THE TUESDAY AFFAIR-PART1/ 2 /3/4/5

PART2

 目が醒めた時、ナポレオンは感情が枯れ果て、身体もぐったりと疲れきっているのを感じた。彼にとってこの日から先は延々と果てしなく、また耐え切れないほどに続いていく数週間、数ヶ月間、数年間の始まりのように思える。これ以上こうしていれば仕事に遅れるというぐらいまで、彼はベッドで横になっていた。
 休暇を取って悪いことはないと分かってはいる。実際彼が顔を出せば、多分同僚たちには驚かれることだろう。けれど何の楽しみも、暗い思いの他には何も得るものがないこの家に留まっていてもろくなことはない気がした。
 強引に身体を起こすと、もうさっとシャワーを浴びるぐらいの時間しかないと思い、彼はバスルームに向かった。鏡の中の顔を見て、ようやく自分が二日酔にはなっていないことが分かった。前後不覚になるまで酔っ払ったにしては、彼の顔は比較的まともであるように見える。
 目の奥が涙でちりちりし、ナポレオンは歯を食いしばって悲痛な思いに包まれそうになるのに耐えた。

 なるだけ早く身繕いを済ませると、キッチンでふと立ち止まり、インスタントコーヒーを入れる元気はあるだろうかと考えた。テーブルが彼の目に入る。上を向いていた。
 ナポレオンは首を振った。テーブルをひっくり返したところまでは憶えておいて、元に戻したのを憶えていないとは、思った以上に酔っていたに違いない。回りを見回すと、ガラスのかけらも全部掃き集めて、壁も拭き取って、その上塩と胡椒も片づけてしまった――らしい。彼は眉を顰めた。これだけを全部やったとしたら、忘れてしまう筈がない。
 彼はもう一度首を振った。どうだっていいさ。もしかしたら眠ったあとにエイプリルあたりが来て、後片付けをしてくれたのかもしれない。これ以上不思議に思うのも疲れて、彼は思考を頭から追い出すとアパートを後にした。
 職場へ向かいながら、彼は改めて、敢えて出かけてきたのは賢明なことだったろうかと考えていた。オフィスに座り、イリヤの机や、イリヤの椅子や、イリヤのコーヒーカップを目にすればどうなるだろう?ナポレオンには耐え切れる自信がなかった。
 けれど彼は運転を続けた。この苦しみから逃れられる聖地などどこにもない。思い出は自分のアパートに、ニューヨーク中に、さらに言うなら世界中にあるのだから。

 彼はU.N.C.L.E.の駐車場に辿り着くと、車を乗り入れた。ガードマンはいつものように彼に挨拶し、デル・フロリアの親父は不平を呟き、受付嬢は愛想良く笑いながら、まるでいつもの日のようにナポレオンにバッジをつけてくれた。彼女をしげしげ見つめながら、あの知らせを聞いてでもいないのだろうか、と彼は不思議に思った。ナポレオンにはそれを彼女に告げてやる気はなかったし、その言葉を口から出せるかどうかすら定かでなかった。
 ナポレオンは片手以上の数の人間と、視線も合わさずにオフィスに向かった。彼らは挨拶をしてきたようだが、側によって彼の顔つきを見るや、黙って通り過ぎて行った。オフィスに入ろうとした時、中から物音が聞こえてきた。
 誰かがイリヤの机を片づけ、私物を箱詰めしているのかと思うと、激しい怒りが彼を満たした。侵入者の首根っこ引っこ抜いてやることだけ考えながら、歩み寄ってドアをオープンにする。

