THE TUESDAY AFFAIR-PART1/2/3/ 4 /5

PART4

 ナポレオンは再び、自分の部屋のベッドで目を醒ました。
 彼は両手を持ち上げ、どこにも傷がないのを確かめた。ぼんやりと憶えているのは、イリヤから引き離されて、医務室に連れて行かれて、手を洗われ、傷を縫合されたことだった。全てのことが霧のように霞んで思えた。
 いつまでこんなことに耐えられるのだろう、と彼は思った。この身は繰り返し繰り返しチャンスが与えられているのではなくて、地獄にいるのではないだろうか。自分はとうに死んでいて、地獄に陥とされて、来る日も来る日も、どうあがいてもイリヤの死ぬところを見せられるという酷い罰を受けているのではないだろうか?
 イリヤをアパートに縛り付けておいたり、国境の外へ連れ出してみたところでどうなるだろう。来る日も来る日も、あの打ち捨てられたビルのからっぽの部屋で、彼が撃ち殺されたところで終わってしまうのだ。毎日毎日、毎月毎月、毎年毎年――未来永劫。

 ナポレオンはベッド脇の時計に目を向けた。もう仕事に遅れそうな時間だった。イリヤを呼び出そうかと考えたが、それは思い止まった。彼が生きているのは、まだあと数時間の間生きているのは判っていた。またウラジミールという名の誰かに殺されるまでは。
 その光景が目に浮かぶようだった。イリヤは罠が仕掛けられていると分かって、用心深くドアに近づくことだろう。恐らくウラジミールがドアを開け、話があると言って彼を招きいれるだろう。多分イリヤは自ら中に入り、自分を狙っているかもしれない人物が、自分の知っている者だとわかって躊躇するだろう。ちょうどナポレオンがしたように。
 ナポレオンは横になったまま、イリヤを殺した者への怒りを募らせていた。そして怒りが大きくなると共に、ある計画を思いついた。もしこれがうまく運べば全てが片付く。そうでなければナポレオンは、自分が地獄にいることを思い知るのだ。

 ナポレオンはコミュニケーターに手を伸ばし、体調が悪いと告げ、このことをイリヤに伝えてくれるよう頼んでおいた。それからコミュニケーターを送信のみに切り替えて、誰からも呼び出されないようにした。
 彼は起き上がり、シャワーを浴び、簡単な朝食を摂ると服を着替えた。銃を取って装填を確かめると、ポケットにサイレンサーを滑り込ませてアパートを出た。
 ナポレオンはタクシーを拾って荒れ果てたオフィス・ビルに向かい、前回自分とイリヤが入っていった窓まで昇っていった。吹き抜け部分から1階に降り、空箱を幾つか動かして隠れ場所を作って、外からは箱が積み重なっている以外何も見えないようにした。
 腰を下ろすと、箱と箱の間のわずかな隙間から二つの入り口を覗くことが出来た。銃を取り出し、サイレンサーを取り付ける。ナポレオンは冷ややかな眼差しで、立てた膝の上で軽く銃を構えると、壁に凭れて長い間待った。

 そうして三時間経った頃、誰かがドアを開ける音がした。戸口に視線を据え、標的が来るのを待つ。男が一人入ってきて、背後のドアを閉めた。
 男が振り向いた時、それがウラジミールだとナポレオンは認めた。慎重に銃を構え、彼は男の眉間に、正確に弾丸を撃ち込んだ。
 黒の手袋を嵌めて立ち上がり、ナポレオンは死体のところへ行くと、ウラジミールのポケットを探って銃を見つけた。銃をひっぱり出し、男の両手を調べてみた。相手に銃を構える余裕も与えず、一発で仕留めてしまったが、拳銃たこを見ればどちらが利き手か分かる筈だ。
 利き腕は右だと分かったので、ナポレオンは死体の指に銃の床尾を握らせ、引き金に指を掛けさせた。それから腕を放すと、銃はそのまま床に転がった。男の身分証明書を探すと、上着の内ポケットにパスケースが見つかった。ナポレオンは本部に通信を入れ、リサを呼び出してもらった。
 ありったけの愛想をふりまいて、イリヤが物品を受け取りに行くことになっている場所を彼女に尋ねた。ウェイバリー氏はしばしば、エージェントの動静についてを秘守することに拘る向きがあり、リサもそれは承知している。しかしこれはちょっとしたお使いであり、相手はナポレオンであり、彼とイリヤがどれほど親しい友人であるかという点を鑑みて、彼女はようやく所在地をナポレオンに告げてくれた。
 ナポレオンは周りが囲われた状態であるのを有り難く思いつつ、通信を切った。これで彼にはここにいる理由が出来たわけだ。状況からして、これが罠なのは明らかであり、男の手には銃が握られていた。そしてナポレオンは正当防衛で彼を撃った。一件落着というわけだ。

