THE BETTER GADGET AFFAIR--3

ACT-1 ACT-2 ACT-4

 相当に酔いが回りはじめたあたりで、ナポレオンは次の場所を自分のアパートに決めた。これ以上酔っぱらうようなことになるなら、自分たちを安全性の高い自宅に置きたかったのだ。前後不覚になっていては、THRUSHにでも何でも簡単に掴まってしまう。
 彼はイリヤにもう一杯ウォッカを、自分にはスコッチを注いでカウチに戻った。
「ねえ、どうも分からないことがあるんだけど」
 イリヤはうつむいてウォッカを啜った。
「なにが?」
「昨日戻ってからウェイバリー氏に報告をしたんだが、君が僕の居場所をつきとめたことを話しても彼は全く驚かなかった。眉ひとつ動かすでなく、不機嫌に鼻を鳴らしもせず、なんの反応もなかった。そして別のケースで君が僕を助けてくれたことを話しても、これまた何も言われなかった」
 彼は顔をしかめてイリヤを見た。
「どうしてなの?」
 イリヤが肩を竦めた。
「そりゃ本人に聞けばいい」
「僕の言いたいのは――もしかりに、ロバートが現れて命を救ってくれたんですと報告したら、ウェイバリー氏は彼をオフィスに呼び付けて、自分の持ち場を離れて一体何をしてるんだと問い詰めるだろうってことだよ」
「ロバートがサバイバル・スクールを出てるとは想像できないけど」
 ナポレオンは苛立たしげに手を振った。
「サバイバル・スクールを出ているってだけで、現場で立ち回れるすべを知っていることにはならないだろ。それは決められた一連の試験をパスしたに過ぎない。だから僕が知りたいのは、どうしてウェイバリー氏は、君が本部を出て経験を積んだエージェントのように行動するのを当然のように受け止めてるかって事なんだ」
 ナポレオンはこのロシア人から目を離さないようにしながら、スコッチを啜った。
「ロバートがKGBでエージェントとして働いてる姿も想像できないし」
 ナポレオンは危うくスコッチを吹き出しそうになり、慌てて飲み下した。
「君はKGBのエージェントだったのか?」
「研究者でなかった時は、そうさ」
「それで君はどっちが好きなの?」
「KGBかU.N.C.L.E.かってこと?」
 ナポレオンは首を振った。
「いや、エージェントか研究者か、」
 彼の胸の奥である考えが泡のように浮かんできた。イリヤはグラスを干してしまうと、前に屈んでグラスに注ぎ直した。彼が座り直した時、確かに数インチほど自分たちの距離が狭まったのをナポレオンは意識した。
「それが何になる?ウェイバリー氏は僕を研究者として雇っているわけだし、そこに留まるようにはっきりと言われている」
 ナポレオンは自分の思いつきがしぼんでいくのに気を落としたが、表情には出さないようにした。
「そう言われたの?」
 イリヤが頷く。
「君の為に作ってきた新しい装置はそれなりに注目されてるのさ」
「きっとそれで君はよけいロバートに『気に入られ』ちゃったわけだ」
 イリヤは皮肉な笑みを投げてきた。
「それは間違いなし」
「あいつが犯人だって証拠を手に入れなくちゃな。奴のアリバイは偽造されたものか、でなければ誰かを雇って、建物に入るコードを教えたんだろう」
 ナポレオンもグラスを干してまた注いだ。姿勢を戻した時、彼はさらにもう数インチイリヤに近づいてみた。ロシア人をちらりと見遣ると、相手も視線を合わせてきたがすぐにフイと逸らしてしまった。
 ナポレオンは視線をイリヤの逞しい太腿にさまよわせ、その間の隆起に目を留めながら、酒の勢いでもいいから欲しいものを手に入れるだけの勇気がないものかと思い惑った。彼の視線はそのままイリヤの胸元へ、首筋へと移動していった。そしてふっくらした下唇に辿り着いた時には思わず自分の唇を舐めていた。
 自分の欲望が燃え立っていくのが露に見える気がする。慌てて彼はばっと立ち上った。一瞬足をふらつかせながら、彼は何か言う事を考えようとした。そしてようやくのことで、バスルームに続く通路へと歩き出した。
「ちょっと用足しに」
 イリヤが頷き、ナポレオンは足早に出ていった。バスルームでナポレオンは用を済ませると、手を洗った。ハンドタオルを握り締めたまま、彼は鏡の中の自分を睨み付け、全く何をやってるんだと自問した。自分はウブな子供ではない。カレッジ時代には羽目を外して乱交みたいなこともしたし、ほぼあらゆる経験を重ねた。進んで股を開いてくる相手は幾らでもいた。なのに今更何をそんなにびくついている?