 イリヤが新聞をバサッと返しながら、コーヒーカップから顔を上げた。
「おはよう」
 膝からガクンと力が抜け、ナポレオンは壁に手をついて身体を支えた。イリヤが素早くやってきて、彼の腕を取って支えてくれた。
「どうしたんだよ、具合が悪いの?ひどい顔色だ」
 ナポレオンは引き攣ったような笑いを漏らした。
「僕?僕、が――ひどい様子だって?」
 彼の目に浮かぶのは、金属のテーブルに横たわり、青白く、冷たく、硬くなっていたイリヤだった。彼はイリヤにひきずられてオフィスを進み、自分の椅子に腰掛けさせられた。仰天しきったイリヤの表情。
「真面目に聞いてるんだぜ、ナポレオン。顔色が良くない。家に帰ったほうがよかないか」
「今日は何曜日?」
 イリヤはさらに心配そうな顔になる。
「やっぱりだ。来いよ、家まで送ってやる」
「そうじゃなくて、今日は何曜日だ?言ってくれ」
「火曜日」
 ナポレオンは両手に顔を埋め、震える息を吐き出した。
 今日は火曜日。ということはあの、彼が過ごしてきた火曜日は全て夢だった。それですべて説明がつく。テーブルがちゃんと立っていたことも、自分が二日酔になっていないことも。死ぬほど恐ろしい、リアルな夢。ナポレオンは長い吐息をついた。イリヤがナポレオンの側で屈み込んでいる。
「ナポレオン、何だよ。どうしたんだ?」
 ナポレオンは顔を上げ、パートナーをただ見詰めた。心配そうに顔をしかめた、まさに生きているパートナー。こんな素晴らしいものは見たことがない。彼は手を上げて、イリヤの顔に触れ、その頬を包んだ。肌はやわらかく、あたたかい。身体を傾けてイリヤの額に額をくっつける。
「もう死ぬんじゃないよ、いいね?」
「誰か死んだのか?何かあったってそういうことなのか?」
 イリヤを混乱させているのが解って、ナポレオンは本当のことを話す決心をした。顔を引くと相手に固く笑いかける。
「ゆうべ君が死んだ夢を見たんだ。まるで現実のような」
 パートナーをじろじろ見ながら、イリヤは首を傾げた。
「でも今あんたは、生きてる僕を見てる。だろ?」
「そうだ。今僕は、生きてる君に会えた」
 ナポレオンは胸がいっぱいになるほど、相手を見詰めるのを止められずにいた。
「それでよし。腹が減ったな。食事に行こうや」
 イリヤが立ち上った。
「何か食べたら、あんたの気分もよくなるだろ」
 ナポレオンは普段通りの気分になっていくのを感じながら、半分だけ笑ってみせた。
「君はまちがってるよ。食べ物でいつも気分がよくなるのはそっちだろう」
 イリヤが頷く。
「その通りさ。でもあんたの気分をよくするのは何かと考えるに、何か食べてればまだしも人目を引かずに済むんじゃないか」
 彼はにやっと笑った。
「それに、喜んであんたと人目を引きたがるだれかさんに会うかもしれないし!」
 ナポレオンはわざと気分を害したように唇を曲げた。
「そりゃいつだって、希望者はいますとも」
 イリヤは部屋を横切って、ドアを横に開いた。
「ま、僕はあんたの邪魔はしないよ」
 ビル全体をナポレオンに差し出すかのような仕草をする。
「僕が勧めなきゃいけなかったのは、朝ごはんだけじゃないってことだな」
 ナポレオンは首を振った。あの夢のことをすっかり頭から追い出してしまえるまでは、イリヤから探り出せることは何もない。目下残りのカードはまだしっかりと伏せられたままなのだ。
「それで君に横から獲物を攫われるって?御免だね」
 ナポレオンはすっかり気にしていないところを見せようとしたが、自分であまり上手くいかなかったのが分かった。彼の声に含まれた何かがイリヤをはっとさせたらしい。彼はナポレオンの背後に歩み寄った。
「相当に酷い夢だったんだな」
「そうだ」
 イリヤは柔らかく微笑むと、手を伸ばしてナポレオンを立ち上らせた。
「じゃあ僕と一緒に来れば。そして確かに僕が生きてると解るまで、僕が食ってるとこを見てるといい」
 ナポレオンは彼を抱きしめたい衝動と戦った。そしてちょっと彼に触ったり、彼の腕や手を取ったり、でなければもう一度彼の頬に触れ、叶うならばそのさらさらした金の髪を指で梳きたい衝動とも戦わねばならなかった。イリヤはまた彼をじっと見た。
「あんたもコーヒーぐらい飲まなきゃ」
 ナポレオンは引っ張られるに任せることにした。コーヒーの一杯は確かに悪くない。通路を歩きながら、彼はイリヤにまだ腕を取られているのを意識し、自分が彼に触れたがっているのを察しているのだろうかと考えた。理由は何にしろ、ナポレオンはそれを嬉しく思った。