 彼はパスケースを開いてみた。中には写真入りのIDが入っていて、名前が載っていた。ウラジミール=マラシェンコ。イリヤが彼をウラジミールと呼んでいなければ、ナポレオンはこれを偽造IDではないかと思っただろう。ナポレオンは彼が何者で、何故彼がイリヤを殺そうとしていたのか考え込んだ。
 もう一度IDを見て、部屋に横たわっている死体を見た。あまりいい男ではない。額に弾丸の穴があいていても、それで幾らかマシになったとも思えない。
 自分はこの男をひとかけらの慈悲もなく殺してしまった、とナポレオンは思った。しかしそのあと、二日続けてイリヤの死体を抱いていたこの場所を眺めているうち、急に彼はこの男がまだ生きていて、もう一度撃ち殺してやれないものかと考えた。
 これ以上男とこの部屋にいる気になれず、ナポレオンはサイレンサーを外してポケットに入れ、銃をホルスターに納めて、正面のドアから出ていった。ブロックの外れまで歩いて行き、イリヤが着いた時には嫌でも目に入るようにして、建物に寄りかかった。


 ちらと見た腕時計が2時15分を差した時、イリヤがこちらへやってくるのが目に入った。ナポレオンは彼から目が離せなかった。イリヤは、とまどったような笑みを向けてくれた。
「ナポレオン?ここで何をしてるんだ。病気じゃなかったのか?」
「気分がよくなってきたんで、リサに君がどこにいるのか教えて貰ったのさ」
 自分の用事を思い出し、イリヤは建物を見上げ、眉を顰めた。
「様子が変だな」
「その通り。誰かが君を帰らぬ旅に出そうとしていたのさ」
「あんた一人で入っていったのか?」
 ますます眉間の皺を深くする。
「僕が来るのを待ってりゃよかったのに、ナポレオン。こういう時は二人で行動するべきじゃないのか」
 ナポレオンはどうにか苦々しい笑いを堪えた。そのやり方がどんなひどい結末を迎えたか考えるのも嫌だったのだ。
「まあ、僕のことは知ってるだろう?『天使も踏むを恐れるところに』ってね」[注5]
 イリヤはもう一度だけナポレオンをじろりと睨み、とりあえずはこれ以上、相棒を責めてもしょうがないと考えた。
「で、何があったんだ?」
 ナポレオンは男のIDを差し出した。
「この男を知ってるか?」
 イリヤが眉を上げた。
「ウラジミール=マラシェンコ?」
 ナポレオンを見上げて言う。
「KGBだ」
 ナポレオンはぎくりとした。KGBだって?ということはKGBがイリヤを殺そうとしていて、更に殺し屋が送られて来ることになるのか?
「どうしてKGBが君を殺そうとするんだ?」
 イリヤが首を振った。
「これはKGBとは無関係だと思うよ。ウラジミールは僕を憎んでいて、何度も脅しをかけられたことがある」
「何のために?」
 イリヤからKGB時代の話を聞かされるたび、ナポレオンは彼がもうその一員でないことを感謝するばかりだった。彼が自己を保ったまま、どのようにしてそこから逃れ出て来たのか、ナポレオンには考えもつかなかった。
「僕が彼より年下で、彼の考えでは自分が受けるべき昇進を、僕が受けたからさ」
「役職のために君を殺そうとしたっていうのか?」
 ナポレオンは中に入っていって、あの男の睾丸を引きちぎり喉に押し込んでやりたいと思った。イリヤはたかが役職のために、危うく殺されかけたというのか?
「たかが役職じゃないんだよ、ナポレオン。KGBにたかが役職なんてものは存在しないんだ。上に立つほどに権力や名声、そしていい生活が手に入る。彼はどんどん年を取っていくのに、逆にそこから遠ざかっていった。僕は彼の憎悪をいつも背中に感じていたよ。まあ、あまりいい職場環境じゃあなかったね」
 ナポレオンはイリヤの淡々とした、実務的な口調に鼻白んだ。
「――なぜ今?」
 イリヤが視線を上げた。
「何だって?」
「何故今になって?どうして、今更奴は君を殺そうとするんだ?」
 イリヤは肩を竦めた。
「たぶん彼は引退させられて、定年後の趣味が必要だったんだろう」
 そしてもう一度肩をそびやかした。
「僕にわかるもんか。もしかしたら他に仕事があってここへ送られ、一石二鳥を目論んだのかも知れないし」