 彼はリビングにいる男のことを考え、恐れているのは彼そのものだと思い知った。台無しになること――下手をすれば自分は、何よりも大切に思いはじめたものを失い、自分たちの友情はめちゃめちゃになってしまうのだ。
 ナポレオンはこの数週間のことを思い返し、イリヤが友人として以上の何かを期待している様子はなかったか考えようとした。そして苛立たしげな溜め息をついた。はっきりしたことは何もない。ちょっとした仕草はどっちにも取れる。あの抱擁や、長い視線や、イリヤが自分に手を貸してくれて、自分を気にかけてくれることや、その時々に他の誰にも見せた事のない、イリヤの見せてくれた親愛の情。
 だがそれは一体どういう意味になるのだろう?どちらを取るにせよ道を誤った時の代償はあまりに大きい。もしイリヤにその気もないのにナポレオンが言い寄ったとしたら、自分たちは友人でなくなってしまうかもしれない。もしイリヤにその気があって、ナポレオンが大事を取って何もしなければ、自分たちは今以上の何かを手に入れることはなくなる。きっとナポレオンが、生涯をかけて求めてきた何か――賭けてみる価値のある何かを。

 ナポレオンは肩に力を入れ、リビングへ戻った。彼はさっきより更に友人の近くに座った。もう相手とは三、四インチしか離れていない。
「イリヤ、」
 相手の手を取ろうとしたその時、イリヤが立ち上がってぎこちなく歩き出した。
「今度は僕が、」
 ナポレオンはカウチの背によっかかると頷いた。そしてイリヤの眼差しや仕草を思った。神経質だ。あの彼が落ち付きをなくしている。
 ナポレオンはその場にしばらく座っていて、やがてイリヤが用を足すには長すぎる間戻ってこないのを気にしはじめた。彼は眉を顰め、時計に目を遣った。数分経過し、彼は立ち上がってバスルームの戸口まで行った。
「イリヤ?」
 応答はない。ナポレオンはじっと耳を澄ませたが、何の音も聞こえなかった。自分が気づかぬうちにイリヤがアパートを出ていったわけがない。彼はもう一度呼んだ。
「イリヤ?」
 今度は吐息が聞こえてきて、ナポレオンはこれをきっかけにドアを開いた。
 イリヤがタオルを手に、鏡の前に立っていた。数分前にナポレオンがそうやって立っていたのとほぼ同じ姿が鏡に映っている。まるで、自分の人生への答えがそこに映っているように。
 二人の視線が鏡の中でかち合い、ナポレオンの身体をぞくぞくっとしたものが股間に向けて走った。彼は歩みを進めてイリヤの背後の、少し右側に立った。
「気分は大丈夫?」
 イリヤは鏡に映ったナポレオンの姿を見つめながら、ぎこちなく頷いた。
「ああ……考え事をしてて」
 ナポレオンがにやりと笑った。
「君はトイレでいい考えが浮かぶのかい?」
 イリヤが気分を害したような目付きをした。ナポレオンは鏡の中の、イリヤの姿を眺め下ろしていった。黒いタートルネックが彼の身体をぴったりとくるんでいる。カウンターの縁を強く握っているせいで、彼の拳は白くなっている。ナポレオンの視線はもう一度上に上がって、イリヤの表情を見つめた。
「何を考えていたの?」
 青い瞳に困惑がさっとよぎるのが見えて、ナポレオンは何故かふいに心の落ち着きを感じた。イリヤが自分の考えを漏らすまいと首を振るのを見守る。
 もう少し前に進んで、イリヤの身体からほんの1インチの距離に立った。ロシア人の体温の熱さを感じ、相手に身を擦り付けるのを辛うじて堪える。
「言ってよ……」
 戸惑った視線のまま、相手はまた首を横に振る。ナポレオンは最後にもう一歩距離をつめ、イリヤの足の間に自分の左足を割り入れた。股間がイリヤの右の臀部に当たっている。
 イリヤが目を瞑ったのが見え、ロシア人の身体が押し返されてくるのを感じた。
「僕たちのことを考えていた?僕ら二人がどうなるかって?」
 ナポレオンは片腕をイリヤに回し、手のひらを胸にさまよわせて、二つの胸の尖りを親指で軽く擦った。
「ねえ……?」
 イリヤは低い呻き声を上げ、今度は強く身体を押し返した。
「そう――…」
「良いことが出来るって考えてた?君と、僕とで?」
 手を下に落とすと、イリヤの股間に軽く当たった。そこに堅いものを感じてナポレオンは嬉しくなる。彼は自分の昂ぶりを、イリヤの臀部に押し付けた。
 イリヤが身体をずらせると、ナポレオンのものは彼の双丘の間に割り込んだ。そそるように腰を擦り付けてくる。今度はナポレオンが呻き声を上げると、イリヤを両腕で捕らえきつく抱きしめながら、下半身を突き出した。彼のものが本能的に納まる場所を探している。
 イリヤが振り向くと、ナポレオンが長いこと焦がれていたその唇はもう数ミリのところにあった。彼はその距離を詰めて、ようやくその渇望を満たした。それは思っていた通り柔らかく、焦らすように動いた。初めて交わした口接けは、彼の食欲をそそる前菜に過ぎなくなった。片手でイリヤの髪を握って固定すると、彼の口腔へと舌を差し入れ、暖かな内壁を隅々まで探っていった。イリヤの舌が応えてきて、自然と呻きが上がる。キスを重ねるごとに前より上出来なキスになり、五感の全てが満たされていく。イリヤが上げる声音、イリヤの味わいと香り、イリヤの髪や逞しい身体の感触。
 イリヤが腕の中で向きを変えようとしたが、ナポレオンはそうさせなかった。