 彼らはカフェテリアまで辿り着き、二人だけで座れるテーブルを見つけた。ナポレオンはコーヒーを飲みながら、朝食にかぶりついているイリヤを眺めていた。イリヤが視線に気づいているのは解っていたが、目をそこから逸らすことは出来なかった。
 あの夢はそれほどに現実的で、今まであんな夢を見た憶えはなかった。
「――話してみてよ」
「うん?」
「夢をさ。僕はどうやって死んだの?」
 ナポレオンは首を横に振った。その話はしたくなかった。
「駄目。僕は知りたいんだ。それに僕が思うに、あんたは口に出してみる必要があると思う」
「君……君は、撃たれた」
 イリヤは眉を上げた。
「それだけ?僕が撃たれたって?」
 彼は椅子の背に寄りかかった。
「あんたの反応からするに、少なくとも僕はTHRUSHに捕まって、四つに引き裂かれたとか、あんたが見ている前で流砂に埋もれていって、じわじわ悲惨な死に方をしたのかと、」
 ナポレオンは激しく首を振った。
「実際に君が死んだところは見てないんだ」
 イリヤが不思議そうな表情を浮かべる。
「あんたは見たって言わなかったか?」
「そうじゃない。その夢は、君が撃たれたところから始まった。何もかも済んでしまったあとの夢を見たんだ。ウェイバリー氏のオフィスに呼び出され、君が死んだと告げられる夢を見た。モルグに行って、君の死体を見て、胸の弾痕に触り、君がどんなに冷たくなってしまったかを感じる夢を見た。家に戻って、辛さから逃れるために前後不覚に酔っ払おうとする夢を、見た……」

 自分の声がしわがれ、目の奥がつんとしてきたことにぎょっとなって、ナポレオンは話し止めた。もう一口コーヒーを啜って間を持たせ、イリヤに自分の手が震えているのを知られないよう願った。
 視線を上げてイリヤと顔を合わせると、彼は気づいていて、気遣わしげな目付きをしているのが分かった。ナポレオンは笑い飛ばしてしまおうとした。
「なんてことないさ。多分変なモノでも食べたんだろ」
「消化に悪いようなのを?墓場(grave)というより肉汁(gravy)が多すぎたんだな」
 ナポレオンはわざとらしくゲラゲラ笑った。
「その通り。そして時季でもないのに、クリスマスの幽霊[注1]に来られちゃったんだろうさ」
 文学的な例えを引っ張り出して来たりするのは、よりあのことは夢だと思わせ、またショッキングな現実感を薄れさせてくれた。
「今晩はメニューを変えることだね」
「じゃあ僕と夕食を一緒にしないか?」
 あれこれ考えるより前に言葉が出てきた。イリヤは唇の片方でにやりとした。
「一食分僕が食ってるところを見るだけじゃ安心できなかったのかい」
 本当の理由を胸の内に、ナポレオンはただ首を振った。これは正に、彼にもう一度チャンスが与えられたようなもので、もう一日でも無駄にしたくはなかった。イリヤを手に入れるための、これが始まりなのだ。
「僕はただ君と一緒にいたいんだ」
 にやにや笑いがはにかむような笑いに変わり、それはナポレオンを魅了する。彼は微笑みを返した。
「いいかな?」
 イリヤは数秒間、ナポレオンをじっと見た。
「店は僕が決めていいかい」
「君が行きたいところならどこなりと」
 イリヤの眼が悪戯っぽく輝いた。ナポレオンはそれに条件をつけた。
「真っ当な理由があることと、」
 更に条件をつける。
「それに、僕の好みじゃないって知ってるところはダメ」
 イリヤが文句を言った。
「それじゃ楽しみってものが全然ないじゃないか、ナポレオン」
「で、答えは?いいの?」
「いいよいいよ、夕食を御一緒しましょ」
 イリヤは立ち上った。
「じゃあオフィスに戻ろう。あんたは僕が自分の書類を片づけてる間、僕をじろじろ見てればいい」
 ナポレオンはにっと笑った。ついに彼を捉えていた悪夢は離れ、胸の中のしこりが融けてゆくのを感じる。
「そいつはいいね。それで君の分が済んだら、僕の書類を片してくれるのも見ていられる」
 イリヤがふんと鼻を鳴らし、オフィスへと先に立って歩いた。そうして、午前中は二人とも、ゆっくりデスクワークに取り組んで過ぎていった。