 イリヤが建物を指差した。
「死体を確認するよ」
 ナポレオンは頷いた。
「そりゃあ――」
「いいだろう?」
 イリヤが柔らかく微笑んだ。
「あんたが奴に撃たれなくてよかったよ。同志(タバリーシ)
 ナポレオンは彼をじっと見つめた。その微笑みに、輝く青い瞳に魅了され、胸の中の思いが自身の視線から過剰にあふれ出ているのが分かったが、それを止めようもなかった。彼は全身全霊で、この火曜という日を歓喜で迎えていた――イリヤはもう殺されないのだ!
「夕食を一緒にしないか?」
 ほんの数秒、ナポレオンはイリヤに断られるのではないかと危惧したが、それで思い止まりはしなかった。自分がイリヤに必要とされているのは分かっているし、イリヤに愛されていることも知っている。
 ナポレオンはただこれ以上待つのが嫌だった。既にイリヤを腕に抱き、彼を味わい、彼を感じたことがあるにせよ、彼は今夜再びイリヤをこの腕に抱きたかった。そして残りの人生が続く間、毎夜でも彼を抱いていたかった。
 イリヤの困惑した眼差しを見つめる。ナポレオンの瞳に何を認めたにせよ、彼は落ち着きをなくしていた。やがてその当惑は好奇の色に変わり、ナポレオンは夕食の約束を取り付けたことを確信した。彼は更に甘い餌を撒いた。
「君の行きたいところならどこへでも」
「どこでも?」
 ナポレオンは以前の修正事項を思い出し、もう一度付け加えた。
「まっとうな理由があって、僕の好みじゃないと分かってるところ以外なら」
 イリヤは文句を言った。
「それじゃ楽しみってものが全然ないじゃないか、ナポレオン」
「その通り。で、夕食を御一緒してもらえるのかな?」
 イリヤは長く引っ張るような溜め息をついた。
「まあいいけど。実際他に用事もないし、それに今食糧を切らしてるしさ」
 ナポレオンは目をぱちくりさせた。
「まったく、礼儀ってものをご存知ないのかね!」
 それからぐるりを見回し、
「車で来たのか、タクシーを使ったのか?」
「車で」
「じゃあ行こう。一緒に車で本部まで戻って、それから夕食に行けばいい」
 それから――彼は内心で付け加えた。君は僕のアパートまで行って、夜を過ごせばいい。
 更に彼の空想は続く――途中で君のアパートに寄って、トランクに荷物を纏めてきたっていいんだよ――。