「僕らを見ておいで」
 イリヤが顔を上げ、二人の視線が鏡の中で合うのをナポレオンは見た。二組の眼がどちらも欲望に色を深めている。イリヤが喘ぎ、ナポレオンの体躯を押し返してきた。
「Пажалста……」
 ナポレオンは肩を揺すってジャケットを脱ぐと、床に落ちるに任せた。つま先で靴を脱ぎ、その動きでイリヤに身を擦り付ける。そうした時のイリヤの表情を彼は大いに気に入った。
「それはどういう意味?」
 イリヤは返事をしなかった。彼はただ後ろに手を回して、ナポレオンのベルトを外しはじめた。ナポレオンも手を貸し、数秒後にはパンツと下着から足を抜いて、それを向うへ蹴りだした。屈みこんでくつ下も脱いでしまう。イリヤの首筋を舌でなぞっていると、イリヤが彼のものに触れてきて、根元から滑らかな先端に向かって撫で上げた。彼は小さな悦びの声を上げた。震える指でナポレオンはシャツのボタンを外して横に放り、すぐにアンダーシャツがそれに続いた。
 イリヤがまだ服を全部身につけているのに、自分は素裸であることがこんなに官能的だとは今まで思いもしなかった。彼は両手でイリヤの身体をまさぐりはじめ、イリヤは手探りで同じようにした。
 官能に我を失いかけ、ナポレオンはイリヤの肩口に額を押し付けた。どれだけの相手と関係してきたか、彼はとっくの昔に数えるのをやめてしまったのだが、こんなに心を動かされたことは今までにないように思える。彼は突然、イリヤの素肌を感じたくてたまらなくなった。
 イリヤのタートルネックを巻き上げて頭から脱がせ、彼は友人をとっくりと眺めた。見事な体躯だった。スリムでいて筋肉の発達した身体つき。イリヤが彼をまた弄び始めたので、ナポレオンは声を上げた。彼はイリヤの両手を掴むと、前に持っていった。
「そんなにされちゃ、あっという間に終わってしまう……
 彼はイリヤの手をカウンターに置いた。
「今度は僕がする番だよ」
 ナポレオンは手をイリヤの胸に、両の乳首に滑らせ、下腹に伸ばし、固い布地に包まれた隆起へと下げながら、ひとつひとつの表情を見守った。こんなに欲情をそそる眺めは初めてだ。まるでイリヤが自分の楽器となって、自分はその演奏法が自然と分かっているかのようだ。止めようとする前に言葉が出てきた。
「君を、愛してる」
 たったいま唇から出てきた言葉に面食らい、ナポレオンは目を見開いて鏡を見つめた。自分が本気であることにも仰天し、イリヤにそう真剣になるなとか、まだ早すぎると言われたり、さらに悪い事に嘲笑されはしないかと恐れおののいて。記憶にないほど弱腰になりながら、ナポレオンはイリヤの反応を待った。
 腕の中のイリヤが振り向いた。これまでナポレオンが接吻に感じた事があったとしても、今腕に抱えている嵐のような口接けとは比べものにならない。繰り返されるキスは祝福の如く、全き契約の如く、そして幾ら手に入れても余すことはないように思える。出来るなら相手の内部まで這いこみたい、どれだけ求めてもまだ足りないと、ナポレオンはイリヤをきつく抱き締めた。
 ふっとイリヤが身体を離した。ナポレオンは少しの間突き放されたような気分になったが、それは相手が残りの衣服を脱ぐためのものだとすぐ分かった。そしてイリヤは、ナポレオンと同じく全裸になって、鏡の方を向くと両腕を自分に回させた。
「証拠を見せて、ナポレオン――君の身体で」
 ナポレオンに身を擦り付け、自分の欲しいものは間違いなくこれだと示すかのように、その昂ぶり、濡れそぼったものに自分の双丘の間を押し付けた。ナポレオンは歯を食いしばり、イリヤをしっかりと捉えた。
「動かないで……」
 イリヤが大人しく腕の中でじっとしてくれたので、ナポレオンは今にも達しそうになるのをどうにか堪えた。数年にも思えるような数秒の後、ようやく激情は落ち着き、ナポレオンはイリヤの身体に手を這わせた。イリヤのものを嬲りながら、自分の手の中でそれが大きさを増し、イリヤの唇が開いて乱れた吐息をつき、舌で乾いた唇を湿らせてゆく眺めに耽溺する。ナポレオンはまた達してしまいそうになった。
 ロシア人から身体を離さずに、ナポレオンは薬の入ったキャビネットに手を伸ばすと、何かのローションを取り出した。自分の用途に適したものだと確認するだけの間それに目をやり、それから即座に視線を鏡へ、イリヤの姿へと戻した。彼への欲望と、その蠱惑的な眺めに奮い立つ。この時彼は自分に約束していた。この眺めを何度でも見ずにはおかない。この先もずっと。
 イリヤが彼の手から容器を取り上げ、彼の指に更にローションを垂らした。ナポレオンはロシア人に笑いかけ、もう一度彼の首筋を舌でなぞった。彼の肌の味わいもまた魅惑的だ。
 ナポレオンは自分にもうひとつ約束をした。次の時にはイリヤ自身を口に含んでみたい。イリヤの前で膝立ちになり、この薔薇色のものを咥え、髪をかき乱すイリヤの指を感じながら、彼の柔らかな丸いものを手で転がしている自身の姿が目に浮かぶ。
 それからイリヤが同じようにしている姿も目に浮かんだ。彼の舌が自分のものを味わう。頬を窪ませ、ナポレオンが絶頂するまでしゃぶりつくし――…。
