Act-1 Act-2 Act-3/3
TheTwistedTiesAffair
Act-2

* * Side-IK * *
 彼女に見つかるより先に、僕は彼女を見つけた。屋外のカフェの隅に座って、行き交う人々を眺めており、それと気がつくまでに少し手間取った。
 ナポレオンの上等な服の趣味がよく行き届いているとみえて、こざっぱりとした青のアンサンブルを着ている。また、スポーティなデザインの濃いサングラスをかけて、ミステリアスな雰囲気を漂わせていた。
 溜め息をつき、僕は彼女の方へと歩いた。さっき電話があって、会いたいと言われた時、最初は断った。お互いに話す事などない筈だった。
 ただ、お互いに何かを抱いていて、それを彼女に指摘されれば、僕には到底ノーとは言えなかった。それでも僕は、こんな話し合いをしたくはなかった。

 彼女は座って、髪に手をやって神経質そうに撫で付けながら、僕を見た。前に置かれたマティーニが殆ど減っていないのに気付き、ウエイターを手で追い払った。僕は何も――この場を終らせる他は――欲しくなかった。
「来てくれたのね」
 眼鏡を外しながら、言わずもがなのことを彼女は言った。僕は頷いた。敢えてこの場の雰囲気を和ませる気分にはならなかった。
「ありがとう。面倒かけたとしたら謝るわ……」
 語尾が途切れ、僕はまた頷いた。
「前からこんな機会が、ねぇ……あればいいと思っていて、」
 そこで言葉を切り、彼女はマティーニを啜った。僕は黙ったまま、次の言葉を待った。予想通り、面白くない事態になってきた。

「私、U.N.C.L.E.ロンドン支部の生化学セクションで働かないかと言われているのよ。私はこの話を受けるつもりで――ナポレオンに、一緒に来てくれるよう頼もうと思っているの」
 苦心して表情を変えないようにしたものの、急に胸の具合が悪くなった気がした。それから、その言葉にひっかかりを感じた。
「思ってる?まだ彼には話していないのか?」
 マニキュアを塗った長い指でグラスの脚を回しながら、彼女は首を振った。
「いいえ。あなたに先に話しておきたかったの」
 この時初めて、彼女は僕を真っ直ぐに見据えた。
「あなたから言って、彼を行かせて欲しいのよ」

 僕は天を仰いだ。彼女から気弱なところを見せられるのはごめんだった。視線を戻すと、彼女はまだ僕を見ていて、彼女がとても、ひどく臆病になっていることに気付いた。
「マーラ……」
 僕は穏やかに話しはじめた。
「決めるのは僕でも、君でもない。それはナポレオンが決める事だ。彼が君と一緒に行きたいのならそうするだろうし、僕が彼の気持ちを変える事は出来ないよ」
 ありありと目に失望の色を浮かべて、彼女が僕を睨んだ。
「偉そうな言い方はやめて。私だってばかじゃないのよ」
「もちろん違うさ。ナポレオンは馬鹿なやつと恋に落ちたりしない」
 彼女が僕を見て、何か言いたそうにしたが口をつぐんだ。何をためらっているのかと思いながら、僕は黙って控えていた。

 ようやく、彼女が少し震えた声で話し始めた。
「ええ、そうでしょうね」
 悲しげな笑みを浮かべる。
「でもそういう事じゃないの。あなたも知っての通り、彼はロンドンが大好きだし、お互いに行き来していれば、あなた達はしょっちゅう会えるでしょう。ロンドン支部がニューヨーク本部のように活気づいてくれば、彼だって退屈は――」
「マーラ、」
 彼女が言い続けるのを、僕は強引に遮った。
「何で僕を説得しようとしてるんだ?こういう事は彼と話し合うべきなんじゃないか」
 彼女は前かがみになって、固く指を組んだ。
「彼を行かせて欲しいって、言ったでしょ。でも彼は――貴方のことを気にかけていて、彼に選択を強いるようなことはしたく……」
「ストップ」
 僕は組んだ指に手を置いた。