 イリヤはもう一度建物を指差した。
「報告はしたかい?まず彼を調べて、相手がウラジミールかどうか僕が確認した方がいいだろう」
 ナポレオンは頷き、彼を案内した。イリヤは男を見下ろした。
「……確かに奴だ」
 そして男の額を指差した。
「ナイス・ショット」
 ナポレオンはにやっと笑った。
「ありがと。光栄の射たり撃ったりだ」
 その洒落に、イリヤは目をきょとんとさせた。
「ご親切にも君はこいつを撃ち殺し、僕の危機を救ってくれたわけだね。じゃ連絡を入れるよ」
 彼はコミュニケーターを出して死体の回収を要請した。そして回収班が本部に戻ったら、この件をウェイバリー氏に知らせるように言った。銀色の筒をポケットに戻すと、イリヤはこの場を去ろうと合図した。

 通りまで出てしまうと、イリヤは胃袋のあたりを叩いて言った。
「今日はいいイタリアン・レストランで昼飯を食ったよ。マルベリー通りの、グランドとヘスターの間で、『アンジェロ』って言うんだ」
 それはナポレオンも嫌と言うほど知っているところだ。
「僕もそこには何度か行ったよ。何を食べたの?」
「リガトーニ」
「ガーリック・ブレッドもつけて?」
「もちろん」
 ナポレオンは頷いた。
「あそこのリガトーニはイケるもんね……」


***
 イリヤが選んだのはギリシャ料理屋だった。ナポレオンは上機嫌でバクラヴァ菓子[注6]をひとつ平らげ、イリヤの皿の最後のひとつをじいっと見た。
「何か期待しても駄目だよ、ナポレオン」
 ナポレオンはシートに背を戻した。
「それ、食べる気はあるの?」
「まあね」
「やっぱり君は礼儀ってものを知らないな」
「そのまえにお行儀の勉強してきたら?」
 ナポレオンはにやっと笑った。
「……ウェイバリー氏はご機嫌ナナメだろうなぁ」
「死んだKGBエージェントを運び込まれて嬉しがりはしないだろうね」
 倒れて死んでいたイリヤのことが胸に浮かび、ナポレオンは瞳を翳らせた。
「君よりはKGBの方がましさ」
 自分で思ったよりずっときつい口調で言った。イリヤは首を傾げ、ナポレオンは彼が自分をじっと見つめているのを意識した。
「ナポレオン――有難う」
 礼を言われてナポレオンは仰天した。
「何が?」
「奴を撃ち殺してくれたことに。僕自身が奴を始末しなきゃいけなかったとしたら、例えこちらで謀ったわけではないにしろ、かなりまずいことになったと思う。それに彼にみすみす殺されてたかもしれないと思うのは、それよりもっと嫌な気分だったろう」
 ナポレオンはイリヤが強引に注文したウゾ酒[注7]をちびりと啜った。彼はいつもレストランで飲み物や料理を注文する時、全てその国特産の品で統一するようにしているのだ。その上、彼はナポレオンに自信たっぷりにこう言ってやりこめた。『何だってここでわざわざそんなもん食べるのさ?』
 それぐらいイリヤにとって食事は重要事項なのだ。ナポレオンはイリヤの死んだ時のことを考えた。そしてこうやって食事をして、会話を交わしていることを考え、自分の人生から失われていたかもしれない、あらゆる愉しみのことを考えた。
「僕はもっと嫌な気分にさせられるところだったんだ」
 きつい口調で喉につかえていた言葉を口に出し、ナポレオンは目を瞑った。どうかこれで終わりになりますように。どうかまた同じ事が繰り返されることはないように。そしてもし繰り返されるのならその時は、せめて二人一緒であってくれと。

 手の上に何かが触れ、彼は目を開けてイリヤの気遣わしげな視線と向き合った。
「なぁ、どうかしたのかい?」
 ナポレオンはぎこちなく笑った。
「長い一日だったな、と思って」
 イリヤがバクラヴァを差し出した。
「これでちょっとは薬になるかな?」
「ここに君がいてくれるのが何よりさ」
 ナポレオンはバクラヴァをひょいとつまんだ。
「とはいえ欲しくないってわけじゃないけどね」
 そして一口サイズに分けて、そのひとつを口にした。彼にはイリヤが自分の言ったことについてあれこれ考えているのがわかった。疲れている相棒から、友達としての言葉以上のものを探り当てたように思える。ナポレオンはもう少しヒントを出すことにした。バクラヴァのひとかけらを手にとると、テーブルから身を乗り出した。
「はい、あーんして」
 イリヤは驚きのあまり拒みもしなかった。ナポレオンはバクラヴァをイリヤの口に入れてやり、その手を引っ込めるときに親指でイリヤのふっくらした下唇に軽く触れていった。青い瞳が困惑で揺れる。
「――ナポレオン?」
 ナポレオンは彼をじっと見据えて言った。
「うちまで送ってよ、イリヤ。僕の部屋で一緒に飲もう」
 イリヤはまだ困惑しているようだったが、その眼の中に情欲がきらりとまたたいたのをナポレオンは見た。そして彼の欲望にも火が灯る。イリヤが頷いた。