 突然ナポレオンはこの新しい恋人の中に入らずにはいられなくなった。もう一秒も待ってはいられない。これ以上弄ばれていてはとても持たない気がして、彼はイリヤの手を退けさせた。指を隙間に割り入れてゆくと、イリヤの身体の窪んだとば口を感じた。指で軽く触れたそこが戦慄いている。彼は鏡の中のイリヤの視線を捉えて、言った。
「分かる?するよ?」
 イリヤが挿入を求めて彼の手指に腰を押し付け、ナポレオンを見つめた。
「何を?何をするって?」
「君を愛してあげる……」
 ナポレオンは指を一本イリヤの体内に挿入した。愉悦の表情を浮かべ、イリヤが目を瞑った。ナポレオンは内壁に包まれた指を蠢かせ、彼の悦い所を探った。その部分を探り当てた時、表情の変化とともにイリヤの身体が跳ね上がった。
「もっと?もっとして欲しい?」
 イリヤが頷いた。目を瞑ったまま、イリヤはまた舌を突き出して上唇に浮いた汗の雫を舐めとった。
Да()……Да,」
 ナポレオンはもう一本指を差し込んだ。
「いい気持ちだ……君の中に僕のを挿れたらどんなにいい気持ちだろう……」
「ナポレオン……早くっ――
 イリヤが更に脚を広げ、両肘をカウンターに突いてより姿勢を低くした。
「今すぐ、して……」
 これ以上昂ぶりようがないとナポレオンは思っていたがそれは間違いだった。彼は目の前のイリヤの身体に指を抜き差しした。それは今までで一番エロティックな眺めだった。
「君に痛い思いをさせたくない」
 イリヤが呻いた。
「してっ、たら――このままじゃ死にそうだ……
 ナポレオンはにっこり笑ってみせた。三本目の指を差し込むと、筋肉を解すように中で割り広げた。もう片方の手を前に回してイリヤの滑らかで張詰めたものに触れる。
「あう……ッ」
 イリヤが呻いた。もしナポレオンが完全に恋に落ちていなかったとしても、この呻きでそうなっていただろう。彼はゆっくりと指を引き抜くと、両手でイリヤの双丘を押し開き、まだひくついている窄まりに自分のものを押し付けた。始めに筋肉の抵抗を感じた後は、ぬめるように根元まで入りこんだ。ここで絶頂してしまわないようにするのがやっとの思いだった。
 イリヤの内部に自分がいる。もうイリヤは自分のものだ。それからなるだけ早いうちに、自分も同じやりかたでイリヤのものになるのだ。彼は鏡に目を遣った。
「目を開けてごらん」
 イリヤが従った。
「君の中に僕を感じる?」
 ナポレオンは先端辺りまで引き出すと、また押し込んだ。
「僕が突いているのを感じる?」
 イリヤは唇から短い叫びを漏らしながら、少しの間目を瞑った。
「Да、」
 彼はまた目を開くとナポレオンを見た。
「Да――感……じる……」
 イリヤが見ている前で、ナポレオンはまた引いては、より激しく突上げた。イリヤが新たな叫びを上げ、より強く身を押し付けると更に奥へと誘った。ナポレオンは片手でイリヤの腰を捉えて、もう片方を前に回しイリヤのものに絡めた。
「僕が君に触れているのを見てごらん」
 イリヤの視線は目の前の像に釘付けになっていた。ナポレオンはイリヤの中で自身を動かすのと同じリズムで、イリヤのものを動かした。ゆっくりと突いて、そして早く、それからまたゆっくりと。根元から先端にかけて、繰り返し繰り返し。
 もうこれ以上耐えられそうになくなって、一緒に達したいとナポレオンは突上げを激しくしながら、イリヤのものを撫で上げる速度を速めていった。まともに呼吸を保とうとすれば、自分の口からは熱に浮かされたような喘ぎが出てくる。そして雷光に撃たれたように、イリヤが絶頂するのを感じた。ナポレオンの見ている前でロシア人のそれから精が吹き出し、間欠泉のように湧き出た雫は彼の手指に滴った。その眺めが、イリヤの表情やその身体がナポレオン自身を締め付ける戦慄きと一緒になって、彼の堰を切った。彼の身体はかつて経験しなかったような、もう何も分からなくなるような絶頂感に弾け飛んだ。
 二人して身体を支える力を失い、彼らは糸の切れた一組の操り人形のように揃って床に崩れ落ちた。ナポレオンは両腕をイリヤに回し、イリヤはその支える腕にしっかりと掴まっていた。
 数分後――もしかすると数時間も経ったのか――ナポレオンは尻の下にリノリウムの冷たさを意識し始めた。それからイリヤの重みを胸の上に感じて、どこに寝ていようが気にしないことにした。彼は友人、今は恋人を固く抱きしめると、うなじに口接けた。

 そのうち彼らは手早くシャワーを使ったあと、ベッドルームへと移動した。ナポレオンのベッドで、一つに溶け合ってしまえるかのように縺れ合った。ナポレオンがイリヤの髪に口接けると、イリヤは溜め息をつき、更に擦り寄ってきた。ナポレオンは柔らかな笑い声を上げた。
「こうしてると君が横にぺったりくっついてしまいそうだな」
 言われてイリヤがほんの少しだけ身体を引くと、ナポレオンは彼を引き寄せ直した。
「文句を言ったわけじゃないよ。そうだ、ロバートにお礼の手紙を出すから憶えていて」
 イリヤがぱっと離れて、腕の中で身体を捻ると信じられないと言うようにナポレオンを見上げてきた。
「何のため?」
 ナポレオンはにっと笑い、彼をまた抱き寄せた。
「この事にさ。もし奴が君のラボを荒らさなければ、僕らはまだ仕事をしてただろ」
 イリヤがナポレオンの腕の絆創膏に触れた。
