THE BETTER GADGET AFFAIR--02

ACT-1 ACT-3 ACT-4

 ナポレオンは残り少ない気力をふりしぼって、今の運命の皮肉というものに笑みを漏らし、これが人生最後に面白がれることになるのだろうなと思った。彼は息を吸い込もうとしたが、酸素に飢えた肺細胞を満たすほどの量は残っていなかった。
 彼はイリヤの造ってくれた装置で囲まれていた。鋸刃付きの時計によれば、彼は足先を北に向けている。爆弾付きカフリンクは、取りあえず残りの片方はいつでも使えるようになっている。ポケットには小型のブローランプが一つ入っていて、靴の踵には煙玉が入っている。これがイリヤが造った最新の小道具だ。
 しかし今はそのどれも助けにはならなさそうだった。彼は気密室に閉じ込められている。窓はなく、一箇所だけのドアは鋼鉄性で密閉処理がしてあり、中から開くような仕掛けはない。ドアに向かってカフリンクを投げつけてみたが、数分間行き場のない煙に咳きこまされた以外は何にもならなかった。
 こんな死に方は馬鹿馬鹿しすぎる。こうなった場合に何かしておくことがあるはずだ、とナポレオンは考えたが、ここに放り込まれる前に殴られて気を失っていたため、誰に捕らえられたかもはっきりしなかった。もちろん尋問すらされず、ただここに死ぬまで放って置かれることになったのだ。そしてそうなるのもおそらくはあと数分後のことだろう。
 彼は時計を見て、定時報告をこれで二度しそびれていることを知った。ということはU.N.C.L.E.でも捜索が始まっているのだろうが、自分がここにいるのを知っているのは誰もいない。
 つまり、やっぱり自分は死んでしまうのだ。自分の置かれた定めに、怒りが彼の身の内を駆け上った。その運命とやらが現実になったとしても、大人しくここに自分を放り込んだ誰かの思い通りになるなど耐えられない。彼は室内を、もう百回はやった中で何かを見落としてはいないかと目を凝らしてみた。
 何も無い。室内は完全に空っぽだ。コンクリートの床、家具も窓もなく、密閉された何の仕掛けもない扉。通気孔も、なんにも、ない。
 ナポレオンは部屋の隅にずるずるとへたり込んだ。気が付けばイリヤのことを考えていて、あの天才発明家ならば、この部屋を抜け出す方法を考え付いたりするんだろうかと思った。ナポレオンは心の底から、今すぐイリヤに出て来て欲しいと思った。ラボでそうだったようにこの部屋に突然現われるだけでなく、この部屋をバラバラにぶっ壊してしまえるような魔法の道具を持って。
 呼吸はもう小さく喘ぐだけになり、意識を失うまでもう長くはない気がした。彼は顔をぐったりと両膝に埋めながら、ここで自分が死んだら、誰がイリヤをロバートから庇ってくれるのだろうか、と考えた。

「ナポレオン!」
 ナポレオンは顔を上げようとしたが、そうする体力は残っていなかった。
「ナポレオン!そこにいるのか?」
 ナポレオンはその声が誰のものか分って笑みを浮かべたが、それから眉を寄せた。もし自分がイリヤの幻覚を見ているなら、少なくともこの部屋の中に出てきてくれてもいいはずだ。
「ナポレオン、もし聞こえてるんなら、ドアから離れてろ」
 少なくとも――幻覚はこの部屋をふっ飛ばす何かを持ってきてくれる、という自分の夢想を叶えて下さるらしい――そりゃあ結構――。
 大音響と共にドアが爆発し、室内に叩き込まれてきた。ナポレオンはその場所に座っていなくてよかったと思った。えらい怪我をしていただろう――…。
 そしてイリヤがいて、自分の肩を揺すぶっている。
「息をしろ、ナポレオン。深呼吸するんだ!」
 ナポレオンは、これは幻覚ではないのだろうかと考えはじめた。でもそうなのに決まっている。何故なら、どうしてイリヤが自分を救出に来るのだ?彼は幻覚に付き合おうと、深く息を吸い込んだ。新鮮な空気が体内を満たすのを感じ、胸に痛みが走った。彼はうめき声を上げてイリヤの胸に額を預けた。
「いいぞ、呼吸を続けて」
 ナポレオンは言われるままにしながら、イリヤの支える腕に安らぎと温もりを感じた。彼はもうちょっとイリヤに擦り寄っていった。とにかくこれが幻覚であるのなら、自分のしたいことが出来るはずだ。イリヤの手が髪に触れてきて、彼は微笑んだ。イリヤがロシア語で優しく囁きかけているのが聞こえる。何を言っているのか全く判らなかったが、その響きは快かった。
 ナポレオンの頭の中がはっきりしはじめた。それにつれて、これが幻覚でないことも分かるようになってきた。自分は呼吸が出来ていて、牢屋の扉が吹き飛ばされて、助けてくれたのはイリヤで、今しも自分はその男の膝の上にいる。そして自分は明らかにそこから離れたくないと思っている。
 が、やっぱりイリヤは彼の様子を見守っていて、正気を取り戻したことに気が付いていた。彼はナポレオンをそっと引き上げ、もう一度壁に寄りかかって座らせた。
「大丈夫か?」
 ナポレオンは頷いた。そして床に斜めに倒れているドアをじっと見た。
「何を使ったんだ?」
「手榴弾」
「ここには他に誰が?」
「僕だけだ」
 ナポレオンは頭の中に残ったモヤを吹き飛ばそうと首を振った。
「君だけだって?」
 イリヤが頷く。
「どうして?」
「定時報告を二度してなかったろう」
「分かってる。でもどうして君だけなんだ?救出班の他のメンバーはどこにいる?」
 イリヤが肩を竦めた。
「どこか見当違いの場所であんたを探してるんじゃないか」
 耐え切れずにナポレオンは吹き出した。
「なんだって……別に文句をつけるわけじゃないが、君には正確な場所が判ったんだ?」
 イリヤはナポレオンの時計を突ついた。
「追尾信号さ」
 ナポレオンは時計に目をやった。
「中から追尾信号が出てるのか?」
 イリヤが頷いた。
「試作品だよ」
「あぁ。で、また僕をモルモットにしたんだな?」
 もう一度頷く。
「あんたは構わないだろうと思って」
 ナポレオンはイリヤににっと笑いかけた。彼の守護天使にまたも驚かされたのだ。
