までで一番エロティックなキスを交わしている少しの間に、そのことが非常にはっきりと分かってきた。
 もう一度身体を離し、額を寄せ合って僕は少し笑いに震えた。彼の片手を首から外させると、はっきりしない不服そうな声があがり、僕はその手を胸の方へと導いた。なぞる指の感触が、直に下半身に響いてきて、息遣いが乱れる。
 彼はそのまま、ちょっと顔を引いて僕の目を覗き込みながら、布越しに愛撫を続ける。色づいた唇に彼の舌が蠢き、僕は胸元深くで呻いた。

「あぁ……」
 イリヤの切なげな呟き。いつもの鉄壁の自制心がどんどん崩れていくさまが嬉しい。
「僕の計画はここらで完了みたいだ……」
 身体を伸ばし、彼は手で髪を梳いた。僕は手をついて壁から離れた。
「君の計画ね、」
 繰り返し、首に手を回して引き寄せ、激しく口接ける。
「まだ始まってもいないじゃないか」
 彼を離して、ちょっとだけ後ろに下がり、軽く押して柔らかな明かりのついた寝室へと向かわせる。ぼくもそのすぐ後に続いた。
 
 あわただしくお互いの服を脱がせあう。僕が想像していたような、徐々に服を脱いだりするのは、また今度までお預けだ。
 ありのままに言ってしまえば、何年も前から彼に何かを感じていて、いくらかの期待を込めて、いろんな夢…幻想を抱いてきた。しかし今は、別の欲求が先に立っている。
 彼の全てを目にしているだけでも素晴らしいことだったが、服を脱いで、はっきりと欲望を露にした彼に手も触れず、ただ見ているのは物足りなかった。ロング・ショットの彼だけでは。

 僕はもうベッドの上掛けを引き下げてしまっていた。部屋は暖かいし、カバーの下で彼と愛し合うつもりはなかった。彼の横を通って、ベッドに膝をつき、両手を差し伸べた。
 僕等がそっくり同じ姿勢になるまで、ゆっくりと彼を前に引く。絡めた指の他は身体のどこも触れ合っていない。
 彼の目が大きく開いて僕を映している。リビングで僕が彼にしたように、今は彼が僕に身を委ねている――そう考えただけで息が上がった。
 臆することなく向けられた視線。形のいい胸をせわしなく上下させ、僕が次に行動するのを待ち受けている。

 手を離すと、僕は彼の顎に手をあてた。その手に顔を寄せると、無言で僕の願いを理解した。
 その答えは静かで、しかし偽りの無いものだった。彼は頷いて、僕の手首に口接けた。それが始まりだった。
 僕はそのひきしまったウェストに手を置いて、彼を引き寄せた。既に反応し、濡れて光っている昂ぶりが初めて触れ合い、彼の喉から出たちいさな叫びを唇で閉じ込める。それが気に入って、僕は手を彼の柔らかな臀部の肉に滑らせて揉み上げ、同じ物欲しげな呻き声を上げさせた。

 その反応を楽しむ暇もなく、首筋を唇で辿り、想像もつかないほどのその甘さを感じる。彼もまた忙しく唇を使った。僕を押しやり、背中に手を回してバランスを取りながら、彼の口が乳首を捉えた瞬間、僕は危うく自分の足に零してしまいそうになった。
 こんなふうに平行に愛し合うのはなかなかいい思いつきだ。僕は相手を持ち上げて身体をひねり、引き据えた。素晴らしくしなやかな彼の肢体が、僕にぴったりと馴染む。開かれた両脚と、伸ばされた腕の中に納まり、僕は彼に取り込まれたまま、その顔を見下ろした。美しく紅潮した、無防備なその面差し。

 そして僕は彼に触れていった。視線で、そして指で彼の肌を探る。傷痕や、バージニアの田舎で受けたまだ新しい傷に、少しも魅力を損なわれることなく、暖かくしなやかに引き締まった筋肉をくるんでいる。
 僕はたちまち、どうしようもなくその感触に夢中になった。腕の裏側、腰と上体の間の部分、そして腿のつけね――全てを愛撫する手で胸に刻む。そして、僕の指が辿っていったところは、余さず唇がなぞっていった。僕の下で彼が昂ぶっていく。彼自身を口に含んだ時、ひときわ高い声が上がった。