「ところで君の腕の具合は?怪我をしているのを忘れていた」
 ナポレオンはクスリと笑った。
「僕もだよ。少し痛みはするけど、本当のところバスルームでは腕のことなんか考えもしなかった」
 イリヤが顔を赤らめ、ナポレオンは楽しげに微笑んだ。
「秘密を言っていい?」
 イリヤが頷いた。ナポレオンは恋人の顔を見詰めた。身の内に感じている思いに胸が痛くなる。
「さっきのことは、間違いなしに僕の全生涯で一番素晴らしいセックスだった」
 イリヤの眉が驚きに持ち上がった。
「そうなのか?」
 ナポレオンは顔を顰めてみせた。
「ああ。君にはそうじゃないってこと?」
 イリヤが断固とした調子で首を振った。
Нет(ニィエート)――僕にとっても最高だった。君は……」
 イリヤは終いまで言わずに、ただ片方の手でナポレオンの顔の横をうっとりと撫でた。彼の瞳が愛情に輝いている。
 ナポレオンは顔を向けると、イリヤの掌に口接けた。
「君もだよ」
 彼はずり下がってイリヤの胸に頭を載せた。
「やつが今度のことをしたとはっきりさせる必要があるね。このままで済ませるわけにはいかない」
「分かってる」
「何か考えがあるの?」
「ある」
「装置に関わってくること?」
 声を立てずに笑っているのが頬に伝わってきて、ナポレオンは笑みを浮かべた。
「複雑極まりない装置さ」
 イリヤが体勢を換えて横に並ぶと、ナポレオンの唇にキスをした。
「でも、今はその話はしたくない」
 ナポレオンは何も分からないようなふりをした。
「言ってくれないの?」
 イリヤはまたナポレオンに口接けた。彼の手がナポレオンの身体の上を滑り、股間のものを手に取った。
「そう。したくない」
 イリヤの手付きに彼自身が反応し、腰が浮き上がるのをどうにか堪える。
「じゃあ……何の話がしたいの?」
「話もしたくない」
 イリヤはナポレオンの体躯を下に向かって口接け始めた。最初は左、それから右の胸の尖りを嬲る。ナポレオンはこのゲームを愉しんだ。
「どうして、いやなの?」
 イリヤが乳首に軽く歯を立て、彼は乾いた呻き声を上げた。
「それは、自分の口をもっといいことに使いたいから」
「ア……あぁ――どんな、こと?」
 イリヤがさらに下へと降りていく。ナポレオンの性器の根元を囲む茶色の茂みに鼻をすり付けた。
「こういうこと」
 彼は熱く濡れた口腔にナポレオンのものを咥え込んだ。その刺激にベッドから浮き上がりそうになりながら、話し合いよりイリヤにこうしてもらっている方がずっといい、と判断してナポレオンは喋るのをやめた。



 次の日、ナポレオンはラボが使える状態になっているか確認に行く間、イリヤを自分のオフィスに待たせておいた。あとで十分いいことをしてあげるからという約束で、イリヤはやっと彼が先に行くことを承知したのだ。ナポレオンは欲張りな恋人との約束を果すのが待ちきれない気分だった。
 彼はラボに入り、満足げに周りを見回した。壁は塗り替えられ、床は磨いたようにきれいになり、カウンターには顕微鏡も含めた新しい器具の箱が積み上げられている。
 物音がして顔を上げると、そこにはイリヤが立っていた。ナポレオンは驚きもせず顔を顰めてみせた。
「おい、僕はまだ入ってきても大丈夫だって言っちゃいないよ」
 イリヤが目を丸くした。
「ナポレオン、君は僕の母親じゃないだろ」
 彼はドアを閉めて、ナポレオンの側近くへ歩いていった。とても近くへ。ナポレオンはイリヤの背中に沿って掌を下ろして行き、しっかりした臀部の丸みの所で止めた。
「有り難いことにね」
 こんなふうに相手に触れていい場所でないのは分っていたが、どうにも抗えなかったのだ。溺れていく気持ちを抑えようと、彼は名残惜しげに身体を離した。
「……で、君は一日ずっと忙しくなりそうだね。一緒にランチを取る時間はひねり出せスクィーズそう?」
 イリヤがナポレオンの耳元に囁いた。
「君ならいつでもぎゅっと握ってスクィーズあげられるさ、ナポレオン」
 イリヤをこのまま床に押し倒してしまう前にこの場を去るべきだとナポレオンは考えた。彼はイリヤに半分警告するような、半分約束をするような視線を投げるとラボを出ていった。

 数分後、ナポレオンはウェイバリー氏のオフィスの前に立っていた。リサの手招きで中に入る。
「それで?ミスタ・ソロ」
「ロバートについて話があるんです、サー」
「その話は前にもしたと思うが」
 ナポレオンは唇を突き出すと、自分の考えを整理した。
「イリヤと僕の二人は、ラボを荒らしたのが彼の仕業だと考えています」
 ウェイバリーが鋭い目を向けて来た。
「そこまではっきりと非難するからには、証拠はあるのかね」
 ナポレオンは苛立たしげに息を吐いた。
「ありません」
「ではこの話はお終いだ」
 ナポレオンはテーブルを指でコツコツ叩いたが、ウェイバリーの視線に合ってさっと手を引っ込めた。彼はこの老人が、何故ロバートのことを話し合うのすら避けようとするのか理解できなかった。確かにウェイバリーは手元のカードを晒したりしない。しかしナポレオンは何か引っ掛けがあるように感じはじめていた。それが何であるのか分かりさえすれば。
 彼は立ち上がり、出て行こうとした。
「ミスタ・ソロ?」
 ナポレオンは立ち止まって振り向いた。