「そう、構わないとも」
 彼は開いた戸口の外を覗いた。
「ここに来る時誰かいた?」
 イリヤは首を振った。
「あんたの信号を追いながらで完璧に調べたりはしてないけど、僕が入ってゆくのを止める奴はいなかった」
 ナポレオンは壁に頭をコンとぶつけた。
「君はどうして他のエージェントに時計のことを報せて、彼らに僕の救出を任せようって思いつかなかったのかねえ?もしここに敵の構成員がいたら、君は殺されてたかもしれないんだよ」
「思いつきはしたさ」
「当ててみようか。『それじゃああまり面白くない』だろ?」
 イリヤがにやりっと笑った。ナポレオンは哀れっぽく首を振ってみせた。
「イリヤ、イリヤ、イリヤ!僕はもう何と言っていいのか――
 その時ある考えが閃いた。
「どうして僕が定時報告を二度してないのが分かった?」
 彼はこの男に、警告するように指を突き出した。
「それに『たまたま』とは言うんじゃないよ?」
 イリヤが顔を紅くして横を向いたのにナポレオンはびっくりした。彼は片手を伸ばしてイリヤの顎を捉え、こちらに顔を向き直させた。
「僕が任務に就いている時、君はずっと僕の動向を探ってるのかい?」
 顔をますます紅潮させ、イリヤは首を振ってナポレオンの手から逃れた。
「ここを出る潮時だと思うんだが、違うのか?」
 そうらしいなとナポレオンは思った。ともかく、自分にはやり遂げなくてはならない任務があったのだ。
「辺りを調べて、連中が何か手掛かりを残してるか調べなきゃな」
 イリヤが立ち上がり、ナポレオンに手を貸して立たせた。
「僕も手伝う」
 もうここは安全だろうとナポレオンは推測した。
「僕の銃やコミュニケーターをこのへんで見なかっただろうね?」
 イリヤは首を振った。ナポレオンが顔をしかめたので、彼はとぼけた笑いを向けた。
「少なくとも、奴等は君の腕時計は置いていっただろ」
 ナポレオンは腕をイリヤの肩にぐるんと回した。
「そうとも。我が聡明なるロシア人よ、正にその通り!」


 三日後、彼の銃とコミュニケーターは、それを奪っていったTHRUSHのエージェントから無事取り返すことが出来た。また一つ彼らの本拠地を潰せるという満足の笑みを浮かべつつ、ナポレオンはイリヤのラボへと下りていった。
 窓を覗き、ロバートがイリヤと一緒にいて何やら言い張っているのを見た時にその笑みは消し飛んだ。イリヤの表情はナポレオンが見たこともないほど固く結ばれていて、それがロバートを激昂させているようだった。彼の怒鳴り声がナポレオンにも聞こえた。
「お前、聞いてるのか?!」
 イリヤの返事に、例えそれがこのロシア人の為にはならないとしても、ナポレオンはニヤリとせずにいられなかった。
「聞こえないようにするほうが難しい」
 ナポレオンはロバートがますます顔を赤くしていくのを見た。ここまで怒らせるのはまずい。
「よく聞け、忌々しいアカのクソ野郎。もしお前がここで何か妙な真似をしたって分かりゃしないと思ってるのなら、その馬鹿な考えは捨てることだ。このオレが見張ってるんだからな」
 ロバートはイリヤの胸を指で突きながら怒声を吐き出した。イリヤはさっとその手を払い除けた。
「僕に触るな」
 ナポレオンにはロバートがその場に留まっている気が知れなかった。もしイリヤがロバートを見るような目付きで誰かに見られたなら、ナポレオンはすたこら逃げ出すか銃を抜くかしただろう。
 しかしロバートは口から泡を吹きそうな勢いで、その視線の剣呑さに気づいていない。彼はイリヤをカウンターにぶつかるほど突き飛ばした。
「オレは、しようと思った時はお前に手を出せるんだ。今度そんな口を利いたら……」
 これ以上見物しているつもりはなかった。ナポレオンはバンとドアを押し開けた。
「おーや、お邪魔だったかな?」
 ロバートが顔を向けて来た時、ナポレオンは銃を構えたほうがいいだろうかという気になった。その男はまるで狂犬のようだった。
 ロバートが彼を睨みすえた。
「おや、このアカをお気に入りの間抜け野郎か」
 ナポレオンはロバートをぶん殴らないで済みますようにと五つ数えた。彼は肩越しに親指をドアに向けて突き出した。
「出て行け」
「お前のようなのが特務課の主任なもんか、ソロ。お前はただの穀つぶしエージェントだ。オレはこのラボの責任者で、つまりはオレが居たいと思う所に居られるんだぞ」
 ナポレオンは口を開いたが、イリヤの怒りを露にした表情で黙り込んだ。
「ナポレオン、相手にするな」
 そしてロバートの方を向いた。
「今すぐここから出ろ。もし気に入らないのならウェイバリー氏の立ち会いで話をする」
「おおそうかい。なら見せてもらおうじゃないか。一体何と言ってウェイバリーを丸め込んでここへ来た?彼のアレをしゃぶってやってるのか?忌々しい変態野郎め」
 イリヤの顔に浮かんだ何かがようやくロバートにも伝わったらしく、そこでロバートは動揺した表情でドアから飛び出して行った。相手が行ってしまうと、イリヤはナポレオンの方を振り返った。
「あんたも僕の代わりにケンカしてくれなくたっていい」
 ナポレオンはカフリンクを止め、タイの位置を正して少し気持ちを落ち着かせようとした。
「君はいつも僕のことを見守ってくれてるんだから、僕にだって時々は同じようにさせてもらえてもいいんじゃないのかな」
 イリヤはやりきれなげな溜め息を吐き出した。
「僕があいつに憎まれてるので十分厄介だっていうのに、この上に君まで憎まれることになる」
 ハハ、とナポレオンは短く笑った。
「君の夢を壊して悪いんだけどね、同志(タバリーシ)。僕も奴に好かれたことなんて一度もないんだ。その点で僕らは一緒なのさ」
 イリヤはふっと笑みを浮かべた。
「困ったお仲間もあったもんだ」
 ナポレオンはお辞儀をしてみせた。
「おやおや、お優しいことを。嬉しいね」
 そして戸口へ向かう。
「昼食を食べに行かない?」
 イリヤは白衣を脱ぐと、上着を羽織った。
