THE TUESDAY AFFAIR-PART1/ 2/ 3 /4/5

PART3

 ナポレオンは自分のベッドで目を覚ました。弾けるような歓喜に、彼はマットレスにぼすんと拳を打ちつけた。身を返してコミュニケーターを掴み出すと、相棒を呼び出した。
「イリヤ、イリヤ、居るか?」
 息を詰めて待つ。
「イリヤ?」
 声が――ものすごく眠そうで不機嫌そうな声が、ようやく返ってきた。
「……何だ?」
 それからまた、
「大事な用なんだろうな?」
 ナポレオンは笑い声を上げた。
「そこに居ろよ、今から行くから」
 銀色の筒を通して、馬のような唸り声が聞こえる。
「何で?こんなに早い時間に」
 ナポレオンはまた笑った。
「善良なるロシアの同志は元気よく起き出す時間だろ、だからアメリカの相棒としては、朝ご飯に連れてってやるのさ!」
 しばし沈黙。
「ナポレオン、酔っ払ってるのか?」
「人生に酔っているだけだよ、我が友よ!」
 もう一度沈黙。
「僕は寝直すからな」
「君の都合はどうでも、三十分でそっちに行くからね、イリヤ」
 憤懣やるかたない溜め息をナポレオンは聞き、彼はにやっと笑ってコミュニケーターを閉じた。何が何でも、今日はイリヤから目を離してはならない。彼は浴室に飛び込むと、服を着て、文字通りスキップしながらガレージに向かった。ナポレオンは卒業記念のデートに向かう、恋するティーンエイジャーのような気分だった。イリヤは、生きているのだ。

 友人の住むビレッジのアパートに、彼は新記録ものの時間で辿り着いた。途中で交通規則に逆らうかなんかしたかもしれない。いつもの信号でドアをノックし、数秒待ってアラームを解除すると勝手に中に入った。
「イリヤ――?」
「ベッドルームだ。すぐ行くから」
 待たされる辛抱が効かず、ナポレオンはこのまま押し入ってやろうかと考えた。が、イリヤがいつもの黒いパンツにタートルネック姿で現れた。セーターから首を出した拍子に、金髪が乱れている。相手のきつい目付きを無視し、ナポレオンは相棒に微笑みかけた。
「おはよう!」
 最後のパットを決めようとし、それから一歩下がる。
「おやおや、ご立派な髪形で」
 イリヤは彼をじろっと見た。そして唐突に指で前髪を梳き上げられて、まるでそうすれば自分の髪が見えるとでもいうように目を丸くした。
「なんだってこんな有り難い目にあわなきゃいけないんだ?」
「ヘアスタイリングのことかい?それなら無料サービスだよ、イリヤ」
 イリヤはうんざりした目付きを向けた。
「違う。あんたがこんな、とんでもなく朝早くに来たことさ。いつもならこの時間のあんたは、僕を引きずり出すどころか自分のベッドから出てもこないじゃな……」
 ナポレオンはもう我慢が出来なかった。髪に触れただけでは全然十分とは言えない。彼は押さえつけていた衝動のままに、イリヤを両腕に抱えると、強く抱きしめた。イリヤがおずおずと抱擁を返してくるのを感じ、鼓動が早まる。そして相棒は、彼の耳元にそっと訴えた。
「あんた、本当に酔ってるんじゃないのか?」
 イリヤの息が耳を擽り、身のうちを欲望に揺さぶられる。彼は身体を引くと、両手を差し上げてイリヤの顔を囲むようにし、もう一度艶やかな金髪に指を滑らせた。
 少しの間イリヤの瞳を覗き込んでみる。ロシア人の顔には様々な感情が浮かんでいた。困惑と驚き、親愛や気遣い、そして、素早く抑えられた、一瞬の渇望。ナポレオンは微笑んだ。
「僕が今すぐキスしたら、君はどうする?」
 イリヤが目を見開き、それから細めた。
「あんたを殴った後か、殴る前か?」
 ナポレオンはちょっと考えた。
「殴ったあと」
「U.N.C.L.E.の医務室にあんたを連れてって、薬物と精神状態の検査をしてもらうな」
 ナポレオンが欲しい答えでは全然ない。
「OK、じゃあ前だったら?」
「僕があんたを殴る前?」
「そう。君の唇に僕の唇を押し付け、君の舌に僕の舌で触れたら――僕を殴るより前に、君はどうする?」
 ナポレオンは親指でイリヤの頬をかるく撫でた。皮膚はやわらかくて、あたたかかった。イリヤの身体が反応し、ナポレオンの愛撫にほんの少し身を委ねてくる。それから自分が何をしたのか気づいて、首を振って身体を引こうとした。しかしナポレオンの方はそのメッセージをしっかり受け取り、イリヤを腕の中に捉え続けていた。彼はにっこりした。
「殴る前の時間を長く取っておくれよ?」