「マーラ、もしナポレオンが君を愛しているなら、上手くいくよ」
 僕は口をつぐんで、彼女を見つめた。彼女ははかなげに、全く冗談を含んでいない笑い声を立てた。
「“もし”彼が私を愛していたらですって?どうして違うなんてことがあるの?統計学は嘘をつかないのよ。彼は間違いなく私を愛していて、他に選択肢はないわ」
「多分ね」
 どっちつかずに僕は言った。
「でも、コンピュータ・プログラムは君の為に計算をしたんじゃないんだろ?ナポレオン=ソロが、君にとって完璧な相手だと分かったわけじゃない。そうだろ?」

 彼女の目に涙が溜まっていて、僕はぎょっとした。
「違うわね」
 彼女は呟き、ハンドバックからハンカチを取り出して目元を拭った。彼女は本当に悲嘆に暮れていて、僕は相手が立ち直るのをじっと待っていた。
 しばらくして彼女は深く息をつき、話し続けた。
「あなたの言う通り、私のプロフィールを調べたわけじゃない。私は愛されて育ったんじゃなくて、THRUSHに育てられたんだから」
 ブロンテを読んでるのか。僕は密かに、冷ややかにそう考えた。
「でも今はそれが何なのか判っているし、失う辛さも知っているだろう?」
「ええ」
 彼女はひっそりと言った。
「自分が、身代わりに過ぎないんだって事まで知っているわ」

 話の方向にどうにも居たたまれないものを感じ、僕は椅子をずらせた。
「マーラ、僕は――」
「ごまかさないで。最初に会った時からお互い分かってる筈よ。私の方が絶対的に有利だと思うようにしていたけど、それは間違いだった」
 急に急き込んだ調子で、彼女が身を乗り出した。
「私には彼が必要なのよ、イリヤ。あなたは違うわよね。どうか――彼を行かせてちょうだい」
 何といっていいかわからなかった。けれど、自分がナポレオンに対してぼんやりと抱いている感情が何であろうと、それを表に出すわけにいかないのはよく判っていた。
 僕は椅子から立ち上がった。
「マーラ、ナポレオンは自分の望むようにするまでだよ」
 悲しみにやつれた目つきで、彼女が僕を見上げた。
「私は、それが怖いのよ……」


* * Side-NS * *
「ワシントンへ?何故、いつ?」
 ウェイバリー氏が机から視線を上げ、僕にしかめ面を向けた。順当に報告がなされているところへ口を挟まれたが、そのまま話を先に進めるために。
「勿論ベルナルドの件でだよ。彼はバージニアに現れたらしい。
 当地のU.N.C.L.E.チームが、ミスタ・クリヤキンに手助けを求めて来たんだ。彼はヨーロッパでベルナルドと関わっているからね。ミスタ・クリヤキンは確か、夜明け前に出発したよ」

 なんとも割り切れない気分で僕は頷いた。彼はこの僕のパートナーで、D.C.支部にほいほいと呼び出されるような、新米エージェントなんかじゃない。
 僕には彼が必要で、僕等は一緒に働いてきた。どうして僕に知らされていないんだ?いや、理屈で言えばたった今知らされたところだ。だが、事が済んだあとで知らされるのは気に入らない。

 現況についての日次検討会が済んだあと、ウェイバリー氏は会議に出席し、僕が取りしきることになっている上級スタッフのミーティング時間まで、自分自身の懸案に取り組んだ。
 こういうときにはいつもイリヤがいて、僕のバックアップをし、必要な時には力を貸してくれていた。彼が居ないことが頭を悩ますばかりで、コーヒーでも飲もうかと思い立った。

 オフィスから出ようとしたその時、電話が鳴った。
「こちら、ソロ」
「ナポレオン、マーラよ。貴方に会いたいの。今忙しい?」
 僕は辺りを見回し、溜め息をついた。
「いや。上がっておいで。入り口に止まって、バッジの交換を忘れずに」
「いいえ、あと数分でそっちまで行くわ」

 電話を切って、僕は受付係にセキュリティの変更を頼んだ。マーラ独りでは、この階をうろつくセキュリティ・レベルに達していない。最初は面倒だと思ったが、今やそれは定番の行事になっている。
 数分後、ノックの音がして、彼女がドアを開けた。僕は微笑んで立ち上がり、机を周ってきて、彼女の頬にキスして腕に抱いた。
 彼女からは、一緒にBergdorf'sで選んだ香水の香りがする。僕のベッドのシーツに数日間くゆっていた、その東洋的な芳香。
 抱擁を解いて彼女から離れ、僕は机に寄りかかった。彼女の瞳に、ちらりと落胆の色がよぎったが、すぐにそれは興奮へと変わった。