「ロバートが僕らの皿に毒を仕込まないような場所なら」
 ナポレオンは顔を顰めながら笑った。
「いい考えだ。じゃあ外へ食べに行こうか」

 ナポレオンは楕円形のテーブルに付き、上司の電話が済むのを待っていた。ウェイバリーは通話を終わらせると、フンと鬱陶しげな息をついて眉を寄せた。
「ミスタ・ソロ、それで君は私に何をして欲しいんだね」
「ロバートの事です、サー。彼はずっとイリヤに嫌がらせを続けていて、暴力にまで及びそうに思えるのです」
「ふむふむ。で、その事については前も話し合ったねえ」
「事態は更に悪化しているようなので」
「では考慮に入れておこう。ほかに何か?」
「ロバートをどうするおつもりなのか伺いたいと思いまして」
 ウェイバリーはナポレオンに独特の視線を投げた。
「君がそのようなことを気にするとは思わなかったが」
「しかし……」
「君は私に注意を促した。それで、もう他には無いのだな」
 ウェイバリーはファイルに目を通し始めた。ナポレオンは会話の方向に苛立ちを募らせ始めた。彼はロバートが気に入らなかったし、彼のイリヤへの扱いも全くもって気に入らなかった。彼はもう一度言ってみた。
「貴方が、ロシア人の科学者をここへ呼んだのだと思っていたのですが」
 ウェイバリーが顔を上げ、眉を顰めた。
「まだ居たのかね、ミスタ・ソロ」
「居ました。サー」
 ウェイバリーは会話をさっきの質問に戻した。
「その通りだ。それ故にミスタ・クリヤキンは我々と共にいる」
「では……」
 ナポレオンは可能な限り礼儀正しく質問をしようとした。
「……どうしてロバートのような人間をイリヤの上に置いているのですか?」
 出過ぎたことだと取られませんように、とナポレオンは心底祈った。ウェイバリーがあれこれ尋ねられるのを嫌っているのは早くから思い知っている。しかし自分を守るために沢山の時間を費やしてくれている者を、同じように守ってやれなくてどうする?
 ウェイバリーは長い、鋭い視線を向けてきた。ナポレオンはすくみ上がらないよう懸命に努力した。
 やがてウェイバリーが全く別の事を言い出した時、ナポレオンはむかっときたのかほっとしたのか自分でも分からなくなってしまった。
「――君はパートナーについて何か考えてあるのかね?」
 ナポレオンは小さく溜め息をついた。
「いいえ、サー」
「君は時間をそっちの方に使った方がよいのではないかね。もし今月末までに決められないのなら、私が誰かを選ぶことにしよう」
 ナポレオンは不平を唱えようかと少し考えたが、聞き流してしまうことにした。ウェイバリーはすっかり手にしたファイルに集中しているらしかったので、ナポレオンはそのまま出ていった。

 次の日にラボへと下りていく途中、ナポレオンはほとんどの日をこうして始めていることに気が付いた。少なくとも自分が本部にいる時はそうだった。自分の毎日は、まずあの天才ロシア人の所に行ってからでなくては調子が出ない気がする。
 ナポレオンはしばらく立ち止まって考えた。生活の中にイリヤがいることにあっという間に慣れてしまった自分を、全く今まで意識していなかった。朝一番に彼に会い、両方に用事がない時は一緒に昼食を食べている。最低週に一、二度は夕食に出かけたり、音楽を聞きに行ったりしている。ナポレオンはニヤっと笑いを浮かべた。自分は仲間の誰とよりもイリヤと一緒に過ごしているのだ。他人をこうもやすやすと、自分の生活に踏み込ませたことは今までになかった。
 ほんの少しの当惑を覚え、ナポレオンはいつもの訪問を省略して自分のオフィスに行こうかと考えた。彼には自分の、イリヤを必要に思う感情が良いことなのかどうか判らなかった。全ての人間関係を表面的なレベルに止めておこうと懸命に努めて来たと言うのに、イリヤはそんな警戒装置を全て通り抜けてきてしまったのだ。ナポレオンは呟いた。
「なんだか、付き合ってでもいるみたいじゃないか……
 通りすがりの秘書課の女性が顔を上げた。
「何か言ったの、ナポレオン?」
 彼女は期待に溢れた表情を浮かべている。ナポレオンは彼女とイリヤと、どっちの所へ行くのがいいか決めるまでの間、相手を見詰め返した。そしてふっと息をついた。比べるまでもない話だ。
「いやいや、ただのひとり言さ」
 それ以上の会話を避けるため、彼は既に自分の心の向いている先へと向かった――彼のラボへと。

 ドアに近づいた時、話し声が聞こえてきて、ナポレオンは今度もイリヤとロバートが言い争っているのに割り込むべきかと考えた。ウェイバリー氏に意見したにも関わらず、なにひとつ変ってはいないようだった。ロバートは相変わらずあちこちで毒を吐いている。
 しかしナポレオンがドアを押し開けてみると、イリヤはベリンガムという名の、二課の人間と話をしていた。イリヤがベリンガムに一対の爆弾付きカフリンクを手渡しているのが目に入って、ナポレオンは何だか不愉快な感情が突き抜けるのを感じた。
 ベリンガムがカフリンクを手の中に握りこんだ。
「いや有難う、ドクタ・クリヤキン。あんたは最高だ。これは前のタイプよりずっと便利だぜ」
 笑顔を浮かべたまま、彼は振り向いてナポレオンを見た。
「やあソロ、あんたも小道具を手に入れるのに実にいい場所をめっけたんだな、うん?この男は大した天才だ!」
 もう一度イリヤに感謝の徴に頷いてみせると、ベリンガムは出ていった。ナポレオンは自分の感情をはっきりさせようとした。
 いつもなら彼はベリンガムをいい男だと思っていた。彼は気立てがよく、現場での身の処し方も心得ている。もしベリンガムに既にパートナーがいなければ、ナポレオンは彼を相棒に選ぶ事を考えていただろう。
 しかし今この時、ナポレオンがしたかったのは彼の後を追いかけ、あのカフリンクを取り返し、イリヤに近づくなと言ってやる事だった。自分がそうしているのが頭に浮かんでくる。ベリンガムの手を掴んで、カフリンクをひったくって、拳を振り回しながらわめいているのが頭に浮かぶ。
ぼくの!ぼくの!これは僕んだぞぉ!!