「はい、サー?」
「どうやら君とミスタ・クリヤキンは、その証拠が欲しいと思っているらしいねえ」
 ナポレオンは安心の笑みを浮かべた。実際耳にしたことではあるが、これは『暗黙の了解』というやつだ。
「はい、サー!」
 気分も軽く、彼は老人のオフィスを後にした。

 ナポレオンがラボに入ってきた時、イリヤは新しい器具を取り出している最中だった。ナポレオンはカウンターの上の何も載っていないところに目をやった。
「顕微鏡はどこだい?」
 彼はすっかりイリヤが、いつもの場所で何だか分からないものを覗き込んでいるものと思い込んでいた。イリヤは大きな箱が置いてある部屋の片隅を顎で示した。
「まだセットしてないんだ」
 ナポレオンはにやっと笑った。
「じゃあ、君はここに引き篭もりになったりしないわけだ」
 イリヤはドアの外を見て、誰も廊下を歩いていないのを確かめると素早くナポレオンの唇にキスをした。
「新しく夢中になれそうなものを見つけたから」
 ナポレオンはキスを返した。
「ここでこんなことをしちゃまずいよ」
 イリヤがキスに応え、相手の下唇を軽く噛んだ。
「そうさ。仕事中に接触しあうなんて、あまりにも危険だ」
 イリヤが首筋をなぞってきて、ナポレオンは呻きを上げた。
「危険すぎるね……」
 イリヤの掌が身体を這い、ナポレオンの股間の膨らみを覆った。
「早いところ顕微鏡をセットした方がいいんだろうし――
「んん」
 ナポレオンはもう一度イリヤと唇を合わせた。
 廊下の物音で二人は飛びのいて離れ、ばつの悪そうな視線を交わしあった。ナポレオンは胸から飛び出しそうな心臓を鎮めようとしながら、このロシア人にもう一度キスしたい誘惑と戦った。イリヤが再び近づいて来そうなそぶりを見せた時、ナポレオンは片手を上げて言った。
「来ちゃダメ、」
 イリヤは一瞬むっとしたが、それから頷き、溜め息をつきながら片づけに戻った。イリヤの手が少し震えているのがわかる。ナポレオンは自分と同じぐらいに、このロシア人が動揺していると知って気分を良くした。
「それで、君はいつここを出られるの?」
 イリヤは振り向きもせずに言った。
「ナポレオン、まだ帰る時間までには相当あるだろ」
 ナポレオンは腕時計を見た。幾たびかの短いキスで、脳の働きが止まってしまったようだ。イリヤをどこか邪魔の入らない場所へ連れ出すまでには何時間もある。とても我慢できるとは思えない。彼のささやかなジレンマを、イリヤが遮った。
「ウェイバリー氏との話し合いはどうなった?」
 ナポレオンは目を見張った。
「どうして君がそれを知っ……」
 そこで彼はくすっと笑った。
「君には何だってお見通しなんだな」
「彼は何と言ってた?」
 ナポレオンは、イリヤが何を期待しているのだろうと思いながら彼を探るように見た。
「僕たちに、ロバートがラボを荒らした証拠を見つけろとほのめかして来たよ」
 イリヤはふうっと息を吐き、頷いた。
「君のオフィスに行こう」
 ナポレオンは眉を寄せた。
「どうして?」
「君に見てもらいたいものがある」
「それならここで見せたら」
「君のオフィスに置いてあるんだ」
 ナポレオンは目をぱちくりさせた。
「そうだった。君が僕のオフィスを個人用ファイル置き場扱いにしてるってことを忘れてたよ」
 イリヤが声を落とした。
「それに、君のオフィスには――窓がないし」
 それでナポレオンには十分だった。
「行こう」
 彼は戸口に向かい、せわしなく手招きした。
「おいでおいで、さあ行こう!」
 イリヤは笑みを浮かべ、それから表情を作り直して廊下に滑り出た。

 ナポレオンのオフィスに上がっていく間、どちらも言葉を交わさなかった。ドアが横に開き、二人は中に入って、ドアが閉まるように戸口から離れた。ナポレオンがドアをロックしていると、いきなり壁に押し付けられ、膝から力が抜けるほどに、イリヤに激しく唇を貪られた。
 ナポレオンは、ありったけの手持ちの自制心を振り絞っておかしな真似はするまいと頑張った。とにかく裸になってしまいたい。膝をついてイリヤの黒いパンツから彼のものを取り出し、口の中で彼が絶頂するまでしゃぶってやりたい。カウチの上に押し倒され、頭のてっぺんから足の先まで、イリヤに自分のカラダで『科学的検査』をしてもらいたい。
 イリヤに、昨日自分がイリヤにしたように触れて欲しい。あのかっちりした指を身体に差し込まれ、イリヤに声を上げさせた場所を擦られて、それからイリヤのものを身体の中に感じ、ナポレオンがこのロシア人の身体で感じたことを彼にも味わってもらいたい。
 頭の中でそんなイメージを膨らませているうちに、ナポレオンの身体は熱くなり、自制心が分別のつかないところまで滑り落ちて行くのを感じた。分別などどうでもいい。自制心が何になる。彼はイリヤのベルトのバックルに手を掛けた。
 今度はイリヤの方が制止した。彼はナポレオンの手を掴んだ。
「ストップ。もう止めなきゃ」
 ナポレオンは止めたくなかった。バックルを外すと、イリヤのパンツの中の膨らみに手を差し込んだ。イリヤは呻き声を上げると後ろに下がった。ナポレオンは追いかけて詰め寄った。イリヤはデスクの向うまで離れた。
「ナポレオン、駄目だよ」