「ダーリン、私、正式な役職につけそうなのよ!」
 彼女は一度ぱちんと手を鳴らし、僕は背を伸ばして彼女をぎゅっと抱き締め、部屋の中をくるくると回した。
「おめでとう!」
 笑いながら、彼女の長い足を床に下ろした。彼女はしばらく僕に抱き付いていた。彼女の顔が間近にあり、瞳は僕の唇を映している。僕は軽く彼女にキスし、手をつないだまま席についた。

「詳しく話しておくれ」
 彼女の瞳の輝きが嬉しくて、僕は先を促した。
「ええ、新しい生化学セクションなの。そこで私に――」
 当惑し、彼女を遮った。
「生化学?それはロンドンにしかないよ。ニューヨークでも始めるという話は聞いていないけど」
 彼女の頬がさっと白くなり、僕はぎくりとした。
「違うわ、ナポレオン。私はロンドンの話をしているのよ」

「ロンドン、」
 まだよく理解できず、僕は呟いた。
「君は、ロンドンに行くのか?」
 繋いだ手を頬に押し当て、彼女は晴れ晴れと微笑んだ。
「そうよ!あなたが賛成してくれれば。ああナポレオン、なんて素晴らしいの!あなたが来れば、ロンドンのオフィス中が騒ぎになるわ――」
 僕は彼女の手をぎゅっと握ってから、そっと手を抜いた。
「マーラ、何を言っているんだ?僕はロンドンに行く気はないよ」
 微笑みながら腕を組む。
「あら、もちろんすぐにとは言わない。あなたはこっちでもまだやる事があるんだし、でも、私が落ち着く頃には、あなたも来てくれるわよね!」

 彼女の口調に、少し神経を逆撫でされた。彼女が、当然そうなるだろうと思い込んでいるのが判ってきた。
「スイートハート、」
 僕は慎重に話し始めた。
「僕がロンドンには行けない事を理解してくれなくちゃ。僕の仕事も、生活も――全部ここにあるんだよ」
 彼女の顔から表情が消えた。
「でも私には無いわ、ナポレオン。それはどうでもいいの?」

 僕はさっと立ち上がって、彼女の腕に手を置いた。香水の香りが僕等の回りに漂う。
「もちろん大事なことだよ!」
 彼女を腕に抱え、彼女の顔を肩におしつけた。
「君がいるんなら、ロンドンへの訪問はとっても特別なものになるだろうな」

 彼女は身を強ばらせて僕から退いた。僕を見つめている瞳が、怒りでぎらついている。
「訪問?ナポレオン、あなたは『訪問』するの?」
 絡めていた腕を解き、後ろに下がる。
「あなたに『訪れて』欲しいんじゃないのよ、ナポレオン!私はあなたと人生を共にしたいの。あなたはそうじゃないの?!」
 彼女の声は懇願するような調子に変わり、僕の良心がうずいた。
「あなたは、私を愛していないの?」

 彼女の方を見ながら、この事の成り行きに、僕は一言も出ないほど当惑しきっていた。いくつかのことが、だんだんはっきりと解ってきた。
 まず第一に、彼女に言われて真っ先に出てきたのは、認めるのは憚られるが――胸のつかえがおりたような気分だった。
 マーラは美人で、知性的で、気がきいている。だからこそあのいまいましいTHRUSHのコンピュータは、僕が彼女に惹かれると計算したのだ。
 そして実際僕はそうなった。しかし、彼女の言葉から、そこにはある要素が抜け落ちていることに気がついた。彼女が求めるものを、僕は彼女に与えられないと言う事だ。
 この明確な答えに、しかしそれが何なのか、何故なのかと簡単にいうのは難しい。
 僕は彼女に心を捧げることは出来ない……捧げる心はもう僕だけのものではない。それは、とうの昔にそうなっていて、僕は愚かにもずっと、それをマーラにすりかえて考えようとしていた。
 彼女はもっと幸せになってしかるべきなのに。…僕等はもうおしまいだ。