 あと少しで昼休みという時、ナポレオンはウェイバリーのオフィスに呼び出された。ウェイバリーはテーブルを回して、ナポレオンの前に封筒を送り出した。
「これを届けてもらいたい。きっかり1時半までに渡してくれたまえ」
 ナポレオンは眉を顰めた。使い走りの小僧(デリバリーボーイ)のようなことをさせられるのは好きではない。
「どうして僕が?」
 この会話に胸の中のベルが一度鳴ったが、彼はそれを上司に聞かれでもするかのように、脇へと押しやった。
「これの中身は最重要機密に属するものだ。私を除けば、資格があってなおかつ手が空いているのは君とミスタ・クリヤキンだけでね。それに君のロシアのお友達には、午後から別の用事を与えるつもりだ」
 ナポレオンははっと緊張した。
「どのような用事ですか?」
「研究に関することだ」
 彼は肩から力を抜いた。封筒を手に取って立ち上ると、ジャケットの内側のポケットに滑り込ませ、ウェイバリーの方を向く。
「他に知っておいた方がいいようなことは?」
「とにかくそれを間違いなく届けてくれたまえ、ミスタ・ソロ」
 ナポレオンはウェイバリーに、気取ったお辞儀をしてみせた。
「誠心努力致しましょう」

 イリヤが午後一杯、何の危険もなくラボに落ち着いていると知り、彼は今や相当に浮かれていた。御老人のオフィスを後にすると、イリヤと一緒に使っているオフィスに向かった。ドアから顔を突き出して言う。
「届け物をしにいくことになった。昼は外に出て何か食べてくるよ」
 イリヤが眉を寄せる。
「何だって?僕が食ってるところをもう見なくていいのかい。ということは夕食もキャンセル?」
 ナポレオンは相手をじろっと見た。
「ご冗談を!」
 人差し指をパートナーに突き出す。
「ウェイバリーさんは君に、午後いっぱいラボで遊ばせてくれるそうだから、他のおともだちとなかよくするんだよ。それと僕は七時におむかえにいくからね。どこに行きたいのか決めて、予約もしておくように」
 イリヤが手を振った。
「さっさとその荷物を届けに行って、僕の邪魔をすんのは止めてくれ」
 ナポレオンは笑ってドアを閉めた。建物から出ると、昼食時で混雑する街中を運転する気持ちのゆとりはなさそうなので、タクシーを拾った。後部座席に座り、キャブが動き出すと、彼は所定の場所を確認し、突然デジャ・ヴの感覚に襲われた。それが何なのか解るまでしばらくかかったが、ようやく気がついた。
 これは昨夜見た夢だ。この任務に、このアドレス。身体の中を冷たいものが流れる。少しの間タクシーを止めて、本部に駆け戻ってパートナーが無事かどうか確認しようかと思ったが、そこで彼は踏みとどまった。深呼吸をし、もっともな理由を考えようとする。
 きっとこの数日取っ組んでいた書類のどこかで、この所在地を見かけたのに違いない。そして何かの拍子に、あの悪夢の中で出てきたのだ。事実、彼の机の上には数え切れないぐらいの書類が散らばっていた。そしてウェイバリー氏は、夢のことを気にするあまり、届け先を失念してしまっているのにおそらく気づかなかったのだろう。
 ほんの少しだけ納得して、ナポレオンはキャブのシートに凭れた。車の流れより早く時が過ぎるに連れて、彼の懸念は高まっていった。昨晩ベッドになど入らなければよかった、と痛烈に思い、イリヤとの夕食を夢見る方に思いを切り替えた。そしてあわよくば、この夜をちょっとばかり現実的な『寝る』という行為で締めくくることもできるかもしれない……。
 何を夢見てるんだ、という理性の声をナポレオンは無視した。昨夜自分が見た夢よりずっと良かったし、何事もどこからか始まるものなのだから。