 ナポレオンはイリヤを見つめた。そしてロシア人の眼が深い欲望の色を湛えているのを、熱く吐息をついている唇が幾分開いているのを目にした。彼はデスクに目をやりながら、イリヤが裸でその上に横たわり、自分が覆い被さっているさまを想像した。彼は唇を舌で湿らせ、イリヤが応えるように小さな呻きを上げた。
 ナポレオンは再び視線を上げると、イリヤの言う通りだと思った。今や二人ともが自制心を無くしていて、やっていることはおよそ正気の沙汰ではない。彼はさっきイリヤに触れた唇をもう一度物欲しげに舐めた。
 イリヤの口調は甘く掠れていた。
「僕たちには今夜がある。一晩中でも、毎晩だってある」
 毎晩――ナポレオンはその響きが気に入った。彼はまた腕時計を見た。まだあと数時間。彼は瞼を閉じると、周囲の雑音に耳を澄ました。通風孔から入ってくる空気、電話の鳴っている音、タイプライターの響き、廊下から聞こえてくるざわめき。彼の興奮は鎮まっていった。
 彼は後ろに下がっていって小さなソファに腰を落とすと、最後に残った欲望を払い落とすように、顔を両手で擦った。
「クリヤキン――君は媚薬かなんかみたいだ」
 イリヤは大きな溜め息をつくと、ナポレオンのデスクチェアに腰掛けた。そしてナポレオンににっこりと笑いかけた。
「ほんとうに?」
 ナポレオンは鼻を鳴らした。あんなに一気に熱くさせられたことはない。思春期を迎えたティーンエイジャーのように、パンツを履いたまま果ててしまわなかった事に驚いたぐらいだ。まだ平常に戻りきらず、彼はソファの背に頭を凭せかけた。果してイリヤと同じ部屋にいて、平常心を取り戻せるのか自信もなかった。方位磁針が北を指すように、身体がこのロシア人に引き寄せられる。
 顔を上げるとイリヤがほんの一歩分離れたところから、自分を見下ろしているのと目が合った。彼は目を閉じて視界を遮った。
「これ以上近づいたら何するかわからないよ」
 イリヤが本棚に歩いていって、何かを取り出した音がする。好奇心の助けを借りて、彼は再び目を開いた。イリヤが横に座り、彼にファイルを渡した。
 オーケー、改めて仕事の話だ。彼はイリヤの方を一瞥すると、まだ欲望に翳っている青い瞳とかち合ってしまった。口接けていた唇がまだすこし赤く濡れている。彼は首を振った。
「……麻薬も同然かも、」
 彼はファイルを受け取り、開いてみた。

 内容に集中するまでには少し時間がかかった。それが出来ると、彼は眉を顰めた。内容は数ページに渡る、本部でのロバートの情報だった。
「君はいつからロバートを監視してたんだ?」
「ここに来た時から」
 ナポレオンの思考はまだはっきりしていなかった。
「君はロバートと会った瞬間、何かの理由で彼をスパイすることにメリットがあると思ったって、そういうことかい?」
 イリヤが首を振った。
「いいや、」
 ナポレオンは理由をはっきりさせようと眉をしかめた。それ以外に可能性のある結論はひとつしかない。彼は表情を強張らせた。
「君はそのために来たんだな?だからウェイバリー氏は君をラボに入れた。ロバートを見張らせるために。そうだろ?」
 イリヤが頷いた。ナポレオンの心臓はまた激しく脈打ち始めたが、今度のは嫌な動悸だった。
「それならこの件が片付いたら、君はまたどこかへ行ってしまうってことなのか?君は内部調査関係の人間なのか?」
 イリヤが手をナポレオンの手の上に重ねた。
「いや、僕はどこにも行かない。ウェイバリー氏は科学者を欲しがってた。僕を使えば彼にとっては一石二鳥だったのさ」
 ナポレオンはそれでほっと息をついたが、まだ表情は緩められなかった。
「どうして話してくれなかった?」
「出来なかったんだ。そう命令されていたから」
「それで、ウェイバリー氏は僕が自分から鼻を突っ込むのを待ってたのか」
 その考えがナポレオンはあまり気に入らなかった。彼は自分たち二人を手で示すと言った。
「これも計画の一部なのか?僕を引き込む手段?」
 イリヤはうろたえたように目を見開いた。
「違う、」
 彼は立ち上がり、後ろに数歩下がった。
「なんでそんなことを言うんだ?」
 ナポレオンも立ち上った。
「それはどういう意味だい。なんで言わずにおれる?僕は君のことを何も知らない。君がどこから来て、何をしているのか。君が全部操っているのかもしれない。君にぞっこんで、計画の片棒担ぐ誰かが必要だったんじゃないのか」
 ナポレオンはイリヤを見つめた。そして自分の言葉が引き起こした、ロシア人の傷つき怯えた表情を目にした。彼はファイルを床に落とし、イリヤを両腕に抱えると言いつのった。
「ごめん、悪かった。僕はただ……」
 そしてイリヤの背に手のひらを押し付けて引き寄せた。
「君が僕を変にさせるんだ」
 彼はイリヤの肩口に額を預け、引き攣った笑い声をたてた。
「君は何から何まで僕が求めていた通りの人で、何だか……
 イリヤが許してくれることを願いながら、抱擁を続ける。イリヤはそっと彼を押しやると、ナポレオンの顔を両手で挟んだ。
「誓って言う、君は計画の一部じゃあない。君は予想外の……驚きだった」
 ナポレオンは小さく微笑みを浮かべた。
「驚き?」
 イリヤが彼の台詞を真似て言った。
「何から何まで僕が求めていた通りの驚きだった。ここで君みたいな人に巡り会えるなんて思いもしなかった」