 ナポレオンは伝票をちらと見て勘定を置き、イリヤの後について車に向かった。車の中で二人は何も喋らずにいたが、ナポレオンは横目でずっとイリヤを盗み見ており、何度もイリヤがこちらを見返す視線を捉えた。そして徐々に確実に、まわりの空気は濃度を増してゆく。
 イリヤはナポレオンの車の隣に駐車し、二人はエレベーターへ向かった。イリヤは自分の感情を抑制しようとしてか、なるべくナポレオンと距離を取るように立っている。自分が今夜抱いている思いにそれは不都合なことだった。イリヤの顔のすぐ横にある、エレベーターの表示がとても気になるかのように近づき、相手の耳に息を吹きかけるように何か呟いてみた。イリヤがはっと息を呑む音を耳にして、ナポレオンは笑いを噛み殺した。
 チン、とエレベーターは目的階で止まり、二人は廊下に出た。ナポレオンはこれからの期待に正直な反応を見せる自身を意識した。数フィート離れて前を歩いてゆくイリヤの腰つきに目が吸い寄せられる。部屋の前でイリヤが振り向いた。自分の熱い眼差しが、相棒の眼の中へと映り込むのがわかる。つとイリヤが視線を落とした。自分が昂ぶっているのはもう胡麻化しようがない。同じ男なら尚更のこと。
 イリヤが唇を開き、ナポレオンは欲望が全身を駆け巡るのを感じた。早いところ部屋の中に入ってしまわなければ、この場でイリヤに飛びつきかねない。彼はアラームを解除し、ドアを押し開いた。背後でドアを閉めるが早いか、ナポレオンはイリヤをドアに押し付け、覆い被さるようにして唇を奪った。
 同様に熱くなっていたイリヤが強い腕を回してくる。貪るような口接けに彼の唇が開かれ、侵入してくる舌を迎え入れた。
 息がつけなくなって一旦唇は離れたが、呼吸を整えるあいだも二人の身体の他の部分はぴったりと密着したままだった。互いの手が身体をなぞり、互いの昂ぶりがぶつかる。やっとのことでイリヤは身体を押しやった。彼はナポレオンを欲望にかすんだ、けれど少し危惧するような眼差しでみつめた。
「なにを……してるんだ?僕らは?」
 ナポレオンはにっと笑い、イリヤの下唇を軽く噛んでそっと引き寄せた。舌で軽くなぞったあと、柔らかく歯を立てる。
「そんなのはっきりしてると思うんだけど。でなければ僕の触覚はどうかしてるのかな?」
 イリヤが一歩身を離した。
「違う。そんなことじゃなくて、」
 本当はナポレオンにも分かっていた。イリヤは一夜限りの遊びを望んではいない。彼にとってナポレオンとの関係はとても大切で、それは一晩の気紛れなセックスで壊してしまえるようなものではない。