 ナポレオンは顔を少し右に傾け、イリヤの唇に柔らかく、自分のそれで触れた。閉じている唇を軽く舌先でなぞって侵入を求める。イリヤは口を開き、何か言おうとした。自分の名前が出かけるのが聞こえたが、ナポレオンが舌を中に滑り入れると、それは呻き声に変った。『氷のロシア人』の相棒がたてる呻き声はひどく扇情的だった。
 ナポレオンの片手はイリヤの髪の中で動き、その間もう一方の手で背筋を撫で下ろし、腰のくびれのところで停まって、腰と腰とを押し付ける。
「んっ……う……」
 イリヤが上げ続ける呻きはいくつかナポレオンの口接けの中に吸い込まれ、いくつかは電流のように彼の神経を揺さぶって、真っ直ぐに股間を直撃する。ナポレオンも声を立てていた。彼に口接けしたらさぞ素晴らしいだろうとは思っていたが、こんな全身を焔が舐めていくような感覚に備えてはいなかった。
 今攻められているのは彼の方だった。キスを始めたのは彼かもしれないが、今イリヤが口接けを激しくしていた。まるで生きながら齧られているようだ。イリヤは彼の唇を啄ばみ、顎をなぞり、耳たぶへ、そして首筋へと口接けを落とした。ナポレオンはいつのまにかカウチの方まで連れてこられて、それからイリヤに乗っかられてカウチに押し付けられた。
 ナポレオンは自分より小柄な男に手足を絡み付け、相手をすっかり包んでしまうと、首筋に鼻先を擦りつけた。
「イリヤ、素敵だよ……」
 イリヤはナポレオンから抜け出すと、上体を起こし、タートルネックを脱ぎ捨てた。そして相手がそこにいるのにびっくりしたかのように、視線を下ろす。
「僕らは何をやってるんだ?あんたは何をしてるの?」
 彼は完全に当惑しているようだった。気後れしているわけではなく、ただ戸惑っている。ナポレオンはイリヤの平らな腹部に手をやり、胸へと撫で上げ、そこにある固い筋肉を掴んだ。親指が胸の尖りを掠める。
「ア……」
 イリヤが声を立てるのを目にするのは、耳で聞くよりさらに素晴らしかった。
「長いこと僕がしてみたかったことをさ、我が友よ。そして……
 彼はもう一度イリヤを引き寄せると、もう一度口接けた。
「思い描いていたよりもずっと、今の方がいい」
 イリヤはすっかり驚いて身体を離した。
「あんたはこういうことを考えていたのか?」
 彼の声はほとんど裏返っている。ナポレオンは柔らかな笑い声を立てた。
「口に出せるよりずっと何度もね」
 そこで手を止める。
「ちょっと待てよ、じゃあ君は考えたこともなかったって言うの?」
 イリヤはナポレオンのシャツのボタンを外しかけていた。彼は首を横に振った。
「そうだよ、ナポレオン。僕はこんなこと考えもしなかった」
 ナポレオンは多少傷ついて、動いていくイリヤの手を止めた。
「一体どうして?」
 イリヤが真剣な顔付きで見上げてくる。
「何故かって僕は、手に入りそうにないものを望んだって時間の無駄だと思い知ってるからさ。ずっと昔からね」
 そして彼は微笑み、いっぱいの笑みで顔を輝かせた。
「でも今、あんたがここにいる。僕と」
 ナポレオンはその微笑みを愛おしく思った。どれだけ見ていても見飽きることはないだろう。
「ということは君は僕とこうすることを想像もしていなかったのに、求めてはいたんだね?」
 まだボタンに集中しながら、イリヤは無言で頷いた。ナポレオンが身を捩って起き上がり、シャツを脱ぐのに手を貸す。
「といっても今朝電話してきた時、あんたがどんなつもりなのか言ってくれさえしたら、服を着る手間が省けたのに――
 ナポレオンは鼻を鳴らした。もうお喋りは十分だ。彼はイリヤを仰向けにさせると、口接けはじめた。間をおかず舌をイリヤの口腔に差入れ、この新鮮で、じれったいような遊び場を探検しようとする。ナポレオンの口腔内で、イリヤが舌を絡めてくる。
「……っん、」
 その先を求めてナポレオンは身体を逸らし、前をくつろげるために手を下へとこじ入れ、イリヤの手とぶつかった。どうやら目的は同じだったらしい。唇を合わせたまま二人はにんまり笑うと、ベルトを緩め、ボタンを外し、ジッパーを下げた。互いの目指すところへと向かいながら、動きは自然と愛撫に変わって、彼らを煽り立てる。
 そうして前を開いた二人は、互いのものに触れ合った。イリヤが横に身体を倒し、すこし間をあけてからまた触れ合う。ナポレオンはイリヤのものの感触にうっとりとなった。想像していたより大きさがあり、自分のものとほとんど同じサイズで、とてつもなく刺激的だった。
 そして彼自身を撫で擦るイリヤの手の動きは魔術のようだった。まるでイリヤは、どんな風に触れて、どんな風になぞって、どこを優しく、またどこを強くすればいいのか正確に知っているようだった。
 内股が引き攣れ、開放が近いのを感じる。イリヤは熱っぽいくちづけの合間にロシア語で睦言を囁き、ナポレオンはほんの片言しか理解できなかったものの、相棒がどんなことを言おうと全て頷いているだろうときっぱり考えた。
 イリヤが息を乱し、せわしない息遣いが、低く甘やかなうめき声に混ざる。自分同様に相棒の果てが近いのが分かった。
「一緒に、イリヤ……一緒に行こう」
 もう幾度か手を動かすと、二人は揃って声を上げ精を吐いた。イリヤはナポレオンの肩に顔を埋め、下半身をくねらせた。体液が二人の下半身に飛び散り、その指と掌を濡らした。二つの身体はぐったりとなり、酸素を求めて喘いだ。
Боже мой (ボージェ・モイ)……[注3]
 ナポレオンは笑みを浮かべ、それから弱々しい笑い声をあげた。
「まともな時じゃこう巧く喋れなかったろうなあ」
 イリヤはナポレオンの首筋を唇でなぞり、やわらかく口接けた。
「さて、寝直しても構わない――?」
 イリヤの口調は、もう四分の三は眠りに落ちかけているようだった。ナポレオンは頷き、しかし喋るのに余計なエネルギーを使うよりも、更に身体を擦り合わせて満足の吐息をついた。