 この啓示に、僕は殆ど笑いそうになってしまった。分からないと思われていたのだろうが、ふたりの類似点に気付かないほど僕はバカではない。
 どこかちぐはぐな所から始まったのにも関わらず、マーラはほぼ最初から僕の腕の中に飛び込んできた。そして時がたつにつれ、身代わりではどうにもならないことが解ってきた。でもマーラは、僕の生活に深く踏み込んでくるようになり、一方僕は、彼女を愛するふりをするのが堪らなくなってきていることに、気がついた。

 今彼女は僕の前に立って、息をするのも苦しそうに答えを待っている。なるだけ彼女を傷つけたくなくて、生まれてはじめて僕は、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
 口を開けてとにかく何か言おうとした時、電話が鳴った。詫びるように唇を持ち上げ、彼女を見たが、彼女は目をぎゅっと瞑って、僕が受話器を取り上げる間、くるっとそっぽを向いた。

「こちら、ソロ」
「ミスタ・ソロ?ウェイバリーだ。ワシントンに飛んでくれたまえ、直ちに」
 彼の声はきびきびとして、ビジネス・ライクだったが、この老人と長年付合ってきた僕は、言葉の陰に逼迫したものを汲み取った。
 相手が声を落とし、僕の心臓が縮み上がった。
「ワシントンですか?イリヤが向かった所では?」
 わざと僕は付け加えた。ワシントンと聞いてそれが真っ先に閃いた。

「その通りだミスタ・ソロ。しかし問題が起こった。君にすぐそちらへ行ってもらわなければならない」
 僕は唾を飲んだ。
「ええ勿論。Sir、彼から何か連絡は?」
 間を置いて彼が答えた。
「無い。移動手段が整うまで詳しく説明するので、私のオフィスに来たまえ」
 僕は受話器を掛け、机から下がって一番下の引き出しからショルダー・ホルスターを取り出した。ホルスターを身につけ、僕はマーラの側をすり抜けた。ドアを半分締めて、戸口のハンガーからスーツの上着を取りあげた。
 マーラはじっと動かず、僕はジャケットを羽織りながら、彼女の方に一歩踏み出した。

「マーラ、僕は――」
「彼なのね?」
 低く悲しげな声で、彼女が遮った。
 何についてそう言われたのか、はっきり分からなかったが、そんなことは問題ではないと思った。任務のことであれ、僕等が抱え込んでいるごたごたの事であれ――答えは一緒だ。
「そう、彼だよ」
 僕は彼女の頬に手をあて、少し撫でた。彼女の手が持ち上がって、その手を覆った。訴えかけるような視線で。
「ごめんよ。謝ってもどうにもならないね」

 彼女は頷き、震えながら笑おうとした。身を屈めて、僕は彼女の額に柔らかくキスをした。最後にその鼻先に指で触れ、僕は向きを代えて部屋を出た。

 イリヤは僕を必要としている。それより何より、僕には彼が必要だった。
 パートナーとして、友人として――そして愛する者として。

* * Side-IK * *
 ナポレオンが登場する頃には、ヤマ場は全部終っちまってるよ。
 僕が少し消息不明になって、ベルナルドにはそのナイフの腕を披露する機会を与えて、僕がケガしやすい性質だということに――そういう傾向は自分で飲み込んでいる――いちいち大騒ぎする人達には、そう言ってやるとしよう。

 という訳で、この地域のU.N.C.L.E.事務所として提供されている建物に戻って来た時、僕の有り様は確かにひどいもんだった。僕の上着、もしくはその残骸はとっくに捨ててしまっていたし、かつては白いシャツだったものも、代りが見つかればすみやかにボロ置き場行きとなるだろう。
 田園地帯でベルナルドを追っかけていたときに貰った、数箇所の裂けたり切れたりした傷からは、色々な程度に出血しており、入り口に座っていた若いお嬢さんが怖気を震って鼻に皺をよせた。

 ここに到着した時、僕はナポレオンが呼び出されていることを知らなかった。僕がベルナルドをとっ捕まえてみると、彼もちょっとした手当てが必要な状態であり、病院に送られて行った。
 奴はここから飛行機でウィーンに戻る手筈になっていた。僕は計画の成功を報告するために、他のエージェントのコミュニケーターを借りなければいけなかった。僕のはベルナルドのちょっとしたオモチャのせいで、完全に役に立たなくなっていたのだ。

