THE BETTER GADGET AFFAIR--04

ACT-1 ACT-2 ACT-3

 イリヤはラボに残しておいた書類をつらつらと見た。彼とナポレオンは長いこと話し合い、罠にはどんな餌を撒けばいいかを決めた。それは新しい装置、新型の通信機だった。イリヤはU.N.C.L.E.で使われている箱型のものが気に入らなかった。それは隠すのには角張りすぎているし、壊れやすくもあった。このデザインは没になった試作品のものだが、一見いいものに見えた。優れたスパイ組織たるもの、常に優れた通信手段を求めているものだ。ナポレオンもイリヤも、ロバートがこれに惹かれないわけはないと考えた。そして勿論、ロバートにはこの設計の通り仕上げても無価値だとは思いもつくまい。
 イリヤは唇の端を上げて小さく笑った。罠が効果を発揮したらしい。他の者には分からないだろうが、イリヤには紙の位置がほんの少し変っているのに気がついた。写真で見れば疑いようはあるまい。
 イリヤは壁の上の方に取り付けたカメラを見上げた。確かめるまでもなく、これでロバートに引導を渡すことになる。後はこの設計がロシアに渡り、自分たちに必要な動かぬ証拠を掴むだけだ。
 書類を元の場所に置くと、イリヤは時間を確かめた。ナポレオンと昼食を取る事になっている時間まであと数分。彼はカメラを仕込んである壁に近づくと、注意深くカメラを外した。後ろの部分からフィルムを取り出してポケットに滑り込ませる。またロバートが覗きに来ていないことを確認してから、カメラを元の位置に戻した。
 イリヤは部屋から出たがエレベーターは使わなかった。彼にとってこの世に、狭い空間で他人と閉じ込められ世間話を振られたりするより嫌なことはいくつもない。階段は不便な場所にあり、誰かと出っくわすことは殆どなく、その上みすぼらしかった。めったに使われない場所なので、経費をかけて見栄えよくもされていない。階段は粗いコンクリート製で照明も乏しかった。
 イリヤは階段に通じるドアを開くと最初の一歩を踏み出した。目が馴れるより早く、背中を両手で突き飛ばされた。バランスを失い、必死で掴もうとした手摺にも手が届かず、イリヤはコンクリートの階段を転げ落ちた。