 ようやくタクシーが目的地に着き、ナポレオンはほっと溜め息をもらした。時計を見ると、ここに着くまでにほぼ一時間かかっている。受渡しまであと四十五分、今からちょっと何か食べるか、とナポレオンは店のありそうな場所で探してみた。『アンジェロ』とある、なかなか良さそうなイタリアンが目についた。
 彼は席につき、メニューを手に取った。開いた瞬間、背筋を震えが走った。夢の中で、彼はこの店にいた。リガトーニ[注2]とガーリック・ブレッドを注文したのだ。彼は素早く辺りを見回し、誰も見ていないのを確認するとコミュニケーターを取り出して、パートナーを呼び出した。
「クリヤキンだ」
 ナポレオンは安心のあまり、危うく息を詰まらせそうになった。
「今どこにいる?」
「ラボの中」
 イリヤが顔を顰めたのが、通信機から伝わってくるようだった。
「どうしてさ?あんたはどこにいるの?何かトラブルが?」
「いや違う、こっちは大丈夫だ」
 そのことに関してナポレオンは自信が持てなかった。自分はちょっと――どうかしてしまったらしい。
「お昼を食べるとこさ」
「悪いねナポレオン、僕はもう食っちまった。よーく噛んだやつなら分けてやれるけど」
「馬鹿言ってろ」
 イリヤが静かに笑っている、柔らかくクスクス言う声がする。誰かがイリヤを呼ぶ声も聞こえた。
「おっと行かなきゃ。僕を呼んでる」
「OK、でも……イリヤ?」
「何だよ」
「ラボに居てくれよ、いいね?」
「僕はどこにも行かないし、もしあんたが僕の邪魔をするのを止めないと、僕は夕食の時間になってもこの実験をやってることになるぞ」
「根性悪のロシア人め!」
 ソロは通信を切り、にんまり笑った。その笑いは、もう一度メニューを見た時に顔からすべり落ちた。これに関する合理的な説明は?以前にここで食事をした記憶はない。彼は、どこのイタリア料理屋でもメニューは似たようなものだ、と考えた。
 ウエイトレスが現われ、ナポレオンは食べたいものをそのまま頼むのは止めた。彼はラザーニャを注文し、ガーリック・ブレッドはパスした。
 昼食の味は殆ど分からなかった。胸の中がかき混ぜられているようで、もう一度イリヤの無事を確認したい誘惑をどうにかはねのけていた。時間に気づくと、彼はテーブルに十分以上の金額を放り出し、そそくさと出ていった。