 遠くからピーピーと鳴る雑音にナポレオンは目を覚ました。聴いている間にそれはますます大きくなっていく。彼は相棒を肘でこづいた。
「ありゃ何だい、空襲警報か?」
 イリヤが首を振り、ナポレオンの鼻先を髪の毛が擽った。
「目覚し時計」
 ナポレオンはイリヤの髪を顔から払いのけ、げんなりした目付きを向けた。
「目覚し時計だって?よくこれで我慢できるな!」
 音は耳が痛くなるほど大きくなっている。
「自分で切るまでどんどん大きくなるのさ」
 イリヤが溜め息を吐いた。
「すごく役に立つ目覚し時計だろ?」
「でなきゃ近所の住人が警察に通報して、証拠品として取り上げるまでだな。そして君は平穏を乱したかどで逮捕されるんだ」
 イリヤはうう、とか言いながら起き上がった。彼は自分たちの汚したあとを見下ろし、それから奇妙に感情の抜けた顔でナポレオンを見た。ナポレオンにはその意味するものが彼以上に判っていた。イリヤと長いこと付合ってきたので、彼がこういう目付きをした時は要注意だと知っている。
「どうしたの?」
 イリヤは自分たちの身体を指で示した。
「これは……これは、ただの……?」
 筋立てた台詞が言えないのに苛立つかのように、彼は首を振った。ナポレオンにとっては、後の言葉を推測するには十分な言いようだった。
「これがただの気紛れで、一度きりのことかって?」
 イリヤが頷いた。ナポレオンはイリヤを引き倒して口接けした。
「いいや、これは山盛りのご馳走の前の、ほんの食前酒だよ」
 体を捻って浮かせると、絡まりあっていた脚を解いた。立ち上った拍子にボトムが足首まですとんと落ちて、見るとイリヤはただにやにや笑っている。ナポレオンは目を丸くしながら、靴を蹴り出しボトムと下着を脱ぎ捨て、靴下も引き抜いた。
「シャワーを浴びなきゃ」
 アラーム音は更に耳をつんざくような音量に変わって、ナポレオンはベッドルームに直行すると、どうやったらこの忌々しい物体を黙らせられるのか数秒努力したのち、壁からプラグを引っこ抜いた。やれやれとベッドに腰を下ろす。急に訪れた静寂は、けたたましい音と同じぐらい存在感があったが、このほうがずっと有難かった。
 顔を上げると、イリヤが同じように裸で戸口に立っている。その眺めだけで、ナポレオンの股間は反応を見せた。彼は警告するように片手を上げた。
「そこから動かないで。でなきゃ二人とも仕事に遅れてしまうよ」
 こう言ったのは明らかに誤りだったようで、イリヤは引き寄せられるようにまっすぐやってきた。手を伸ばして彼を立たせると、濡らしたタオルを取り出してナポレオンの手と下腹から、乾きかけた精液を拭い始めた。
 それからイリヤは一歩下がると、ナポレオンの身体を頭のてっぺんからねめ回した。身体の中間部あたりでしばらく視線をさまよわせたのち、足元で止まる。もう一度ナポレオンの顔に目を戻した時、その青い瞳は感嘆と情欲で色を深くしていた。
「――君は美しいな、ナポレオン」
 様々な恋人たちからそう言われてはきたが、この時は全く違って聞こえた。言葉には真意がこもり、力があった。もしイリヤが自分をそう見ていて、手間をかけて言葉に出したのならば、それは本当なのに違いないと彼は考えた。ナポレオンは視線を返し、相棒の肢体に息を呑んだ。
 彼は完璧だった。どこもかしこも乳白色と黄金色で、力に溢れ、全ての要素が自分を魅了する。
「それは君のほうだよ、ロシアから来た我が同志。美しいのは、君だ」
 腕を伸ばしてイリヤを引き寄せると、目を閉じて素肌がすっかり触れ合う感触に、感じ入った溜め息を吐く。
「君がここへ来ちゃったら、仕事に遅れるぞって言ったろう」
 イリヤは硬くなった自分自身を、ナポレオンのそれに擦り付けた。
「僕は気にしないね」
 ナポレオンは笑い、自分だってもっと全然構わない、と決めてかかると、揃ってベッドに倒れ込んだ。