 ナポレオンはカフェテリアでカップにコーヒーを注ぎながら、口元が緩んでくるのを止められずにいた。この二週間というものの、彼はずっとにやにやしっぱなしだった。イリヤが自分の恋人になって以来ずっとこうなのだ。周りから変な目で見られて初めて、にやにやしている自分に気がつくしまつだった。
 イリヤほどに自分にぴったりくる恋人は今までいなかった。二人は競い合うような恋人同士だった。体力を、知恵を、スタミナを、そして愛情を競い合っていた。そしてイリヤは自分の仕事を理解してくれている。彼は自分の怪我や、縄で縛られた跡や、嫌な目に会ってきたことを分かってくれる。いや、分かってくれる以上なのだ。
 イリヤは独特の勘で任務がどうなったかを察知して、ナポレオンの部屋であるときはシャンパンのボトルとベッドの用意をして待ち、あるときはスコッチのボトルと、支えてくれる肩を差し出してくれるのだ。そして任務が巧くいかなかった場合には、次の日にイリヤはラボに篭って、次にナポレオンが同じような事態に陥ったときに役立てるような装置を用意してくれる。
 ナポレオンは彼がしてくれることに報いたいと思っていた。イリヤの絶え間ない助けがあってこそ、自分は次から次へと助かっているようなものだ。でも彼はそんなふうに考えてはいないだろう。あのロシア人が頭を働かせれば、道は自ずから開けてゆくのだ。彼はよくナポレオンに、自分たちの関係は自分の生きがいなのだと言う。
 今までこれほど素晴らしいことを言ってくれる者がいただろうか。自分がイリヤの人生に意味を与えているという思いはナポレオンの心を浮き立たせた。彼がそんな賛美を口にしたこと自体がナポレオンには驚きだった。
 イリヤは滅多なことではお愛想を言ったりしない。そういう彼にナポレオンは感謝こそすれ少しも気にしてはいなかった。イリヤのそのつっけんどんな性格が彼を孤立させ、自分は他人を出し抜いて彼を見出すことができた。
 そして今彼は自分のものなのだ。彼を手放すなどもう考えられない。この先もずっと、いつまでも。
 ナポレオンはほうと幸せな吐息をつきながら、浮かんでくる笑みをこらえようと壁時計を見上げ、眉を寄せた。イリヤが遅れている。遅れてくることなどなかったのに。彼は体内時計のようなものを持っていて、どこかへ行かなければならない時になればすぐ気がつくのだ。
 不安な気持ちが立ち上ってくるのをナポレオンは感じた。彼は不安を振り払おうと、イリヤは研究室にいるのであって、本部の中にいるのなら何も起こりようがないと考えようとした。しかし嫌な気分は治まらなかった。
 数分たって、ナポレオンはこれ以上我慢できなくなった。彼はランチスペースを出ると、エレベーターへ向かった。リフトが来るのを待っていると、ふと廊下の突き当たりの、階段のある方へと視線が吸い寄せられた。イリヤがいつも階段を使っていることを思い出して、ナポレオンは同じようにすることにした。その方が夜中に進む二隻の船のようにすれ違ってしまうより、恋人に出くわす確率は高いと思えたのだ。
 イリヤが下りてくるのが見えないだろうかと彼は階段の吹き抜けを見上げた。静まり返った中、ナポレオンは眉を寄せた。何か嫌な雰囲気が漂っている。不安で一杯になり、心臓をドクドク言わせながら彼は階段を上がった。二階上でイリヤを見つけた時、心臓が一瞬止まったような気がした。彼が死んでいると思ったのだ。
 そこでイリヤの胸が上下していることに気がつき、ナポレオンは無意識に抑えていた呼吸を吐き出した。彼はイリヤの傍へ駆け寄ると、しゃがんで負傷の具合を確かめようとした。
「イリヤ?」
 イリヤが応えて短い呻きを漏らし、瞼を開こうとしたのでナポレオンはほっとした。少しして目を開けられるようになると、青い瞳がナポレオンを見上げてきた。
「あいたぁ……」
 ナポレオンはぷっと吹き出した。
「そりゃアイタタだろうさ。どのぐらい痛い?話は出来そう?」
 それから目を細めて辺りを見回した。
「何があった?」
 イリヤが単に足を滑らせて落っこちる筈がない。イリヤは彼の疑念に答えて言った。
「誰かが、僕が下に降りるのを手伝ってくれた。体当たりで」
 よろめきながらイリヤはその場に座り込んだ。ナポレオンは彼を支え、同時に胴回りやわき腹に手をやって骨が折れていないかどうか調べた。
「相手の姿は見えたかい?」
 その時イリヤの横顔が擦り剥けているのが目に入った。少しすれば派手な傷になってしまうだろう。ナポレオンはこみ上げる怒りを飲み込んだ。イリヤは首を振って、そのあとまたうめき声を上げ、うっかり首を動かさないようにとしてか両手で頭を抱えこんた。彼はゆっくりと言った。
「いいや」
 それはどうでもいいことだ。ロバートの仕業だというのは分かっている。相手ははっきりと危害を加える手段に出てきたのだ。
「あまり痛むなら医務室に行った方がいいよ。頼むから正直なところを言ってくれ。頭を診てもらわなきゃいけないんじゃないか」
 イリヤは苦痛に眉をぎゅっと寄せ、小さく呻いただけだった。イリヤが否定の言葉を口に出さないだけで、ナポレオンは十分に気がかりになった。
「行って助けを呼んでこようか、それとも少し僕に寄りかかっていれば大丈夫そうかい?」
 イリヤがまだ返事をしないので、ナポレオンは彼を横にならせようとした。
「助けを呼んでくるよ」
 それがイリヤを正気づかせたらしい。彼はナポレオンの腕を捕まえて引き止めた。
「いけない」
 イリヤは息をつき、ナポレオンを斜めに見上げた。
「君のオフィスにアスピリンはある?」
 ナポレオンは苛立たしげにうなった。
「イリヤ、アスピリンが効くとは思えないよ。君は意識を失っていたんだろうし、僕には……」
 イリヤはナポレオンの唇を指二本で押さえた。
「とにかく君のオフィスに連れてってくれ。ロバートに上手くやったと思わせたくないんだ」
 それからイリヤはくすりと笑った。
「だけど僕が生きてることを考えれば、これも奴のいつものしくじりってことになるよな」
 ナポレオンは面白がる気持ちになれなかった。イリヤがこの階段で死んでいたらと考えるだけで背筋がぞっとする。彼はその痛ましい想像から逃れようと、イリヤの身体の強靭さや温もりを求めて両腕を回して抱きしめた。
「う、」
「あぁ、ごめん、」
 ナポレオンはイリヤから手を離した。
「御免よ、その、ちょっと……」
 イリヤはもう一度指で言葉を遮った。
「わかってる」
 彼は目を閉じ、ナポレオンの胸に額を押し付けた。
「大丈夫さ。アスピリンと氷が少しあればいい。少し休んでいれば、頭がふらふらするのも納まるだろう」
 反対したいのは山々だが、ロバートをいい気にさせるようなことは一切したくないというイリヤの考えも十二分にわかる。
「じゃあ上に行くとして、君は歩いて行かなくちゃならないよ。出来るのかい?」
 ナポレオンはイリヤが頷き、表情をぐっとひきしめるのを目にした。動かしていいという合図だと思い、ナポレオンはイリヤが自分の身体を支えに立ち上がれるようにした。数分かけて、ようやくイリヤは立ち上がった。
 ナポレオンはこのロシア人が気を失うのではないかと気が気でなかった。痛むのは主に右側なのははっきりしていたので、ナポレオンは彼の左側に移動し、傍に寄り添った。
「本当に歩けそうなの?」
 イリヤは顔をしかめて笑った。
「今回はエレベーターを使うつもりはしてる」
 ナポレオンはイリヤの辛口のユーモアにくすっと笑った。
賢明だね、ロシア人(スマート・ルシアン)
 イリヤを壁に寄りかからせ、ナポレオンは通路に出る扉を開けてすばやく辺りを見た。比較的人通りがない。彼はイリヤの所に戻ると、彼を支えながら通路に出て、エレベーターに向かった。
 ナポレオンが幾らも行かないうち、イリヤははっと目を見開いてポケットを探った。顔中に安心の笑みを浮かべ、彼は小さなフィルムを1本取り出した。
「ロバートさ」
 ナポレオンはしてやったりの笑みを浮かべた。
「これであいつもおしまいだ」
 そう毒づくと、ナポレオンは意識をイリヤの様子に戻した。イリヤをカウチに落ち着けると、ナポレオンは約束のアスピリンを与えた。必要な氷は、廊下の突き当たりの休憩室の冷蔵庫にあり、自由に使えるようになっていた。
 彼が目を離していた数分の間に、イリヤは眠り込んでしまったようだった。そうしてやりたいところではあるが、寝ているのでなく意識を失ってしまったとすればどうすればいいか分からない。彼にはもう少し起きていてもらわねばならなかった。
 ナポレオンはカウチに歩み寄ると、イリヤの傍にしゃがみこんだ。
「おーい眠り姫さま、本当に寝ちゃったの?」
 イリヤが呻いた。
「あんたがそうガタガタやかましくしなければ」
 ナポレオンは目を丸くしたが、それでもほっとした。
「どこに氷を当てたらいいのか調べなきゃいけないんだ。服を脱いでみてよ」
「ナポレオン、もし僕を裸にしたいんなら、そんなヤボなやりかたしなくたっていいのに」
「あっはっはぁ――真面目に言ってるんだぞ。脱ぐの」
 ナポレオンは自分で服を脱がせ始めた。本当にイリヤを医務室に連れて行かなくてよいものか、彼には自信が持てなかった。イリヤのシャツとパンツを足元に落としてみると、腰には大きな打ち身の跡があり、上腕全体から肩にかけても同じように負傷していた。
 イリヤは横向きになって階段を上から下まで滑り落ちたものらしい。ナポレオンは氷の入った容器をちらりと見て、果たしてこれで足りるだろうかと考えた。ため息をつき、彼は休憩室から借りてきたタオルを使って冷シップに取り掛かった。イリヤを左を下に寝かせ、出来る限り右側全体を冷やすようにすると、それからイリヤをソファカバーで覆った。
 彼はカウチの横にしゃがむと、イリヤの鼻の先にキスをした。
「すぐ君を連れて帰れたらいいんだけど、まだ少し仕事が残ってるんだ。もし君がここにいると言い張るんなら、一時間ごとに君に起きてもらわなきゃいけないからね、分かった?」
「わかった」
「愛してるよ」
 イリヤは小さく笑うと、目を閉じた。