「――どうかしたのか?」
「ええっ?」
 ナポレオンが振り向くと、イリヤが気遣わしげな青い瞳で自分を凝視していた。彼のちょっとした空想は、自分で思っていた以上に長い間続いていたらしい。
「あ、ああもちろん。なんで?」
 イリヤが首を振った。
「いや別に」
 ナポレオンはカウンターに近寄って凭れかかった。
「君が他のエージェントに装置を作ってやるなんてね」
 気にしていないふりが出来ていることをナポレオンは祈った。イリヤが眉を上げた。
「ウェイバリー氏が、君だけの装置を作らせるために僕を雇っておいてくれるとは思えないんだけど」
 ナポレオンはぷっと吹き出した。
「いや、僕にも想像できない。ただ……」
 ただ……何だ?イリヤが自分だけのものだと考えた?イリヤが自分のためだけに装置を作ってくれるものだと考えた?多分、イリヤはエージェント全員の動きを見守っているのだ。多分、イリヤはその誰であれ深刻な危機が迫った時には救いに行くのだ。多分、どんな女の子にだってデートを申し込んだりもするし――。
「ナポレオン?本当にどうかしたんじゃないのか?」
 イリヤが腕に触れてきて、彼が次々考えていたことは突然中断された。かっちりした手で掴まれている肩口が熱い。危険な程にイリヤが近くにいる。近づきすぎている。なのに十分なほどの近さではない。ナポレオンは苛立たしげに顔を振った。
「や、大丈夫さ。ちょっと寝不足気味みたいで」
 イリヤは考え深げな視線を投げると、それから魔法の引き出しを開けに行った。ナポレオンが自分だけのためにあるような気分でいた、装置の入っている引き出し。イリヤはライターを一つ取り出した。
「新しく作ったんだ」
 ナポレオンはヤキモチで感心するのも忘れたまま、それに目をやった。
「ベリンガムにも作ってやったの?」
 自分の声の情けなさに、彼は身が竦む思いをした。イリヤがライターを握りこみ、首を傾げて自分をじいっと観察している。ナポレオンはイリヤの標本の、スライドの下の虫か何かになったような気分がした。そしてイリヤはナポレオンの手を取って、その上にライターを置いた。
「いいや。僕のモルモットは君だって言っただろう?僕は君でそれをテストして、もし君の意に適えば、他のエージェントにも使えるようにする」
 それでナポレオンは嘘のように気分を良くしたが、完全にとはいえなかった。
「それで君は……君は皆のオフィスに忍び込んだりするの?」
 ナポレオンは目を瞑って、頬を焼く顔の熱さを抑えようとした。自分の物欲しげな有り様に彼は頭を抱えた。やはり自分はここに居座りすぎているのだ。
 顔に触れられて目を開くと、暖かな眼差しが自分に注がれていた。イリヤの指が顎の割れ目をなぞっている。ナポレオンがイリヤと目を合わせると、ロシア人の唇は優しげな笑みを作り、手が離れた。
「いいやナポレオン。僕は、君のオフィスにしか忍び込まない」
 ヤキモチでも何でも、ナポレオンはこの馬鹿みたいな会話を嬉しく思った。彼はイリヤに笑いかけた。
「ああ、じゃあそうしてるといいよ。他の奴の部屋のドアがどこにあるのかも知らずにいてね」
 イリヤがきょとんと目を丸くした。
「で、これから使い方の説明をしようか、それとも僕が君の為だけに生きて呼吸をしているんだって、もっと確認したい?」
 その言い方も表情も完全に皮肉っているのだが、その言葉はナポレオンの耳を打ち、心臓に響いてきた。彼はイリヤが頭の中で何を考えてるのか知りたいと、たった今口にした言葉に、幾許でも本心が含まれてはいないのか知りたいと思った。
 ナポレオンはライターに目を留めた。
「あててみようか――これは、ライターだ」
「ザブトン一枚」
 イリヤがそれをナポレオンの掌から取り上げ、何度かいじくった後に返した。
「これは銃だよ。ご覧の通り小型の銃だ。極小径の弾丸が二つしか装填出来ないけど、役には立つ」
 ナポレオンはイリヤを尊敬の眼差しで見た。
「いいね、気に入ったよ」
 彼は銃を手に取ると、構えてみた。イリヤは引き出しを掻き回して、弾丸を二つ取り出した。装填してみせると、彼はナポレオンを部屋の一角の、厚い詰め物が壁に立てかけてある場所に連れていった。
「弾丸を撃ち込むには距離を詰めておく必要がある」
 そして詰め物を指差した。
「撃って」
 ナポレオンは弾丸が壁を突き抜けて、偶然にもロバートに当たらないかという小さな望みをよそへ押しやり、彼の言葉通りに引き金を引いた。銃が僅かに反動で跳ね、その後調べてみると、弾丸は詰め物に食い込んではいたが貫通はしていなかった。
 接近する必要はあるが、こんな弾丸でも間合いさえ詰めて撃てば、相手の動きを封じておいて逃げ出したり、または他の仕事を済ませるのには十分だろう。
 ナポレオンはもう一度、今度は狙いを定めて引き金を引いた。満足し、仕掛けを元に戻す。それからライターの上蓋を開くとシュッと捻った。小さな火が点いて、彼はイリヤに笑いかけた。
「イリヤ、わが友よ、ますます冴えてるねえ!また君に夕食をおごらなきゃ」
 イリヤは引き出しを開けて、弾丸をもう二つ取り出した。
「これが最後の二つなんだ。もっと出来上がったら君のオフィスに届けさせる」
 ナポレオンは傷ついたような表情をしてみせた。
「届けさせるって?真夜中に僕のオフィスに忍び込んで、カゴの中にお菓子と一緒に置いといてくれるんじゃないの?がっかりしたなあ」
 イリヤが目をぱちくりさせ、首を振ってみせた。