 それからずっと経って、ナポレオンは両肘を持ち上げ、すっかり満ち足りた様子の恋人を見下ろした。
「……君に話さなきゃいけないことがあるんだ」
 イリヤに無言で光を帯びた眼を向けられ、ナポレオンは視線を逸らした。
「頭がどうかしてると思われるだろうけど、言っておく必要がある」
 イリヤがふんと鼻を鳴らした。
「今更遅いよ」
「大事なことなんだ。本当に大事な」
 イリヤは眉間に皺を寄せた。
「じゃあ話せよ。聞いてやるから」
 ナポレオンは大きく息を吸った。
「僕の周りで何かが起こっているんだ。もしかしたらただの夢なのかもしれないが、僕には現実だとしか思えない。そして君は僕の気が違ったと思うだろうが、この日が終わるまで僕に、そのことを証明させると約束してほしい。約束してくれるかい?」
 ナポレオンの言う事にすっかり引き込まれ、イリヤは身体を起こした。
「約束する」
 ナポレオンは少し身体をずらせて、ヘッドボードに寄りかかった。イリヤは脚を組んでナポレオンと向かい合った。
「僕は今日何が起こるか知っている。もうこの目で見ているんだ、二度も。前の日の僕はそれを起こすまいとしたが出来なかった。だから今日という日は、僕にもう一度与えられたチャンスなんだ」
 イリヤが顔をしかめる。ナポレオンは片手を上げた。
「ちょっと待って。まだ意味不明なのは僕も判っている。火曜日に……これとは違う、でも今日という火曜日に……」
 ナポレオンは手を振って、間違いなく疑問をぶつけてきそうなイリヤのコメントを遮った。
「我慢して聞いてくれ」
 イリヤは口を閉じ、頷いた。
「OK。とにかく――それはいつもの一日で、僕らはオフィスに居て、ウェイバリー氏が僕に任務を与え、それから君にもそうした。午後遅くに、僕はウェイバリー氏にオフィスに来るよう言われて、君が撃ち殺されたと知らされた」
 ナポレオンは息を詰めた。暖かく息づいているイリヤが側にいることだけが、この耐え難い話を続けさせてくれる。
「僕はモルグへ君の死体を見に行った。とても信じられなかったからだ。君は胸を撃たれていた」
 ナポレオンは手を持ち上げると、イリヤの胸、心臓の上に触れた。
「ここを――…」
 イリヤがその手を自分の手で覆った。
「ナポレオン、何の……?」
 ナポレオンは首を振った。
「最後まで言わせて欲しい。僕はアパートに帰って、何もかも分からなくなるほど酔いつぶれたくてブランディをほとんど一本丸ごと飲んだ。でも出来なかった。僕はグラスとボトルを壁に投げつけ、それから部屋の中を少しばかり荒らした。最後に僕はベッドに行くと、泣きながら眠った」
 ナポレオンは手で顔を擦り、滲み出した涙を密かに拭った。イリヤの死の記憶が、まだ心の痛みを抉り出す。イリヤが近づいてきた。
「どうも分からないな。それは夢だったんだろ?」
 ナポレオンはその質問を無視した。
「次の日に僕は目覚めた。部屋の中はどこも綺麗になっていて、僕は自分が寝室に行ったあと、誰かがやってきたのだと思った。だけど僕が職場に出ると、そこには君がいて、そして日付はまた火曜日だった。今日と同じこの日さ。そこで僕は、ただの夢だったんだと――今まで見たこともない悪い夢だったんだと考えた」
 ナポレオンはイリヤの髪を手で梳いた。金色と象牙色の絹の手触りが、指の間を擽る。
「なのにそれから、物事は夢の通りに動き出した。ウェイバリー氏は僕を同じ任務につかせ、同じ場所に行かせた。僕は同じ店で昼食を摂り、夢に出てきた男と接触した。ウェイバリー氏は僕に、イリヤは一日中ラボで実験にかかりきりにすると請け合ってくれたが、夢が現実になればなるほど僕は気掛かりになってきた。通信を入れると、君は任務に出ていったと言われた。最初の火曜日に君が殺されたのと同じ任務に、」
 イリヤは黙りこくったまま、ナポレオンの手をきつく握っていた。
「そしてどうなった?」
「僕はウェイバリー氏から場所を聞き、そこへ行った」
 建物に入った時に見たものが脳裏に浮かび、ナポレオンは顔をぐいと背けて、喉元にせり上がる熱いものを飲み込んだ。
「僕は間に合わなかった。君はもう死んでいた」
 彼はイリヤを引き寄せ、強く抱きしめた。
「そして、あぁ……そこらじゅうが血だらけだった。ああ!」
 あまりに力をこめすぎて、イリヤに痛い思いをさせているのは判っていたが、彼は腕を緩められなかった。記憶にあるのはイリヤの死体を抱きしめていたことだけだった。