 それは違うんだとナポレオンには判っていたが、イリヤにもちゃんと分かってもらう必要があった。彼はイリヤをカウチまで連れてゆき、そこに座らせた。そして隣に座ってイリヤの手を取った。ナポレオンは急き込むように言った。
「イリヤ=クリヤキン、僕は君を愛している。ずっと前から君を想っていた。君をベッドに連れていって、一晩中でも愛し合っていたい。そしていつまでも一緒にいたい。もし違う世界に生きていたなら、僕は君の前に膝をついてプロポーズしていただろう。それは無理だけど、それでも世界で君ほど僕にとって大切な人はいないと誓う。今までも、そしてこれからもずっと――
 この数年間に、ナポレオンは山ほど愛の告白を口にしてきたが、これほどに心を込めたこともなければ、ことの成り行きを心にかけたこともなかった。胸の中の愛情を全て瞳に込め、ありのままの自分を愛する者の前に晒して。
 イリヤは長いこと彼を見つめていた。ナポレオンの心を、本当の気持ちを読み取り、瞳に刻まれた真実を見出すかのように。そしてイリヤの目の中に喜びがきらりと光りを放つのを目にして、ナポレオンの胸にも喜びが満ちた。
 イリヤはナポレオンの指をなぞった。
「それ、本気なの?」
 ナポレオンはこっくり頷いた。
 イリヤはもう数秒相手を凝視すると、立ち上がってナポレオンの手を引いた。そして相棒に笑いかけた。
「あんたにはもうさんざん犠牲を強いられてきたんだし、バクラヴァだって分けてやったんだから、僕の残りをくれてやるぐらいはどうってことないか」
 ナポレオンははぁーっと芝居がかった溜め息をついた。
「僕が胸のうちのありったけを君に捧げたってゆーのに、君は食べ物のことしか考えられないのかい」
 イリヤが顔を上げた。真摯な眼差しで。
「僕も、君を愛してるよ。ナポレオン」

 胸がいっぱいですぐには返事が出来ず、ナポレオンはイリヤに腕を回した。そして相手を見下ろして言った。
「まったくなんて一日だろう!」
 イリヤが笑う。
「まだどうなるかも分かっちゃいないのに?」
 彼は身体を引き、指をちょいと曲げてナポレオンを誘った。その思わせぶりな仕草がナポレオンの男の部分を直撃する。彼はイリヤを追ってベッドルームに走った。
 その後の半時間はまさに天国だった。前日の朝に誘い掛けたのはナポレオンだった。イリヤを誘って自分を奪わせた。イリヤが自分に覆い被さり、彼の甘い楔を自分の中に打ち込ませるまで相手を翻弄した。
 そして今夜も、相棒の後についてベッドルームに行き着くまでは同じ役割を演じていた。人をたらしこむのはナポレオン=ソロのお家芸だった。けれど今や彼は完全にイリヤにやりこめられていた。こんなに感じさせられたことは今までなかった。彼には選択肢すらも与えられす、ベッドルームのドアを潜るや、イリヤが主導権を取っていた。
 ロシア人は手際良くナポレオンの服を脱がせ、ベッドに押し倒し、頭のてっぺんからつま先まで彼の身体に馴染ませていった。こんなに全身で感じたことはなかった。彼の分身は痛いぐらいに昂ぶっていたが、身体全体は内側からマッサージされたような満足感に陶酔していた。これ以上ないぐらいに。この身のどこもかしこも。永遠に続けばいいと思えるほど。
 イリヤが股間の柔らかなふくらみのひとつを口にし、彼は快感に呻き声を上げた。商売女ですら彼の舌技には姿勢を正してノートを取り出すのではないだろうか?
 ナポレオンはもう一度声を上げた。イリヤはナポレオンの体躯に唇を戻した。
「イイの?感じてる?」
 イリヤに片方の胸の尖りを舐められて、ナポレオンはただ嬌声を上げた。もう喋る力が抜けてしまっている。
(まったくこの舌ときたら!)
 ナポレオンはイリヤの金髪を掴み取り、唇と唇を近づけた。皮肉の応酬はなく、即座に舌と、歯と、唇の奪い合いが始まった。二人は息を切らせてキスを中断し、数秒間空気を求めて喘いだ。そしてまたバトルが続く。その間にイリヤは自分のものをナポレオンの下腹に押しつけて上下させた。
 イリヤが身体をずらして、彼のものを手に取ると自分の双丘の狭間に導いた。そしてイリヤが身体を上下させるたびに、ナポレオンのものはその奥の熱く引き絞られた部分へと誘うように玩ばれた。
 ナポレオンの身体から充足感が抜け、激しい欲求にとって代わる。イリヤの身体に身を沈めたい。彼の口腔により深く舌を差入れ、この魅力的なボディにじりじりと自分の熱い分身を打ち込んで、このロシア人を自分のものにしたい。可能な限り強く深く繋がりあっていたい。