 ナポレオンは腕時計をちらりと見た。もうすぐ終業時間だ。彼は眠っている恋人のほうを見やり、カウチの横へ歩いていった。傷ついていないほうの頬を撫でながら、ロバートへの新たな怒りがこみ上げてくるのを感じる。
「帰る時間だよ、イリヤ」
 イリヤがうめき声を上げた。ナポレオンはもう一度アスピリンのボトルを差し出した。
「さあ、もう少しアスピリンを飲んで。そしたらここを出るから」
 そういうと相手は長くあわれっぽい吐息をついた。それからイリヤはゆっくり目を開け、こちらを盗み見た。
「もう動きたくない……」
 ナポレオンは笑った。
「文句屋さん、とにかく一緒に帰ろう。そして明日は病欠の連絡を入れて、一日中気が済むまでぐずぐず言ってればいいよ」
「あんたのペントハウスで?」
「当然だろう」
 イリヤは手を延ばしてアスピリンを受け取り、口の中に放り込むと、水を含んで飲み込めるよう上体を起こした。
「天職を誤ったな、ナポレオン。あんたは看護婦さんになるべきだったのに」
「そして毎日制服を着るのかい?止めてくれ、夜中にうなされそうだよ」
 そこでイリヤはにっと笑った。ナポレオンの手を借りて、イリヤは完全に立ち上がった。
「残念だけど明日はぐずぐず言っちゃいられない。仕事が待ってるんだ。ロバートがこちらの罠に喰いついたことは悟られないようにして、奴が誰と連絡を取るか気をつけていないと」
 ナポレオンは酷薄な笑みを浮かべた。
「いいね。奴の尻尾をつかんで尋問室に引っ張っていくのが楽しみだよ」
 イリヤは賛成の印に何か言った。