「ナポレオン、ナポレオン。大丈夫だって。手を離せよナポレオン。僕はなんともなってない」
 繰り返されるその言葉がようやくナポレオンに届き、彼はイリヤを離した。もう一度顔を背けると拳を口元に持っていって、自分を落ち着かせようとした。
「僕は医務室に連れて行かれて、そこに一晩泊ることになった。それから僕が目を醒ますと、自分のアパートに戻っていた」
 彼はイリヤを見た。
「今日は何曜日?」
「火曜日だ」
「その通りさ。また火曜日なんだ。僕はそこで閉じ込められている。僕は君が死に続ける日から抜け出せないんだ」
「それであんたは今朝ここにやってきて、僕とセックスしたのか。僕が今日このあと死ぬことになるから?」
 両眼に激しい決意を燃やしながら、ナポレオンは顔を上げた。
「君は今日死んだりしない」
 イリヤは宥めすかすような身振りをした。
「だってそうじゃないか。あんたはどうやら僕が死すべき定めだと思ってるんだろ」
「違う。定めなんかじゃない。今の僕はいつどこでそれが起こるかを知っている。そして今度はそうはさせない。誓ってもいい」
 イリヤが首を傾げている。ナポレオンは相手が色々慮っているのに気掛かりを覚えた。ようやく相手が口を開く。
「何と言っていいか分からないな、ナポレオン。あんたの言った通り、僕の第一印象としては、それを全部現実だと思っているならあんたは頭がどうかしたんだって事だ。多分あんたは悪い夢を見たってだけだと思う」
「でも君は、僕を病院行きにするより前に、この日の終いまで僕に任せると約束した。そうだろう?」
「そうだな。約束だったっけ」
 イリヤは肩を竦めた。
「それで、今からどうなるんだ?」
「君が信用する気になるまで、これから起こることを話していくよ」
 ナポレオンは腕時計を見遣った。
「11時半にリサが僕等のオフィスへ、ウェイバリー氏が僕を呼んでると言いに来る。その時に僕が居なければ、彼女はいつもしているようにコミュニケーターを使うだろう。彼女はウェイバリー氏が、僕に1時半までにあるものを届けて欲しいと、出頭してそれを受け取るように言っていると告げるだろう。それは一通の封筒なんだが、中には最重要機密が入っていて、扱う資格があるのは僕と君だけだ。場所はリトル・イタリーのマルベリー通り[注4]で、そこには僕がもう二度も昼食を食べることになった、小さなイタリアン・レストランがある――」

 ナポレオンのコミュニケーターが鳴り出した。ナポレオンはイリヤに向かって眉を動かすと、立ち上がってリビングに取りに行った。コミュニケーターを手にベッドの上に戻る。
「こちらナポレオン」
「ナポレオン、こちらはリサ。ウェイバリーさんがあなたに1時半までに届けてもらいたい包みをお持ちなの。必ずあなた自身の手で、時間までに届けるようにって」
「すぐそちらへ行くよ、リサ。用意しておいて。ソロ・アウト」
 ナポレオンはイリヤの呆気に取られた表情を見て、にやりと笑ってみせた。
「どうしてあんたは、何が起こるのか知ってるんだ?」
「言っただろう。これはもう二度起こってることなんだ」
 彼は再びベッドから降りた。
「さっとシャワーを浴びて着替えよう。君は僕と一緒に来るんだ。今日僕は君から目を離さないからな」
 イリヤは溜め息をついた。
「あんたは本気で、僕が撃ち殺されると思ってるのか?」
 ナポレオンはさっと振り返り、声を荒げた。
「君は撃ち殺されたりしない!」
「悪かった、僕はただ……」
 イリヤは続く言葉を手を振って打ち消した。20分後、二人はシャワーを済ませ、服を着て、揃って部屋を出た。


 本部に駆け込み封筒を取って出る間、ナポレオンはイリヤを車の中に待たせておいた。そして封筒をイリヤに渡した。
「この場所を見なよ」
 イリヤは眉を上げ、封筒をためつすがめつしたのち、ナポレオンに疑りぶかげな目を向けた。ナポレオンは街中に車を乗り入れた。
「もう少ししたら、ウェイバリーさんは君に連絡してきて、とある資材会社から受取りを頼まれていると言ってくる。爆発物なので君を指名してきた、とかだろうな。君が選ばのは、誰かが君を殺したがってるからなんだ。僕がついていくために、こっちの用事が済むまで待ってもらう理由を考えておかなくちゃ」
 イリヤは口を開いて何か言おうとしたが、手の中の封筒に視線を落としたあと、無言でシートによりかかって目を閉じた。30分後、彼のコミュニケーターが鳴った。彼はナポレオンを一瞥し、応答した。
「こちらクリヤキン」
 ウェイバリーからだった。
「おや、居たのかねクリヤキン君。どこに居るのか教えてもらえるかな?」
「はい、サー。僕は今ナポレオンと一緒です。昼食に出たところで、この包みを届けるよう連絡を受けたので、彼に同行することにしました」
「そうかね。気の毒だが君らのランチタイムはお流れだ。次の角で下ろしてもらって、タクシーを捕まえたまえ。君にはある物を受け取りに行ってもらいたい」
 イリヤは再びちらとナポレオンを一瞥し、用心深く言った。
「どういう種類の物を?」
「爆発物関係だ。会社の方で君がそちらに通じていることを知っていて、移動の際に間違いが起こらないよう、特別に君を指名してきた」
 イリヤは時間を有効に使い、答えを用意していた。
「受け取り時間を少し延期しても構いませんか?ナポレオンの車でその物品を運べば、一般人を巻き込む危険が回避されるでしょう」
 ナポレオンはこっくりと頷いた。あの御老人に対し、一般人を引き合いに出すのはいい方法だ。一瞬置いて、ふむと返事があった。
「よろしい。先方には2時前後に行くと連絡しておこう」
 ナポレオンは首を振って小声で言った。
「2時15分にしたほうがいい。あの男はいつも遅れて来るんだ」
「何だって?ソロ君は何を言ってるんだね」
 イリヤがじろっと睨み付けた。
「いえ別に……道が混んでいた時のために2時15分にしたほうがいいと」
「いいだろうミスタ・クリヤキン。では2時15分に」
 部下がぐずぐずしているのを暗に咎めるような口調だった。
「ええ、そうします」
 イリヤはコミュニケーターを片づけると、もう一度ナポレオンをちらっと見、目をつむった。
「僕を信用する気になったかい?」
「その話はしたくない」
 ナポレオンは彼を責めなかった。もしこれが事実なら、ナポレオンはイリヤの死を予言していることになるのだから。彼はぎりっと歯噛みした。今日こそはそんなこと起こさせはしない。