「もう行けよ。僕はあんたに奢らせる店を考えとくんだから。おっそろしく値の張るところをさ」
 ナポレオンはやられたと思うよりなかった。
「僕にタバコの火を点けてくれと頼むんじゃないよ。指が滑っちまうかも」
 イリヤがクスっと笑った。
「もしあんたが指を滑らせたら、ロバートと奴の造る装置に逆戻りだ」
 ナポレオンは身震いした。
「ライターは家に置いとくことにしよう」
 そして時計を見た。
「じゃ行くよ。会議があるんだ」
 イリヤは分かったように頷くと、顕微鏡の所へ戻った。そのうちあれを覗いてみて、何がそんなにイリヤを惹きつけているのか見せてもらおうとナポレオンは思った。陽気に手を振ると、ナポレオンはラボを後にした。

 翌朝オフィスに来てみて、ナポレオンは大笑いした。デスクには、チョコレート・バーの上に並んだ弾丸が1ダース載っかっている。器用で小賢しいロシア人にお礼を言おうとラボへと下りていく途中、ウェイバリーが手招きして、彼は任務に就かされた。



 ナポレオンに必要なのは奇跡だった。
 敵は自分の居場所を知っており、出口を固めている。よしんば相手を一人一人片づけて行ったとしても、向うは次々にやってくる。遅かれ早かれ、恐らくは早いうちにこちらの弾丸切れで決着がついてしまうだろう。彼はウェイバリー氏の意見も一理あると思いはじめた。まさにこういう場合、パートナーがいればどんなに役立ったか。
 彼は時計をちらりと見て、小さな笑みを浮かべた。まだ定時連絡までには間があり、もしイリヤが自分の動きを追っていたとしても終いまで救出には来ないだろう。ナポレオンはイリヤに、この場所に来て欲しくはなかった。訓練を受けたエージェントでさえ危険な所だし、そして訓練を受けたエージェントは、往々にして殺されて終わるのだ。イリヤまでここで殺されるなど、ナポレオンは絶対に御免だった。
 危険を冒して素早く覗いてみると、弾丸が頭の上をヒュッと掠めて行った。
「チッ、」
 彼は周りを見回し、他に出口はないかと探した。窓から出ていくという手もあるが、体操選手でもなければ難しそうだし、手掛かりになるものがあったとしても誰かに掴まるより前に出て行くだけの時間はない。
 彼はもう一度通信を試みた。駄目だった。よりによってこんな時に、コミュニケーターは作動しなくなってしまったのだ。彼には信号が妨害されているのか、いまいましいこの道具が、この時を狙ったように壊れてしまったのか判らなかった。
 ナポレオンには二つの選択肢があった。ここに隠れたまま定時連絡を一回か二回やらずにいて、手後れにならないうちウェイバリーが応援を送ってくれるのを祈るか、ここを飛び出し、出口の一つに辿り着くまで相手を倒して行くか。
 彼はアヒルのようにじっと座り込んで殺されるのを待っているつもりはなかったので、実際に決めるのはそう難しい事ではなかった。慌てずに周りを見て、誰も背後を窺っていないのを確認する必要がある。彼は右を見て、左を見て、一番近い遮蔽物がどこにあるか探し、左手にある大きな木箱に決めた。
 気持ちを落ち着けるため彼は五つ数え、五で物陰から飛び出し、目的の場所へ駆け出しながら銃を撃った。弾丸がかすっていったのを感じ、焼け付く痛みが走るのに構わず身を低くして、木箱の陰へと転がり込んだ。
 五秒ほどかけて呼吸を整えると、再び身体を伏せ、こちらへ近づいてくる物音はしないか警戒を払う。感じたよりは軽い怪我であることを祈りながら腕に目を遣り、彼は顔をしかめた。軽いとは言えない。
 歯を食いしばりながら腕に触ってみて、怪我の程度を調べた。弾丸は骨に当たってはいないが、上腕の肉が抉れて十分に利かなくなっているし、出血もひどい。ナポレオンはネクタイを外すと、ぎこちなく上腕を縛って、とりあえずの止血帯にしようとした。顔を上げればまだスラッシュの構成員が、ネーム入りの弾丸をこめた銃を構えている気がする。
 ようやく固く縛り終えて、ナポレオンは今の状況を分析してみた。さっきは悪いというぐらいだったが、今や全くどうしようもないところまで来ている。自分のオッズはもう相当に下がってしまった。使える方の腕で身体を支えてみたが、痛みは和らがない。それでもナポレオンは抵抗を諦めてはいなかった。彼はただ、望むよりちょっとばかり早く動けなくなってしまうのが嫌だった。
 彼は次の隠れ場所を捜した。最初に飛び出したよりも更にクレイジーな行為だが、他に選択肢はない。それに出口にもっと近づける。勿論、それは出口を固めているスラッシュの構成員に近づく事を意味してもいるが。
 ナポレオンはまたイリヤの事を考えた。おかしなことに目の前に死がちらつくたびに、一貫して自分の心はイリヤのことを考え始めるのだ。イリヤへの思いはちぐはぐなものだった。彼に来て欲しいと思い、またここに居ないのを嬉しくも思う。イリヤにお別れを言う機会があればよかったのにと思い、同じぐらい次の日には、ラボに彼を探しに行こうと決心している。イリヤは寂しがってくれるかなと思いながら、もしあの変てこなロシア人にまた会えたら、絶対に力いっぱい抱きしめて、出来る事なら二度と離すまいと心に決める。
 ふとイリヤは本当に同性愛者(クィア)なのだろうかと考え、心臓が数回その考えにドキドキと脈打った。それは刺激的なドキドキだった。