 ナポレオンのコミュニケーターが鳴り出した。彼は内側のポケットから機械を取り出し、イリヤが顔を顰めたのに気がついてにやりとした。イリヤは今のコミュニケーターを気に入っておらず、さりとて目下のところ新型の設計も完成できないでいるのに苛ついているのだ。
「こちらソロ」
 ウェイバリー氏の声がはっきりと大きく響いた。
「ああソロ君。君に用があるのだ。スーツケースの準備が出来ているといいんだが」
 ナポレオンは落ちつかなげにイリヤを見やった。
「どこへ向かうんでしょうか?」
 彼はどこにも行きたくなかった。怪我をしたイリヤを置いて、彼の命を狙いはじめているロバートを置いて。
「カナダだ。君に手に入れてもらいたい物がある」
 ナポレオンが口を開いて何か言い返そうとする刹那、イリヤが首を振り、口の動きだけで『行け』と言った。ナポレオンは唇を噛み、囁いた。
「君を放って行きたくない」
 イリヤが囁き返した。
「もしあんたがウェイバリー氏にそう言ったら、僕は医務室送りになるだけだ」
「そうだけど……そんならいっそ医務室に居たほうがいいんじゃないか」
「ソロ君、聞いているのかね」
 ナポレオンはイリヤをぐっと睨んだが、イリヤも睨み返してきた。
「聞いております。で、何時に出発すればよろしいでしょう?」
「今夜だ。君の乗る便は九十分後に出発する。切符は全てミス・カーライルが準備してくれている」
 九十分。イリヤを家まで送るだけの時間はありそうにない。
「ソロ君?」
 ウェイバリー氏の口調が次第に険しくなってゆく。
「イエス、サー。すぐ出発します」
「ふん、ではそうしてもらおう」
 ナポレオンは溜息をつき、コミュニケーターをポケットに戻した。
「イリヤ、君は帰れるような状態じゃない。もしロバートに後をつけられていたら?君が一人きりだと分かれば、奴はどんな……」
 イリヤはきつい目つきで睨んできた。
「僕は過去にもっとひどい怪我をしたけど、自分ひとりでやってきた。自分の面倒ぐらい自分で見られる」
「じゃあ、どうして君は午後中ずっと僕のオフィスにいたの」
 イリヤは無傷な方の腕を持ち上げ、ナポレオンの頬を柔らかく撫でた。
「――それは君がいたから。君が面倒をみてくれると分かっていたから」
 ナポレオンは友人への愛情がどっと押し寄せてくるのを感じた。
「面倒みるともさ。だから僕は君を置いて行きたくないんだ」
「慎重に行動するよ、ナポレオン」
 同時に彼は唇の端を上げた。
「それに、必ずエレベーターを使うと約束する」
 それでもナポレオンの気分は和まなかった。
「ほんとうに気をつけてくれ。君がいないと、僕は――…」
 最後まで言うより先に、ナポレオンは恋人に腕を回してそうっと抱きしめた。
「僕が戻るまでここにいてくれ。頼むよ」
「きっとそうする」
 イリヤの良いほうの腕が持ち上がり、応えるように身体に回された。しばらくそうして抱き合ってから、ナポレオンは身体を引いた。
「運転は出来る?それともタクシーを呼んだほうが良さそうかい」
「タクシーにする」
「ならタクシーを呼んであげる。僕の家の方が安全だからそこにいて。それで僕が戻ってくるのを待っていてくれよ」
「ぐずぐず言いながら?」
 ナポレオンはふふっと笑った。
「そう。ぶつぶつぐずぐず言いながら。君はそういうだらーっとした所があるよね」
 イリヤがようやく歩き始めると、ナポレオンは手を差し出した。
「あんたはもう行かなきゃ」
「分かってる。でもまず君がキャブに乗るのを確かめたいんだ」
「はいはい、おかーさん」
「僕の好きにさせてくれよ。いいね?」
 ナポレオンはイリヤを独りきりにさせておくのが気掛かりでしかたなかった。ロバートがイリヤを襲ったのは、一瞬の好機を狙った衝動的なものかもしれないが、ナポレオンにはそうは考えられなかった。
「僕はチケットを取りに行くから、そうしたらここを出よう。どのみち僕も空港までキャブを使うんだし」
 イリヤが頷いた。
「行ってきな。その間に僕は身体を伸ばしておく」
 ナポレオンはイリヤが倒れて鼻をぶつけないと確信してから出て行くことにした。彼がちゃんと二本の足で立っているのを見て、ナポレオンは部屋を出てミス・カーライルの所へ向かった。

 ナポレオンは頭の中にイリヤを住まわせていた。それは間違いのないことだ、というよりもそうするしかなかったのだ。イリヤが作った暗視双眼鏡を使って目標を捕らえながら、イリヤの具合はどうだろうかと思う。イリヤが作った小型の起爆装置を使ってドアを吹き飛ばしながら、イリヤは鎮痛剤を飲むのを忘れていないだろうかと思う。イリヤが作ったピッキングでオフィスに忍び込みながら、ロバートはどうするつもりかと考える。イリヤが作ったカメラで、ウェイバリー氏から命じられた書類の写真を撮りながら、今日イリヤがどれだけすんでの所で殺されていたかを思って奥歯をかみ締め、恐怖を飲み下す。
 彼はイリヤのくれた時計で時間を確かめた。これではきりがない。気が散るどころの騒ぎではない。足音が聞こえてきて、彼は自分に誓いを立てた。気をしっかり持って回りに注意を払わなければ、自分はTHRUSHの拘置所の中か、地面から六フィート下の墓穴でイリヤのことを考えて呻吟することになってしまう。
 彼は素早く戸口に走って、錠が下りているのを確かめた。そしてドアの脇に立つと、足音の主は単に戸締りの確認に来た守衛であることを祈った。
 ドアノブががちゃがちゃ鳴って、足音はその先へと遠ざかって行った。ナポレオンは息をついた。イリヤの作った装置はまだまだあるが、とにかくさっさと新人のような真似は止めて、使えるものは使わなくては。
 任務に集中し、ナポレオンは足音が完全に聞こえなくなるまで待つと、ドアをそろりと引き開けた。辺りはすっかり静まり返っているようで、彼はドアから顔を覗かせ、がらんとした通路に視線を配った。内心でほくそ笑みながら、彼は入ってきたのと同じ所から出て行った。