 ナポレオンは受け渡し地点にかっきり一時半に到着した。誰も居なかった。ナポレオンはふんと息を吐いた。夢の中でも、接触は遅れていたことが彼の頭の中をよぎった。相手が来た時に時計を見て、1時36分だったことを憶えている。相手は男で、大柄で、ナポレオンより数インチは高く、たっぷり数ポンドは重そうだった。明るい茶色のベルトのついた、バーバリー柄の襟模様のある、ロンドン風のレインコートを着ていたのだ。
 ナポレオンは全身全霊で、女が現れてくれないかと、やせっぽちで背の低い男が、でなければ赤いゴムの鼻をつけたサーカスのピエロ野郎だっていい、と願った。ロンドン風のレインコートを着た、でかい男でなければ誰でも。
 時計が1時36分を指した時、ナポレオンは目を瞑り、それから恐る恐る、夢から出てきた男が近づいてくる方を見た。
 男が現れた。ゆうに六フィートはある体格に、忌々しいレインコート。ナポレオンはかつてないほど迅速に受け渡しを行った。男が必要な暗号を言うと、ナポレオンは機械的に封筒を差し出した。
 タクシーを捕まえようとしながら、彼はコミュニケーターを掴み出すと、もう一度パートナーを呼び出した。応答がないので彼は毒づきながら、メインオペレーターに通信した。この時ばかりは御愛想を言って時間を無駄遣いはできなかった。
「こちらソロ、ラボに繋いでくれ」
 キャブを拾うには場所が悪いと気付き、彼はそのブロックから駆け出した。憶えのない誰かが応答する。あくびの途中で出たような声に聞こえた。
「ラボですがァ」
「イリヤを出してくれ」
 付け加えて言った。
「こちらはナポレオン・ソロだ」
 彼は普段声高に名乗ったりはしないのだが、手間ひまかけているような気分ではなかった。通信の向こう側の者が、急にぺこぺこしはじめた。
「は、ミスタ・ソロ。申し訳ございませんが、クリヤキンさんは居られません。三十分ぐらい前に、ウェイバリー氏に会いにゆかれました」
 ナポレオンは顔の下半分を手で擦った。
「ウェイバリー氏のオフィスに繋いでくれ」
 ためらっているような間が空く。
「あのっ……やり方が分からないんです。僕が行って……」
「もういい」
 ソロは通信を切り、もう一度メイン・オペレーターを呼び出した。数秒のち、上司と会話が繋がった。
「ああミスタ・ソロ?包みは無事届けてくれたろうね」
「はい。サインして密閉して、届けましたよ。イリヤと話がしたいんです。彼はそこですか?」
 お願いだ。彼は思った。お願いだからそこにいてくれ。
「いや。ラボの出入り業者が、物資の受け取りのことで連絡してきてね。爆発性のものだということで、ミスタ・クリヤキンが直々に取りに来るよう言ってきた」
 ナポレオンの心臓がドクドク鳴り出した。
「彼に危険が迫っていると思えるふしがあるんです。彼がどこへ行ったかご存知ですか?」
「ああ、それは知っているとも」
 ウェイバリーは早口でアドレスを告げた。
「何故彼が危険だと分かるんだね?」
 狂ったように手を振るナポレオンに、ようやく一台のタクシーが応えた。
「よろしければ後で説明させて下さい!」
 もしイリヤが無事で、ナポレオンは昨日の夢のせいで彼の後を追っかけたとあれば、この日が過ぎてしまう前にウェイバリー氏に、精神科医の所へ連れて行かれるだろう。
 ウェイバリーは不満気な声を出した。
「こちらから誰か向かわせたほうがいいかね?」
「いや、僕からの方がずっと近い。多分――何でもないんです」
 ナポレオンは神に、それが正しいことを祈った。通信機からまた不満気な声が聞こえる。
「よろしい、ミスタ・ソロ。しかし後で一切を報告してもらうよ」