 イリヤはまたナポレオンから手を離し、首と背中を後ろに捻じった。そしてナポレオンはひやりとした潤滑剤が自分のものに塗り付けられるのを感じた。彼は両手を突き出すと、イリヤの腰を掴み止めた。数センチ先にあるこれから自分のものとなる筈の熱い場所に、ちゃんとした準備を整えてやりたかったのだ。
 イリヤはまだナポレオンのものに指を絡めたまま、美の女神もかくやと思えるような笑みを浮かべた。
「ナポレオン――僕が欲しいの?」
 ナポレオンは濡れた手の中に腰を押し付けた。欲しいという言葉ではとても形容しきれない。イリヤの腰に手を回し、自身にも触れて指に潤滑剤を絡めると、イリヤの指と一緒に動かした。
 イリヤは笑みを浮かべたまま、いっそう青く輝く瞳に欲望を浮かべて囁く。
「じゃあ僕の欲しいものはわかる?」
 イリヤの指が離れ、ナポレオンのものは待ちかねたようにその双丘の狭間へと納まった。ナポレオンはその感触にまた言葉を失った。少し場所を空けて、ナポレオンはイリヤの身体の、狭く引き絞られた入り口へと指を走らせた。
 パートナーの表情を、自分の指を感じて眼をつむり、唇から柔らかなうめきが漏れるのをナポレオンは眺めた。そっと優しく指を差し入れながら、イリヤの顔から眼を離さなかった。こんなにエロティックな光景は見たことがない。熱い内壁を指で探る動きのひとつひとつに、少し進めてゆくごとに、その身体を内から愛撫してゆくごとに、イリヤの表情は変化する。唇がひらいて、覗いた舌先が乾いた唇を湿らせた。あえぎ声に合わせて顎が浮き上がる。それはナポレオンの体内を侵食し、どうしようもないほど彼の欲望に火を注いでゆく。
 物欲しげにそそり立つ自分自身に構わず、ナポレオンはもう一本挿入する指を増やした。イリヤの腰がくねり、より深く指を飲み込もうと動く。指の位置を変え、イリヤの感じる場所を擦ってやった。
イリヤが被さってきて、舌でナポレオンの口をこじ開け、彼が自分の後ろを指で犯しているのと同じリズムで、その口腔を犯す。
 ナポレオンはもう限界だった。指を引き抜き、そこに自身をあてがった。腰を進めると、イリヤの腰がずり上がった。そしてほんのすこし抵抗があったあと、ずるりと内部に入り込んだ。ふたり同時に相手の口中に呻き声を吐き出す。これこそ彼が望んでいた場所、ずっと前から望んでいながら、気づいていなかった場所だった。
 イリヤが上体を起こして腰をずらし、より深くナポレオンを受入れた。顔に笑みが戻っている。
「あ、んたのが……中に――すごく……イイ……
 腰を上げてナポレオンを少し抜き出すと、また少しずつ奥に戻す。ナポレオンと視線を合わせ、互いのエクスタシーを確かめあう。イリヤはもう一度、さらにゆっくりと腰を上げ、更に更にゆっくりと落としていった。ナポレオンはどうにか声を出した。
「わざとやってるんだろう?君は……僕をおかしくしちゃうつもりなんだな?」
 イリヤが忍び笑いを漏らす。
「ン、――効果は、出てる……?
 またイリヤが腰を上げた時、ナポレオンはもう我慢が効かなかった。彼はイリヤの腰をぐいっと引き付けると、体勢を入れ替えた。
 イリヤの嬌声が響く。下げた視線のさきでロシア人が、にんまりと自分を見つめている。そして彼は気づいた。前の日の朝に愛し合ったことは、今のイリヤの記憶にはない。けれどイリヤは、自分がしたのとおなじことをした。そして自分を誘い、思う侭にした。
 ナポレオンは笑みを返した。それからイリヤの身体に眼を向けるや、全てが忘却の彼方に消えていった。けれど未来がナポレオンには見えた。この男と愛し合い続けるあまたの月日が、歳月が。ある時は穏やかに、ある時は荒々しく。誘い誘われながら。そして、何もかもがうまくいく完全な日々が。