 彼は叫び声と倒れる音を聞いた。それからもう一度。自分をおびき出すトリックではないかと危ぶみつつ、奇妙に思って彼は音のした方向を覗いてみた。そして見たものに目を見開いた。
 スラッシュが二人倒れている。今度は耳を澄まして聴いていると、消音装置のついた銃から発射されたようなヒュッという音がして、見ている間にスラッシュがもう二人床にのびた。弾丸が飛んできたと思われる背後を振り返ったが、そこには誰もいない。彼には目当ての物が何かもはっきりわからなかった。何故ならあの男達が何で倒されたにせよ、通常の弾丸ではないからだ。血が出ていないし、倒れるのが早すぎる。
「シィッ」
 ナポレオンは眉を顰めた。
「シッ、上だ」
 その声は囁くように微かで、やっと聞き取れるぐらいだった。ナポレオンは上を見上げ、口をぽかんと開けた。
 イリヤだった。ナポレオンは瞬きをしてからもう一度見た。やっぱりイリヤだ。信じられない気持ちで見ている間、イリヤは銃を構え、倒れた仲間の周りで馬鹿みたいに狼狽しているスラッシュの最後の三人を片づけた。
 そして銃を納めると、ジャングルのお猿さんのようにイリヤは梁から梁へと伝っていって、ナポレオンの前に飛び降りた。
「大丈夫か?」
 ナポレオンはまだ開いた口が塞がらなかった。彼は再び天井を見上げ、縦横に走る梁を見た。
「なんで……?どうやって……??」
 イリヤは背後を指差すと、それが毎日の事のように言った。
「窓から入ってきた」
 イリヤはナポレオンの表情を露骨に面白がってにんまりと笑い、それから銃を取り出した。
「新しい小道具だ。どんな役に立つかはもう分かったと思うけど」
 それから倒れた構成員を指差し、
「これは睡眠弾さ」
イリヤは銃口で腕時計をつついた。
「奴等はあと数分で目が覚める。行こう」
 ナポレオンは正気を取り戻し始めた。
「頭がどうかしてるんじゃないか、君は?こんな所で一体何をしてる?君は殺されてたかもしれないんだぞ。それに一体全体、どこであんな射撃を習った?」
「U.N.C.L.E.のサバイバル・スクールで」
 ナポレオンはもう一度口をあんぐり開けた。
「サバイバル・スクールを卒業したのか?」
「クラス主席でね」
 イリヤはナポレオンにニヤッと笑ってみせた。
「その間に君の記録を幾つか破っておいた」
「もしサバイバル・スクールを出たのなら……何で君は研究室に篭ってるんだい?何故エージェントにならない?」
「それはウェイバリー氏がエージェントじゃなく、科学者を欲しがっていて、僕はたまたまそのうちの一つになったからさ」
 彼は屈みこんでナポレオンの弾傷を近くで検めた。
「君はよくこんなことを続けていられたな、ナポレオン?君がこの数年どうにか生きてられたのが不思議なぐらいだ」
 ナポレオンは何か言い返そうかと思ったが、そこで自分に約束した事を思い出した。彼はイリヤをぐいっと近くに引き寄せ、いい方の腕を回して、イリヤが新しい催眠ピストルで撃ってこないことを祈りながら、このロシア人を抱き締めた。
 数瞬おいて、イリヤはようやく抱擁を返してくれた。好きなだけこうしていたいような、完全に満たされた気分だった。どのぐらい長い間だったか、彼はこうしてイリヤを腕に抱いていた。ナポレオンはロシア人の香りを吸い込んだ。きっとこの香りだけでも彼だと分かる。
 ナポレオンの手は知らず知らずにイリヤの背を撫で下ろしていて、イリヤがそのスリムな外見に関わらず、筋肉質としか言えない体つきであることを急に意識した。頼り甲斐のある――自分が頼ってもいいと思うような。手をそのままに、彼はイリヤの耳元に囁いた。
「いいかげんしつこいとは思うけど――でも、ありがとう」
 イリヤの両手はナポレオンの背中をすうっと下りていって、ナポレオンはほんの一瞬、それが臀部の方まで下りて行くのかと思ってしまった。手が上に昇り始めた時、彼はチラリとよぎった失望を抑え付けた。イリヤが囁きかえす。
「どういたしまして……」
 イリヤの吐息が耳を打ち、全身を渦巻く炎となって炙る。ナポレオンは、自分がとんでもない間違いを犯すより前に、腕の中にいる男が何を考えているのかこの場で教えてくれたら、そいつに千ドルだって払ってやると思った。溜め息をついて抱擁を解くと、青い二つの瞳が間近に覗けた。
 あとほんのちょっと顔を下げるだけで、イリヤに口接けできる。ナポレオンはその考えに取り付かれ、そして震え上がった。自分の優柔不断さに頭を抱えつつ、彼は突っ立ったまま、イリヤが行動を起こしてくれはしないかと願い、またそうしないことを神様に祈った。
 イリヤが舌を突き出して唇をチロリと舐めた。もう少しでナポレオンは腹の底から唸り声を上げ、その下の部分が反応しかけるところだった。
 その時物音がし、イリヤは後ろに下がって倒れているスラッシュ達に目をやった。一人が身じろぎし始めている。
「行こう」
 ナポレオンは首を振った。
「まだ探し物を見つけてないんだ」
 イリヤは口を尖らせてその男に近づくと、もう一度撃った。優しく言うならバラの植え込みに殺虫剤を撒いたように、彼は言った。
「もっと近づいて撃った場合、効果が強まったりしたら面白いんだが」
 それから屈んでみた。
「――死んではいないようだ」
 ナポレオンは眉を上げた。
「君にはちょっとばかり狂暴なところがあるねぇ」
 イリヤが肩を竦める。
「奴等は敵だもの。Да(だろ)?」
 ナポレオンはそれにはあまり賛成出来なかった。