 ソロは通信を切り、ちょうど前に止まったキャブに乗り込んだ。運転手にアドレスを告げるとシートに着き、それから屈み込んで言った。
「早いとこ着いてくれたら、二十ドル余分に払おう」
 タイヤを軋ませながらタクシーが走り出し、彼は座席に背中をぶっつけた。神業でもなければこれ以上早くは着けまいということに満足しつつ、彼はソワソワと隣の座席を指で叩き続けた。
 彼は頭の中で時間を計算しはじめた。もしイリヤが三十分前にウェイバリー氏に呼び出されて、それからオフィスに戻って上着を取り、もしかしたら何人かと立ち止まって話をし……時計を睨み付けながらナポレオンは溜め息をついた。イリヤが何人と立ち話をしようが、大概の場合においてのイリヤの話の短さを考えると、ナポレオンより先にこの場所に辿り着いてしまう。
 それでタクシーがもっと早くなるとでもいうように、ナポレオンは片足でドンと床を踏みしめた。誉められたことではない上に、危険でさえあるのはわかっているが。
 ずっと先の信号機が黄色に変った時、運転手がアクセルをふかしたので彼はぎょっとした。車は赤信号の真っ只中で、交差点を突っ切っていった。この男はもう二十ドルを手にしたようなものだ。
 突然ナポレオンは、イリヤが自分の呼び出しに応えなかったのを思い出した。頭の中でまた時間を計算する。もしイリヤがすぐに出ていれば、ナポレオンが連絡を取ろうとした時にはその場に到着している。恐ろしい予測が背筋を貫き、彼は何故イリヤが応えなかったのか、理由を引っ張りだそうとした。
 もしかしたらイリヤは、コミュニケーターをラボに忘れていったのかもしれない。もしかしたら落っことしたのかもしれない、もしかしたら、ナポレオンの呼び出しは聞いたけれど、パートナーに自分の無事を納得させるのにうんざりしたのかも知れない。
 キャブの運転手に何と思われようが気にせず、ナポレオンはコミュニケーターを取り出すと、もう一度イリヤを呼び出した。
「おい、イリヤ、イリヤ、応答しろ!」
 何も返ってこない。彼は押し寄せてくるパニックを塞き止めようと、銀色の細い筒を握り締めていた。

 キャブがガンっと急停止し、彼は前につんのめった。
「着きましたよ、だんな」
 ナポレオンは財布を取り出すと、二十ドル札を二枚運転席に放った。車から出て、素早く自分の場所を確認する。道路標識を見て、彼は静かな通りを下っていった。番地を数えてイリヤの居場所へ辿り着くと、彼は顔を顰めた。
 こんな場所であるはずがない。物資の倉庫らしきものはなく、そこにあるのは廃ビルだった。望みがあるとすれば、この場所を見てイリヤが警戒し、応援を呼んでいることだ。
 それからナポレオンは、誰を相手にそう考えているかを思い出した。あの男は他に選択肢がない限り、絶対に応援など呼ばない。手後れになるまで、イリヤは万策尽きたことに気付きはしないのだ。
 動揺している自分に苛立ちながら、ナポレオンは扉に手をかけた。鍵は開いている。銃を取り出して、彼は注意深く扉を開くと、その脇に立った。弾丸が飛んでくるのを待ったが、そこにあるのは静けさのみ。ドアをいっぱいに開けると中に飛び込む。

 パートナーが血溜りの中で床に倒れているのを目にした時、ナポレオンの心臓は凍り付いた。駆け寄りながら彼は叫び声を上げた。血の海が膝を染めるのも構わず、パートナーの横に膝をつく。鼓動を一つ感じたが、それが彼のものでないのは分かっていた。イリヤの眼は虚ろに天井を見上げている。ナポレオンは深い呻き声を漏らすと、イリヤを胸に抱き上げ、その身体を揺すぶった。
 カツンと音がして、顔を向けるとイリヤのコミュニケーターが、ナポレオンが動かした拍子に手から落ちていた。もし彼が救助を呼ぼうとしていたり、ナポレオンの呼び出しに応じようとしていても、こんなに血を流していては話すことも出来ないだろうに。
 あぁ神よ、もしかしたらイリヤはナポレオンの通信に応えようとしていて、そのせいで肝心の時に注意が逸れていたのだとしたら!