 重苦しく黙ったまま残りの道のりを走り、ナポレオンは受け渡し地点のすぐ近くに駐車場所を見つけた。そしてイリヤを例のイタリアン・レストランに連れていった。イリヤは入り口で足を止めた。
「ナポレオン、腹は減ってないんだけど」
 ナポレオンは驚きの目を向けた。
「そんなの初めて聞いたな」
 そして相棒の腕を取ると、ドアを潜った。
「腹具合はどうでも、君は何か食べた方がいいし、僕だってそうだ」
 声を落として言う。
「僕が朝ごはんに頂戴したのは特別のご馳走だったけど、ソレを常食に出来るとなったところで、全ての栄養素を満たせるわけでもないからね」
 その言葉にほだされて、イリヤは小さく笑い、大人しくレストランに連れ込まれていった。イリヤが店内の匂いを嗅ぎ、譲歩するように言った。
「いい匂いだな」

 ナポレオンは、ウェイトレスに勧められたわけでもなく(彼はいわゆる常連客ではないので)『いつもの』席に滑り込んだ。
「リガトーニとラザーニャが個人的にお勧めだよ」
 イリヤが彼の方を見た。
「別の――火曜日に頼んだからかい?」
 ナポレオンは引き攣った笑いを浮かべた。
「火曜日はいつもここで昼食を食べるのさ」
 彼はちょっとした冗談を混ぜずに、どうしたらこの状況に対処出来るのかわからなかった。その冗談がいかにつまらないものだか判っていても。
 イリヤは目を丸くすると、やってきたウェイトレスにリガトーニを注文した。ナポレオンも同じ物を、ガーリック・ブレッドも付けて頼んだ。前回メニューを変えてみたが、運命の手は覆られなかったのは明らかだったから。
 イリヤはいつもの熱心さを欠きながらも、昼食を口に運んだ。そしてようやく皿を脇にどけた。
「――で、次にはどうなるんだ?」
「1時36分に僕は相手と会う。そいつは柄が大きくて、薄茶色のロンドン風レインコートを着ている。奴は僕に合い言葉を言って、僕が封筒を渡したら、僕の任務はおしまいだ」
 テーブルに気まずい沈黙が流れる。イリヤがふいと顔を逸らし、ナポレオンはその手を握った。
「君には何も起こらない。イリヤ、約束する」
 イリヤが身を屈めた。
「起こらないとどうして分かる?何故わざわざそこへ向かうんだ?ウェイバリー氏に連絡を入れて、どうも怪しいと報告すれば済むんじゃないのか」
「相手に手の内を見せてやるのさ、イリヤ。今日起こることを止めるだけじゃなく、何故君が狙われるのかを調べる必要がある。でなければ相手は明日も、また次の日にでも君を殺そうとするだろう」
「ウェイバリー氏は相手に僕等二人が行くと話してるかもしれない。そして相手は僕と同様、あんたにも銃口を向けるかもしれない。一緒に行かない方がいい」
「撃たれることになるのは君であって、僕じゃないよ」
「でもあんたはもう、この日を変えてしまってるだろう、ナポレオン。これからどうなるかなんて誰が分かる?もしかするとこの壮大なジョークは、君を犠牲にするためのもので、そいつは喜んで君を代わりに受け取るかもしれない。僕は自分の命と、君を引き換えにしたくなんかない」
「僕はしたいな」
 イリヤはテーブルをバンと叩いた。
「僕が嫌なんだ!僕があんたを亡くしてまでのうのうと生きている方がいいとでも思うのか?そんなのは御免だ」
 ナポレオンは腕時計を見た。
「――行かなくちゃ」
「ナポレオン!」
「イリヤ、僕らのどちらも死んだりしない。優位にたってるのはこっちなんだ。真正面から入らずに、こっそりと忍び寄って、銃を抜く。それでおしまいさ」
 ナポレオンは支払いをテーブルの上に置いた。
「さて、出ようか」