「じゃ君は片方の目でこの眠り姫たちを見張って、もう片方で出口を見張っててくれ。それで僕は目的の荷物を探す」
 イリヤは頷くと、銃に装填しはじめた。ナポレオンはイリヤを観察しながら、片手で近くの木箱の蓋を開いた。
「その催眠弾は幾つ持ってきたの?」
「あと五発。そのあとは実弾を使わなきゃならない」
 彼は足元に転がっている身体を見て、顔を顰めた。
「今すぐこいつらを殺してしまえば、君の手伝いが出来るけど」
 まったくもって狂暴である。
「……こいつらを縛り上げちゃえばいいんじゃないかな」
 イリヤはホゥと柔らかい驚きの声を上げた。そういう穏便な方法は全く思いもよらなかったとでも言うように。彼はブーツからナイフを取り出すと、近くの木箱からロープを何本か切り取り、スラッシュの構成員たちに縄を掛けはじめた。
 ナポレオンはその手際の良さに感心しながら見学していた。研究室勤めの科学者が、ブーツにナイフを仕込んで歩き回っているという考えに自然とほくそ笑みながら。イリヤのような人間が世の中にいたとはとても信じられない。
 数分のち、イリヤがやってきて作業に加わった。
「何を探してるんだ?」
「武器だよ」
 ちいさく鼻を鳴らし、イリヤは倉庫の向こう側に行って辺りを探索しはじめた。仕事が終わる時分には、彼等は六人の怒っているスラッシュと、まだ眠り込んでいる七人目に囲まれて笑みを交わした。そして小銃からロケットランチャーに至るまでの武器の入った木箱を十五個発見した。
 ナポレオンはもう一度コミュニケーターを試しながら、今はイリヤがいるから作動するのではないかと思った。そしてそうなった。彼は眉を顰めながら、縛り上げたスラッシュ構成員達の連行と武器の押収のため応援を要請した。
 彼はコミュニケーターの箱をイリヤに突き出した。
「こいつはほんの数分前まで動かなかったんだよ」
 イリヤが頷いた。
「分かってる。外から君の通信を妨害してた奴がいたんだ」
「ああそう。で、それは君が片づけたんだろうな?」
「うん。そういえば奴が使っていた装置をよく調べてみようと思ったんだった」
 そうしてイリヤはドアを開き、外へと出ていった。ナポレオンは首を振り、閉まるドアを背にしながらくすくす笑った。


 その夜ナポレオンは医務室で過ごした。手術が終わった後、イリヤがベッドの横に立っているのが見えたような気がしたが、麻酔が効きすぎていて身動き出来なかった。
 目を醒ましてみると、腕はぐるぐる巻きになっていたが自分が生きているのは分かった。彼はくれぐれも無茶はしないようにとのきついお達しを、本当は気に食わなさそうな顔つきと共に受けつつ、職務に復帰することを許された。デスクに書類の山が出来ているのをナポレオンはうんざりと見上げた。これはパートナーを持つべきもうひとつの理由だ。彼か彼女かにこの半分を押し付けることが出来る。多分それ以上にも。
 ナポレオンはあくびをし、まずコーヒーブレークを取ろうと考えた。廊下ではあちこちで騒ぎが起きているらしい。カフェテリアへ向かう道すがら、ナポレオンはしきりと交わされている会話を途中から聞き取った。
「信じられるか?ここの皆の鼻先で起こるなんて」
「一体どうやって入り込んだんだろう?」
 馬鹿にするように鼻を鳴らし、
「我々のセキュリティも自慢にはならないな」
「被害はどうなんだ」
「ああ、それが何もかもメチャクチャだそうだ」
「何だってこんなことになったのかな」
「そりゃあ――奴がロシア人だからさ。そう思わないか?大体俺は……」
 後に何を言っていようがそれ以上聞いていられず、ナポレオンはラボへと走っていった。激しい動悸と共にドアから駆け込むと、イリヤがそこに立っていて、どうやら無事らしいのが目に入った。そこで彼は走り出してから初めて、本当に息をついた。
 それから友人の沈鬱な表情に気がついて、辺りをよく見回した。彼のラボがめちゃめちゃに壊されている。割れたガラスがそこらじゅうに散らばっていて、実はその幾つかを踏みつけていたのだが、イリヤのことを心配するあまり気がついていなかった。
 足元に気をつけながら、ナポレオンはロシア人の所へ歩いていった。
「大丈夫か?」
 イリヤを上から下まで眺めてみて、無傷であることを確認した。イリヤがぎこちなく頷いた。
「いつ起きたのかは分ってるの?」
 イリヤは虚脱したような表情で、顕微鏡の残骸をいじり回していた。
「昨夜の最終チェックの後で、今朝の早いうちだろう。僕が入ってきたらこうなっていた」
「どうして僕を呼ばなかったんだ」
 イリヤは悩ましげな笑みを浮かべた。
「この前僕が見に行った時、君は医務室でぐったりしてたし」
 そして彼独特の目付きでナポレオンを検分した。
「具合は良さそうだ」
「僕は元気さ」
 ナポレオンはもう一度ラボを見回した。カウンターの上には何もなく、全て床に叩き落とされ、割れなかったものはグシャグシャに踏みにじられている。ガラスの破片や金属の欠片に混じって、大量の紙切れ。これはみなレポートや書き付けの類に違いない。わざわざこんなことをするような人間がいるなど、ナポレオンには想像もつかなかった。
 見れば見るほどに怒りは募ってくる。これは相手を選ばない暴力ではなく、目的を持って、真っ直ぐにイリヤを狙ってやられたものだ。何者かが、彼のラボになにひとつ残すまいとしたのだ。ナポレオンは壁に覆いがしてあるのに気がつき、目で問い掛けながら指を差した。イリヤが了解のしるしに、小さく首を縦に振った。