 帰りの便は明日までなく、ナポレオンはホテルに入った。もう遅い時間――相当に遅い時間なのだが、ナポレオンは受話器を取り上げ自分のアパートに電話をかけた。
 十五回目のベルでようやく応答があった。
「なんだ?」
 電話越しに不機嫌そうな声が聞こえてきた。ナポレオンは一安心し、にやっと笑った。
「僕だよ」
「ねてるよ……」
「君はいつも寝ながら話せるの」
「うううん……」
 電話の向こうのイリヤはますますボーっとしてきたらしい。ナポレオンはこっそりと笑った。
「君が大丈夫だと分かりさえすれば、また眠らせてあげるから」
「だいじょぶ……あんたがいたら、いいんだけど」
 それはナポレオンも同じだった。
「僕もさ。明日の一番早い便に乗っても午後遅くにならないと戻れないし、最初に本部に行って報告をしなくちゃいけない。運がよければ夕食の時間までに帰れると思う」
「んん、わかった……あいしてるよ〜」
 ナポレオンはこの、眠たさのあまり隙だらけになったイリヤもいいじゃないかと思った。このロシア人はいろいろなやり方で愛情を示してくれてはいるが、言葉に出して言うことは滅多とないのだ。
「僕も愛してる。じゃあ今度こそお休み」
「んー、おやすみぃ……」
 ナポレオンはイリヤが受話器を置くのを待ったが、代わりに穏やかな寝息が聞こえてきて、イリヤが受話器を持ったまま眠ってしまったのが判った。ナポレオンはイリヤが、今出来る限りナポレオンを近くに感じようとして、受話器を胸に抱えている姿を思い描いた。そこでナポレオンは柔らかな微笑を浮かべた。
「イリヤ、いい夢を」
 彼は受話器を置くと、服を脱いでベッドにもぐりこんだ。


 ナポレオンがラガーディア空港でキャブを待っていると、コミュニケーターが鳴り出した。
「こちら、ソロ」
 ウェイバリー氏からだった。
「ミスタ・ソロ。帰路についているところかね……?」
「はい、サー。飛行機から降りたところで、これから戻ります」
 ウェイバリー氏の語尾には空白があって、何かがナポレオンの胸を騒がせた。
「サー?」
「ミスタ・クリヤキンから連絡はあったかね」
「彼とは昨夜と今朝にも話をしましたが、何か?」
 ただならぬものを感じて、ナポレオンは次に来たキャブに乗り込み本部へと行き先を告げた。
「ふむ。彼とは今日の午後一番に会うことになっていたのだが現れず、所在の連絡もして来ないのだ。彼が仕事を途中で放棄するのは通常ありえないことだし、電話や通信機にも応答がない」
「えー……イリヤは昨夜僕のアパートにいました。恐らくそこに居るのではないかと」
 ナポレオンは運転手の肩を叩き、行き先を自分のペントハウスの方向へ変えさせた。またしばらく間が空く。
「――何故彼が君のところに泊まることになったのか知りたいところだな。それも君がおらん間に」
 どう応対したものかナポレオンは戸惑ってしまった。彼が返す言葉を見つけるより前に、再びウェイバリー氏が言った。
「それに彼が自宅の電話に出ない説明にはなっても、コミュニケーターに応答しない理由にはならん」
 ナポレオンは、これから言うことにイリヤが気を悪くしないことを祈りつつ、覚悟を決めて言った。
「彼は昨日負傷したんです。何者かに階段から突き落とされました」
「ここでかね?本部の中で?」
 ウェイバリーが驚きの声を上げた。
「はい。我々はどちらもロバートの仕業だと確信しています。イリヤは、そのう、しばらく意識不明になっていました」
「どうして彼を医務室に連れて行かんのだ」
 老人の声には非難の響きがあった。
「そうすべきだったのですが、イリヤが反対したんです。ロバートに自分が負傷したことを知られたくないと言って。彼は午後一杯僕のオフィスにいて、それから僕のところへ連れて行きました。万一ロバートがまた危害を加えに来たとしても、イリヤのアパートよりセキュリティがしっかりしていますから」
「どの程度の負傷なのだね。それでコミュニケーターにも応答できないということなのか?」
「とは思えません。僕が午前二時ごろ電話をしたときには、彼は起きて電話に出ました。それに午前九時半に電話をした時は、彼はもう目を覚ましていました。完全に仕事に出かける気でしたよ」
 また間が空いた。これはウェイバリー氏が、なにゆえ自分がイリヤに朝の二時に電話をかけたのか奇妙に思われているということなのだろうか。ナポレオンは言い訳をすることにした。
「僕が電話したのは、彼が『元気に起き上がれる』かどうか、確かめようと思ったからでして」
 ナポレオンはウェイバリーに、自分の顔がビートのように真っ赤になったのを見られなくて良かったと思った。まずい言葉を使ってしまった。
「それと、昨夜の早い時間にも電話しましたし――」
「ふーむ、まあよろしい。君は自宅に行って、彼がいるかどうか確認するように」
「もうすぐ着くところです、サー。到着して状況が分かりましたらお知らせします」
 窓の外に自分のアパートの外観が見えてきた。あと数ブロック先だ。
「いいだろう」
 ウェイバリーが通信を切るカチリという音がした。彼はもう一度ビルを見上げ、イリヤが単にぐっすり眠り込んでしまっているだけでありますようにと懸命に祈った。しかし背筋を冷たいものが走るのを感じ、振り払うことは出来なかった。運転手にスピードを上げるよう急かすと、ナポレオンは席にもたれ、唇を噛んで一秒一秒を過ごした。
ようやく到着した。ナポレオンは運転手に幾らか金を投げ渡し、バッグを抱えてビルへと駆け出した。