 ナポレオンが相手と会っている間、イリヤは車の脇に立っていた。ナポレオンが通りを歩いて運転席に着くと、彼も乗り込んだ。イリヤの立ち会いポイントに向かう間、彼等は無言だった。
 ナポレオンは数ブロック離れたところに車を駐め、相棒の方をちらと見た。
「君にここで待っていろ、といっても無駄なんだろうねえ?」
 イリヤは信じられないものを見るような目付きで睨んだ。
「あんたに麻酔弾でも撃ち込んでやろうか?」
「それは止めてくれ」
「ならそんな馬鹿げた提案は止すんだな」
 彼は振り向いて、ナポレオンと顔を合わせた。
「本当のところ、ここで待っていた方がいいのはあんたの方じゃないのか」
「それこそ馬鹿げた提案とやらだな」
「あんたが僕を守るのに馬鹿なことをやらかそうとしてるのは分かるもの」
「他の任務の時と同じだよ。承知の上で罠に入っていく時とさ。いつもしているようにお互いの背中を護るんだ」
「これは他の任務とは違う」
 イリヤは自分たちが向かおうとしている方向を、漠然と指し示した。
「あんたは僕がここで死ぬことになると確信していて、それがあんたをやたら向こう見ずにさせている。あんたが死ぬところなんて見たくない」
 ナポレオンにもう言う事はなかった。彼はドアを開けて車から出、イリヤはそのすぐ右後ろについた。彼らは建物の入り口のあるところから、人目を避けながらブロックの外れまで歩いた。ナポレオンは非常階段を指し示した。
「ここを登って行こうか」
「二手に分かれて、別々の入り口から入った方がいいんじゃないか」
 ナポレオンは頑強に首を振った。
「僕は君から目を離すわけにいかない」
「同じ窓をよじのぼって入れば、余計狙われやすくなるぞ」
「それが誰であろうが、そいつは僕らが同じ窓をよじ登ると予想はしてない。奴は君一人が正面から入ってくると思ってるんだ」
 イリヤは眉を顰めた。
「何故僕が正面から入るんだ?ここは物を作ってる所じゃなくて明らかに廃ビルだ。あんたの警告がなくても、これで罠だって分かるじゃないか」
「僕も全く同じ事を考えたさ。でも何か理由があって、君は中に入り、そして撃たれた」
「それじゃあ訳がわからない」
 イリヤはナポレオンの腕を掴み、前に出ようとするのを止めた。
「嫌な感じがする」
 ナポレオンは短く笑った。
「僕の嫌な気分が、君を嫌な気分にさせてるんだな」
 イリヤは首を振った。
「もし誰かが僕を殺したがってるなら、奴等は僕を見張っていようとするだろう。この通り沿いでない侵入路を見つけなくちゃ」
 そして屋根庇を見上げた。
「僕達はもう奴等の視界に入っているかもしれない」
「ますます僕一人で行かせる理由が出来たな」
「あんたは奴等が僕を特別殺したがってるかどうかはわかってないんだろ。これはU.N.C.L.E.エージェント全体を狙った計画で、単に僕がその最初になっただけとは思わないか」
 そしてナポレオンの胸を突いた。
「奴等があんたを代わりにすることだって十分有りうるんだ」
 ナポレオンは腕時計を突ついた。
「チッチッチ!これ以上もたついてたら、そいつが誰だろうともう来ないと思って帰られてしまうよ」
 イリヤはその考えに惹かれるような目つきをした。ナポレオンは首を振った。
「ここで終わらせてしまったら、僕はいつ起こるか、どのように進むかもわからない他の計画から君を守ろうとして、本当に頭がおかしくなってしまうよ。そして僕がおかしくなることで、君も変になってしまうだろう。今ならば僕たちは、少なくとも危険がどこにあるかを知っているんだ」
 イリヤは長い溜め息をついた。そうしてナポレオンをじろりと見上げた。
「もしあんたが僕を守るためになにか馬鹿をやらかして怪我でもしようものなら、僕の手であんたを殺してやるからな」
「僕も同じだ、相棒」
 イリヤは嘲るように笑った。ナポレオンは何も言い返さなかった。確かに自分たちは揃って、馬鹿なことをやらかそうとしているのだ。ナポレオンがせねばならないのは、必ず自分が先にそうするということだった。
 窓や屋根の庇を注視しつつ、二人は建物の裏手に回った。ナポレオンは危険を犯して窓の一つから中を覗き、しゃがみこんで顔をしかめた。
「君がいた部屋をちょうど反対から見た景色だ」
 彼は他にいくつか部屋が分かれていればと願っていたのだった。イリヤは自分たちのいる側にある、非常階段を指差した。
「ここから行こう。とりあえず上には行けるだろう」
 ナポレオンはもう一度素早く中を覗いた。
「最低三階までは登らなきゃならないよ。二階はメインの一階部分にくっついた単なるロフトなんだ」
 イリヤは頷き、身を低くし建物に身体をくっつけるようにして階段に向かった。イリヤの後に付きながら、ナポレオンはあらゆる方向に目を配り、敵の姿を探し、なんとか相棒と弾丸の間に割り込めるよう考えていた。ちらっとよぎった厳しい目付きに構わず、彼はイリヤを押し退け非常口の前に立った。二人は武器を取り出した。