 ここの地方支局に着いたら、僕の仕事はおしまいだ。といっても、忌々しい事務処理を除いたら。バッジを受け取るとすぐ、とにかくシャワーを浴び着替えがしたくてロッカールームに直行した。あとの方のは、U.N.C.L.E.の購買部から提供されたもので、絶対にサイズは合ってないし品質も最悪なのだろうが、文句を言える立場ではない。

 30分後、僕の気分はだいぶん良くなっていた。貰った服はスラックスに黒のタートルネック・セーターで、驚いたことに、まるで個人的に注文でもしていたようにぴったりだった。気の効いた誰かが、コーヒーとスープを一杯出してくれていた。それは報告書を作るために割り当てられた、小さなオフィスに準備されており、僕は夢中でがつがつと平らげた。
 必要書類に取りかかると同時に、ドアが開いた。顔を上げると、ナポレオンがそこにいた。手をポケットに、僕に微笑みかけている。

「やぁ、」
 ドアを閉めて中へと入りながら、彼は柔らかな声で言った。無遠慮に机を周ってきて、報告書類の束のすぐ脇にひょいと腰を下ろした。彼と目を合わすのに、椅子を後ろに引かなければならなかった。
「僕としちゃ面白くないなぁ、わかる?」
 机でペンをトントンさせながら、僕は笑いをこらえた。
「へえそう?今度は何でさ」
 彼が肩を竦める。
「僕を置いて行っちゃって、面白いところも名誉も全部独り占めにしたろ」
 僕は目を丸くした。
「馬の放牧場や農場で、いたちみたいな小物を追っかけ回すのに名誉なんかあるもんか。そういう名誉が欲しいんなら、喜んで差し上げますよ」

 軽く笑って首を振り、それから彼は申請書類に視線を落とした。
「これ何?」
 冗談っぽく言い、読みやすいように向きを変えた。
「新しい通信機?これはどうしたの」
 僕は肩をすくめた。
「とっても携帯向きになっちまった。田園旅行に出発する前に、ベルナルドが僕とナイフ投げごっこをしたがってさ。ほら、バージニア土産ね、」
 僕はポケットに手をやって、壊れたコミュニケーターを取り出した。それはナイフが当った衝撃で、ちょうど真ん中のところで二つに折り曲がっている。ナポレオンに手渡そうとしたが、相手は恐ろしげにそれを凝視していた。

「あぁ、イリヤ……これは君の胸ポケットに入ってたなんて言うなよ」
 その声は低く、ふざけた調子はすっかり失せていた。
「わかった、言わない」
 恐怖を湛えた視線が向けられ、僕は一旦言葉を切って、用心しながら喋った。その視線を消してしまおうと、冗談っぽく続けた。
「それに怒った牛が僕に向かってきたことも、君には言わないでお――」
「よしてくれ」
 鋭く言い放ち、立ち上がって僕の足元に屈みこんだ。彼が腕を掴んできて、軽く揺さぶった。
「こんなこと冗談で済ませるな」

 僕はごくりと喉を鳴らし、急に乾いてしまった唇を舐めた。
「ナポレオン、」
 僕はおだやかに言った。
「僕等はこういう事を、いつも笑い飛ばしてるじゃないか」
 彼の顔が間近にあり、暖かい息遣いが頬に当たるのを感じた。ずっと前から大好きだった、濃い色の瞳がそれは優しく、気遣わしく僕を見返している。喉元で息が詰まり、声が掠れた。
「ナポレオン――」
「笑ったりできるもんか、そうだろ?」
 彼が呟いた。その瞳は僕の唇を映している。

「笑えないよ」
 甘い予感に鼓動を躍らせながら、彼の顔が傾いてくるのを見つめていた。優しく撫でるように、彼の唇が僕のそれを捉え、感情が昂ぶって自分でも抑えきれなくなる。やわらかな唇がとてつもなく丹念に、僕の唇をなぞった。
 コミュニケーターがぽとりと床に落ち、僕は両手を彼のウェストに回した。小さく喉を鳴らして、相手に寄りかかり、更に深い口接けを求める。もっと欲しい、何もかもが欲しいと。