 警備員が手を振ってきた。
「こんばんは、ミスタ・ソロ」
「今晩はスコッティ、誰か来てないか?」
 ナポレオンはエレベーターの所に立ち、そわそわと踵を打ち付けながら答えとエレベーターが着くのを待った。
 踵の立てる音に眉を寄せつつ、警備員はクリップボードにある書類を調べた。
「一名、ミスタ・ジョンソンがあなたのお友達を訪ねて来ています。彼の身分証はチェックしましたし、パスワードもご存知でした」
 そこで彼は不審気に顔をしかめた。
「何か問題でも?」
 ナポレオンは自分の顔を顰めることで応えた。どうやってロバートがパスワードを入手し、身分証を偽造したのだろうか。もしかしたらロバートなどではないかもしれない。ジョンソン氏とやらが本当にイリヤに会いに来たのかもしれない。だがナポレオンにはそう都合よく考えられなかった。
 彼は警備員がまだ自分の返事を待っているのに気づき、肩をすくめた。
「まだはっきりしないんだ、スコッティ。客が来る予定はなかったしね」
「一緒に行きましょうか?」
 ナポレオンは首を振った。
「いや、君は下で見張っていてくれたらいい」
 ナポレオンはがっしりした体格の男に少しだけ笑いかけた。
「だがもし誰かが逃げ出そうとしたら、そいつを大人しくさせておくよう頼むよ」
 スコッティはにやりと笑った。
「そうします。ミスタ・ソロ」
 ナポレオンはエレベーターの表示を見ながら、もっと早く動かないものかと思っていた。どんなに時間がかかっているように見えても、エレベーターを使うのがペントハウスに行く最短の手段なのだ。いかにナポレオンが鍛えていたとて、そこまでの階段はあまりに長く、最上階に行き着くまでには息を切らしてしまうに違いない。敵と対するにいい方法ではない。
 ようやくエレベーターがチンと鳴って、ドアが開いた。ナポレオンは最上階行きのキーカードを差込みながら、これでロバートが、何者かが向かっていることに気がつかなければいいがと思った。彼にはロバートがそこまでの技術を持っているとは思えなかったが、この建物に入り込む能力があるということも考えていなかったのだ。
 ドアの前まで来ると、中から苦痛の呻きと、切れ切れのロバートの怒声が聞こえてきた。ナポレオンはドアを開けようとして、ロックされていないのに驚きもし、助かったとも思った。彼は呆れていた。ロバートの賢さは、どうしようもない愚かさとちょうど釣り合っている。
 音のする方向を追って、ナポレオンはじりじりとベッドルームに向かった。室内を覗き込んでみて、彼の視界が赤く染まった。イリヤは両腕を縛られてベッドにくくりつけられている。ロバートが横に立って、銃を振り回していた。彼はイリヤを何度か銃で掠めて撃ち、腕や顔の横を傷つけ血を流させているらしかった。ロバートは我慢の限界に来ているようだった。
「どこなんだ?フィルムはどこにある?」
 イリヤは何やらうんざりした顔をしてみせた。ナポレオンは笑い出しそうになってしまった。もし彼がこうも頭に血が上っていなければここで笑っていたことだろう。
ナポレオンは部屋に乗り込むと、ロバートに飛びかかって床に押さえつけた。ロバートの銃は部屋の向こうへ投げ出され、床で強く顎を打った。ナポレオンは相手が一瞬目を回している隙に、ベッドサイドから手錠を取り出すと、ロバートの手首に嵌めた。それから相手が痛いかどうかなど全く気にせず、ベッドの脇まで引きずって行って、がっしりした木製の脚の一番近いところに繋いだ。
 ナポレオンはロバートの銃を拾い上げ、這いつくばっている男に銃口を向けた。この男を殺してやりたかった。目の間に一発撃ち込んでやって、二度とイリヤをひどい目に逢わせることなど出来なくしてやりたかった。ちょっと指に力を入れさえすれば、ロバートはもういなくなるのだ。
「ナポレオン、」
 柔らかな声がナポレオンの怒りに小さな穴を開けた。引き金に掛けた力を緩めると、銃口はロバートの額に合わせたまま、イリヤの方をちらりと見遣った。
「ナポレオン、こんな奴を撃っても弾丸の無駄だ」
 ナポレオンは眉を上げた。
「君はこいつを庇ってやるつもり?殺されて当然だとは思わないのかい。それとも、君は僕が、こんな屑野郎を殺したことで罪の意識におののいて夜眠れなくなるとでも誤解してるの?」
「僕はあんたのことを十分に解ってるつもりだけど、それじゃ彼に親切すぎるだろ。そんなに痛い目にも逢わせずにすぐ死なせてやるなんてさ。彼をU.N.C.L.E.に引き渡せば、反逆者として十分な報いを受けるだろう。深い穴ぐらの底で残りの人生を朽ち果てさせていくんだ」
 ナポレオンはちょっとの間考えてみて、いい考えだと思った。U.N.C.L.E.は反逆者を嫌う。ロバートは当分の間お天道様の拝めない人生を送ることだろう。ナポレオンはロバートの銃を引き出しに納め、手が延ばせないようにした。
「君のその考え方が好きさ。天才のロシア人くん」
 ナポレオンはベッドに近づき、イリヤの戒めを解いて、傷ついた両腕を優しく擦って血の巡りを戻そうとした。
「大丈夫なのか?」
 また怒りがこみ上げてくるのをナポレオンは感じた。
「本当にコイツを撃って欲しくない?僕は喜んでそうするよ」
 イリヤは物憂げに頷いた。
「気持ちだけありがたく受け取っておく」
 ナポレオンはいやいやと手を振った。
「なんのなんの」