「じゃあウェイバリー氏の命令で僕を仲間にしたんじゃないんだね」
 イリヤはナポレオンの肩に両手を載せ、首を振った。
「いや、彼と話し合いをした時も君の名前が出たことはない。でも彼は盲じゃないし、僕らが友人になったことは知ってる筈だ」
「だからいつも助けに来てくれたわけだ」
 ナポレオンは下唇を噛んだ。
「多分ラボが荒らされた時に、君をバックアップする者がいてもいいと思ったんだろう」
 ナポレオンはイリヤの額と額を合わせた。
「本当にごめん。君は現実だとは思えないほど素晴らしくて、怖くなったんだ」
 イリヤが両腕を回して来た。
「最初僕は何から何まで君が求めていた人で、今度は現実とは思えないほど素晴らしいのかい。そうやって僕をうぬぼれの塊にするつもりだな」
 ナポレオンは彼を強く抱きしめ返した。
「きみにはその価値があるもの」
「君ほどじゃない」
 ナポレオンが笑い出した。
「何だろうね僕らは……のぼせ上がったティーンエイジャーみたいだ」
 彼は溜め息をつくと、一歩下がった。
「それにここで止めないと、のぼせ上がった裸のティーンエイジャーになっちまう」
 彼はイリヤの口元に手を伸ばし、親指で下唇を撫でた。
「ごめんよ。これが本当じゃないかもしれないと考えただけで、何だかおかしくなっちまった」
 イリヤはナポレオンの手を握ると、手のひらに口接けてから離した。
「本当の本当さ」
 そして手を下ろしてファイルを拾い上げた。ナポレオンは長い息をついた。
「OK、じゃあ最初から始めよう。ウェイバリーさんはロバートの行動をどう考えて、わざわざ君を呼んでまで奴をスパイさせたんだい?感謝してないわけじゃないけど」
 イリヤは笑ってカウチに腰掛け直した。
「彼はしばらく前からロバートを疑っていた。ロバートはラボの機能を撹乱しようとしていて、集めた情報をロシアに売り渡してるらしいと氏は考えている」
 ナポレオンはぽかんと口をあけた。少し考えたあと、彼はイリヤに皮肉な笑みを向けた。
「僕の目からもあの男の態度は異常な気がしましたよ」
「そう。彼のロシア人の僕に対する嫌い方は、少し過剰だった」
 イリヤの目にちらりと悲哀がよぎるのをナポレオンは気がついた。
「でも真実はどうあれ、困ったことにそれがU.N.C.L.E.にいる他の者にも伝染している。奴は、そうやって君がここからいなくなるのを期待してるに違いない」
「でもそう簡単にはいかないだろう、ナポレオン?僕はこうして誰かの親しい友人になることなんて考えもしなかった。友達が出来ることすら予想してなかった」
 ナポレオンはにやりと笑った。
「そう、我々アメリカ人は驚きでいっぱいなのさ」
 イリヤはふふんと軽く笑った。
「控えめな言い方だな」
 そしてファイルを開いた。ナポレオンは二、三歩距離を取ると尋ねた。
「悪く取らないで欲しいんだけど、イリヤ、君はどちらについているの?つまり、こうしてU.N.C.L.E.で働いているけど、君はロシア人だ。何故ウェイバリー氏は君を信用しているんだ?それにもし君が信用されてるとして――それは確かだと思ってるけど、君はロシアになんらかの信頼できるつてがあるのかい?」
「僕は転向してるんだよ、ナポレオン」
 ナポレオンは目を見開いた。
「君はアメリカ人なのか?」
「実際はイギリス国籍だ。僕はイングランドでウェイバリー氏に会い、彼からU.N.C.L.E.についての彼のビジョンを聞いて、それに加わりたいと思った。ソビエト連邦はもうU.N.C.L.E.から脱退することを決めていたから、僕はどちらかを選ばなくちゃいけなかった。ウェイバリー氏が僕の移籍を支援し、大学で学んだり訓練を受けたりする後見をしてくれていた。僕の忠誠心がどこにあるか彼は分っている」
「それで、ロシアとの繋がりは?」
「昔からの友人さ。彼らの力になるのと引き換えに、彼らは僕の力になってくれる。そのうちの一人が、僕がフランスにいる間に設計して、全U.N.C.L.E.の組織で普及している装備の設計図を送ってきた。友人は僕が作ったものだと気がついて、このデザインがロシアに流れた方法について僕が興味を示すんじゃないかと考えた。僕はこの情報をウェイバリー氏に伝え、氏は張本人は誰なのかという疑念のもとにこの計画を立てた」
 彼はかるくフンと鼻を鳴らすと、イリヤの隣に座り、肩に手を置いてぎゅっと揉んだ。
「それこそ幾ら感謝しても足りないぐらいだな。君の同胞には、クリスマスに上等なウォッカを忘れず贈らなくちゃ」
 イリヤはくすっと笑い、ファイルを叩いてナポレオンの注意を引き戻した。
「好きな時に奴を逮捕できるのかい?」
「ウェイバリー氏と僕が、情報を漏らしてるのは奴だと確信する程度でしかない。だから奴の現場を抑える必要がある。ロバートは嫌な奴だが頭はいい」
 同意のしるしにナポレオンは頷いた。
「こちらはずっと賢くならなきゃってことだね」
 彼はイリヤをちらりと見た。
「そして二人いれば、いつでも一人の賢い奴をやっつけられる」
 そして二人は、裏切り者を罠にかけるための計画を練りはじめた。


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