THE TUESDAY AFFAIR-PART1/2/3/4/ 5
PART 5

 目が醒めるとナポレオンは一人でベッドにいて、自分は地獄にいるのだと思い知った。彼は悲痛の余りに叫び声を上げた。

 絞り出したばかりのハミガキをくっつけた歯ブラシを手に、イリヤが部屋に駆け込んできた。
「どうした?何かあったのか?」

 ナポレオンはようやく呼吸を取り戻した。
「そこに――いたの、」
 イリヤは柔らかく微笑んだ。
「僕が出ていったとでも思った?」
 何でもないよ、とナポレオンは手を振った。
「いや別に。悪い夢を見ただけさ」
 横向きになって、当たり前のようにすぐ側に立っているパートナーの身体をうっとりと眺める。
「今日は何曜日だっけ?」
「水曜日」
 ナポレオンは笑みを浮かべた。
「水曜日は大好きだ」
 イリヤが歯ブラシを振った。
「じゃあ起きて歯を磨きなよ。そしたらもっといい日にさせてやるから」
「朝一番の息はお好きじゃないみたいだね?」
 イリヤはものすごく嫌そうな表情を浮かべた。
「ナポレオン、もし君がこの関係を続けるつもりがあるんなら、歯磨き前に朝のキスはするなよ!」
 ナポレオンはベッドからばっと起き上がり、イリヤの身体に腕を回し、思いっきり息を吐き掛けようとした。イリヤはナポレオンの口の中に歯ブラシをつっこんだ。ナポレオンは逆らうのをやめて、歯を磨きはじめた。

 イリヤはバスルームに引き返し、ナポレオンが世界中のホテルから持ち帰ってきた歯ブラシを置いている引き出しを開けた。ひとつ取り出して開封し、歯磨きを絞り出して自分の歯を磨きだした。二人で口をゆすぎながら、ナポレオンはにまっと笑った。
「僕らは何度こんなふうにホテルの部屋で並んで立って、歯を磨いたり顔を洗ったりしたか分かる?きっと何百回もだろうね」
 イリヤが鏡に映った姿を見返した。
「でも素っ裸ではなかったけど」
 ナポレオンはゲラゲラ笑い出した。
「その通り、素っ裸ってのはなかったねえ!」
 そしてイリヤの背後に立ち、イリヤの後ろに自分のものを擦り付けた。
「裸でってのはいいもんだな」
「んっ……」
 イリヤも動きを合わせながら、満足げな吐息を漏らした。そして視線を上げて、鏡の中のナポレオンと向き合った。
「で、あんたは何でそんなに水曜日が好きなの?」
 ナポレオンはイリヤの肩に唇を這わせた。
「火曜日の次の日だからさ」
 イリヤはナポレオンに応えるように首を傾げて横に倒して首筋を晒しながら、相手の答えの意味するところを考えた。けれどナポレオンにはキスを重ねてゆくに従って、話題から相手の興味が失せていくのが手に取るようにわかる。イリヤがバスルームの明かりを消した。
「そんじゃベッドへ行って、この水曜をたっぷり楽しむとしようか?仕事なんか休みにしてさ!」

THE END


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※注釈※
5天使も踏むを恐れるところアレクサンダー・ポープの詩『批評論』の一節「天使も足を踏み入れるのをためらう場所に、愚か者は飛び込む」
6バクラヴァアラブ圏の代表的甘味。ナッツなどを包んだパイ生地の焼き菓子をシロップ漬けにしたもの
7ウゾギリシャの大衆酒。無色透明で水で割ると白濁する。アニスで香りづけしてあり40度ぐらい


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