 その感触に酔いながら、僕は効果的なテンポで、彼を高みへと誘った。彼の動きが急に止まり、その腰を掴んで引き降ろした時、掠れた叫び声を上げて彼が達した。
 待ち受けた僕の喉に、彼が精の全てを吐き出す。目を閉じ、毛布をぎゅっと掴み、喉を震わせて、彼はぐったりとなった。
 彼が我に帰ると、僕は口接けを始めた。股間の濡れたカールの部分から、たっぷりと愛撫した腰、胸を過ぎて唇に辿り着いた。

「まだいいよね?」
 彼の唇に直に呟くと、すぐに軽いキスが返されてきた。最初は弱々しく、それから首筋に腕を回してより情熱的に。
 僕は顔を上げて、汗の浮いた額にかかる髪を梳き上げた。都合良く、彼に同じ事をされたかのように、僕の欲望は激しく彼の腹部に押し付けられていた。当然彼にもそれが分かっている。
 僕はもう一度、彼の腰の下に手を差し込んだ。

「ねえ、向うを向いて、」
 あえぎながら言い、煽るように身体を擦りつけた。しかし驚いた事に、彼は抗い、両手を上げて僕の顔を捉えた。
「嫌だ」
 あぁ、彼は止めて欲しがってる――しかしその言葉に打ちのめされるより先に、彼が顔を寄せ、耳元に唇で軽く触れた。
「僕を見て、ナポレオン」
 彼ははっきりとそう言った。
「僕を見て欲しいんだ。わかる?」
 彼は顔を動かし、そのまま自分のものだと言わんばかりに口接けてきた。そうしながら片手をベッドサイドに延ばして、前もって僕が置いておいた小ビンを手に取った。

 キスを続けながら、僕の掌に壜を載せて手の中に握り込ませた。唇を離して彼をみつめる。悲痛な響きを含んだ言葉に、息が止まりそうになった。
「僕には君しか見えていないよ」
 そっと答え、屈み込んでキスを落した。
「そして僕が欲しいのも、君だけだ」

 それから心を込めて彼を愛しはじめ、彼の欲望に再び火をつける。唇で、指で、彼の身体を解きほぐしていった。彼は十分に僕に応え、僕の下で身を捩り、出来る範囲で僕を愛撫し、ロシア語で甘く囁きながら僕を煽る。
 遂に彼の中に入ったその瞬間は、想像を超えていた。故郷に、母港に帰ったような気分――何か変な感じはしたが全くの真実だ。
 貫かれた直後、彼は呻き声を上げたが、すぐに快感が僕等を包んだ。より一層の刺激を求めて彼が腰を持ち上げようとし、僕は深く息を震わせながら、相手を押し止めた。
「いいから……僕に任せて、」
 宥めるように言う。彼が瞬きして目の中に入った汗を散らし、それは艶やかに、微笑んだ。
 僕は息を呑んだ。柄にもない涙が浮いて、いっとき彼の姿が霞んで見えた。

 あまり長くは続かない――続けられないし、それを望んでもいない。呼吸を合わせて身体を動かし、互いの欲望を十分に高めていく。
 僕がこらえている間に、彼が達きそうになっているのを感じた。彼の昂ぶりは、二人の身体の間に挟まれていて、僕は突き上げるテンポを速めて行きながら、濡れた手でそれを掴み、腰の動きに合わせて上下させた。
 どんどん速度を上げてゆき、目は物欲しげに彼の表情を捉える。その全てが僕をうっとりとさせた。

 僕が激しく突き上げると同時に、終に彼が絶頂した。身体を弓なりに仰け反らせ、両手を頭の上に揚げ、ベッドのヘッドボードを固く掴んで。
 僕に身を委ねきった姿、強く締め付けてくる肉の感触、何度も繰り出される掠れた泣き声が、僕の掛け金を外した。首筋に顔を埋めて、彼を深く穿ったまま、僕は声を上げて達した。危うく気が遠くなりかけるほどに。