 ロバートであるが、もうショックからは立ち直ったようで、ベッドの足元の床からナポレオンを見上げてきた。彼は愚かにもナポレオンを言いくるめようとしはじめた。
「お前はロシア人の変態野郎の言うことを聞くのか?俺は何も間違ったことはしていないぞ。こいつに馬鹿馬鹿しい話コックアンドブルストーリーを吹きこまれて、お前は阿呆みたいにそれを鵜呑みにしているんだろう?」
 あれやこれやと言い募るロバートに、ナポレオンは笑いをかみ殺した。
「黙ってろ、ロバート。でないとお前の口に靴下を突っ込んでやる」
 ロバートはまだ諦めようとしなかった。
「奴に悪口を吹き込まれたんだろう、ソロ。正しいことをしろ。我々アメリカ人は団結しなくては――」
 ナポレオンはうんざりしつつ目を丸くすると、タンスの所へ歩いて行った。引き出しを開けて、畳んであるソックスを一組取り出した。彼はそれをじっと見ると、元に戻した。
「この靴下は気に入ってるやつだ」
 それから他のを取り出した。それを役立たせるより前に、ドアをノックする音がした。ナポレオンはイリヤを見遣った。
「他にもお客が来ることになってるの?」
 イリヤが見返して来た。
「この客だって予定にない」
 ナポレオンはにやっと笑って銃を取り出した。ドアの前まで行き、覗き穴から外を伺う。そしてイリヤに呼びかけた。
「ウェイバリーさんだよ!」
 ドアを開けると、彼は大げさな仕草でウェイバリー氏と、その連れを自分の家に招きいれた。
「本日二組目のお客様でございますね。飲み物はバーコーナーに、オードブルはキッチンにご用意しています」
 ウェイバリーはナポレオンに渋い顔を向けた。
「その浮かれ具合からすると、ミスタ・クリヤキンは無事なんだろうね」
 ナポレオンは顔をしかめた。
「無傷ではありませんが命に別状はありません。僕が到着するまでに、ロバートに多少痛めつけられたので」
 ウェイバリーが眉を上げた。
「ロバートがここにいるのかね」
 ナポレオンは親指で背後を指差した。
「奴は寝室で、ベッドの脚に手錠で繋いでいます。装置の設計図を写しているところを収めたフィルムを取り返しに来たんです」
 ナポレオンはウェイバリー氏の目に、不正を正した輝きと、自分のエージェントが悪に染まったのを知った憂愁の色が浮かぶのを見て取った。ウェイバリー氏は嘆息すると、同行の二名にナポレオンについていくよう命じた。
「君達はミスタ・ソロと一緒に行って、ミスタ・ロバートをベッドから外してやりたまえ」
 ナポレオンは一人に手錠の鍵を渡すと、皆揃って寝室へ向かった。ナポレオンは職員達がロバートの手錠を外し、また手錠をかけるとドアから出て行くのを黙って見守っていた。それからウェイバリー氏はイリヤの方を向いた。
「ミスタ・クリヤキン、君もちょっとばかり、ひどいありさまだね」
 イリヤはナポレオンをちらっと見て言った。
「そうですね、まあここのセキュリティレベルを見誤っていたようです」
 三人はリビングルームに移動した。イリヤの動きは遅く、ナポレオンは周りで世話を焼きたくなるのを我慢し、罪悪感を感じているのを見せまいとした。ウェイバリーは玄関のドアに目を止めた。切り取られた配線が所在無くぶら下がっている。
「ふうむ。ミスタ・クリヤキン、君はラボに復帰したら、もっと優れたセキュリティ・システムを考えてくれたまえ。そうすれば私は全職員の自宅にそれを取り付けることを義務づける」
 イリヤが頷き、すでにその考えに惹きこまれたように室内を見回した。ナポレオンにはその優秀な頭脳が、既に新しいものを設計しようと動き出していることがはっきりわかった。ウェイバリー氏が出口に向かって踵を返した。
「ああ、ところでミスタ・ソロ、パートナーについて何か考えはまとまったかね?」
 ナポレオンは細めた目の間から、上司を凝視すると懸命に考えた。どの点から考えても、この老人がこの場でこの問題を取り上げてきた理由は一つしか思い当たらない。ナポレオンはにんまりと笑った。
「はい、決まりました。実際のところ随分と考えさせられましたが……」
 ナポレオンはイリヤの方を向くと、彼を指差した。
「僕は彼がいいです」
 イリヤが目を見開き、二人は揃ってウェイバリー氏に視線を向けた。
「君の選択は非常によろしい、ミスタ・ソロ。しかしながら、君は結論に至るまでに時間をかけすぎたと言わざるを得ない。少々失望したね。私の部下にはもっと迅速に決断して貰いたいものだ」
 ナポレオンは口答えするのを止めた。上司の言葉にむっとくるには、この状況は喜ばしすぎたのだ。ウェイバリーはイリヤの方を向いた。
「君もこの配属に異存はあるまい」
 イリヤは無言で頷いた。
「それと余った時間は研究にあててくれるように。今まで学んで来たことを無駄にしてはいかん」
「わかりました、サー」
 イリヤの顔にちょっと笑みが射した。
「ふーむ、ふむ」
 ウェイバリーはイリヤに向けてゆったり手を広げると、
「君には傷の面倒を見てくれる相棒が出来たわけだね。月曜日まで休みにするから養生するのだな」
ナポレオンにぎょろりとした目を向けた。
「君の方は明日出てくるように。エージェントたるものブラブラしていてはいかん」
 ナポレオンは突然イリヤと二人きりになりたくなった。ウェイバリー氏には閉めた扉の向うに行ってもらいたいと、彼は戸口へ歩いて行った。
「僕はここにいてしっかり番をしていますよ」
「そうかね。ではそのようにしたまえ」
 そこでウェイバリー氏は去っていった。ナポレオンは背中でドアを閉めると、素早く安全錠を下ろし、無意識にアラームをセットしに行きかけた。そして皮肉な笑みを浮かべながら取って返した。