 それから急に彼が僕を離して、身体を引いた。僕は少しふらつき、深く息をついた。彼が背後の小さな窓の方へ踏み出し、僕は机に手をついて体を支えていなくてはならなかった。
 目を閉じて、完全に自分自身に裏切られたなとほろ苦く考えた。咳払いが聞こえて、僕は思い切って向き直り、相手と顔を合わせた。
 窓枠によりかかり、胸で腕を組む彼は、とっくに普段通りに戻っているように見える。胸の辺りがせわしなく上下しているのだけが、平常でないしるしだった。

「で、どれだけ早いところ、こいつを片づけられると思う?」
 まるで何も…全世界がはじけ飛ぶような事など…起こらなかったかのように、気楽な調子で言われた。僕は困惑しつつ、自分自身の正気を保つためにも調子を合わせようと、肩を揺すった。
「ペーパーワークは、世界中どこでも一緒だよね。少なくともあと1時間はかかるし、そしたらウィーン支部と電話で打ち合わせして、出来たら今夜遅くの便でN.Y.に帰れるといいんだけど」

 彼は頷いた。
「それは結構。じゃあ僕はこれから本部に戻るよ。ああ、ところで、」
 身を起こし、顔に小さな笑みを浮かべてもう一度僕の方へ近づいて来る。
「明日の夜の、交響楽のチケットがあるんだ。チャイコフスキーだったと思うけど。君、好きだったよね」

 頷いて目を逸らした。隠しようのないみじめさや悲しみを、彼に見られたくなかった。
「ああ好きだよ。きっとマーラも喜ぶんじゃないか、とても」
 机の書類を手に取り、漫然とシャッフルさせて、近づいてくる彼に反応する身体を抑えようとした。
「いやぁ、マーラは行かないよ。彼女は荷造りで忙しいだろうし」
 ああ、そうなのか。僕は息を詰め、暖かい手が肩に置かれても、彼と目を合わせまいとした。

「荷造り?」
 僕は繰り返した。無造作な言い方をしたつもりだが失敗し、机を睨み付けたままでいた。
「そう、彼女はロンドンの、新しい生化学セクションで働く事になったんだ。彼女にとってはいい転機だよ」
 肩に置かれた手に少し力がかかり、彼と向き合わざるを得なくなった。向けられた彼の瞳はとても暖かく、すこしばかり気が楽になった。
 この先何があろうと、ナポレオンは僕の友人だ。辛くはあったが、その真実が僕に言葉を続けさせた。
「いい転機だね、本当に」
 僕は言い、更に突っ込んだ。
「それに君は?君にもいい転機かな、ナポレオン?」

 彼の手が、セーターの黒い生地の上を滑り上がり、首のつけねのところで止まった。指先が髪に差し入れられる。親しげな、愛おしげなタッチで。
 彼を見つめた時、それが僕の問いかけへの答えになっていることがわかった。
「いいや、イリヤ、」
 光を湛えた瞳で、彼がきっぱりと言った。
「僕には全然いい転機なんかじゃないよ。僕は沢山いい転機があって、それはすぐに君にもわかる……あぁ、でも今度のはそうじゃない。ねえ、よく聞いて、」

 手を離し、戸口へと向かいながら彼は言った。
「6時に迎えに行くから。先に軽く食べて行こう」
 ノブに手を掛け、彼は一旦止まって指を鳴らし、振り返った。
ブラックタイ・オンリーだよ。ちゃんとしたコンサートで、君がいつも行ってる薄汚れた市民ホールじゃないんだからね」
「このエセ紳士が!」
 からかうように言いながらも、勝手に頬が緩んでいた。微笑みを返し、ちょっと会釈してから、彼は行ってしまった。

 廊下を歩きながら口笛を吹いている音が聞こえ、僕はさらに笑みを大きくした。屈みこんで、机の下から壊れたコミュニケーターを拾い上げる。手から手へと投げ渡し、胸の中でさっきまでの短いできごとを呼び起こしては、あらゆる角度から状況分析を行った。そのたびに、同じ喜ばしい結論に辿り着く。

 僕は、ナポレオンに必要とされている……ナポレオンは、僕を愛してる。


Act2-end >> Go to Act3

CLOSE

TheTwistedTiesAffair

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送