 どうにか正気に戻った時、僕はまだ彼の上に、真ん中よりちょっと外れたところに乗っかっていた。
 腕が下がってきて僕を抱き寄せる。僕の頭は彼の胸を枕にしていて、彼の指が髪を梳いている。
 溜め息をつき、起き上がって身体を引く。体が離れた時、伺った彼の表情に辛そうな徴は現れていなかった。
 身体の位置を変えた時、彼は少しだけ身を竦ませ、安心させるように微笑んだ。僕はベッドに仰向けになって、相手を引き寄せた。さっきとは逆の体勢で、彼が僕の腕の中に納まった。

 僕等はその体勢のまま、ゆるゆると愛撫を交わしていたが、そのうち彼が身体をひねって起き上がり、バスルームへと向かった。
 僕は上掛けを引き上げて、向うの端を折り返し、彼が戻ったときに包んでやれるようにしておいた。僕は落着かない気分で、今の状態を少し物足りなく思いながら待っていた。まだ話していないことが沢山ある、少なくとも僕にとっては。

 戻って来た彼はお湯に浸したタオルを手にしていた。ベッドの上に座って、手を伸ばした僕から冗談っぽくタオルを遠ざけた。上掛けを下げ、僕の胸元を露にした。
 彼が僕を清めていくのを熱っぽく見つめる。布が動くたびに、熱くなった皮膚への愛撫になった。
 始末を終えると、彼はタオルをぽいと肩越しに放り、ベッドに潜り込んだ。上掛けを引き上げて、もぞもぞと居心地のよい姿勢を探している。僕の胸に顔を乗せ、片腕を中央に置いて、膝は僕の腿の間に差し入れるという格好で落ち着いた。
 
 彼の香りを深く、満足げに吸い込み、マーラのスパイシーな香水の匂いと比べてみる。滑稽な話だ――あれは僕が選ぶのを手伝ったもので、イリヤの自然な体臭とは全然違う。
 彼に腕を回しながら、僕は答えが出た事に内心で笑みを浮かべていた。
 僕にとってマーラがどうあろうと、彼女はけしてイリヤにはなれない。ぼんやりとではあったが、認めるずっと前からそのことは判っていた。
 僕が愛しているのは、彼だ。結局はそういう事だった。

 彼の暖かく湿った息遣いが脇腹を流れているが、相手が眠っていないのは気がついていた。僕は深く息をつき、その仕草に彼は落着かなげに顔を上げて、まばたきしながら僕を見た。
 彼の瞳に、ほんのわずか影が差している。後悔の溜め息だと思われたらしい。誤解はつぼみのうちに摘んでおくに越したことはない。
 僕は身体を下にずらし、顔を寄せて彼に口接けした。ゆっくりと濃厚に、彼の素晴らしい口腔を、思うさま探ってゆき、彼もそれに答えてきた。
 口接けを終えた時、僕等は当然のように息が上がっていて、二人で笑みを交わした。

「上出来、ナポレオン」
 彼は呟き、僕の心臓の上にキスをした。僕は二本の指で彼の顎を持ち上げ、視線を合わせた。
「……君を愛してる」
 微笑みもせず、静かにそう言った。僕の目を見れば、彼には真剣な気持ちが伝わる筈だ。相手から笑顔が消えてゆき、同時に真摯な目で僕を見つめる。差し伸べられた手が頬を撫でた。
「わかってるよ」
 声に出さずに言い、眉間に小さく皺を寄せた。
「それに、僕も君を愛してる、ナポレオン。どんなに愛しているのか、自分でも分からなかった……あの時まで」
 そこで言い止め、視線を逸らして瞼を閉じた。僕は彼を少し揺さぶった。
「あの時ってどんな?話してよ、イリヤ……」
「――マーラ」
 彼は一言そう答えた。彼女の話を出すのは不本意だったことを理解し、僕は頷いた。

 僕はもう少し彼に寄り添った。
「こんな事を言うとは思わなかったけれど……THRUSHには本気で感謝しなくちゃいけないな」
 ブロンドの片眉が持ち上がった。
「ウェイバリー氏の耳には入れるなよ?」
 僕は笑った。
「えっ入れないよ!それは僕の方がよーく知ってる」
 彼のひたいに口接け、その顔を胸元に抱える。
「コンサートのチケットをジョージにやっちまったのを、まだ怒ってるの?」
 僕の問いかけに、彼が軽く吹き出したのが分かった。
「ああ、すごく」
 彼はもう一度顔を上げた。瞳が輝いている。
「この埋め合わせはしてくれるんだろ?」