 ナポレオンは部屋を横切り、イリヤの横に腰掛けると、恐る恐るロシア人に腕を回した。
「……君を失ってしまうかと思った」
 イリヤがナポレオンの胸に額を預けた。
「僕はそう簡単にいなくならない」
「本当だと約束してよ」
 イリヤは顔を上げ、ナポレオンにキスをした。そしてすぐに離れると、切れた唇を指で触って顔をしかめた。
「いてて」
 ナポレオンは立ち上がり、イリヤにもそうするよう促した。
「バスルームまで歩いて行って、手当てが受けられるかな?傷口を縫う必要はなさそうだけど、君はひどいざまだ」
 イリヤはナポレオンの差し出した腕に縋りはしたが、立ち上がることは出来た。ナポレオンがするより先に、イリヤはナポレオンの腕を胴に回させて見上げてきた。
「約束する。ナポレオン、僕は見かけよりずっとタフなんだってことをね」
 ナポレオンはぷっと吹き出し、イリヤの切れた唇にそっと指で触れると、相手の顔や身体についた切り傷や打ち身に目を留めた。
「僕にそれをずっと証明し続けるのは止してくれよ。真剣に受け止めたから」
 イリヤの唇の端、傷のない方が小さな笑みで吊上がった。
「肝に銘じておくことにする」
「ならいい」
 ナポレオンはゆっくりとバスルームに向かった。

 イリヤの傷の具合を見て、痛み止めを飲ませ、ベッドルームを片付け、リネン類を取替えるのには相当時間がかかった。それからナポレオンはイリヤをベッドに戻すと、服を脱いで彼の横にもぐりこんだ。
「君の身体で痛くなくて、触ってもいいところはどこ?」
 イリヤは乾いた笑い声を立てた。
「左の膝の後ろと、背中の1インチか2インチ幅ぐらいだと思う」
 恋人の言った事に取り合わず、ナポレオンはそっとイリヤを抱き寄せた。
「この二日間、君は全く大変だったね」
 イリヤは眠たそうな声を出した。
「カレンダーに丸をつけたりするなよ」
 そしてナポレオンの首筋をキスでなぞっていった。
「まあ、こういうのは結構なことに入るけど」
 ナポレオンはふふんと同意の声を出した。
「彼は――何もかもすっかり計画してたと思うかい」
「んん?誰が?ロバートが?」
「いや、ウェイバリーさんが。彼は最初から僕らを組ませるつもりだったと思わない?彼が君をここへ連れてきた理由の一つはこれなんじゃないかな」
 イリヤはナポレオンの耳の後ろをちろりと舐めた。
「多分ね。あの人は頭がいいし戦略家だ。あんたが最高の相手でなければ満足しないのを知ってたのさ」
 ナポレオンはぶっと吹きだした。
「君の謙虚な性格は、ロバートにかかっても全く別状なしで嬉しいよ」
 イリヤが不愉快そうな声を上げた。
「あんたは最高でない相手と組んでいられるのか?」
「NO」
「ほーらね」
 イリヤは慎重な仕草で、ナポレオンの体躯に腕を巻きつけた。
「最高のものには最高を、さ」
 そしてナポレオンの耳元であくびをすると、ナポレオンの肩のくぼみに顔を載せた。ナポレオンはあくびを返した。
「最高には最高を……ふぅん、それはいいや」
 彼はイリヤの鼻にキスをした。
「僕が来るまで生きててくれてありがとう」
 イリヤは半分眠りかけの声を出した。ナポレオンは笑みを浮かべた。それは『どういたしまして』とか、でなければきっとそのような台詞なのだろう。どうでも構わない。イリヤがロシア語で賛美歌を歌っていたとしても結構なことだ。
 イリヤは助かってこの腕の中、ロバートは暗くて深い牢屋行き、ナポレオン自身は、あらゆる点において最高のパートナーを手に入れた。何もかもがめでたしめでたし、である。

 睡魔に降参しつつ、彼はタンスの上で爆弾つきカフリンクが月光を弾いているのを目にした。そして彼は微笑を浮かべながら、眠りについた。

THE END

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