 階段が軋むので彼らはゆっくりと昇っていったが、とうとう三階部分に辿り着いた。ナポレオンは内心で指をクロスさせるおまじないをして、窓が閉まっているよう願った。
 窓は閉まっていた。ナポレオンが素早く窓を引くと、彼とイリヤは両側に立って、中から物音がしないか耳を澄ました。どこもかしこもひっそりとしている。用心深く顔を突き出したのち、ナポレオンが先に入って、イリヤがすぐ後に続いた。背中を向き合わせ、彼らはあたりを探った。
 ビルは崩れかかっていて、壁はひび割れ、壁板のカケラや天井のタイルが床に散らばっていた。瓦礫の間を慎重に進み、出口のサインのある戸口の方へ向かう。もう一方を見ると、知らないうちに階段の吹き抜けまで来ていた。ナポレオンはさっと動くと物も言わずに下を伺った。再びじろりと睨まれた気はしたが、今度も無視する方を選んだ。
 イリヤは手振りで、自分が1階に向かう間に2階を調べろと提案してきた。ナポレオンは大げさな身振りでその提案を拒否した。彼はイリヤを先にゆかせることにして、どこかへ行ってしまわないようにした。
 ロフトに人が隠れるような場所はないことはすぐに分かった。そして数分かけて、彼ら二人は1階をくまなく調べた。イリヤは銃をホルスターに納めた。
「誰もいないな」
 とは裏腹に、ナポレオンは全てが気に入らず顔をしかめた。イリヤが胸に致命傷を受け、床に倒れていないという事実にも関わらず。イリヤはびっくりした目を向けた。
「どうしてそんなに不機嫌なんだ。僕はこのとおり生きてるだろう?」
「さしあたってはね、」
 彼はロフトを見上げながら、まだ首筋がちりちりする感覚が消えないものかとまた部屋を歩き回りだした。通り過ぎる拍子に、イリヤはナポレオンを引き止め、両腕を回して抱きついた。
「ナポレオン、こんな仕事をしていればいつだって、僕らのどちらもが殺される可能性はあるんだ。常に僕らを殺そうとする連中はいるんだから」
 彼はナポレオンの広い肩に頬を擦りつけた。
「こんなふうに出来るのはいいもんだね」
 ナポレオンは相棒に笑みを落した。
「こう出来るのはもっといいよ」
 そして顔を傾け、イリヤに口接けた。

 通りから物音が聞こえて、ナポレオンは振り向きざま銃を引き抜き、相棒の前に立った。イリヤは彼をどかせた。
「止めろ、ナポレオン」
 相棒の命を救うと見せかけて、取っ組み合いの喧嘩になる無意味さを考え、ナポレオンは並んで立つのに同意した。窓の一つに忍び寄ると、外をちらりと見た。イリヤの方に視線を投げて首を振り、何も見えないことを伝えた。
 そのことに気がついた時、はらわたが捩れるような気分だった。イリヤが立っている場所は、ナポレオンが前の日にイリヤを見つけた所にあまりにも近い。彼の周りを染めていた血だまりまでが目に浮かびそうになる。ナポレオンは銃の台尻を振った。
「イリヤ、そこから退いて……」
 正面のドアがバンと開いた。ナポレオンが銃の引き金に指を掛けた時、イリヤの声が聞こえた。
「――ウラジミール?」
 それが彼を躊躇させた。戸口に立っている男を見遣るが、銃は見当たらない。ナポレオンは振り向いてイリヤの様子を伺い、これは彼の友人かどうか確かめようとした。

 そこで銃声が聞こえた。胸に開いた穴から血がほとばしるのが見え、イリヤの身体が弾丸の衝撃で後ろに吹っ飛ぶのを彼は信じられない思いで目にした。
 ナポレオンは狂気の眼差しで再び振り返り、戸口の男にありったけの弾丸をぶち込んだ。一発ごとに、男の身体は死の舞踏(ダンス・マカブル)を踊りながら、やがて床に崩れ落ちた。弾丸を撃ち尽くしてしまうと、ナポレオンは銃を部屋の真ん中に投げ出し、イリヤの元に走った。
 彼にはまだ息があったが、まもなく死を迎えつつあった。ナポレオンは流れ出てゆく血を止めようとでもするように、弾傷を手で抑えた。涙が溢れて顔を濡らす。
「そんな――あぁ神よ、もう、もう止めて下さい……!
 イリヤが息を繋ごうとしながら目を上げた。
「ごめ……ん、」
 ナポレオンは首を振った。
「僕のせいだ。みんな僕のせいなんだ」
 そして彼はむせび泣いた。
「あぁ、あぁ、イリヤ!」
 イリヤは手を差し伸べてナポレオンに触れようとしたが、もうそんな力は残っていなかった。ナポレオンはその手を握ると、頬に押し付けた。イリヤが切れ切れに何か呟いている。ナポレオンは屈み込んでその言葉を聞き取った。
「きみの……せいじゃない……あ、いしてるよ――
 一秒前までは生きていた彼の死を、ナポレオンははっきり感じた。優しい赦しの言葉を呟いていたのが、次の一瞬にはもう眼から光が消えていた。ナポレオンは愛する者の死顔を見下ろし、そっと瞼を瞑らせた。

 彼はよろけながら一番近くの窓辺に立ち、ガラスに向かって拳を打ち込んだ。尖ったガラスが突き刺さったまま手を引き抜くと、隣の窓へ歩いていって、同じ事をした。ナポレオンはその階にある窓を全て叩き壊した。手首を切って死のうとしているのか、それとも単に、身体を痛めつけて頭をはっきりさせ、せねばならないことに備えようとしているのか自分でもわからなかった。
 傷つき血まみれになった両手で、彼はようやくイリヤのもとへ戻り、膝をついた。コミュニケーターを取り出すと、本部を呼び出す。所在地を告げ、エージェントが一人そこで殺られたと話し、搬送を要請した。
 それからナポレオンは通信機を放り投げると、イリヤのそばにくずおれて、息絶えた恋人の身体に腕を回した。

Continued on Act4


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※注釈※
3Боже мойロシア語の感嘆表現。英語だとOH MY GOD!
4Mulberry StreetNYイタリア人街のメインストリート


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