「しますとも、」
 お喋りしながら、僕は片手を彼の方へ、もう一方の手を上掛けに伸ばし、頭の上までバサッと被せた。僕の探る指に、心惹かれるような軽い呻き声が上がる。
「まぁ……手始めとしてはこんなもんかな?」


* * Side-IK * *
「大変結構だ、諸君。これで何もかも片付いたわけだね。では木曜に、ウィニペグでの会議に出席するように」
 ウェイバリー氏は僕等に、解散という視線を投げかけた。
 僕等は席を立って、同時に報告書に手を伸ばした。軽く会釈して手を引き、笑っているナポレオンに書類を集めてもらった。
 ドアに手を掛けたとき、ウェイバリー氏がもう一度声をかけた。
「ああ、ミスタ・ソロ」
 言われて、僕等は立ち止まり、振り向く前に視線を交わした。

「イエス、サー?」
「あの若いお嬢さんだが――多分途中で会っているだろうね?」
 ナポレオンは手をポケットに入れて、足元に視線を落とした。
「えぇ、はい。若いお嬢さんですね、彼女は1時の飛行機で、ロンドンに発ちましたよ」
 ウェイバリー氏は軽く微笑んで、椅子に寄りかかった。
「では君は、もっと頻繁に海外任務につきたいだろうねえ、ミスタ・ソロ?」

 ナポレオンが微笑み返し、僕はそわそわと胸で腕を組んだ。彼は僕に悪戯っぽい流し目をくれて、答えた。
「いや別に。Sir、申し訳ないのですが彼女との関係は、今や完全に職場の同僚に過ぎません」
 僕はウェイバリー氏が、意味深に眉を寄せ、この事態の変化を飲み込んでいく様子を見守っていた。マーラの特性は、氏がよく知っている。
「本当かねミスタ・ソロ。ではあれはその場の状況に迷った、ということかな?」

 ナポレオンは更ににっこりと笑った。こいつはこのやりとりを面白がっている――諦め半分に僕は考えた。
「はい、全くその通りですよ、Sir。THRUSHも愉快なことをしてくれましたが、キューピッド役 は下手でしたね」
 そして大胆にも、ここの最高権力者に対してウインクしてみせた。ウェイバリー氏は、彼のそういう不真面目な癖にすっかり慣れてしまったようで、顔を下げてふんと鼻を鳴らしただけだった。
 この機会に、僕等は退散した。

 エレベーターに向かって歩きながら、彼は僕を肘でつっついた。
「君の悪影響だって言っとくのを忘れないようにしないと」
 むかっとして僕は眉を上げた。
「僕が何をした?」
 エレベーターが来て、ナポレオンが肩をすくめた。
「僕がウェイバリー氏に延々ウソを言ってたのを聞いたろう?自分では止められなかったけど、とにかく、それは君のせいなんだ、」

 エレベーターのドアが開き、僕等は中に入って、別々の階のボタンを押した。彼の論旨の有利なところを考え、僕は笑いを隠しながら頷いた。
「よろしい、君の言い分を認めて、潔く罰を受けようか」
 ナポレオンが指をふってみせた。
「そんなに早まらなくてもいいよ。コンサート・チケットの件では、僕は十分に償っただろう?」

「ああ、そうだったね」
 頬が熱くなってくるのに困りながら、僕はぼそぼそと言った。
「――だから、君にも同じぐらいのお返しを期待してるよ」
 ナポレオンのオフィスの階に着いたが、ドアが開く前に彼は僕の襟元を見遣り、布地の間に指を滑り入れて、優しくくすぐった。
「何も二日間離れていることはないよね?君と僕にとっては十分な時間だ。とりあえず今夜から、君んちで」

 ドアが開いたが、ナポレオンはまだぐずぐずしている。
「いいでしょう、そんなに言い張るんなら」
 わざと困ったように言った。
「洗濯だのやらされるよりはマシだろうし」
 ナポレオンは笑い声をあげ、彼の背中がドアの向こうに消えてすぐ、僕まで笑えてしまった。
 そして、今大西洋の何処かにいる、かわいそうなマーラのことをちょっと考えた。密かに彼女の幸福を祈りつつ。


THE END


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