 ナポレオンはラボを横切ると、覆いを外してみた。大きな文字が黒のスプレーで吹き付けられている――『出て行け』。
 ナポレオンは犯人を殺してやりたい気持ちになった。
「イリヤ……」
 何と言っていいか全く分からなくなって、彼はそこで言葉を切った。上の階ではああ噂されていたが、これは内部の人間がやったことに違いない。こんな所まで入り込める者がいるわけがない。
 自国の人間が(男か女かは知らないが)気に食わないからという理由でこんなことをしたのだ。ナポレオンは羞恥で全身が茹るような気持ちだった。彼の意気消沈ぶりはその目付きにも現れていたに違いなく、イリヤが肩をぽんと叩いてきた。
「大丈夫だよ、ナポレオン」
「いいや。大丈夫なもんか」
 彼の見ている前で、イリヤは顕微鏡の破片を拾い上げ始めた。ナポレオンは屈みこんでそれを手伝った。割れた凸面鏡を手に取って、イリヤは瞳に哀しげな色を浮かべた。ナポレオンは喉につかえていたものを飲み下した。
「全然大丈夫なんかじゃない。僕がどんなに申し訳ない気持ちでいるか言葉にも出せないぐらいだよ」
 イリヤが鏡を床に落した。
「使えそうなものは何もない……素直に清掃係を呼んで、全部片づけてもらった方が良さそうだ」
 破壊の跡を見渡しながら彼は立ち上った。
「廊下のモニターに誰か映っていなかった?」
「モニターは止められていた」
 ナポレオンは顔をしかめた。
「誰がやったのか全然分からないっていうのか?」
 イリヤがナポレオンをちらりと見た。
「僕ら二人とも、誰の仕業かは分っているだろ、ナポレオン」
「奴を調べたかい?」
「アリバイがあった」
「畜生!」
 あの野郎の首根っこを捩じ上げてやりたいとナポレオンは思った。
「本当に全部駄目にされたのか?」
 イリヤの顔にちらっと笑みがよぎり、彼は首を振った。
「全部じゃあない」
 鍵束を取り出すと、魔法の引き出しの錠を開けた。
「ここには手をつけていかなかった」
 爆弾付きカフリンクやその他もろもろの道具を目にして、ナポレオンは思わずにやりとした。これは自分たちの魔法の引き出しであり、それが無傷で残ったのだ。
「他には?」
 イリヤはブリーフケースを突ついてみせた。
「さいわい奴が僕のラボにいるのを何度か見てからは、夜間はロックの出来ないファイルを大方持ち出すようにしてるんだ」
 ナポレオンは目を見開いた。
「イリヤ、そういうものをこの建物から持ち出すのは禁止されているよ」
 今度こそイリヤは本心からの笑みを浮かべた。
「してないさ。君のオフィスに置いてたんだもの」
 ナポレオンは一瞬情けなそうに笑ったが、気にしていない風に作り変えた。
「おいで。一杯おごったげるから」
 イリヤが時計を見遣った。
「まだ朝の十時にもなってないけど」
「そりゃあいい。そしたら僕はもっと沢山おごってやれるもの。僕は負傷休暇を取ってもいい状態だし、ウェイバリー氏だってラボの片づけが済むまでは、君に仕事させようとは思わないだろ」
 イリヤは数秒考え込んでいたが、やがてコクリと頷いた。
「一杯飲むぐらいは良さそうだ」
「よし。引き出しに鍵をかけ直して、カバンを持って、さぁ行こうか」

 男二人で廊下を一緒に歩きながら、ナポレオンはちょっと話をしておきたい相手を見つけた。彼はイリヤの腕に手をやって立ち止まらせた。
「ここで待ってて。すぐ戻るよ」
 イリヤは溜め息をついたが、立ち止まって壁に寄りかかった。ナポレオンはサリーのところへ歩いて行った。サリーは補給総合部門の責任者の一人であり、彼女がイリヤの気を惹こうとしているのを目にしたことがある。
「――君、聞いたかい?」
 サリーは眉をひそめて頷いた。
「ええ。ほんとにひどい話だと思うわ!」
「彼の備品は全部新しく揃えなきゃいけない」
「あの人に必要な物は何でも手に入るようにするわ。ナポレオン、それは安心して」
「あぁ!それにサリー、新しい顕微鏡が必要なんだ。彼が何を使っていたか調べて、もっといいものを注文して貰えるよね?彼がここにいることを歓迎している人間がいるって、はっきり分かってもらいたいのさ」
 サリーは寄りかかって、ナポレオンの頬にキスをした。
「全部とびきりの品を揃えておくわね。約束してもいい」
「君が頼りになるのはわかってたよ」
 サリーの手をぎゅっと握ると、ナポレオンはイリヤの所へ戻っていった。
「いいかい?」
 イリヤがじろりと睨み付けてきた。
「念のために言っておくと、待たされてたのは君じゃなくて僕の方なんだが」
 ナポレオンも相手を睨み返しながら愛想いっぱいに微笑んだ。だがそれは功を為さず、しかめっ面が返ってきただけだった。
「今夜のデート相手の確保かい?」
 ナポレオンはもう一度にっこりした。そしてイリヤの質問は、ヤキモチから出てきたものならどんなにいいだろうと思った。
「必要ないね」
 彼はイリヤの顎の下をつうっと撫でた。
「僕には君がいるんだもの」
 イリヤの瞳の中に何かがちらりとよぎったが、それが何なのかナポレオンが理解できるより早くに消えてしまった。それでも笑顔を全力でひっこめたかのように、イリヤの唇の端がきゅっと上がったのは判った。
 ナポレオンにはそれで十分だった。彼は大げさな身振りでイリヤに合図すると、また歩き出し始めた。

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