 どのぐらい経ったものか、ナポレオンはその場に膝をついてイリヤの死体を抱えていたが、コミュニケーターが二つとも鳴り出した拍子にびくっと意識を取り戻した。
 彼はイリヤのそれを宇宙人がこさえたものであるかのように睨んでいたが、ようやくロシア人を抱えたまま、屈んでそれを拾い上げた。どうにか声を絞り出す。
「ソロです」
「おお、ソロ君か。もうミスタ・クリヤキンは見つかったかね?」
 応答がないので、もう一度声がした。今度はもう少し命令調で。
「ミスタ・ソロ、報告を」
「……彼は、死にました」
「何だって?」
 ナポレオンの声がむせび泣きに変わる。
「彼は死んだ。僕が来た時は遅すぎたんです」
 長い間があき、それから咳払いの音。
「今からそちらへ迎えをよこそう」
 ウェイバリーには見えないのにも構わず、ナポレオンは無言で頷くと、コミュニケーターが床に落ちるに任せた。彼はイリヤをしっかり抱き寄せると、金色の髪に顔をうずめた。

 回収班はどうにかナポレオンを宥めすかし、イリヤから引き離した。彼は医務室のベッドでまだ呆然としていた。ウェイバリーが話をしにやってきて、どうして彼がイリヤの危険を知っていたのか知りたがったが、ナポレオンはそのことについて話すのが嫌で、ふいと顔を背けてしまった。結局はなんにもならなかったのだ。
 ナポレオンはぼんやりと、医師がウェイバリー氏に静かにと言い、彼には休息が必要だと話しているのを聞いた。
 彼は休息など欲していなかった。世の中全てを呪い、おのれの心臓を掴み出してやりたかった。パートナーの命を救うため、思いもよらぬ予見の力を与えられたというのに、自分はそれを台無しにしてしまった。予兆を全て無視し、危険の徴候を理屈で片づけてしまった。イリヤは再び殺された。だが今度は自分の過ちのせいなのだ。

 どこからか勝手に、正気とは思えぬ考えが彼の胸に閃いた。それを目の当たりにし、またそれがほのめかす希望に彼は暫し打ち震えた。

 もしかするとまたチャンスがあるかもしれない。
 もしかすると違う火曜日が来るかもしれない。

 彼は声を立てずに呻いた。多分頭がどうかしているんだ。その考えを押し退けてみたが、水の中のコルクのように浮かび上がって来る。
 もしかするとただ眠りこみさえすれば、目覚めた時にはまた全てが夢になっているかもしれないのだ。

 看護婦の一人が巡回で歩いてきた。
「ソロさん、眠れませんか?」
 彼女は優しく話しかけた。皆が彼に優しく話しかけるのだ。彼らが皆、自分が徐々に正気を失ってゆくのを恐れているのに気はついていた。それは間違いだという自信が彼にはなかった。
 看護婦は彼を覗き見ると、目が開いているのに気づいた。
「あら、起きてらしたんですね」
 彼女はためらいがちに言った。
「何か欲しいものはありますか?」
 大丈夫かと聞いてこなかったので、ナポレオンは有り難く思った。もし明日が水曜であることがはっきりすれば、二度と大丈夫でいられる自信がない。ちょうど今ごろ、彼はイリヤと夕食を一緒にしている筈だった。彼を引きつけて、誘いかけて、あのロシア人の心の中に、彼のベッドの中に入り込もうとして。
「睡眠薬を貰えるだろうか?強いやつを」
 彼女の目に憐憫が浮かぶのが嫌で、ナポレオンは眼を瞑り、見えないようにした。相手の返事が聞こえてくる。
「――何かお持ちしますわ」
 ナポレオンは頷いた。眠り込むのが早ければ早いほど、もう一度チャンスを貰えるかどうかも早く分かるというものだ。

Continued on part3


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※注釈※
1クリスマスの幽霊チャールズ・ディケンズ著『クリスマス・キャロル』から
2リガトーニマカロニより穴が大きく、縦筋の入っているショートパスタ


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